かつては山口組の中心勢力の1つだった極心連合会でしたが、2019年に解散してしまいました。
この記事では、極心連合会の組織図、交流が噂されていた芸能人(渡辺二郎/島田紳助)の他、解散騒動に真相や現在についてまとめてみました。
この記事の目次
極心連合会とは…東大阪市に本部を置く暴力団だった【組織図有り】
極心連合会、東大阪市を拠点とした暴力団だった
極心連合会とは、橋本弘文さんが率いていた暴力団であり、かつては山口組の中心勢力の1つでした。
極心連合会の本部ついては、大阪府東大阪市内の閑静な住宅街にあったらしく、橋本さんの所有する持ちビルだったと言われております。
最盛期には500人以上の組員数を誇っていた極心連合会は、大阪の顔役でもあったそうで、関西における元祖半グレグループ「強者」のリーダー・山根真一さんのケツモチをしていた時期もありました。
そのため、「強者」の数々の狼藉が警察に問題視されて取り締まり対象となった際は、解散の口利き役になったこともあったそうですね。
「これは極心連合会の当時の若頭・山下昇(現相談役)が口をきいて届けを出させたのだが、徹底したものではなかった。で、その後、極心連合会本部長・浅野俊雄(現若頭)が強者に解散届を出し直しさせた。こちらは名実ともに備わっている。強者は解散です」(府警詰め記者)
極心連合会、シノギは多岐に渡っていた
極心連合会のシノギについては、地上げや繁華街の用心棒といった定番の仕事以外にも西成で売春宿を営んでいたりもしていたようですね。
その他、企業への外国人労働者の斡旋や貧困ビジネスなどにも手を出していたと言われております。
もちろん、斡旋した外国人労働者の中には、不法滞在者も当たり前に含まれていたそうで、何度も摘発される憂き目にもあいました。
極心連合会のその他のシノギについては、関西国際空港の利権にも絡んでいたとの噂も存在します。
空港利権の原型が関空国際空港である。関空に関しては相かも深く関わっていたのが、元泉佐野市向江昇市長である。関空の建設において、ハンナングル-プ昭栄興業㈱<浅田照治社長>が主導して、そしてその利権に六
— 大阪とし(ToshiOsaka) (@ts1210839091) April 8, 2018
代目山口組統括委員長極心連合会橋本弘文会長が、太いパイプで繋がっていました。 pic.twitter.com/EzUZRsS9dE
極心連合会の歴史…橋本弘文が一代で築き上げた組織だった
極心連合会、元々は大阪の独立組織だった
極心連合会の設立者である橋本弘文さんに関しては、1963年に16歳の若さで大阪の独立組織である南一家系吉田組と盃を交わしていています。
しかしながら、極道入りした直後となる1964年より第一次頂上作戦がスタートしたタイミングの悪さが祟り、吉田組は解散してしまうことになりました。
第一次頂上作戦では、数々の暴力団が解散に追い込まれていた他、山口組ですら解散か継続かで幹部同士の対立が深まるほど熾烈な締め付けがありました。
そのため、本来はカタギに戻るべきタイミングであった橋本さんでしたが、そのまま極道の世界に残り、東大阪市を拠点として橋本組(後の極心連合会)を結成しています。
極心連合会、1976年に山口組の三次団体となっていた
橋本組結成後の橋本弘文さんについては、1976年頃に山口組山健組系盛力会会長・盛力健児さんの伝手により、山健組の直参入りを果たしています。
当時の山健組は、組長の山本健一さんが山口組の若頭を務めていた他、山口組の次期組長と目されていた名門でした。
その山本健一さんは、1982年に病死してしまったものの、2代目組長に就任した渡辺芳則さんがすぐに山口組若頭補佐に抜擢されるなど、相変わらずの権勢ぶりを誇っていました。
橋本さんが、橋本組を極心連合会に改称したのもこの頃だったと言われております。
その後、山口組の後継者争いを発端とした内部分裂が起こり、竹中正久さんの4代目組長就任に反対する山本広さん一派が山口組を脱退して一和会を結成する騒動が起こります。
山一抗争と呼ばれた山口組と一和会の対立に関しては、1985年1月に竹中さんが暗殺される事件が起こったこともあり、一気に日本最大の暴力団抗争へと発展することになりました。
橋本さんも山健組の一員として山一抗争には参加したそうで、武闘派として名を高めることとなった結果、1987年に山健組の若頭代行にまで出世しています。
極心連合会、山健組内の有力組織として頭角を現す
山一抗争終了後の山健組については、1989年に渡辺芳則さんが山口組の5代目組長に就任することになりました。
この頃の山健組はまさに絶頂期だったそうで、組員数は山口組全体の3分の1を占める7200人でした。
渡辺さんの後釜に関しては、桑田兼吉さんが山健組の3代目組長に就任することになりましたが、橋本弘文さんも山健組若頭へと昇進しております。
その後、山口組若頭補佐の要職に就くこととなった桑田さんですが、1997年に東京都港区六本木の路上で検問を受けた際に車内から拳銃が発見されてしまい、銃刀法違反の罪で逮捕されてしまいます。
逮捕後の桑田さんは、最高裁まで争ったものの結局は懲役7年の実刑判決が下ってしまったため、2003年より服役をする羽目になりました。
桑田さんの服役後は、山健組の組長代行を務めることとなった橋本さんは、その手腕が認められた結果、2005年4月に山口組の直参へ抜擢されています。
極心連合会、山口組内の勢力図の変化にも負けずに最高幹部となった
山口組の直参となった橋本弘文さんですが、2005年6月には山口組若頭補佐に昇格しています。
その後の山口組では、服役中だった桑田兼吉さんが持病の悪化から井上邦雄さんに山健組の跡目を譲った他、渡辺芳則さんが引退して司忍さんが山口組6代目組長に就任しております。
山口組の組長が生前に引退することは、初代の山口登さんが実子に跡目を譲って以来の出来事だった上、司さんの出身母体が山健組のライバルの弘道会だったことから、巷ではクーデター説が流れることになりました。
山口組の政変については、渡辺さんが金に汚く、傘下組織の利権にまで手を伸ばす悪癖があったため、部下たちから総スカンをくらい失脚したとの噂も存在します。
また、1997年に起こった「宅見若頭射殺事件」の黒幕が渡辺さんだったことから、その証拠を弘道会に握られてしまい、脅迫されて跡目を譲ったとの説もあるようですね。
司さんの6代目就任以降は、山口組の主導権は弘道会に移ってしまった一方で、橋本さん本人は順調に出世を続けており、2010年にはNo3のポストにあたる統括委員長の地位を得ています。
極心連合会と芸能人の噂①…元世界王者・渡辺二郎
極心連合会、芸能人との交流もあった
極心連合会に関しては、山口組内の有力組織ということもあり、会長である橋本弘文さんなどは、ボクシングの元世界王者・渡辺二郎さんとの交流もあったと言われております。
2人の間に交流が生まれたきっかけについては不明となっていますが、ジムの戦略ミスのせいで世界王者から陥落したことを不満に思っていた渡辺さんのタニマチとなったのが橋本さんでした。
現役引退後はタレントとしても成功することとなった渡辺さんですが、その後も橋本さんとの関係性は変わらなかったとか。
その結果、芸能人の身でありながら極道の道へ足を踏み入れることとなった渡辺さんは、極心連合会の相談役に就任することにもなりました。
極心連合会、渡辺二郎の逮捕のきっかけとなったこともあった
極心連合会は、渡辺二郎さんの逮捕の原因になってしまったこともあります。
こちらの騒動については、2011年3月に暴力団関係者の利用を禁止している大阪府内のゴルフ場にて、橋本弘文さんと渡辺さんらが身分を偽ってプレーしたことが、詐欺罪に該当するとの摘発を受けてしまったようですね。
とはいえ、この手の行為が「財産上不法の利益を得た」という詐欺の要件に当てはまると認定されるケースは少ないらしく、この時の渡辺さんも不起訴処分となっています。
極心連合会と芸能人の噂②…元司会者の島田紳助
極心連合会、右翼団体とトラブルになった島田紳助を救っていた
極心連合会は、島田紳助さんと右翼団体とのトラブルを解決したこともありました。
こちらの騒動については、関西テレビで放送されていた「紳助の人間マンダラ」にて島田さんが発した暴言に対して、稲川会系の右翼団体「大行社」が激怒して抗議運動を起こしたというものでした。
「番組で紳助が、収録に遅れそうになってタクシーを飛ばしていたときに、前を右翼の街宣車が軍歌を流しながらトロトロ走っていたという話を始めたんです。紳助が『何トロトロ走っとんねんボケカス!』と怒鳴ると、街宣車からいかついお兄ちゃんがゾロゾロ出て一悶着あった、と」
紳助はこのくだりを思いっきり茶化しながら面白おかしくネタにした。これに、ある右翼団体の幹部が激怒し、関西テレビに猛抗議したのである。
1990年代後半頃に起こったと言われているこの騒動は、関西テレビに街宣車が乗り込んでくるほどの騒ぎとなったそうですが、島田さんの所属先であった吉本興業は解決のために動くこともなかったとか。
そのため、島田さんと旧知の仲だった渡辺二郎さんが橋本弘文さんに話を持って行き、和解交渉役になってもらったそうですね。
極心連合会、島田紳助のビジネスパートナーでもあった
前述の右翼団体とのトラブル以降交流が生まれた極心連合会と島田紳助さんでしたが、いつしかビジネス上のパートナーにもなっていたそうですね。
島田さんと極心連合会が二人三脚で進めていたビジネスについては、競売物件の買収事業だったと言われております。
紳助は競売物件のなかでも素人が到底手を出せないようなビルや土地に執着していた。(競売で)ビル取得が難しい理由は、占有されているテナントを立ち退かせるのに、カネをいくら積むかという交渉があるからだ。また土地に関しても、部分占有されていたり、部分売買されている場合があり、権利が複雑だ。しかも『土地を買収している』という噂を聞きつけると、地元ヤクザが先に買い付け、占有することも多い。そういうあまりにも煩雑な“もろもろの整理”を橋本会長らに頼んでいた。
極心連合会、島田紳助の引退原因にもなっていた
極心連合会は、2011年に起こった「島田紳助芸能界引退騒動」の原因にもなってしまいました。
島田紳助さんの引退騒動については、2007年に極心連合会・相談役だった渡辺二郎さんが、「羽賀研二未公開株詐欺事件」に関与していた疑いで逮捕されたことから始まります。
この時の騒動では、懲役2年の実刑判決を受けることとなった渡辺さんでしたが、逮捕時に受けた家宅捜索にて、島田さんからのメールが100通以上残された携帯電話が押収されることになりました。
「二郎さんと会長に守られていると思うと、心強いです」
二郎さんとは元ボクシング世界チャンピオンで、極心連合会相談役の渡辺二郎のこと。紳助は渡辺を通じて橋本会長と知り合った。資料には自身が招いた右翼とのトラブルを解決してもらった橋本会長との親密交際をうかがわせるやりとりが100通以上、残されていた。
その後、渡辺さんの裁判経由でメールが流出してしまったせいで、吉本興業から事情聴取を受けることとなった島田さんですが、極心連合会関係者との交流を絶つことを拒否したうえで、自ら芸能界引退の道を選んだと言われております。
極心連合会の珍事件…放送事故に巻き込まれたこともあった
極心連合会は、2016年2月になると、橋本弘文さんが「電磁的公正証書原本不実記録・同供用の疑い」で逮捕されています。
こちらの事件については、暴対法のせいで自分名義の車を所有出来ない状態であった橋本さんが、妻名義でベンツを購入して利用していたところ、警察に摘発されてしまったそうですね。
俗に言う見せしめ逮捕となる騒動でしたが、その一報を伝えるニュース番組にて、橋本さんではなく元プロ野球選手の清原和博さんの映像が流れるといった放送事故が起こってしまいました。
本来なら名誉棄損ものとなる放送事故でしたが、直前に清原さんが「覚せい剤取締法違反」で逮捕されていたこともあり、ネット上の笑い話で済んでしまうことになりました。
山口組No3を逮捕で清原の映像が流れるのはあまりに面白すぎるからやめろ
— はやお閣下 (@Hayao_Kakka) February 19, 2016
極心連合会の衰退…山口組分裂騒動を機に橋本弘文が失脚した
山口組、弘道会VS山健組の勢力争いで分裂した
関西の名門暴力団として大暴れしていた極心連合会ですが、2015年8月に起こった「山口組分裂騒動」を契機に大逆風を経験することになりました。
「山口組分裂騒動」については、山健組の4代目組長であり山口組の若頭補佐を務めていた井上邦雄さんとその友好勢力が、山口組を脱退して神戸山口組を結成したという騒動でした。
弘道会出身の司忍さんが組長となって以降の山口組は、山健組弱体化工作が公然と実施されていたらしく、山健組傘下の有力組織が次々と独立させられていたそうですね。
だが、司組長が成立した05年前後に山健組から引き抜かれ、直系組長に据えられた組織が数多くある。川内組(根本辰男)、中村組(中村伍男)、井奥会(井奥文夫)、鈴秀組(鈴木秀具)、大門会(大関大)、極心連合会(橋本弘文)、太田興業(太田守正)、木村會(木村阪喜)、大同会(森尾卯太男)などだ。
そのため、山口組5代目・渡辺芳則さん時代は7000人もの構成員を誇った山健組は、2000人程度の勢力まで弱体化してしまったとか。
そんな冷遇に耐えかねた山健組一派が起こしたクーデターが、「山口組分裂騒動」だったということになります。
ちなみに、「山口組分裂騒動」時に山健組一派に同調せずに本家山口組(六代目山口組)に残った極心連合会でしたが、太田興業や木村會といった山健組出身の直参も神戸山口組に合流したこともあり、弘道会一派からは裏切りを疑われる立場となってしまったそうですね。
極心連合会、橋本弘文の引退未遂騒動をきっかけに衰退した
数十年に渡り我が世の春を謳歌していた極心連合会ですが、2015年12月に起こった「橋本弘文引退未遂騒動」をきっかけに衰退しています。
暴力団社会に衝撃を与えたのは、2015年12月1日、3年前に71歳で亡くなった渡辺芳則5代目の命日に発生したトラブルで、服役中の髙山清司若頭に次ぐナンバー3の橋本弘文統括委員長(極心連合会会長)が、募参の後、総本部に戻らず“失踪”し、引退をほのめかしたことだ。
「橋本弘文引退未遂騒動」については、独断で渡辺芳則さんの墓参りに出かけた行為を山口組執行部への当てつけと受け取った六代目山口組若頭補佐・竹内照明さんが、橋本弘文さんを強くなじったことが発端となったそうですね。
とはいえ、この時の引退未遂騒動は、周囲の取り成しもあり橋本さんが司忍さんに謝罪をすることで場が収まったとか。
とはいえ、弘道会一派に更迭の口実を与えることとなった橋本さんは、騒動後に統括委員長の地位をはく奪されて舎弟へ降格する羽目になりました。
極心連合会の現在…高山清司に追い込みをかけられて解散した
極心連合会、高山清司に強制世代交代を強いられそうになっていた
「橋本弘文引退未遂騒動」後の極心連合会については、橋本弘文さんの失脚の余波に加えて、警察の暴力団に対する締め付けが強化されたこともあり、構成員数が激減していたと言われております。
2019年当時の極心連合会の構成員数に関しては諸説ありますが、100人弱程度まで勢力が衰退していたのではないかと噂されていました。
そんな極心連合会にさらなる追い打ちをかけた出来事が、高山清司さんの出所となります。
弘道会のトップであり六代目山口組の若頭も務めていた高山さんは、恐喝容疑で逮捕された結果、2014年から2019年10月まで服役を経験していました。
出所後の高山さんは、すぐに橋本さんの粛正に取り掛かったそうで、山口組系極粹会会長・山下昇さんに極心連合会を譲り引退するように迫ったそうですね。
極心連合会、解散理由は男の意地だった
高山清司さんから追い込みをかけられた橋本弘文さんですが、山下昇さんとは浅からぬ因縁があったため、強制世代交代の申し出は拒否し続けたそうですね。
橋本会長は高山若頭の提案を拒否した。というのは、以前、山下会長が極心連合の若頭だったころ、金銭面でヘタを売り、橋本会長が彼を処分した。と、当時は弘道会の若頭だった竹内照明会長が乗り出して処分を撤回させ、山下会長を山口組の直参に昇格させた。
その後の橋本さんは、高山さんに意地を見せつけ、2019年12月に極心連合会を解散させて極道の世界から引退したと言われております。
解散後の極心連合会の面々については、傘下組織だった兼一会が六代目山口組の直参に昇格したとの話もあります。
極心連合会についてまとめてみると…
極心連合会については、大阪の独立組織から山口組の有力組織まで成り上がったものの、最期は時流から外れて解散の憂き目になりました。
まさに、栄枯衰退のはかなさを具現化した組織だったと言えます。