2007年に亡くなった政治家の宮澤喜一さんですが、政界一の英語力との呼び声も高い実務家だった一方で人間性に対しては悪評が多かったようですね。
この記事では、宮澤喜一さんの学歴や英語力、そして家系図と家族(嫁・息子・娘・孫)などをまとめました。
この記事の目次
宮澤喜一のプロフィール
宮澤喜一(みやざわ きいち)
生年月日:1919年10月8日
出身地:東京
所属政党:自由民主党
宮澤喜一、父・裕は貧しい農家の息子から政治家へ成り上がっていた
宮澤喜一さんは、1919年10月に宮澤裕・こと夫妻の長男として生まれています。
父・裕さんに関しては、広島県福山市の貧しい農家の長男であった一方で、教育熱心だった祖父・鹿吉さんのおかげで当時進学率が2割程度だった旧制中学に通えるなど、それなりに恵まれた環境で育っていたそうですね。
旧制中学を卒業後は進学費を稼ぐために京都で市電の車掌をしていた裕さんですが、人の縁に恵まれて学費を援助してくれる恩人と出会い、東京帝国大学(現:東京大学)に進学しております。
東京帝国大学を卒業後の裕さんについては、内務省に入省したものの官僚の世界が性に合わずに退職し、当時No1の海運会社だった山下汽船に転職することになりました。
山下汽船時代の裕さんは、創業者社長の山下亀三郎さんに才覚を見込まれて、親友である政治家・小川平吉さんを紹介されるほどの知遇を得ていたとか。
小川さんは、司法大臣や鉄道大臣を歴任するほどの大物政治家でしたが、裕さんを気に入り次女・ことさんと見合い結婚をさせています。
大物政治家の後ろ盾が出来た裕さんは、1928年に政治家に転身しており、内閣調査局参与や鉄道政務次官として活躍していましたが、戦後は公職追放の憂き目になるなど逆風も経験していたようですね。
宮澤喜一の生い立ちと経歴…学歴自慢のスノッブとして有名だった
宮澤喜一、東大卒の秀才でキャリア官僚を経て政治家に転身した
宮澤喜一さんに関しては、前述の通り生まれた頃は父・裕さんが会社員という立場だったものの、1923年に起こった関東大震災で被災した際は、祖父・小川平吉さんが神奈川県平塚市に所有していた別荘に避難するなど、恵まれた環境で育つことになりました。
父親譲りの秀才だった宮澤さんは、旧制武蔵高校を卒業後は東京帝国大学(現:東京大学)法学部に進学しており、映画やレコードといった趣味に興じていた他、能の公演なども見に行っていたそうですね。
東京帝国大学を卒業後は大蔵省に入省することとなった宮澤さんは、1951年に開催されたサンフランシスコ講和会議に全権随員として参加するなど、キャリア官僚として華々しい活躍を見せています。
その後は、父・裕さんの政界引退もあって1952年に大蔵省を退省して政治家に転身している宮澤さんですが、1962年には経済企画庁長官(現:内閣府特命担当大臣)に抜擢されるなど、政界でも順調に出世を続けることになりました。
宮澤喜一、学歴自慢のスノッブだった
血統的には政治家一族の3世という名門の出となっている宮澤喜一さんですが、エリート意識が強く、鷹揚さのない性格だったことで有名となります。
特に学歴自慢癖があった宮澤さんは、初対面の人間には必ず学歴を訊ねる悪癖があったそうで、東大卒以外の人物には露骨に軽蔑した眼差しを向けていたそうですね。
番記者にも出身大学を訊き、東京大学卒でも法学部卒ではない場合、「ほう、近頃じゃあ法学部じゃなくても東大って言うんですか」などと嫌味を言い、その後、マス・メディア各社の間で、宮澤の番記者を東京大学法学部の卒業者にする動きが見られた。
引用:宮澤喜一
スノッブ意識全開の嫌味すぎる人物だった宮澤さんは、人前でこれみよがしに英字新聞を読むなどしていたため、叩き上げの政治家だった田中角栄さんにもひどく嫌われていたと言われております。
そんな宮澤さんの悪癖は自民党の同僚たちにも発揮されており、東京農業大学出身だった金丸信さんに対して「偉い方ですよ。大学を出ているんですね。知ってました?」と皮肉を言ったこともありました。
宮澤さんの嫌味伝説は、早稲田大学商学部出身だった竹下登さんに「あなたが在籍していたころの早稲田の商学部は無試験だったんですよね?」との暴言を吐いたエピソードまで残っています。
宮澤喜一、1991年に総理大臣に就任するも短期政権で終わった
東大卒のキャリア官僚出身の政治家ということで実務能力には長けていた宮澤喜一さんは、1970年代中盤には次期総理大臣候補として名前が上がるような大物政治家になっています。
しかしながら、前述の学歴自慢エピソードなどもあり所属派閥の宏池会内ですら人望がなかった宮澤さんは、年下の政治家たちの後塵を拝することとなり、1991年にようやく総理大臣に就任した時には72歳となっていました。
バブル崩壊直後の激動の時代に総理大臣となった宮澤さんに関しては、内需拡を目指す国民目線の政治家だったと言われております。
宮澤は冷戦の終結を「二、三百年に一度の歴史的変動」ととらえていた。経済に関して「プラザ合意は高度成長の終焉であり、それに替わるものの出発」と受け止め、バブル景気の果実は国民の生活基盤を整える内需の振興に使うべきなのに、資金がどんどん流出している状況を問題視し、資産倍増論から発展した生活大国構想の実現を考えていた
引用:宮澤喜一
また、いち早く不良債権処理の重要性に気が付いた宮澤さんは、金融機関への公的資金投入の道を模索していたそうですね。
しかしながら、当時の日本で不良債権処理の重要性を理解出来る人物は少なく、官庁やマスコミどころか財界や金融機関まで反対派に回った挙句、当の自民党内でも支持の声が高まらなかったこともあり、宮澤さんの構想は頓挫することになりました。
その他、任期中に自民党が割れて新生党や新党さきがけが結成された影響もあり、1993年に行われた「第40回衆議院議員総選挙」に大敗してしまった宮澤さんは、わずか2年足らずで総理大臣の地位を手放す羽目になり、生活大国構想も着手出来ずじまいでした。
宮澤喜一、2007年に老衰で永眠した
1993年に総理大臣を辞任して以降の宮澤喜一さんですが、そのまま隠遁生活となったわけではなく、1998年に発足した小渕内閣で大蔵大臣に就任した他、2000年に発足した森内閣では財務大臣も兼任していたそうですね。
再び表舞台に戻ってきた宮澤さんは、金融危機に陥っていた日本経済を救うために、金融再生関連法や金融健全化法を成立させた他、減税と積極財政に打って出ており、短期的にとはいえ景気回復を実現させています。
しかしながら、ITバブル崩壊など次から次へと問題が起こり続けた日本経済を根本的に立て直すことは不可能だったようで、不良債権問題の再燃をきっかけに森内閣が瓦解した2001年に大臣を辞任する羽目になりました。
その後は、2003年に政治家を引退してご意見番的地位に退いた宮澤さんでしたが、テレビ番組などには積極的に出演しており充実した晩年でした。
そんな宮澤さんの最期については、2007年6月28日に東京都渋谷区にある自宅で老衰で亡くなっています。
宮澤喜一の英語力とは?…通訳いらずの政治家だった
宮澤喜一さんといえば、アメリカや英国といった英語圏の国の首脳や大臣たちと通訳なしで会談の出来る政界随一の英語力の持主として有名でした。
宮澤さんが日本人離れした英語力を身に着けた秘密については、東大時代に日米学生会議の代表に選ばれて渡米した際に、それまで習ってきた英語がネイティブには通用しないことを悟り、独学で勉強し直したとか。
1942年に大蔵省入りをしたキャリア官僚であった宮澤さんは、戦後はGHQと英語で交渉する日々が続いたそうなので、そういった場で実戦経験を積み続けたことも英語力向上に役立ったのかもしれませんね。
ちなみに、スノッブ臭のキツさで有名だった宮澤さんは、英語自慢方面でも嫌味すぎる逸話を残しています。
「記者懇談会で宮澤邸へ行くと、たまにだが夫人の姿を見かける。すると、突然、宮澤と夫人の間で英語でのやりとりが始まるんです。要するに、他人に聞かれたくない話は英語でやる。ちょっとイヤ味だったが、われわれのことなんかまったく意に介さなかったな」
宮澤喜一の家族情報と家系図…親戚に大物政治家が多かった
宮澤喜一の家系図とは?
前述の通り、母方の祖父に大物政治家の小川平吉さんがいる宮澤喜一さんですが、それ以外の家族・親戚たちもかなり豪華なメンツとなっています。
以降の項では、宮澤さんの華麗なる一族ぶりを紹介させて頂きます。
宮澤喜一、嫁・庸子は早稲田大学教授の娘だった
宮澤喜一さんは、24歳の時に、英語学者であり早稲田大学商学部の教授や理事を務めた伊地知純正さんの次女・庸子さんと結婚しています。
2人の馴れ初めについては、1939年にアメリカで開催された日米学生会議に、東京女子大学の代表として庸子さんも参加していたそうですね。
当時の渡米手段といえば船旅が主流だったため、往路だけで2週間もの時を一緒に過ごすこととなった2人は自然と顔見知りとなったとか。
その後、1940年に日本の津田塾大学で開催された日米学生会議にも参加することとなった2人は、宮澤さんの積極的なアプローチもあり交際に至ることになりました。
庸子夫人は体があまり丈夫でなかったこともあるが、表舞台はもとより舞台裏でも一貫して“政治”に首を突っ込むことはなかった。宮澤の選挙の応援に顔を出したのも、昭和28年に初めて参院選に名乗りを上げたときだけで、以後、一度として後援会への出席なども含めて姿を見せていない。
また、政治家仲間が宮澤邸に行っても夫人はまず顔を見せない。酒や肴の用意などは、すべて3人の書生がやっていた。
宮澤喜一、息子は建築家で鳩山由紀夫のいとこと結婚していた
宮澤喜一さんの息子については、1949年に裕夫さんが生まれているようですね。
早稲田大学を卒業後は建築家として活躍している裕夫さんですが、ブリヂストンの創業者・石橋正二郎さんの孫であり、三井液化ガスの相談役を務めていた郷裕弘さんの娘でもある悦子さんと結婚しています。
悦子さんについては、政治家の鳩山由紀夫さんや故・鳩山邦夫さんといとこの関係にあるため、宮澤さんも鳩山家の面々と親戚ということになります。
宮澤喜一、娘は駐日大使と結婚していた
宮澤喜一さんの娘に関しては、1946年に啓子さんが生まれています。
啓子さんに関しては慶應義塾大学卒の才女であり、元駐日代理大使で現在は在日米国商工会議所の会頭をしているクリストファー・ラフルアーさんと国際結婚をしていることで有名です。
宮澤喜一、孫はタレントの宮澤エマ
宮澤喜一さんの孫に関しては、啓子さんとクリストファー・ラフルアーさんの間に生まれた次女・宮澤エマさんが有名となります。
幼少期から歌手に憧れていて、10年以上ボイストレーニングをしていたというエマさんですが、オクシデンタル大学を卒業後は日本で芸能活動を開始しており、各種ミュージカルに出演している他、「ABEMA Prime」でMCを務めていたことでも知られています。
近年はドラマや映画にも進出しているエマさんは、2020年にはNHK朝の連続TV小説「おちょやん」への出演が決定しているなど、女優業でもブレイク間近となっているようですね。
ちなみに、エマさんには姉・沙羅さんもいるようで、アメリカ・NYで「エムエムラフルアー」というファッションブランドを経営しているとか。
宮澤喜一、弟の子供や親戚も凄かった
宮澤喜一さんは、本人のみならず2人の弟たちも東京帝国大学卒のキャリア官僚だったことでも知られています。
中でも長弟・弘さんは、宮澤さんと同じ自民党から出馬して政治家に転身しており、法務大臣や広島県知事を歴任するなど一廉の政治家でした。
そんな弘さんの結婚相手となったのが、政治家・岸田正記さんの長女・玲子さんとなっておりますが、その玲子さんの甥に外務大臣や防衛大臣などを歴任している岸田文雄さんがいるとか。
ちなみに弘さんは、長男・洋一さんも東大卒のキャリア官僚経由で政治家に転身しており、経済産業大臣や内閣府特命担当大臣を歴任するなど成功を収めているようですね。
宮澤喜一、母方の親戚に麻生太郎や鈴木善幸もいた
子供や弟関連の親戚筋だけでも豪華絢爛な顔ぶれとなっている宮澤喜一さんですが、母・ことさんの兄弟・平五さんの娘が、国務大臣や環境大臣を歴任した政治家の鈴木俊一さんと結婚していたそうですね。
本人も大物政治家の鈴木俊一さんですが、父親は総理大臣を務めた鈴木善幸さんとなっており、宮澤家に勝るとも劣らぬ華麗なる一族でした。
そのため、血のつながらない親戚同士であった宮澤さんと鈴木善幸さんでしたが、仲はかなり悪かったそうで、鈴木内閣瓦解直後に宮澤さんを次期総理に推す声があったものの、鈴木善幸さんが後継者指名を断ったとのエピソードが残っています。
ちなみに鈴木善幸さんは、娘が元総理大臣の麻生太郎さんと結婚していたそうで、宮澤さんと麻生さんも親戚関係にあるそうですね。
宮澤喜一についてまとめてみると…
宮澤喜一さんに関しては、元総理大臣という本人の経歴もさることながら、親戚関係の豪華さでも話題となっていた人物ということになります。
宮澤さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。