安倍晋三元首相の父親である安倍晋太郎が注目されています。
この記事では安倍晋太郎の経歴や身長、大物政治家が多く連なる家系図、父親や母親、兄弟などの家族、結婚した嫁の岸信介の長女洋子さん、安倍晋三元首相ら3人の子供、病死とされる死因や墓の場所などについてまとめました。
この記事の目次
安倍晋太郎のプロフィール
安倍晋太郎のプロフィール
生年月日:1924年4月29日
没年月日:1991年5月15日(享年67歳)
出身地 :東京府東京市四谷区(現在の新宿区四谷)
安倍晋太郎(あべ・しんたろう)は、自由民主党所属で11期にわたって衆議院議員を務めた大物政治家で、農林大臣、内閣官房長官、通産大臣、外務大臣、自民党国対委員長、自民党政調会長、自民党総務会長、自民党幹事長などの要職を歴任しました。安倍晋三元首相の父親としても知られています。
次期首相候補とも目される実力者でしたが、首相就任は直前で叶わず、1991年5月15日に67歳で死去しています。
安倍晋太郎の経歴
安倍晋太郎は、1924年4月29日に東京都四谷で長男として生まれました。誕生日の4月29日は偶然にも父親の安倍寛(元衆議院議員)と同じでした。
生まれて間もなく、安倍家の在所である山口県大津郡日置村へと移り、そこで育っていますが、生後わずか80日後に、父親の安倍寛と母親の静子が離婚し父方の引き取られ、大伯母のヨシが母親代わりとなっています。
安倍晋太郎は、旧制山口中学校(現在の山口県立山口高校)、岡山県の旧制第六高等学校を経て、太平洋戦争の戦況が悪化の一途を辿る1944年に東京帝国大学へと進みますが、同年10月に海軍滋賀航空隊に海軍予備学生として入隊します。
1945年には、仲間の班員ら全員と特攻隊に志願しますが、出撃前に終戦を迎えて生き残りました。
終戦後は、東京大学法学部(東京帝国大学から改称)に復学し1949年に卒業して、毎日新聞社に記者として入社しています。
2年後の1951年5月に、当時はまだ太平洋戦争の責任を問われて公職追放状態だった岸信介の長女の洋子さんと見合いをして結婚しています。
その後、岸信介の公職追放が解かれて政界に復帰し、1956年12月に石橋内閣の外務大臣に就任すると、それを機に毎日新聞社を退社して外務大臣秘書官となり、1957年2月に岸信介内閣が発足すると、内閣総理大臣秘書官となりました。
1958年5月の第28回衆議院議員総選挙に在所である旧山口1区から出馬して初当選し、1963年の第30回衆議院議員総選挙では落選したものの、1967年の第31回衆議院議員総選挙で再び当選し、以降亡くなるまで連続当選し衆議院議員を務め続けました。(合計で当選12回)
自民党では、義理の父親の岸信介の流れを汲む清和会(福田派)に所属し、農林大臣,通商産業大臣,外務大臣、その他、自民党の要職を歴任。竹下登、宮沢喜一、渡辺美智雄らと、自民党のニューリーダーとも評され、次期首相候補としても名前が上がるようになりました。
そして、1987年には、福田赳夫から派閥を引き継ぎ自民党総裁選に出馬しますが、当時の中曽根康弘首相の事実上の裁定によって竹下登が総裁に選出されて悲願の首相就任を逃しています。
竹下内閣では、安倍晋太郎は自民党幹事長に就任し、依然として次の首相の最有力候補と目される存在でした。
しかし、1988年にリクルート事件への関与が発覚して自民党幹事長を辞職し、翌1989年に体調を崩して入院と退院を繰り返し、1991年5月に67歳で亡くなりました。安倍晋太郎の晩年や死因については後述します。
安倍晋太郎の身長は175cm
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古い資料などによると、安倍晋太郎の身長は175cmだったとされています。(子供の安倍晋三元首相と同じ身長)
安倍晋太郎は当時の日本人としてはかなり高身長で、これが次期総理大臣として推す理由として多く上がっていたそうです。外務大臣時代、安倍晋太郎が各国の代表達と並んでいても身長が高いため見劣りせず、国家元首に相応しいという声が多かったという事です。
安倍晋太郎の家系図
上の画像は安倍晋太郎の家系図です。
家系図のように、安倍晋三元首相の父親として知られる安倍晋太郎ですが、その嫁の洋子さん(安倍晋三元首相の母親)の父親が、現在、統一教会との関係で度々名前が上がっている岸信介元首相です。
安倍晋太郎の父親は安倍寛という人物で、この安倍家は、江戸時代から地元・山口県大津郡日置村の大庄屋を務めた名家でした。
そして、この安倍家の方の家系図をさらに遡ると、奥州安倍氏の平安時代の武将・安倍宗任の末裔とする説や、蝦夷・粛慎征討を行った事が日本書紀に記されている飛鳥時代の将・阿倍比羅夫に連なるとする説、前九年の役の安倍貞任に連なる武家の名門とする説なども存在します。
次の見出しから続けて、安倍晋太郎の家族について詳しく紹介していきます。
安倍晋太郎の家族① 父親は元衆議院議員の安倍寛
安倍寛のプロフィール
生年月日:1894年4月29日
没年月日:1946年1月30日(享年51歳)
出身地 :山口県大津郡日置村蔵小田(現在の長門市)
家系図のところでも触れましたが、安倍晋太郎の父親は安倍寛(あべ・かん)という人物です。
安倍晋太郎の父親の安倍寛は、母親は安倍家の中興の祖として知られる安倍慎太郎の妹のタメという人物、父親は名門として知られた椋木(むくのき)家から婿養子に入った安倍彪助という人物でした。
安倍晋太郎の父親の安倍寛は、4歳までに両親が相次いで死去し、苦労しながらも、金沢市の旧制第四高等学校を経て東京帝国大学法学部政治学科(現在の東大)を卒業。その後は自転車製造会社「三平商会」を自ら開業して経営していましたが、1923年の関東大震災で工場が全壊し倒産しています。
安倍晋太郎の父親の安倍寛は、東京帝国大学を卒業した1921年に陸軍軍医監、近衛師団軍医部長の本堂恒次郎の娘の本堂静子という女性と結婚しています。そして、嫁の静子との間に1924年に生まれたのが安倍晋太郎でした。
ところが、安倍晋太郎の誕生からわずか80日後に安倍寛と静子は離婚し、幼い安倍晋太郎は父親の安倍寛に引き取られています。その後、安倍寛は再婚はせずに生涯独身を貫いています。
安倍寛は嫁の静子との離婚後に地元の山口県に戻り、1928年の第16回衆議院議員総選挙に立候補しますが落選。その後、持病の結核が再発し、脊椎カリエスを併発して療養生活を送っていたところ、1933年に地元住民に請われて日置村の村長に就任しています。
1935年からは山口県会議員を兼務し、1937年の第20回衆議院議員総選挙に無所属で立候補して初当選を果たしました。
当時の日本は日中戦争を戦い、太平洋戦争へと向かっていく只中にありましたが、そうした時代背景の中でも安倍寛は一貫して戦争反対を唱えました。
そして、日米開戦後の1942年の第21回衆議院議員総選挙でも当時の首相の東條英機らを鋭く批判。体制に逆らい非推薦の不利な立場でありながら2期連続での当選を果たし、東條内閣の退陣要求や早期の戦争終結を主張しました。
その後、安倍寛は結核療養のために地元山口へと戻る事になりますが、岸信介が東條内閣を退陣させた後に野に下って地元の山口県へと戻った際に結成した「防長尊攘同志会」に参加し、打倒東條英機の運動に加わっています。
そして、戦争終結後に新たに設立された日本進歩党に加入し、第22回衆議院議員総選挙出馬に向けて準備をしていましたが、翌1946年に51歳の若さで急死しています。死因は心臓麻痺とされています。
安倍晋太郎の家族② 母親は本堂静子
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安倍晋太郎の母親は、陸軍軍医監で近衛師団軍医部長も歴任した本堂恒次郎の娘で、陸軍大将大島義昌の孫にあたる本堂静子という女性です。
安倍晋太郎の父親の安倍寛は東京帝国大学を卒業した1921年にこの静子と結婚。結婚の3年後の1924年に長男の安倍晋太郎が誕生しています。
しかし、安倍晋太郎の誕生からわずか80日後に安倍寛と母親の静子は離婚してしまいます。
この離婚の理由については明かされていませんが、安倍晋太郎の本当の父親が安倍寛ではなく、実は朝鮮王朝最後の王である李根(イ・ ウン)であるため、それを隠すために距離を置いたとする都市伝説も存在します。
母親の静子は安倍寛との離婚の5年後、横浜正金銀行の行員だった西村謙三という男性と再婚し、長女の和子と、長男の正雄が誕生しています。
安倍晋太郎は、山口中学校(現在の山口県立山口高等学校)に進学した後に、上京して母親の静子に会おうとしていますが、頑なに拒まれて会う事ができなかったようです。
そんな安倍晋太郎の母親の静子は1936年6月に病気で亡くなっています。
安倍晋太郎の家族③ 兄弟は異父弟に西村正雄(みずほHD元会長)
西村正雄のプロフィール
生年月日:1932年11月18日
没年月日:2006年8月1日(74歳)
出身地 :神奈川県
安倍晋太郎は自分が生まれた直後に父親の安倍寛と母親の静子が離婚しているため、兄弟はいませんが、母親の静子が再婚し2人の子供産んでいるため、異父兄弟が2人います。
その異父兄弟のうちの1人が、日本興業銀行常務を経て頭取を務め、みずほフィナンシャルグループの生みの親としても知られる故・西村正雄さんです。
安倍晋太郎は異父兄弟である西村正雄さんと1979年にはじめて顔を合わせ、互いに感激して手を取り合って喜び合ったそうです。
安倍晋太郎の異父兄弟・西村正雄さんは、2006年8月1日に74歳で亡くなっています。死因は心不全と発表されています。
安倍晋太郎の家族④ 義理の父親は元総理大臣の岸信介
岸信介のプロフィール
生年月日:1896年11月13日
没年月日:1987年8月7日(享年90歳)
出身地 :山口県吉敷郡山口町八軒家(現在の山口市)
安倍晋太郎の義理の父親(嫁の父)は、「昭和の妖怪」とも呼ばれた大物政治家の岸信介(きし・のぶすけ)です。
東京帝国大学法学部法律学科を卒業後、国家官僚となり、1936年に満州国国務院実業部総務司長任命され、満州国での満州産業開発五か年計画の事実上の最高責任者として権力を振るいました。
1939年10月に帰国後、商工次官を経て1941年10月発足の東條英機内閣の商工大臣に任命され、1941年12月の「開戰の詔勅」にも閣僚として連署しています。
1942年の第21回衆議院議員総選挙で初当選し、1943年に国務大臣兼軍需次官に任命され、太平洋戦争における物資動員、戦時経済体制の実質的な最高責任者となっています。
その後は東條英機に反目して下野しますが、日本の敗戦後、開戦時の幕僚であった岸信介は戦争責任を問われA級戦犯容疑者として連合国軍に逮捕されています。しかし、1948年12月に不起訴処分となり釈放されており、この裏にはGHQとの間に何らかの政治的な取引があったとの説も存在します。
1952年に公職追放が解除された後、表立った政治活動を再開し、自由党から1953年4月の第26回衆議院議員総選挙で当選して政界復帰を果たしています。
1954年、吉田茂と対立し自由党を除名され、同様に除名された鳩山一郎らと日本民主党(自民党の前身)結党に参加し同党幹事長に就任しました。
1956年12月に石橋内閣の外務大臣に就任。そのわずか2ヶ月後の1957年2月に石橋湛山首相が病に倒れ退陣したため、岸信介はその後を引き継ぐ形で外務大臣兼任の内閣総理大臣に就任しました。
日米安全保障条約改定を国民の反対を押し切り強行したため、1960年7月に岸内閣は総辞職しますが、その後も自民党最高顧問を務めて絶大な権力を維持し続け、娘婿である安倍晋太郎の支援を、実弟の佐藤栄作とともに行いました。安倍晋太郎が自民党内で力をつけたのは、義理の父親の岸信介の後ろ盾が大きな役割を果たしたと言われています。
また、日韓国交回復にも大きな影響を及ぼしました。
1987年8月7日、入院先の東京医大病院で死去しています。享年は90歳でした。
この岸信介という人物ですが、現在世間を騒がせている統一教会を日本に招き入れた存在とも言われ、統一教会教祖である文鮮明との親密な関係が取り沙汰されています。
岸信介は、統一教会が1968年に反共産主義を掲げて設立した政治団体「国際勝共連合」の日本支部の設立に関与したとされていますが、それ以前から文鮮明とは協力関係にあったとも言われています。
統一教会との親密な関係は後継者である安倍晋太郎にも引き継がれ、それがその息子である安倍晋三元首相にまで継承されていたとされており、統一教会が安倍家の権力の源泉となっていたとも指摘されています。
安倍晋太郎の家族⑤ 結婚した嫁は岸信介の長女・洋子さん
安倍晋太郎の嫁・洋子さんのプロフィール
生年月日:1928年6月14日
出身地 :東京府豊多摩郡中野町千光前町(現在の東京都中野区)
安倍晋太郎は、1951年5月に岸信介の長女の洋子さん(上の画像の左の女性)と結婚しています。
当時、安倍晋太郎は毎日新聞の政治記者で、嫁の洋子さんとはお見合い結婚でした。安倍晋太郎さんはこの嫁の洋子さんとの間に3人の子供を儲けており、次男が安倍晋三元首相です。
安倍晋太郎の嫁の洋子さんは、安倍晋三元首相の母親として政界に信奉者が多く、「政界のゴッドマザー」の異名でも呼ばれています。
2022年8月の現在は94歳という高齢ですがご健在で、息子である安倍晋三元首相が選挙応援中に銃撃を受けて殺害された後、自ら後援会幹部に電話をされたという事です。
「安倍さんが亡くなったとの一報が流れた後、後援会幹部の一人に洋子さんから電話があったそうです。『もう晋三はいなんですよ。明日から信千世の選挙戦が始まると思ってやりなさい』と声をしぼりだし、『もう晋三は……』と、最後は涙声で聞き取れなかったそうです」
安倍晋太郎の子供① 長男は三菱商事関連企業取締役などを歴任した安倍寛信
安倍寛信のプロフィール
生年月日:1952年5月30日
出身地 :東京都新宿区
安倍晋太郎さんと嫁の洋子さんの3人の子供について順番に見ていきます。
安倍晋太郎さんと嫁の洋子さんの1人目の子供は長男の安倍寛信(あべ・ひろのぶ)さんです。
安倍寛信さんは、1952年5月30日の生まれで、名門の私立の成蹊小学校、成蹊中学、成蹊高校を経て、成蹊大学経済学部へと進んでいます。1975年3月に成蹊大学を卒業後は政治の道へは進まずに、同4月に三菱商事に入社し、2004年2月に三菱商事中国支社長に就任。2007年4月に三菱商事執行役員を経て、2012年6月から関連会社の三菱商事パッケージングの代表取締役社長を務めました。
2021年に三菱商事パッケージングの社長と取締役を退任し、同社の非常勤顧問に就任。ヤマエグループホールディングス社外取締役監査等委員、成蹊学園理事などを務め、2022年3月に三菱商事パッケージングの顧問職を辞して、同年6月からはフマキラーの社会取締役を務められています。
安倍晋太郎の子供② 次男は安倍晋三元内閣総理大臣
安倍晋三のプロフィール
生年月日:1954年9月21日
没年月日:2022年7月8日(享年67歳)
出身地 :東京都新宿区
身長 :175cm
血液型 :B型
安倍晋太郎と嫁の洋子さんの2人目の子供は、長期にわたって内閣総理大臣を務めた次男・安倍晋三です。
安倍晋三元首相は、1954年9月21日に生まれ、兄の安倍寛信さんと同じく、成蹊小学校、成蹊中学、成蹊高校を経て、成蹊大学法学部政治学科を卒業されています。
大学卒業後は南カリフォルニア大学などへの海外留学を経て、帰国後の1979年4月に神戸製鋼所に入社しています。
3年間の会社員生活後、1982年から当時は外務大臣を務めていた父親の安倍晋太郎の秘書官となります。1991年に父親の安倍晋太郎が急逝すると、父親の地盤を引き継いで1993年の第40回衆議院議員総選挙に出馬して初当選を果たしました。
その後は、2000年の第2次森内閣、第1次小泉内閣での内閣官房副長官、自民党幹事長を経て、2005年10月発足の第3次小泉改造内閣にて、内閣官房長官に任命され初入閣しています。
そして、2006年9月に小泉純一郎首相の任期満了に伴う自民党総裁選に勝利し、内閣総理大臣に就任し、第1次安倍内閣が発足します。
しかし 2007年7月の第21回参議院議員通常選挙で自民党が惨敗し、続投を発表したものの,持病の潰瘍性大腸炎が悪化し、2007年9月に首相を退任します。
その後は療養を経て政治活動に復帰し、2012年9月の谷垣禎一総裁の任期満了に伴って行われた自民党総裁選に出馬して勝利し自民党総裁に就任しています。
その後、2012年12月の第46回衆議院議員総選挙で自民党が圧勝して政権与党に返り咲き、第2次安倍内閣が発足しました。
2度目の首相就任後は、アベノミクスと称する金融緩和、規制緩和政策を断行や、日米同盟の強化を含む、国家安全保障戦略を策定し集団的自衛権の行使を限定的に容認するなどして経済界や保守勢力からの支持を得ました。
2020年、新型コロナウイルスの対応への批判などから内閣支持率が低下し、同年9月に健康問題を理由に辞任。
以降も有力政治家として存在感を放っていましたが、2022年7月8日、奈良県奈良市で第26回参議院議員通常選挙の自民党候補の佐藤啓さんの応援演説を行っていた際に、突然背後から銃撃を受け搬送先の病院で死去しました。
犯人の山上哲也は統一教会信者の母親を持ち、この母親の多額の献金のせいで家族が崩壊して統一教会に対して強い恨みを持っていました。
山上哲也は安倍晋三元首相と安倍一族が統一教会と深い関係にある事を知ったのが犯行の動機になったと供述しています。
安倍晋三元首相の享年は67歳で、奇しくも父親の安倍晋太郎と同じ年齢でした。
安倍晋太郎の子供③ 三男は衆議院議員の岸信夫
岸信夫のプロフィール
生年月日:1959年4月1日
出身地 :東京都新宿区
安倍晋太郎さんと嫁の洋子さんの3人目の子供は、衆議院議員で2022年8月の現在は内閣総理大臣補佐官を務めている三男の岸信夫さんです。
岸信夫さんは安倍晋太郎さんの三男として生まれましたが、生後間もなく岸信介の長男・岸信和(母親・洋子の実兄)の養子となっています。岸信和には子供がおらず、自身も病気を抱えていて政治活動は困難だったため、岸家の後継として養子に迎えられています。
岸信夫さんは自分が養子だとは教えられずに育ち、松濤幼稚園、慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部、慶應義塾高校と進んでいます。
慶應義塾大学経済学部進学時に提出書類として必要だった戸籍謄本を取り寄せた際に、自分が養子である事を初めて知り、強いショックを受けたそうです。
慶應義塾大学を卒業後、1981年4月に住友商事に入社し、2002年8月まで勤務されています。
2004年7月の第20回参議院議員通常選挙に自民党公認で出馬して初当選を果たし政治の世界に入りました。参議院議員時代は、自民党の広報局次長、青年局次長、自由民主党 NPO・NGO関係団体委員会副委員長、福田改造内閣、麻生内閣での防衛大臣政務官などを歴任しました。
2010年7月の第22回参議院議員通常選挙で再選した後、2012年11月に参議院議員を辞職して第46回衆議院議員総選挙に出馬して当選。
その後は、4期連続当選(2022年時点)し、その間、外務副大臣、衆議院外務委員長、衆議院安全保障委員長、衆議院議院運営委員会筆頭理事などを経て、2020年9月に発足した菅義偉内閣にて防衛大臣に任命され初入閣しています。
2022年8月に成立した第2次岸田改造内閣では、内閣総理大臣補佐官に任命されています。
なお、祖父にあたる岸信介元首相と統一教会との親密な関係が取り沙汰されていますが、岸信夫さんも統一教会と関係があった事を認めており、2022年8月2日の記者会見で「(統一教会との)関係をしっかり見直す」と発言されています。
安倍晋太郎の死因は病死(膵臓がん)
安倍晋太郎の死因は病死で膵臓がんを患っていました。
安倍晋太郎は、1989年4月に順天堂大学医学部附属順天堂医院に「胆石の治療」を理由に入院しました。一部からは1988年6月に発覚したリクルート事件(安倍晋太郎もリクルートコスモスの株が譲渡されていた)のほとぼりを覚ますための偽装入院などと言われましたが、実際には膵臓がんの手術を受けるための入院で、膵臓、十二指腸、胃の一部を切り取る手術を受けています。
がんで死去した政治家は多いが、まず思い出すのは、安倍氏の父の安倍晋太郎元外相だ。1989年4月、順天堂大学医院に入院したときは、一部では「リクルート事件のほとぼりをさますため」の偽装入院と言われ、「胆石治療による入院」と発表された。しかし、実際は膵臓(すいぞう)がん。末期だったので、膵臓から十二指腸、胃の一部まで取る大手術が行われた。1年あまりの闘病をへて死去した。
その後、安倍晋太郎は同年7月25日に退院し、次期総理に向けて政治活動を再開しましたが、1990年8月に再び体調が悪化し、9月の検査入院でがんの再発が判明。
1991年5月15日に入院先の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去しました。安倍晋太郎は最期まで自身の病状を隠して政治活動を行なっていました。
安倍晋太郎の墓
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安倍晋太郎の墓所は、地元山口県長門市油谷の長安寺と、静岡県駿東郡小山町の冨士霊園にあります。(分骨されている)
静岡県駿東郡小山町の冨士霊園には、岸家の墓(岸信介の墓)もあり、安倍家の墓と並んで建立されています。
まとめ
今回は、安倍晋三元首相の父親で、次期総理最有力候補と言われながらその座を掴む寸前で死去し「悲運のプリンス」と呼ばれた事でも知られる昭和から平成初期にかけての大物政治家・安倍晋太郎についてまとめてみました。
安倍晋太郎は毎日新聞記者時代に結婚した嫁の洋子さんの父親であった岸信介元首相の外務大臣時代にその秘書となり、その後に自らも衆議院議員選挙に出馬して政治家となりました。
身長は175cmで、当時の日本人政治家としてはかなり大柄で、他国の政治家に見劣りしないその見栄えの良さや、岸信介の義理の息子という立場から、次期首相候補として早くから名前が上がる存在でした。
家系図を辿ると、父親は太平洋戦争中に反戦を唱えた反骨の政治家として知られる元衆議院議員の安倍寛で、安倍家は飛鳥時代にまで遡る武家の家柄だとする説も存在します。
家族には、父親の安倍寛、母親の静子(陸軍軍医の娘)、兄弟に異父弟の西村正雄さん(みずほHD生みの親)、義父に元総理大臣の岸信介がいます。
嫁の洋子さんとの間には3人の子供がおり、長男は三菱商事などで活躍した大物実業家の安倍寛信さん(フマキラーの社会取締役)、次男は総理大臣を歴史上最も長く務めた大物政治家である故・安倍晋三氏、三男は菅義偉内閣での防衛大臣を経て、岸田文雄内閣で内閣総理大臣補佐官を務める衆議院議員の岸信夫さんです。
安倍晋太郎は1991年5月15日に67歳で亡くなっています。死因は膵臓がんでした。
遺骨は分骨されており、墓は地元山口県長門市油谷の長安寺と、静岡県駿東郡小山町の冨士霊園にあります。