第64・65代の内閣総理大臣を務め、「ロッキード事件」により失脚した田中角栄さん。
田中角栄さんの死因や嫁・子供などの家族、そして愛人について詳しく総まとめしましたのでご紹介します。
この記事の目次
田中角栄のプロフィール
田中角栄、多大な影響力のあった総理大臣
低学歴から内閣総理大臣になった「今太閤」田中角栄
田中角栄さんの最終学歴は二田高等小学校(現・柏崎市立二田小学校)でありながら内閣総理大臣にまで上り詰めたことで「今太閤」と呼ばれていましたが、戦後日本を大きく飛躍させた象徴的な総理大臣である一方で「ロッキード事件」の収賄事件で逮捕されるなど正負双方で多大な影響力のある人物でした。
生年月日: 1918年5月4日
出生地: 新潟県刈羽郡二田村(現:柏崎市)
没年月日: 1993年12月16日(75歳没)
死没地: 東京都新宿区信濃町
出身校: 二田高等小学校卒業
前職: 田中土建工業社長、越後交通代表取締役社長・会長、中央工学校校長
所属政党: (日本進歩党→)(民主党→)(同志クラブ→)(民主クラブ→)(民主自由党→)(自由党→)(自由民主党→)無所属
称号: 陸軍上等兵、西山町名誉町民、一級建築士
配偶者: 田中はな、辻和子(妾)
子女: 長男:田中正法、長女:田中真紀子、もう一人の長男:田中京、もう一人の二男:田中祐
親族: 田中直紀(入婿)、山科薫(甥)
引用:Wikipedia – 田中角栄
田中角栄の家族情報…結婚した嫁・はなとの間位に子供が2人誕生
田中角栄、バツ1子持ちの田中はなと結婚
田中角栄の嫁は8歳年上の姉さん女房・田中はな
田中角栄さんは建築士時代に身を寄せていた坂本家の一人娘でバツイチ子持ちだった坂本はなさんと結婚しました。
田中角栄さんの妻となった田中はなさんには当時9歳になる娘がおり、言ってしまえば離婚して実家に帰ってきた出戻り組でした。
この娘は後に元内閣総理大臣・池田勇人さんの甥と結婚しています。
田中はなさんは当時31歳で田中角栄さんより8歳年上でしたが、小柄で愛嬌のある性格ながら芯の強さを秘めている出来た女性で、夫の3歩後ろを歩くような慎ましい古風な日本女性が好みだった田中角栄さんは惚れ込んで見初め、出会って半年となる1942年3月3日の桃の節句に結婚しました。
田中角栄は言っている。「結婚するなら、嫁は下からもらった方がいいぞ」。ビジネスマンは大変だ。大事なのは会社、仕事。家庭がガタガタ、エネルギーをそがれたら、それどころではなくなってしまう。嫁さんが、男の人生を左右しかねない。ここでの田中の弁の「下」とは、自分より一苦労も二苦労もしてきた女性を指す。こうした女性は、ようやくめぐり会った幸運を簡単には手放さない。“逃げ場”がないだけに夫に尽くすということである。
引用:ZAKZAK -【田中角栄 不敗の世渡り力】結婚するなら…嫁は下からもらえ、婿は上からもらえ 苦労人は目配りが利く
離婚して31歳にして実家に出戻り、苦労を知っている田中はなさんは初婚の女性よりも打たれ強く、そして一度結婚に失敗していることから次の夫とはそうならないために尽くすということで、実際に田中角栄さんとの結婚生活51年間においてそれが垣間見えるようです。
田中角栄さんが日経新聞の『私の履歴書』で語った田中はなさんへの惚れ込みようは相当なものだったと伺えます。
「(はなは)無口ではあったが、よく気もつき、そしてよく働く人であった。多忙な私の身の回りにも細かい心配りをしてくれるこの家の娘に、快いものを感じ始めていた。彼女は(離婚後)2回ほど見合いをしたようだが、話は決まらなかったようだ。出会って間もなくの正月、おばあさん(はなの母親)から、『田中さんの仕事場に出入りする人の中にいい人がいたらお世話下さい』と言われていたが、私は『この人なら私が妻にもらい受けてもいい人だ』と密かに思った」
田中はなさんは婚前契約のような3つの約束を田中角栄さんと結んでおり、それは「出て行けと言わないこと」「足げにしないこと」「二重橋を渡ることがあれば同伴すること」というものでした。
二重橋とは皇居前の正門にかかる橋で天皇陛下に拝謁する際に渡るもので、その道で一廉の人物になった人だけが招待され渡ることを許されます。
つまり、田中はなさんは生涯妻としてそばに置いてくれるなら女遊びは目をつぶると言っており、免罪符を得た田中角栄さんは後に派手な女遊びがマスコミから報じられ、辻和子さんという愛人を作って子供ももうけてしまいます。
とはいえ田中角栄さんは当時24歳の駆け出しの建築士であり、二重橋を渡るような人物になると田中はなさんが見抜いていたのだとしたらその眼力は鋭く、そして田中角栄さんもそれを感じさせる人には無いオーラに溢れていたのでしょう。
田中角栄が最も恐れたのは娘・田中眞紀子だった
田中角栄が最も恐れた人間は一人娘の田中眞紀子
田中角栄さんと田中はなさんは二人の子供をもうけますが、長男の田中正法さんは4歳で亡くなっており、一人娘となった田中真紀子さんを溺愛して育てました。
田中眞紀子さんは田中角栄さんが1943年に「田中土建工業」を開業した直後に誕生しました。
政界で百戦錬磨の恐れられる存在である田中角栄さんも、一人娘の田中眞紀子さんにだけは頭が上がらなかったようです。
政界屈指の権力者の名をほしいままにした田中には、もとより「敵」は少なくなかったが、実は最大のそれは、のちに外務大臣になる最も愛する一人娘の田中真紀子であった。それは、後年の田中の次のような言葉に表われている。
「オレは野党も全学連もコワイと思ったことは一度もない。(将来、総理を目指すときの)ライバル諸君に対しても自信がある。でも、一人だけどうしても手にあまるヤツがいる。娘だ。あの真紀子にだけは、さすがのオレも無条件降伏だ」(自民党幹事長時代)
週刊誌「週刊新潮」での取材では、田中角栄さんは娘の田中眞紀子さんに対して「とにかく存在自体が怖い」と語っていたようで、田中眞紀子さんが反対することは絶対にできないとまさに無条件降伏の状態だったようです。
田中角栄さんと田中眞紀子さんの対立構造は思春期時代から始まっていたようで、田中はなさんが女遊びを黙認していても、田中眞紀子さんは許せなかったようです。
「田中は優しいから、一度でも関係のあった女性には生活は大丈夫かで、それなりの“手当”を送ってやっていたそうだ。そのリストを田中邸の秘書が管理していたのだが、のちに田中が倒れたあと真紀子が発見、破棄してしまったというのです。また、あるときは徹底的に田中を“口撃”、ついに閉口した田中は田中邸の便所に逃げ込み、内からカギをかけてこもってしまったということもあった。田中は言っていました。『オレは世の中で怖いものはないが、あの“原爆娘”だけには勝てないんだ』と」
このエピソードからも田中角栄さんが”原爆”のような威力のある田中眞紀子さんに無条件降伏していたことが分かりますね。
田中角栄には愛人が2人いた…愛人との間に子供が4人誕生
田中角栄の愛人① 神楽坂の芸者・辻和子
田中角栄を惚れさせた辻和子は東京・神楽坂の芸者だった
田中角栄さんは多くの女性と関係を持っていましたが、その中でも愛人と言われた辻和子さんとは40年以上に渡って親密な関係を築きました。
愛人の辻和子さんとの間には3人の子供が誕生。長男・田中京さんと次男・田中祐さんの間に娘・眞佐さんがうまれていますが、1歳も満たないうちに亡くなっています。
1985年に田中角栄さんが脳梗塞で倒れるまで、月100万円の仕送りを欠かさずしていたそうです。
田中角栄の愛人② 秘書・佐藤昭子
「越山会の女王」と称された愛人・佐藤昭子
2人の出会いは昭和21年、田中角栄さんが「新潟二区」から出馬した際に佐藤昭子さんが選挙運動を手伝ったことが出会いでした。
この選挙では落選するも、後に佐藤昭子さんは田中角栄さんの秘書となり、二人三脚で政界をのし上がっていきます。
佐藤昭子さんには2度の結婚・離婚歴があり、田中角栄さんとの子供・敦子(あつ子)さんは2番目の旦那が戸籍上の父親となっています。
「テレビで演説をしている政治家の先生たちも、オヤジですらも、母に逆らう人は誰ひとりいませんでした。いつも家の中の中心は母で、私はその陰」(あつ子さん・以下同)
小学校から帰ると母は麻雀室から顔を出して「おかえり~。塾の帰りは朝賀(昭)くん(田中角栄氏の秘書)が迎えに行くから」と声はかけてくれるが、食事はお手伝いさんが作ったものをひとりで食べた。
佐藤敦子さんは後に自分の出生や母親との関係に悩み、思春期に入るとお酒と鎮痛剤、睡眠薬などを同時服用して”ラリる”状態に現実逃避をするようになり、自殺未遂も繰り返したそうです。
それでも佐藤昭子さんはうろたえるだけで話を聞いてくれることもなく周囲の人間に任せていたようですが、田中角栄さんはこうした権力に溺れてしまった女性とも愛人関係を結んでいたようです。
田中角栄の死因は肺炎…田中眞紀子に拒否され愛人の子は死に目に会えず
田中角栄、1993年12月16日に75歳で死去
1993年12月16日に死去した田中角栄
田中角栄さんは1993年12月16日に死去しましたが、甲状腺亢進症および肺炎が死因となっています。
田中角栄さんは脳梗塞で倒れたことから死因だと間違えて紹介しているサイトなどがありますが、正しい死因は「肺炎」のようです。
発端は、1985年2月27日に田中角栄さんが脳梗塞で倒れて入院し、言語症や行動障害などの後遺症が残ったため政治家としての活動が出来なくなり同年6月には事務所を閉鎖しました。
この時すでに田中角栄さんは1976年2月に発生したロッキード事件による公判中でしたが病気により出席はしておらず、一方で田中派から分離した竹下登さんの反乱を起こし、1987年11月に竹下内閣が発足しました。
その後、田中角栄さんは病で床に伏せるようになり、1993年12月16日に突然訃報が伝えられましたが、直接的な死因は脳梗塞によるものではなく肺炎だったようです。
娘・田中眞紀子に愛人の子供・田中京はお見舞いも拒否されていた
田中角栄の愛人と愛人の子供を徹底排除
田中角栄さんが脳梗塞で倒れて以降、田中家を仕切ったのは田中眞紀子さんでした。しかし、異常な言動により評判も悪く、田中角栄さんが築き上げてきた人脈もすべて粉々にしていきました。
また、愛人と愛人の子供をとことん排除し、死に目にもあえなかったようです。
真紀子にとっては、政治家として尊敬してやまなかった父親ではあったが、最後まで女の生理として愛人問題は許せなかったようだ。それは、田中が入院中に辻和子との間にもうけた2人の息子の面会を拒否、通夜でも会わせることをしなかったことにも表われている。長兄の京は、通夜の翌日の密葬で、かろうじて一般弔問客に混じっての焼香を許されただけだったのだ。
テレビで、田中角栄を総理にしたのは愛人のおかげ。「愛人は男の甲斐性」って感動的な音楽とともに特集してるけど、どこが美談なのか教えて。で、愛人との間に子供できたけど「私は公認を求めないわ」ってイイ女風に紹介してる。嫁は?嫁の気持ちは?後にテレビでこんな特集までされたら死にたくなる pic.twitter.com/eyZTsJXj4f
— 寿司子ちゃん (@____sabinuki__) 2019年3月4日
田中角栄について総まとめすると・・・
・田中角栄は芸者・辻和子と愛人関係となり、子供は息子2人・娘1人(1歳前に死亡)の3人誕生した
・田中角栄は秘書を務めた佐藤昭子とも愛人関係となり、娘・敦子(あつ子)が誕生した
・田中角栄は1985年に脳梗塞に倒れ、1993年12月16日に肺炎が原因で死亡した
歴代の総理大臣の中でも最も傑物だと言われる田中角栄さんの死因や嫁・愛人について総まとめしてきました。
田中角栄さんは結局女性関係が報じられて追い込まれましたが、数多くの関係を持った女性の誰ひとりとして金銭目当てに裏切り行為をしなかったことは人徳を表しているとも言われています。