田岡一雄さんは、一代で山口組を巨大組織へと発展させた伝説的な極道であり、芸能方面にも多大な影響力を持っていたことでも有名です。
この記事では、田岡一雄さんの武勇伝や伝説、嫁と息子や娘など家族情報と家系図、そして晩年や死因をまとめました。
この記事の目次
田岡一雄のプロフィール…家庭の事情で兄弟とは離れ離れに育っていた
田岡一雄(たおか かずお)
生年月日:1913年3月28日
出身地:徳島県東みよし町
田岡一雄、山口組を巨大組織へと発展させた中興の祖だった
田岡一雄さんといえば、山口組の3代目組長であり、同組織を全国区の暴力団へと発展させた立志伝中の極道となります。
徳島県東みよし町の貧しい小作農の5番目の子供(次男)として生まれた田岡さんですが、誕生前に父親が病没し、母親も小学1年時に過労死してしまったため、兄弟から離れて兵庫県神戸市に住む叔父の家で育つことになりました。
「カネボウ」の荷役現場監督をしていたという叔父一家でしたが、貰い子の立場の田岡さんはかなり冷遇されたらしく、酒に酔った叔父に暴力を振るわれる毎日だったと言われております。
兵庫尋常高等小学校高等科(現在の中学相当)を卒業した田岡さんは、地元の川崎造船所に就職することになりますが、入社3年目に職場の上司を殴って退職してしまったようですね。
その後の田岡さんは、兵庫尋常高等小学校高等科の同級生が山口組2代目組長・山口登さんの実弟だった縁により、山口組の運営するゴンゾウ部屋(荷揚げ労務者の寄せ場)で暮らしながら夜警の仕事をするようになりました。
田岡一雄、湊座事件をきっかけに極道入りをした
山口組のゴンゾウ部屋で暮らすようになって以降の田岡一雄さんに関しては、当初は地元の不良グループの一員として、喧嘩や博打に明け暮れていました。
後に任侠の理想像として語り継がれることとなった田岡さんですが、若い頃は気が荒い一面もあり、柔道4段の国士崩れを負かす腕っぷしの強さに加えて、喧嘩相手の目に指を入れることも厭わない冷徹さでクマとの異名で恐れられていたとか。
そんな田岡さんが本職の暴力団員となったきっかけは、1930年に起こった「湊座事件」でした。
この時の田岡さんは、山口組がケツモチをする芝居小屋の木戸番をしていたところ、小屋主と口論になり「チンピラ」呼ばわりされたことに激怒し、上演されていた芝居に乱入して興行を滅茶苦茶にしてしまったそうですね。
本来ならば、山口組から制裁を受けて袋叩きにされていたはずの田岡さんでしたが、喧嘩無双の不良との評判を聞きつけていた山口登さんにより、逆にスカウトを受けて山口組入りをすることになりました。
田岡一雄の武勇伝と伝説…暴徒たちから闇市を守って山口3代目組長となった
田岡一雄の武勇伝① 宝川襲撃事件
田岡一雄さんは、1932年になると、当時幕内力士だった宝川政治さんを襲撃する事件を起こしています。
1932年のある日、宝川は大阪巡業に関して玉錦三右エ門がある贔屓筋の祝儀を拒否したのを咎め、口論に発展した。玉錦は偶然にも山口組系暴力団幹部・山口登の舎弟だったことから、この争いに組員の西田幸一・山田久一・田岡一雄が介入し、旅館に宿泊していた宝川を襲撃した。
引用:宝川政治
「宝川襲撃事件」では、田岡さんが短刀で宝川さんの右手の指2本を切り落とした挙句、額を割ったとの武勇伝が残っていたりもします。
一方で、宝川さんはその後も現役生活を続けた他、力士引退後に故郷で指圧療院まで営んでいたため、実際のところは「宝川の指2本切り落とした」との武勇伝は尾ひれのついた代物なのかもしれませんね。
田岡一雄の武勇伝② 海員組合長襲撃事件
田岡一雄さんは、1934年になると、今度は「海員組合長襲撃事件」を起こすことになりました。
この騒動に関しては、元々は待遇改善を要求して発生した海員争議に対して、会社側より交渉代理の依頼を受けた山口組が組員を派遣したところ、激昂した海員たちにより殺害されてしまったことが発端となっています。
田岡さんは、組員殺害に対する報復の鉄砲玉となり、争議本部を襲撃したうえ組合長を切りつけたそうですね。
この事件での田岡さんは傷害罪で逮捕されることとなり、懲役1年の実刑判決を受けて神戸刑務所に服役をする羽目になっております。
田岡一雄の武勇伝③ 大長八郎刺殺事件
田岡一雄さんは、1937年になると、今度は殺人事件まで起こしています。
この時の事件の発端は、山口組がケツモチを務める劇場にお金の無心にやって来た大長政吉さんという極道を田岡さんらが制裁。
その大長政吉さんの弟の大長八郎さんが山口組に報復の殴り込みをかけたところ、田岡さんが返り討ちにして日本刀で殺害したというものになります。
「大長八郎刺殺事件」で逮捕された田岡さんは、懲役8年の実刑判決を受けています。
田岡一雄の武勇伝④ 闇市を守って山口3代目組長へ
「大長八郎刺殺事件」後の田岡一雄さんに関しては、1943年7月に恩赦で出所していますが、その時既に山口登さんは篭寅組との抗争の末に命を落としていました。
山口登さんには息子もいたようですが、死亡時中学生だったため跡を継ぐ者もおらず、山口組3代目組長は空位のままでした。
一方で出所後の田岡さんは自ら田岡組を結成し、終戦直後には闇市を暴徒から守る用心棒などをしており、地元・神戸市民の間で英雄的な存在になっていたようですね。
そのため、山口組内でも田岡さんを3代目に推す声が強まり、1946年10月に見事3代目組長に就任することになりました。
ちなみに、田岡さんが3代目に就任した当時の山口組は、組員わずか三十数名の弱小組織でした。
田岡一雄の伝説…1代で山口組を全国規模の組織へと発展させていた
田岡一雄の伝説① 山口組の近代化を成し遂げた改革者だった
3代目組長に就任して以降の田岡一雄さんに関しては、賭場のテラ銭とみかじめ料がシノギだった山口組を近代化させて、組員に正業を持たせる改革を邁進しました。
田岡さん本人が新たに選んだシノギは港湾荷役業と芸能興行だったものの、傘下の組員たちは金融や不動産業などにも進出しています。
芸能プロモーターとしての田岡さんは、歌手・美空ひばりさんの後見人となり、国民的歌手へと育てあげたことでも有名です。
そんな田岡さんが1957年に設立した「神戸芸能社」は、美空ひばりさんや田畑義男さんといった当時のトップスターたちの興行権を有するトッププロモーターとなりました。
・高田浩吉
・里見浩太朗
・山城新伍
・橋幸夫
・三波春夫
とはいえ、「神戸芸能社」がこれだけの豪華絢爛なスターたちを取り込めた背景には、美空ひばりさんとのジョイントコンサートの依頼を断った俳優の鶴田浩二さんが山口組組員に襲撃されて大怪我を負った「鶴田浩二襲撃事件」など、公然とした圧力などもあったようですね。
田岡一雄の伝説② 港湾労働者たちの福利厚生を整えた男だった
港湾荷役業では「甲陽運輸株式会社」を設立している田岡一雄さんですが、船内荷役業者の組合である全国港湾荷役振興協会の発足に貢献し、副会長の地位にあった時代もありました。
叩き上げの苦労人ということもあり、労働者に対しても慈しみの視点があった田岡さんは、路上生活者すらいた当時の港湾労働者たちの境遇に酷く同情的でもあったようですね。
〈神戸港湾労働公共職業安定所のあった弁天浜界隈から川崎町へかけて、道路の両側は彼らの溜(たま)り場であった〉
〈賭博、傷害は日常茶飯事で、汗と焼酎の異臭が充満し、無法地帯を現出していた。ドヤ代さえなく、道路で寝ている男たちで足の踏み場もないくらいだった〉
そのため、当時の建設大臣だった河野一郎さんに掛け合い港湾寮の建設に尽力した他、兵庫県や神戸市に掛け合って労災病院を開業させたことでも知られています。
田岡さんが建設に尽力した厚生施設には、下記のものがあります。
・神戸みなと寮
・共同住宅
・第二みなと寮
・港湾労働者福祉センター
田岡一雄の伝説③ 力道山のケツモチだった
田岡一雄さんといえば、日本プロレス協会を設立し副会長の地位にあった他、伝説のプロレスラー・力道山さん率いる「日本プロレス」の西日本方面の興行を担当していた時期もありました。
その他、野球好きだった田岡さんは、プロ野球興行の近代化にも貢献したことで有名です。
青田昇によれば、戦後の混乱期においてはプロ野球の試合は、地回りの興行組織の機嫌を伺わなければ開催できずに嫌がらせを受けていたが、プロ野球ファンであった田岡は、野球は国民的娯楽だからと山口組の全国進出以後はそのような慣習なしでも開催できるよう取り計らいをしたという。
引用:田岡一雄
田岡一雄の伝説④ 麻薬追放運動に携わっていた
田岡一雄さんは、1963年に「麻薬追放国土浄化同盟」を設立し、田中清玄さんや市川房枝さんらと共に麻薬撲滅運動を展開したことでも知られています。
田岡さんが麻薬を嫌った原因については、可愛がっていた子分が覚せい剤で廃人状態になってしまったことが原因だったとか。
山口組 田岡一雄三代目が「覚醒剤」を嫌い「麻薬追放同盟」を作ったのは周知の事実だ!
— 竹垣悟 (@Hvx0vFObCEizO6M) February 9, 2017
その理由を私は竹中正久親分に聞いた事がある。
田岡三代目が可愛いがっていた大西と云う人が「覚醒剤」で潰れたからだと云う…
今こそ「覚醒剤」は山口組から追放するべきだろう!
田岡一雄の家族情報と家系図…嫁は田岡フミ子・息子は田岡満・娘は田岡由伎
田岡一雄の家系図
田岡一雄さんの家系図に関しては、上記のようになっています。
田岡一雄、嫁・田岡フミ子は3代目姐と呼ばれていた
田岡一雄さんには、心強い右腕となる妻・田岡フミ子さんがいました。
フミ子さんは、田岡さんが心筋梗塞に倒れた1965年以降の山口組の組行事を切り盛りした猛女として知られており、田岡さんの死去後は組の実権を握り兵庫県警から「3代目姐」と呼ばれていたようです。
フミ子さんに関しては、1986年に亡くなってしまうことになりました。
田岡一雄、息子・田岡満は実業家として活躍した
田岡一雄さんには、1943年生まれの長男・田岡満さんもいました。
慶応義塾大学卒のエリートだった満さんは、芸能事務所「ジャパントレード」を設立した他、「山口組3代目」や「3代目襲名」など山口組を題材とした映画のプロデューサーとしても活躍していたようですね。
暴力団関係者の芸能業務の取り締まりが厳しくなった1970年代後半以降は、父親から受け継いだ「甲陽運輸」の経営者となっていた満さんでしたが、私生活の方では1974年に女優の中村英子さんと結婚。一女を儲けたものの、結婚翌年の1975年に英子さんが自殺するといった悲劇も経験しております。
満さんに関しても、2002年に69歳の年齢で亡くなっているようですね。
田岡一雄、娘・田岡由伎は喜多郎の嫁だった
田岡一雄さんの長女である田岡由伎さんに関しては、愛人との間に生まれた子供なれど、田岡家で育つことになりました。
神戸山手短期大学を卒業している由伎さんは、音楽家の喜多郎さんと結婚していた時期があったものの結局は離婚してしまい、現在は「甲陽運輸」の監査役をしている他、心理カウンセラーやエッセイストとして活躍しているようですね。
田岡一雄、孫の消息は不明だった
田岡一雄さんの孫については、長男・田岡満さんの家に一女が、長女・田岡由伎さんの家に一男がいることが確認されています。
田岡さんの孫たちに関しては、一般人として暮らしているためか、その消息はマスコミなどでも特に報じられていない状況です。
田岡一雄の晩年と死因…病気で倒れた後に心不全で亡くなっていた
田岡一雄、1965年に心筋梗塞で倒れていた
山口組に関しては、1950年代より全国進出を開始し、美空ひばりさんやプロレス興行を利用して、各地の地場組織を取り込み拡大していったと言われております。
「一緒に興行を打たないか」と地方の組織を誘い、応ずれば「盃外交」で共存共栄を図り、応じなければ抗争もいとわなかった。力はカネを呼び、そのカネがさらに強大な力を与え、急成長した山口組は全国展開を成し遂げた。
・1966年12月:甲陽運輸の脱税疑惑で起訴
・1968年12月:職業安定法違反容疑で起訴
・1969年4月:恐喝と威力業務妨害容疑で起訴
とはいえ、「第一次頂上作戦」で山口組の勢力が衰えたということはなく、むしろ勢力を拡大していくことになりました。
田岡一雄、死因は心不全だった
田岡一雄さんについては、1978年7月になると「ベラミ事件」の標的となり、鳴海清さんにより銃撃されていますが、かろうじて一命は取り留めることになりました。
その後1981年7月に68歳と比較的に若く亡くなっている田岡さんですが、死因に関しては急性心不全でした。
田岡一雄についてまとめてみると…
一代で山口組を巨大組織へと発展させた田岡一雄さんですが、若い頃は血気盛んな鉄砲玉だった時期もあったということになります。
田岡さんのご冥福を祈りながら、この記事のまとめを終了させて頂きます。