「山一抗争」のヒットマンとしても有名となった安東美樹さんですが、現在は六代目山口組若頭補佐にまで出世しているそうですね。
この記事では、安東美樹さんの本名と年齢などプロフィールと経歴、武勇伝、事件での逮捕と懲役、結婚情報、そして現在の様子についてまとめてみました。
この記事の目次
安東美樹の経歴…年齢は66歳で本名は安巳季だった
安東美樹さんに関しては、1955年3月10日に生まれており、現在66歳となります。
安東さんの本名については、安巳季(アン・アンヘン)という在日コリアンだと言われております。
安東さんの出身地については特に公開されていないようですが、山口組信原組系作州連合と盃を交わしてヤクザになったとの話なため、岡山県北部出身なのではないかと思われます。
その後、1983年に信原組が解散したことで作州連合ごと山口組系竹中組に移籍することとなった安東さんでしたが、作州連合の若頭に出世した他、安東会を設立するなど順調なキャリアを送っていたそうですね。
安東美樹の武勇伝…山一抗争で山本広の自宅へカチコミをかけた
山一抗争、そのきっかけとは?
安東会を設立して一国一城の主となった安東美樹さんですが、竹中組へ移籍した翌年となる1984年には「山一抗争」が始まっています。
「山一抗争」に関しては、山口組の3代目組長だった田岡一雄さんが病死した後に、後継者候補だった山口組若頭山本健一さんまで獄中死してしまったことから始まったお家騒動が発端となります。
ちなみに、山口組4代目組長の座を争った人物は、山本健一さんの死後に山口組組長代行に就任した山本広さんと若頭に就任した竹中正久さんの2人だったそうですね。
山本広さんは、山口組若頭の地位を山本健一さんと争い、幹部間投票で勝利した経験もあるほどの実力者でした。
1971年には若頭・梶原清晴(梶原組組長)の死を受けて行われた若頭選挙に立候補し、得票では勝利したが、田岡の意向により断念して山健組組長・山本健一に その座を譲った。
引用:山本広
そのため、この時の跡目争いでも当初は山口組直参組長の大半が山本広さんの支持に回るなど、周囲からは大本命扱いされていたとか。
とはいえ、田岡さんの未亡人・文子さんが竹中さんの支持に回ったことをきっかけに状況が一変し、最終的には竹中さんが山口組4代目組長に就任する逆転劇が待っていました。
山一抗争、山本広が田岡一雄や文子に嫌われた理由とは?
元々は土木や物流関連の企業で働くサラリーマンだった山本広さんは、山口組の中でも有数の実務能力を誇っており、周囲からの評価が高い人物でした。
そんな山本さんが山口組の跡目争いに負け続けた理由に関しては、組長であった田岡一雄さんからの評価がイマイチだったせいとなります。
山本さんが田岡さんから軽視されていた背景には、「第一次頂上作戦」時に田岡さんの意向を無視して山口組を解散させようとした地道行雄さんの側近だったせいではないかという話になっています。
第一次頂上作戦とは、警視庁および各県警本部が、1964年2月から1969年4月まで行った暴力団壊滅作戦。暴力団の資金源を断ち、暴力団のトップや最高幹部の検挙を徹底的に行い、暴力団組織の解体を目的とした。
引用:第一次頂上作戦
その後も「大阪戦争」にて田岡さんが暗殺されかかったのにも関わらず、警察の目を気にしてケジメをつける前に抗争を終了させようと動くなど、現実路線がゆえに田岡さんの不評を被ることもあったそうですね。
山一抗争、一和会のヒットマンにより竹中正久が暗殺されていた
田岡文子さんの介入のせいで山口組の4代目継承レースに敗れた山本広さんは、この時ばかりは怒りを堪えることが出来ずに、1984年6月になると山口組を脱退し一和会を結成しています。
元々は山本さんを山口組4代目に推す関係者が多かった影響もあり、多くの直参組長が合流した結果、結成当初の一和会は構成員6000人(山口組側は4700人)もの大所帯でした。
しかしながら、山口組側が劣勢にひるまずに絶縁状を叩きつけたことで状況は一変し、全面抗争まではするつもりがなかった組員たちが次々に逃げ出した結果、1984年末頃には一和会の構成員は半減してしまったと言われております。
そのため、焦った武闘派が一和会執行部に無断で竹中正久さんの命を狙う暴走劇まで生んでしまうことになりました。
1985年1月に起こった「竹中正久暗殺事件」に関しては、ボディーガードをつけて移動することを嫌った竹中さんの豪胆さが災いし、ヒットマンたちに射殺される結末を迎えました。
山一抗争、安東美樹が山本広宅にカチコミをかけた
「竹中正久暗殺事件」当時の竹中組は、竹中正久さんの実弟である竹中武さんが跡を継いでおり、安東美樹さんは組長秘書の地位にあったと言われております。
その後、山口組より一和会関係者に壮絶な報復が開始された「山一抗争」でしたが、安東さんも山本広邸にカチコミをかけるヒットマン役を命じられることになりました。
ヒットマン役に任命された後の安東さんは、フィリピンに5回渡航して射撃訓練を繰り返すほどの念の入れようだったそうですね。
また、戦後最大の暴力団抗争とも言われている「山一抗争」は、当然ながら全国的な大ニュースとなっており、兵庫県神戸市内にあった山本邸は警察が厳重警護している状況でした。
そのため、安東さんは山本邸を下見し、警護の警察官が2名であることを確認してから襲撃プランを練っていました。
ちなみに、当初の襲撃プランでは、警察官たちを拳銃で脅しスプレーで目を潰したうえ、針金で縛って自由を奪った後に山本邸に侵入。山本広さんがいればその場で殺し、いなければ家族を逃がした後自宅を爆破するといった二段構想でした。
安東美樹、山本広邸を襲撃し警察官に重傷を負わせていた
安東美樹さんと部下たちが山本広邸を襲ったのは、1987年5月14日午前2時のことでした。
山本広さんが在宅中との情報を掴んだ安東さんらは、部下3人を引き連れて山本邸に車で向かったそうですね。
その後、山本邸を見張るパトカーに拳銃を突き付けて「手をあげろ!」を叫んだ安東さんたちでしたが、その日に限って現場に遊びに来ていた警官がいたとか。
そのせいで、本来はいないはずの後部座席にいた警官より反撃を受けそうになったため、当初のプランを捨ててその場で自動小銃やライフル銃を乱射する羽目になりました。
その結果、警察官たちに全治2週間から5か月の大怪我を負わせることになってしまいました。
その他、警察官が携帯無線機の非常スイッチで増援を呼ぶアクシデントまで発生したため、焦った安東さんらは山本邸内に乗り込むことを断念しています。
そして、せめてもの報復として自動小銃に対戦車用ロケット弾を装着し発射した安東さんですが、保護用に張ってあったネットのせいで山本邸まで届かずに落下するオチが待っていたと言われております。
そのため、山本邸の勝手口に消火器爆弾を仕掛けて逃げた安東さんたちでしたが、そちらの方も発火薬部分だけが燃えて不発に終わったそうですね。
安東美樹の山本広邸襲撃事件のその後…逮捕されて懲役20年の実刑判決を受けていた
「山本広邸襲撃事件」後の安東美樹さん一行は、爆発物取締法違反容疑などで指名手配されることになりました。
その後、自首せずに逃亡生活に入った安東さんですが、ロケット弾が爆発した際に浴びた破片のせいで肩や膝を負傷していたこともあり、山口組系後藤組の助力で茨城県内の病院で手術を受けていたそうですね。
また、捜査の手が竹中武さんにまで回ることを懸念し、山口組系一心会に移籍するなどしていたと言われております。
逮捕後は、懲役20年の実刑判決を受けることとなった安東さんですが、収監中に顔を合わせた「竹中正久暗殺事件」の実行犯に殴りかかったりするなど、一和会関係者への敵愾心は消えていませんでした。
安東美樹の出所後…竹中組には戻らずに山口組の幹部になっていた
安東美樹、出所後は竹中組に復帰しなかった
2011年に服役を終えた安東美樹さんは、出所後は古巣の竹中組には戻らずに、そのまま山口組系一心会に在籍し続けることになりました。
安東さんが古巣に戻らなかった理由に関しては、2008年に竹中武さんが病死していたことも大きかったように思われます。
また、山本広さんが存命したまま「山一抗争」が終結することに納得がいかなかった竹中さんが山口組から離脱したせいで、山口組と竹中組が対立状態になったことも関係しているのかもしれませんね。
とはいえ、元竹中組との前歴は出世に微塵も影響がなかったらしく、出所後の安東さんは、一心会副会長や若頭を歴任した後、2014年に山口組系柴田会会長の座に就任しています。
安東美樹、2015年に竹中組を復活させていた
出所してわずか数年で直参組長まで出世した安東美樹さんですが、2015年になると山口組幹部に昇進した他、柴田会の名称を竹中組に変更してます。
本家の竹中組は、竹中武さんの跡目を継いだ竹中正さんも2014年に亡くなっていたため、形式上は安東さんが竹中組を復活させた形となります。
安東さんが竹中組を復活させた理由に関しては、2015年に起こった山口組の分裂騒動(六代目山口組と神戸山口組に分裂)が影響していると言われております。
分裂後の山口組は、どちらが正当かのプロパガンダ合戦をしており、その一環として神戸山口組が竹中組を復活させるために遺族と交渉していたため、六代目山口組側についた安東さんが先手を打ったようですね。
「過去に絶縁や破門などの処分を受けて引退したり、関係が途絶えた組関係者へのアプローチ合戦が続いている。6代目体制発足後に引退した山健組系の有力団体の組長が、神戸山口組に復帰する話も出ている」(山口組関係者)
とはいえ、生前の竹中武さんは安東さんに跡目を譲りたい意向を公言していた他、安東さんもかつての親分たちの墓参りを欠かさない状況だったため、無理筋の竹中組4代目襲名ではなかったように思われます。
それ以外にも四代目山口組・竹中正久組長の祥月命日には直参へと昇格する以前より、必ず墓参へと訪れ、居住まいを正されていたことが印象深い。直参昇格後は、最高幹部や直参組長らが墓参をすまされても最後まで残り、同じ霊園にある正久組長の実弟で、名称復活以前の竹中組を率いていた竹中武組長の墓参も人知れず行っていたといわれているのだ。
安東美樹の結婚情報…嫁や子供はいたのか?
安東美樹さんの家族情報については、非公開となっているため、結婚していたかどうかは不明となっています。
ただし、「山本広邸襲撃事件」時の安東さんは既に30歳を超えていたため、妻や子供などはいたように思われます。
安東美樹の現在…山口組若頭補佐に昇進していた
出所以来出世街道を邁進していた安東美樹さんですが、2016年に銃刀法違反(加重所持)の容疑で逮捕されたこともありました。
こちらの騒動に関しては、神戸山口組との抗争に備えて兵庫県姫路市内の民家に武器を隠していたところ、警察の家宅捜査により発見されてしまったそうですね。
ただし、この時の事件では、民家の所有者の親族であった竹中組組員以外は不起訴となっており、安東さんも無罪放免となりました。
その後の安東さんは、2017年に六代目山口組若頭補佐にまで昇進しており、押しも押されぬ看板組長の1人となっています。
安東美樹についてまとめてみると…
安東美樹さんに関しては、「山一抗争」で名をあげた伝説の武闘派ヤクザであり、現在は六代目山口組の若頭補佐の地位にあることになります。
安東さんの今後より一層の活躍を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。