住吉会の中興の祖扱いされている伝説のヤクザ・堀政夫さんですが、任侠の手本のような人間性だったため、多くの博徒たちに慕われた存在だったと言われております。
この記事では、堀政夫さんの伝説や逸話、嫁と息子など家族や自宅、最期と死因、そしてビートたけしさんとのエピソードについてまとめてみました。
この記事の目次
堀政夫の経歴…平和共存を実現させたヤクザの親分だった
堀政夫、大正生まれで長崎県出身だった
堀政夫さんは、1925年に長崎県佐世保市に生まれています。
青年時代の堀さんは、東京都港区芝白金(現:白金)の芝居一座で用心棒を務める愚連隊のような存在だった一方で、「フジトシオ一座」で役者も兼任するような粋な人物でした。
その後の堀さんは、地元の愚連隊仲間と一緒に地場ヤクザと抗争をした際に、住吉会系の二次団体組長・井出六蔵さんに仲裁役になって貰ったことが縁となり、極道入りを果たすことになりました。
とはいえ、ヤクザ時代初期の堀さんは、芝居一座の興行主となって東北や北海道を巡業して回るなど、かなり牧歌的な生活だったと言われております。
堀政夫、頂上作戦の余波で住吉会が解散する逆風もあった
旅巡業を終えた堀政夫さんは、1955年になると千葉県野田市に拠点を置く住吉会系の二次団体・中里一家の組長になっています。
その後、1964年より始まった「第一次頂上作戦」の余波を受けて、住吉会会長・磧上義光さんが逮捕され、住吉会が解散するアクシデントが発生したこともありました。
第一次頂上作戦とは、警視庁および各県警本部が、1964年2月から1969年4月まで行った暴力団壊滅作戦。暴力団の資金源を断ち、暴力団のトップや最高幹部の検挙を徹底的に行い、暴力団組織の解体を目的とした。
引用:第一次頂上作戦
とはいえ、この時のアクシデントは、磧上さんの後を継いだ堀さんが、旧住吉会系の勢力を再併合することで乗り越えることが出来たそうですね。
堀政夫、「平和共存、内政不干渉」を掲げ住吉会を東日本一の暴力団にした
戦前より続く博徒系暴力団の名門であった住吉会ですが、その5代目会長となった堀政夫さんは、抗争よりも調和を好んだ人物でした。
そのため、「平和共存、内政不干渉」の方針を掲げて関東二十日会に合流するなど、同時代に武力を背景に膨張して行った山口組とは別路線を歩んでいます。
関東二十日会は、1972年に結成された、関東地方に本部を置く博徒系暴力団の親睦連絡組織。マフィアにおける“コミッション”と同じ性質のものと捉えられている。
引用:関東二十日会
そんな堀さんの方針の中でも年を追うごとに住吉会が巨大化していったのは、上納金が少なく傘下組織のやりがいが大きかったからだと言われております。
また、堀さん自体が謙虚な人格者であり、外様組も丁重に扱ったことが評判を呼んだ部分もあったそうですね。
26 :名無番長:02/04/28 17:11
代紋違いの舎弟に対しては人前では決して呼び捨てにせず必ず「兄弟」と呼んでいた
堀総裁の偉大さがしのばれます。
その結果、1983年頃には、住吉会は113団体6600人の構成員を誇る東日本最大の暴力団となりました。
堀政夫の逸話とは…極道史上最高の人格者との声も
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」を地で行ったヤクザとも言われている堀政夫さんですが、その人格者エピソードは無数にあります。
36 :名無番長:02/05/03 23:10
堀総裁エピソード1
住吉会の傘下になりたいという親分を、『そんなにあせることないですよ。自分の組の代紋と歴史を大事にして下さい。そのうえで親戚以上のお付き合いをしましょう。』と言って説得した。堀総裁エピソード2
空港に自分を迎えるために大挙して押し寄せた組員を叱りつけ、また飛行機に乗ってどっか行ってしまった。
堅気のひとに迷惑かけるのは嫌だったらしい。堀総裁エピソード3
自分の都合で義理を欠いてしまった時、後日その組織へ訪れ、額をこすりつけながら土下座をした。堀総裁エピソード4
ある親分の自宅へ泊まるとき、その親分が若い衆にふかふかの布団を用意させようとしたら、今後懲役に行った場合ことを考え、せんべい布団でいいと断った。堀総裁エピソード5
どんなに末端の組員でも、絶対に呼び捨てにせず、必ず『くん』づけで呼ぶ。
堀さんの人格者エピソードの中でも最も良い話は、住吉会が拡大路線に乗り金回りが良くなったため、2代目会長だった 倉持直吉さんの遺族や功績のあった先輩たちに豪邸を建ててあげたというものです。
ちなみに、豪奢な生活に興味がなかった堀さん自身は、野田市内にある雨漏りのするような借家で暮らしていたと言われております。
また、ヤクザとして初めて組を持った野田市に特別な思い入れのあった堀さんは、自分の目が黒い内はキャバレー1つ建てさせずに、地元の景観を守ったとの逸話も存在します。
18 :名無番長:01/10/31 02:15
野田の町にはキャバレー一軒建てさせんかった程、地元を愛し
キッコーマン社長が惚れ込んだ人。引用:堀政夫総裁
堀政夫の伝説…第一次池袋抗争では部下を自ら破門していた
堀政夫、部下の暴走で第一池袋抗争に巻き込まれていた
「平和共存、内政不干渉」の方針から他組織との抗争関連の武勇伝もない堀政夫さんですが、若い頃はそれなりに血気も盛んだったらしく、愚連隊と決闘した際にドスで相手の耳を切り落としたこともありました。
そんな堀体制時代の住吉会ですが、1983年10月に第一次池袋抗争に巻き込まれています。
池袋に関しては、元々は住吉会系幸平一家と極東会系三浦連合会が利権を二分していた土地でしたが、幸平一家の傘下組織・池田会が三浦連合会側の縄張りを次第に侵食し始めたそうですね。
そのため、両者の間では抗争が絶えない状況になっていたらしく、1978年に池田会の組員が三浦連合会系の構成員を殺害する事件まで起こっていたとか。
その後も両者の抗争はエスカレートして行き、1982年には互いの事務所に銃弾を撃ち込む物騒な事件まで起こりました。
ちなみに、こちらの騒動の原因は、スナックで組員たちが口論になったためだと言われております。
そんな両者の対立が一線を越えてしまったのが第一次池袋抗争となっており、カチコミの噂を聞きつけた警察官が三浦連合会の傘下組織・髙橋総業の事務所前で張り込みをしていたところ、池田会のヒットマンに誤射されてしまったそうですね。
堀政夫、第一池袋抗争の元凶となった部下を破門した
第一次池袋抗争では、誤射された警察官は運良く一命を取り留めた一方で、通行人に流れ弾が当たって怪我をするなどしたため、大々的なニュースになりました。
そのため、住吉会と極東会による全面抗争のきっかけになる危険性もあった第一次池袋抗争ですが、「平和共存」をモットーにしていた堀政夫さんはすぐに和解に動いています。
その結果、池田会に煮え湯を飲まされ続けた三浦連合会側も和睦を了承することとなり、第一次池袋抗争は早々に幕引きとなったそうですね。
第一次池袋抗争の後始末に関しては、堀さんの判断で関東二十日会の「一般民間人又は警察官並びにその抗争とはなんら関係のない人等に向かって危害を加えた場合は破門又は絶縁処分とする」との通達が適応された結果、池田会会長・池田烈さんが破門されることになりました。
ちなみに、イケイケの武闘派だった池田さんが堀さんの決定に従うかどうかの疑念もあったため、住吉会の精鋭100人で池田会事務所を囲い込んでまで破門を実行したと言われております。
破門後の池田さんは、福岡県久留米市に拠点を置く独立系暴力団・道仁会を頼り九州へ落ち延びています。
第一次池袋抗争、関東神農同志会結成のきっかけとなった
第一次渋谷抗争以降の東京アウトロー界隈では、博徒系暴力団と的屋系暴力団の親睦を図っていく風潮が生まれたそうですね。
そのため、的屋系暴力団の有力団体であった極東会が中心となり、関東神農同志会が結成されることになりました。
ちなみに、関東神農同志会は、関東を拠点に置く69の的屋系暴力団が参加するような巨大すぎる親睦団体だったと言われております。
そんな関東神農同志会と関東二十日会の交流の旗振り役を務めた人物が堀さんとなっており、両組織は定期的に食事会を開催して親睦を深めることになりました。
堀政夫とホリプロの関係とは?…創業者が甥だった?
日本が誇る大物ヤクザだった堀政夫さんですが、実は日本の有力芸能事務所「ホリプロ」の創業者・堀政夫さんと親戚関係だったとの噂も存在します。
47 :名無し募集中。。。:2007/06/24(日) 06:37:35.25 0
ホリプロの堀威夫・元会長は住吉会の堀政夫・元総裁(故人)の甥だぞ今は上場してるから利害のからむ付き合いは避けていると考えられるけど
実力行使の場ならアップフロントなんか一瞬で負けるぞ
そんな影響もあり、堀政夫さんとエンタメ業界の交流はかなり盛んだったようですね。
バタヤン。昔、住吉連合総長の堀政夫氏の町内のカラオケ大会に来てたな。そうそう和田アキ子さんも堀宅付近で見かけたな。二人ホリプロじゃないよね。お相撲さんよく見かけたな #tbs
— ゆってぃー (@sktrykt) April 27, 2013
堀政夫はビートたけしに土下座された…右翼団体とのトラブルを収めていた
堀政夫さんは、ビートたけしさんと右翼団体とのトラブルを収めたこともありました。
ビートたけしさんが右翼団体と揉めたきっかけについては、1986年に起こった「フライデー襲撃事件」後の謹慎期間が半年程度だったことに対して、「短すぎる!」と因縁をつけられてしまったとか。
その後、自宅に街宣活動をかけられたビートたけしさんですが、当時の所属先だった「太田プロダクション」が何もしてくれなかったため、堀さんに1人で会いに行き土下座をして事態の収拾をお願いすることになりました。
ちなみに、ビートたけしさんに嫌がらせをした右翼団体については、日本青年社だと言われております。
堀政夫の自宅…木造の建売住宅だった
住吉会のトップになっても野田市内の借家暮らしが続いた堀政夫さんですが、最終的には千葉県内で自宅を購入したそうですね。
稲川会会長・内堀和也さんの豪邸
とはいえ、コンクリート打ちの豪邸が当たり前のヤクザ界においても清貧思想だった堀さんが選んだ自宅は、木造二階建ての建売住宅だったと言われております。
堀政夫の家族情報…嫁や息子とは
堀政夫さんの家族情報については、結婚はしていたようですが、嫁や子供県連のエピソードは特に存在しないようですね。
堀さんの子供たちの情報が世に出て来ていないことは、成人後にアウトロー界隈に関与しなかった証拠でもあるため、父親とはまた別の人生を歩んだことになります。
また、堀さんは存命ならば100歳近い高齢者となるため、その子供たちも既に現役を退いている可能性が高いように思われます。
堀政夫の最期…死因は肝硬変だった
堀政夫さんの晩年に関しては、健康志向が強まり、栗や粟を食べ蜆の味噌汁なども良く飲んでいたと言われております。
とはいえ、伝説的な任侠も病魔には勝てなかったらしく、1990年に65歳の若さで肝硬変で亡くなっています。
肝臓関連の病気はヤクザの職業病の1つとなっており、山口組若頭を務めた山本健一さん(肝臓疾患)や山口組若頭補佐を務めた菅谷政雄さん(肝臓がん)も似たような病で命を落とすことになりました。
この時代のヤクザたちが肝臓関連の病気で早死にした原因については、刺青の影響も大きかったのかもしれませんね。
ちなみに、堀さんの葬儀には、2万人を超える関係者が参列に訪れたと言われております。
堀政夫についてまとめみると…
堀政夫さんに関しては、住吉会の中興の祖と言われるほどの大物ヤクザながらも清貧を貫いた人物ということになります。
堀さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。