山本健一さんといえば、山口組4代目最有力候補なれど、病死してしまったことで跡目争いの末に山一抗争を招いてしまったことでも有名な人物です。
この記事では、山本健一さんの伝説や名言の他、嫁と息子など家族情報、そして死因などについてまとめてみました。
この記事の目次
山本健一のプロフィール
山本健一(やまもと けんいち)
生年月日:1925年3月5日
山本健一、神戸大空襲で家族が終息不明になり自暴自棄の末に極道入りした
山本健一さんは、出身地については兵庫県神戸市生まれと広島県安芸郡熊野町生まれの2説があるようですが、少年時代を過ごしたのは神戸市だったようですね。
川崎重工の技師長の長男として生まれた山本さんは、特にグレることもなく大阪電気学校(現:清風高校)を卒業し横須賀海軍工廠に就職したものの、太平洋戦争の激化により1945年に召集を受けて鳥取の部隊に入隊する羽目になったとか。
終戦後は、家族のいる神戸市に帰郷することとなった山本さんでしたが、神戸大空襲の影響により実家が焼け落ちていた挙句に家族の消息は掴めないままでした。
その結果、自暴自棄になった山本さんは街の愚連隊化した後、1951年に山口組の若頭を務めていた安原政雄さんの若衆となり、極道入りを果たすことになりました。
山本健一の伝説と武勇伝…大阪戦争では松田組に徹底した報復を続けた
山本健一、鶴田浩二襲撃事件の実行犯の1人だった
山口組系安原会の組員だった山本健一さんでしたが、1953年1月になると「鶴田浩二襲撃事件」の実行犯の1人となっています。
「鶴田浩二襲撃事件」の発端については、芸能プロモーターをシノギの1つにしていた山口組組長・田岡一雄さんと鶴田さんのマネージャー・兼松廉吉さんとの間の確執が原因でした。
2人の確執に関しては、1952年秋頃に、歌手・美空ひばりさんと鶴田さんのジョイントコンサート企画した田岡さんが、鶴田さんサイドに話を持ち込んだところ、兼松さんににべもなく断られたことから始まります。
その後、鶴田さんの大阪での正月興行「百万ドルショー」のために山口組へ挨拶に向かった兼松さんは、田岡さんが上納金の類を一切貰わないことをモットーとしていることも知らずに、慣例通りにお金を渡そうとして激怒させてしまいます。
その結果、「百万ドルショー」のために大阪・天王寺区内の旅館に泊まっていた鶴田さんの元へ、山本健一さんら4人の暴漢たちが押し入ることとなり、暴行を受けた鶴田さんは頭と手に11針を縫う重傷を負うことになりました。
「鶴田浩二襲撃事件」では、「懲役10ヶ月 執行猶予3年」の有罪判決を受けることとなった山本さんでしたが、当時のトップスター襲撃事件の実行犯として極道の世界で名が響き渡るきっかけにもなったそうですね。
山本健一、谷崎組若頭・野沢修を半殺しにして懲役3年の有罪判決を受けた
山本健一さんは、1954年になると、今度は地元・兵庫県神戸市に拠点を置く谷崎組若頭・野沢修さんを襲撃しています。
山口組と谷崎組に関しては、明確な敵対関係にこそなかったものの神戸市兵庫区にある繁華街・新開地の利権を巡り、水面下で争いを続けていたライバル同士でした。
そんな複雑な関係にあった両者の間にトラブルが生じたのは同年の9月3日だったそうで、神戸市内の麻雀店で鉢合わせた山口組組員たちと野沢さんの間で口論が生じ、店外で決闘をするといった騒動が起こりました。
1954年9月3日、山口組若衆・尾崎彰春と小田芳一が神戸市内の麻雀店に入った。尾崎が麻雀店で谷崎組若頭・野沢修と口論になった。尾崎と小田は麻雀店の外で野沢と決闘することにした。麻雀客の多くが野沢の身内であった。尾崎と小田は野沢らに暴行を受け重傷を負った。通報を受けた警官が現場に駆けつけた。野沢ら谷崎組組員は逃走した。尾崎は警察に逮捕された。小田は警察の逮捕を逃れ山口組事務所へ向かった。
引用:山口組と谷崎組の抗争事件
小田さんより騒動の一部始終を聞いた山本さんは激昂し、他の組員2人を連れて野沢さん宅を襲撃。
予期せぬ不意打ちを受けることとなった野沢さんは、山本さんに銃撃されて頭と腹に重傷を負った他、山口組組員たちによりドスで全身を切り刻まれることとなりました。
「野沢修襲撃事件」でも逮捕されることとなった山本さんでしたが、野沢さんが一命を取り留めたこともあり、懲役3年の実刑判決で済んでいるようですね。
1957年に出所した後の山本さんは、これまでの働きぶりが認められた結果、山口組の直参にまで出世しています。
その後、山口組組長・田岡一雄さんからの寵愛を受けて、秘書兼ボディーガードを任されるようになった山本さんは、「日本一の親分の下で日本一の子分になる」と言ってはばらからず、高熱がある日も休まずに田岡さんのボディーガードを続けていたとか。
そんな忠臣ぶりが実った山本さんは、1961年になると神戸市内に山健組を設立し自らの組を持つ親分となりました。
山本健一、夜桜銀次事件では警察にハメられて拘置所送りにされていた
山健組設立後の山本健一さんに関しては、1962年になると、今度は「夜桜銀次事件」を解決するために福岡県福岡市に足を運んでおります。
「夜桜銀次事件」については、警察より指名手配を受けた山口組系石井組組員・夜桜銀次さんが、山口組執行部からの勧めにより福岡市に拠点を置く伊豆組に匿って貰っていたものの、ヒットマンたちにより射殺された事件となります。
暗殺犯については、夜桜さんに集られて困っていた地元の炭鉱主が雇った鳥巣組の組員たちだったようですが、事件発生当時は夜桜さんより賭場荒らしの被害にあっていた大島一家や宮本組が疑われていました。
山口組から圧力をかけられる身の上となった大島一家らの元には、大野組や住吉一家といった近隣の暴力団も加勢に加わることとなり、山口組との和解交渉も難航することになったとか。
そのため、山口組も戦争覚悟で250名を超える組員を福岡に送り込むこととなり、山本さんは現場指揮を任されることになったそうですね。
しかしながら、福岡で大規模な抗争を起こさせないと意気込んでいた福岡県警により、福岡に辿り着いた山口組組員たちは凶器準備集合罪などの罪状で次々に逮捕されることとなり、山本さんも7ケ月ほど拘置所で勾留される羽目になりました。
その後、夜桜さんを暗殺したヒットマンたちが逮捕されこともあり、大島一家や宮本組に対する濡れ衣も晴れ、両者の間に和解が成立することとなりましたが、一歩間違えれば福岡の街で銃弾が飛び交う事態になっていた騒動と言えます。
ちなみに釈放後の山本さんは、1963年になると山口組の若頭補佐に出世することになった他、田岡一雄さんが神戸市港区に自宅を新築したことから譲り受けた旧田岡邸を自宅兼山健組事務所として利用し始めています。
山本健一、大阪戦争では復讐の鬼と化した
山本健一さんは、1971年に山口組の若頭を務めていた梶原清晴さんが事故死すると、その後任の地位を得て山口組No2へと出世することになりました。
当初山本は最高幹部間で行われた入れ札(選挙)で山広組組長・山本 広に2対4で敗れていたが、田岡の指名により逆転就任することとなった。
引用:山本健一 (ヤクザ)
その後1975年になると、山口組系佐々木組組員らが松田組系溝口組の賭場を荒したことを発端に「大阪戦争」が勃発することとなり、山口組と松田組の間で報復合戦が起こります。
「大阪戦争」当初の山本さんは、恐喝未遂罪で逮捕され公判中だったものの、持病の肝臓病が悪化したことで保釈されています。
そんな最中に会長を暗殺されることとなった松田組系大日本正義団組員・鳴海清さんは、復讐のために山口組のトップである田岡一雄さんの暗殺計画を立てます。
京都・三条大橋にある田岡さん行きつけのナイトクラブ「ベラミ」に数ヶ月通い続けた鳴海さんは、店で鉢合わせたチャンスを逃さず躊躇なく田岡さんを襲撃。
鳴海さんに銃撃された田岡さんは、銃弾が首を貫通して全治2ケ月の重傷を負うことになりました。
1978年7月に起こった「田岡一雄暗殺未遂事件」こと「ベラミ事件」は、山本さんの逆鱗に触れることとなり、保釈中の身のであることも顧みずに松田組に対する徹底した報復を指示します。
同年の8月になると、山口組の攻勢の前に恐れをなした松田組系忠成会が、匿っていた鳴海さんを殺害し9月に腐乱死体で発見される騒動も起こりましたが、山本さんは松田組への報復を続行させています。
とはいえ、激化する「大阪戦争」を憂慮した警察が山口組に対する取り締まりを強化したことに加えて、山口組内部でも和解に動く幹部が続出したことで山本さんも振り上げた拳を降ろしざるを得なくなります。
その結果、1978年11月1日に田岡邸に報道陣を招き入れて抗争終結宣言をすることとなった山本さんでしたが、この時の記者会見が警察の顰蹙を買うこととなり、微罪で逮捕されて再び収監されることとなりました。
山本健一の名言…武闘派ヤクザなれど人情家だった
武闘派ヤクザとして名を鳴らした山本健一さんですが、昔気質の一本気な一面も強く、敬愛する田岡一雄さんや部下たちに対して「これぞ任侠!」といった名言を残しています。
「子分のわしがたまにはわからん真似せんと、親分が光らんやないか。わしは嫌われてもええんや」三代目山口組山健組組長・山本健一 http://t.co/VN4Z6jSoMX
— ヤクザ名言bot (@893__bot) July 11, 2015
「たたいて直るんなら、犬や猫といっしょや。わしは自分の若い者を犬や猫と思いたくないわい」三代目山口組山健組組長・山本健一
— ナックル系 パラダイス (@N5803Sereso) May 12, 2020
山本健一の嫁・息子情報…嫁・秀子はまさに極道の妻だった
山本健一さんは、秀子さんという妻がいたようですね。武闘派ヤクザであった山本さん顔負けの猛妻だった秀子さんは、組の若衆に対する躾にも厳しく、時として殴りつけることすらあったそうで、周囲からは「山秀組の親分や!」と畏怖されていたとか。
そんな秀子さんは、1969年に地元神戸の右翼団体「大日本平和会」とのいざこざが原因で山本さんら山健組の幹部たちが逮捕された際には、当時若手組員だった渡辺芳則さんを身代わり出頭させて山本さんを釈放させるなど、知略面も一流でした。
その後、後見人的立場となった秀子さんは、渡辺さんを山健組2代目組長に押し上げるなど、後の山口組5代目就任のための基盤を整えた人物と言えます。
その他、山本さんと秀子さんの間には子供もいたようですが、一般人として生きているためか、性別さえ報道されていない状況となっています。
山本健一の晩年…山口組4代目就任直前に獄中死していた
山本健一、死因は肝臓疾患だった
「大阪戦争」後の山本健一さんについては、かねてより嫌疑のかかっていた恐喝未遂罪の他に制限住居違反の罪なども加わり、懲役3年6ケ月の実刑判決が下り服役していたようですね。
その後、1981年7月になると田岡一雄さんが急性心不全で亡くなったため、山本さんは山口組4代目候補の筆頭格となり、出所後に組長就任が既定路線視されていました。
しかしながら、この頃になると持病の肝臓病が悪化の一途を辿っていた山本さんは、1982年の年明け早々に大阪市内の病院へ搬送されて治療を受け続けたものの、同年の2月に56歳の若さで死亡しています。
山本さんの死後の山口組は、竹中組組長・竹中正久さんを担ぐ勢力と山広組組長・山本広さんを担ぐ勢力で跡目争いが勃発し、勝利した竹中さんが4代目に就任しております。
一方でそれを不服に思った山本さんが山口組を脱退し一和会を結成。分裂することとなった山口組は、「山一抗争」の泥沼に入り込んでいくことになりました。
山本健一についてまとめてみると…
山本健一さんについては、若い頃から武闘派として鳴らした大物ヤクザだったものの、持病の肝臓病のせいで山口組4代目就任直前に病死してしまった悲運の人物ということになります。
山本さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。