「玄倉川水難事故」の生き残りで、この事件が「DQNの川流れ」と揶揄されるきっかけになったとされる加藤直樹が話題です。
ここでは加藤直樹のこの事故での非常識な行動の数々を振り返り、学歴や経歴、勤務先の「富士繁」、その後や現在などについてわかっている事をまとめました。
この記事の目次
加藤直樹は玄倉川水難事故・通称「DQNの川流れ」の生き残り
加藤直樹(当時31歳)は、1999年8月14日に神奈川県足柄上郡山北町玄倉川の中洲で発生した、4人の子供を含む13名もの死亡者を出した大規模水難事故「玄倉川水難事故」、通称・「DQNの川流れ」の生き残り5人のうちの1人です。
この玄倉川水難事故は、熱帯低気圧の接近などの天候の状況や地理的条件などから、当日から翌日にかけて現場付近一帯の川の水位が急上昇して洪水状態になる事が容易に予測できました。
玄倉川水難事故の18名の被害者達は、事故前日の8月13日から、翌日にかけて極めて危険な状態になる事が予想される現場(川の中洲)でキャンプをしていました。
当然ながら、現場周囲を流れる玄倉川上流に位置するダムの管理職員や、通報を受けた警察官などが複数回、彼らに対して危険を警告し、避難勧告を行なっているのですが、被害者らはそうした再三の警告を全て無視して現場に居座り続け被害に遭ったのです。
報道によってそうした経緯が明らかにされると、幼い子供が何人もいるにも関わらず、何度も繰り返された警告を全て無視して危険地帯に居座り続け、子供を含む13名もの死者を出したとして、被害者グループの大人達への批判が高まり、インターネット上では、「DQNの川流れ」などと揶揄されるようになりました。(「DQN」とは、ヤンキー風の風貌をし、粗暴かつ非常識で低知能、軽薄な人物を差すネットスラング)
加藤直樹は、その被害者グループのリーダー格とされ、玄倉川水難事故の被害者達の中でも特に非常識な人物とされ現在もネット上で批判の対象とされ続けています。
今回はこの加藤直樹に焦点を当てていきます。
加藤直樹らが被害者となった玄倉川水難事故(DQNの川流れ)の経緯
加藤直樹ら、「玄倉川水難事故(DQNの川流れ)」の被害者らがとったあまりに非常識すぎる行動を把握するため、まずは「玄倉川水難事故」の経緯を時系列順に見ていきます。
8月13日、夜までに何度も繰り返された警告を加藤直樹らは全て無視
1999年8月13日(事故発生前日)、紀伊半島南海上で発生した熱帯低気圧の影響で、各地で局地的な豪雨が発生していました。午後3時頃、「玄倉川水難事故(DQNの川流れ)」の現場一帯でも雨が降り始めました。
15時20分、現場上流に位置する玄倉ダムの管理職員が一帯を巡回し、河川周辺でキャンプをしている人々に向けてハンドマイクを使って、水位上昇が予想される事とその危険性を警告し、避難を促しています。被害者グループ以外の大部分の人々は、この時点で現場から退避しています。しかし、被害者グループらはこの警告に冷ややかに反応しています。
16時50分、気象庁は、神奈川県全域に大雨洪水注意報を出しています。
19時35分には現場上流の玄倉ダムが決壊を防ぐための放流を警告するサイレンを鳴らしています。この時のサイレンは通常は10分鳴らすところを30分に時間延長して鳴らしています。
19時50分頃、玄倉ダムの職員が、2度目の巡回を行い、被害者グループに直接話しかけて、すぐに避難するよう促していますが、加藤直樹らがこれを拒否しダム職員を追い返しています。
20時6分、ダム職員はこれ以上現場に留まる事は極めて危険だと判断し、地元の神奈川県警察松田警察署に通報し、退去命令を出してもらうよう求めています。
20時20分、決壊による被害を防ぐため、玄倉ダムが放流を開始。
21時10分、現場に到着した警察官が、ダム職員とともに加藤直樹ら被害者グループに避難勧告を行なっています。この時点で、中洲と川辺の間の水量は上昇して渡る事ができず、警察官らは拡声器を用いて避難を呼びかけています。被害者グループらはこの警告に対しても「大丈夫」といった反応をしていたようです。
22時45分に、再び警察官が現場を訪れて避難を呼びかけますが、加藤直樹らはかなり酒に酔った状態で、「うるせぇ」、「警察にそんな事を言われる筋合いはない」などと悪態をついて警察官を追い返しています。
警察官は、「夜間という事もあり、子供を連れて川を渡って移動する事はかえって危険が大きい」と判断し、加藤直樹らに「油断せずに見張りを立てるように」と伝え、その場を立ち去っています。
8月14日午前、加藤直樹らは中洲で身動きが取れなくなり救助は難航
翌8月14日、雨はさらに激しくなり、早朝5時35分に神奈川県全域に大雨洪水警報が出されています。6時頃に、前日に避難した3人が川辺から中洲の加藤直樹らのテントに向かって大声で避難を呼びかけていますが、酔っ払って寝ているのか反応はなかったという事でした。
6時35分、玄倉ダムは雨量の増加に対応するためダムの放水量を増やしています。
7時30分に再び警察官が現場を訪れて避難を呼びかけたものの反応がなく、そのままその場を離れています。
8時4分、前夜に避難した3人が119番通報し救助要請。
8時30分頃になると、川の水量が増して中洲は完全に水没し、川辺に歩いて渡る事は不可能となり、テントも水流で押し流され、加藤直樹らは中洲のあった場所にかたまって幼い子供を抱いて身を寄せ合い、最後に残されたパラソルにつかまって必死に耐えている状態でした。
9時7分に消防署から救助隊と救助工作車が到着し、徒歩での渡河による救助を試みますが、水流が強く二次被害の恐れから断念しています。
10時頃には、レスキュー隊員2名が、対岸の山斜面の断崖を伝って反対側の岸に到着、同時刻頃にマスコミも到着しテレビ取材も開始されています。
10時10分に、足柄上(あしがらかみ)消防組合が救助ヘリの出動を要請していますが、悪天候による二次被害が懸念されて却下されています。
10時30分頃、レスキュー隊が、対岸に向けて救命索発射銃でリードロープを発射しますが、1発目は対岸樹木に引っかかり失敗。10時44分頃、2発目のリードロープが対岸に届きますが、1発目のロープに絡みつき流木や水流に妨げられる形で加藤直樹らがいる場所まで届きませんでした。
11時、警察からの要請を受け、玄倉ダムの放流が止められています。しかし、ダムの決壊によって大惨事が起こる事を避けるために5分後に再び放流が再開されています。
11時16分に、救助隊から、リードロープは張られているものの、救助用のメインロープが水流に流されて張ることができないとの報告が出されています。
8月14日11時38分、加藤直樹を含む全員が濁流に流される
11時38分、中洲の水深は大人の胸あたりに達し、かろうじて耐えていた加藤直樹ら18名は一気に濁流に飲み込まれて流されました。この瞬間の衝撃的な映像はテレビカメラに撮影され、その後のニュースで何度も放送されました。
なお、濁流に流される寸前、被害者グループの男性の1人が、咄嗟に抱いていた当時1歳の加藤直樹の息子を岸に向かって放り投げ、救助活動に参加していた一般男性がこれを見て危険を顧みずに川に飛び込み奇跡的に救助しています。
流された17名のうち、加藤直樹とその当時5歳の娘と、大人2名の合計4人は、100メートルほど下流で対岸に流れ着き、九死に一生を得ています。残りの13名はそのまま濁流に飲み込まれ行方不明となりました。
流された13名はその後、全員が水死体となって発見されています。
加藤直樹の暴言の数々が暴露されネットで批判の声が高まる
「玄倉川水難事故(DQNの川流れ)」の被害者であり、生存者5名の内の1人である加藤直樹ですが、その後、この男が警告に訪れたダム職員や警察官や地元民、さらに、救助隊員や心配して駆けつけたボランティアらに放ったという暴言の数々が暴露されネット上で批判の声が高まりました。
先に断っておきますが、ここで紹介する加藤直樹によるものとされる暴言はあくまでも噂であり、信用度の高い情報ソースは存在しません。
加藤直樹の暴言の噂の発端は雑誌「噂の真相」の読者投稿記事
加藤直樹が暴言を吐いていたとする噂の発端となったのは、おそらく、暴露雑誌「噂の真相」1999年10月号に掲載された読者投稿記事です。
この投稿者は「神奈川県山北町の匿名老人」を名乗る人物で、「玄倉川水難事故(DQNの川流れ)」の現場付近に住んでおり、事件発生の直前には、加藤直樹らに危険だから避難するようにと忠告をしに行っていたという事でした。
そして、この人物によれば、親切心からの警告に対する加藤直樹らの反応は不愉快極まりないものだったそうです。
それによると、「この後水位が増えるから早く避難した方がいい」というこの人物の忠告に対して、加藤直樹らは冷笑を浮かべつつ「大丈夫だよ、俺らは慣れているから」と反論してきたそうです。
それでもこの人物は心配し、「私は地元の者だからわかるが、川は氾濫するよ、子供もいるのだから高台に行った方がいい」と重ねて加藤直樹らに忠告したそうです。
ところが、リーダー格の男(この男が加藤直樹と言われている)が「放っておいてくれ、楽しんでんだよ!」と言い放ったのを皮切りに、周囲の者たちもこれに同調し「地元の人は臆病だね」、「田舎の人は他人のプライバシーを侵すのが趣味ね」、「見張りをおくから大丈夫」などと次々と反論してきたという事でした。この人物はこの様子に呆れ果て、忠告するのを諦めて帰宅したそうです。
この人物は、加藤直樹らが被害にあったのは自業自得だとしつつも、巻き込まれた子供達は哀れだとし、立ち去り際に、被害者グループの中の女の子の1人が「あのおじいさんのいう通りにしようよ」と話していたのを聞いた事が忘れられず無念に思っているとも書いています。
この投稿をした人物が匿名であるため、信憑性については微妙ですが、これが事実だとすれば、加藤直樹らは自業自得だと言わざるを得ません。
「まいじつ」も地元記者の証言として加藤直樹らの暴言を報じている
「週刊実話」を発行する日本ジャーナル出版が運営する炎上系ニュースメディア「まいじつ」も、地元記者の証言だとして加藤直樹らの暴言の数々を報じています。
それによれば、中洲に取り残された加藤直樹は救助を待つ間、救助隊員に向けて「ヘリを出せ!早く助けろ!お前らの仕事だろ!」などと暴言を叫び続けていたという事です。
これは、当時のニュース映像にも加藤直樹と思しき男が川辺の救助隊員に向かって上を指差しながら何事か叫んでいる様子が残されているため、おそらく事実だと思われます。
加藤直樹はボランティアからの差し入れのおにぎりを投げつけ「まずい!」と暴言
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これは、匿名掲示板などで暴露された内容のようですが、加藤直樹が救助後、地元のボランティアから差し入れとしてもらったおにぎりを地面に叩きつけ、「まずい!もっとマシなものを出せ!」と暴言を吐いたという噂が広がっています。
これもまた本当かどうかわからない情報ですが、事実であったとすれば加藤直樹は人格破綻者だと言わざるを得ません。
これ以外にも加藤直樹の暴言の噂が多数
また、この他にも、事故発生前に再三にわたって忠告や警告に訪れていた人々に対して、加藤直樹が「殴るぞ!失せろ!」と耳を疑うような暴言を吐いていたとの噂も広がっています。
さらには、子供を含む13名の仲間らが流されているにも関わらず、流されたテントを回収したら返してほしいと捜索隊に要求していたとの話もあるようです。
ただ、いずれも真偽については不明です。
当時の報道では、なぜ加藤直樹らが何度も警告されていたにも関わらず、それを無視して現場に残り続けたのか?という部分では批判されていましたが、加藤直樹の態度や暴言などについては特に言及されていませんでした。
おそらく、警告を何度も無視して罪のない子供を死に追いやったという事実や、救助活動に数千万円規模の税金が使われた事などに怒りを覚えた人々が、生き残りである加藤直樹に怒りをぶつけた結果、こういった噂が広まっていったのだと思われます。
また、加藤直樹らが何度も繰り返された忠告に従って高台にテントを移動していれば、そもそも救助隊員らが危険にさらされながら救助活動に当たる必要もありませんでした。この点も加藤直樹らにいまだに批判が集まる大きな原因となっています。
加藤直樹は産業廃棄物処理業者「富士繁」の社員
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ここからは加藤直樹についてもわかっている範囲で見ていきます。
加藤直樹は、金属加工や産業廃棄物処理などを事業内容とする横浜市港南区の会社「富士繁」の社員だった事がわかっています。
加藤直樹が「富士繁」の社員だったことは、当時の読売新聞の記事で報じられているため間違いのない情報です。
また、読売新聞の記事によれば、他の「玄倉川水難事故」の被害者らも、「富士繁」の社員およびその家族だったと報じられています。
現在もこの会社「富士繁」は存続していますが、加藤直樹がまだ社員として在籍しているのかは不明です。
加藤直樹の学歴や経歴などは不明
インターネット上では、加藤直樹の学歴や経歴にも注目が集まっていますが、そうした情報は一切不明です。
ネット上では、加藤直樹の学歴は中卒といった情報が流れていますが、情報ソースなどは示されていない信憑性の低い情報です。
加藤直樹は、20年以上もネット上で批判にさらされ続けている人物のため、既に改名し、自身が「玄倉川水難事故(DQNの川流れ)」の生存者の1人である事を隠して生活している可能性も考えられます。おそらく、今後も加藤直樹の経歴や学歴などが表に出てくる事はないでしょう。
加藤直樹の玄倉川水難事故(DQNの川流れ)のその後や現在
また、加藤直樹の「玄倉川水難事故(DQNの川流れ)」のその後から現在までの様子についてもその一切が不明で、関係者によるタレコミ情報なども出ていません。
加藤直樹の娘が「玄倉川水難事故」に関するブログ記事を投稿し炎上騒動に
加藤直樹のその後や現在は一切が不明なのですが、当時5歳だった加藤直樹の娘・加藤朝香が中学生の頃に匿名で書いていたブログが特定され炎上騒動を起こしています。
このブログは現在は削除されていますが、ネット上にログが残されているので紹介します。
以下は加藤直樹の娘の加藤朝香の書いたとされているブログの冒頭部分です。
たまにね私、ふとあの時の事を思い出すんだ。どうして私の家族なの?小さい頃私がママを殺したんだ。私さえ居なければママは生きていたんだ。 パパがね私を抱いててママがパパに助けを求めていたんだ。 手を伸ばしてね一生懸命流されないようにしてたんだ。けどねパパまで水に連れていかれそうで怖かったんだ。だからねパパやめて!って言ったんだ。 そしたらパパがママの手を離したの。 そしたらママ水と一緒にいなくなっちゃたの。これって私のせいだよね。
おそらくここに書かれているのは、加藤直樹らが「玄倉川水難事故(DQNの川流れ)」で濁流に飲み込まれた直後に100メートル下流の対岸に、加藤直樹と娘の加藤朝香達が流れ着いたタイミングの出来事ではないかと思います。
加藤直樹は、妻の手を掴んでいたものの、娘の加藤朝香に「パパやめて!」と言われたのをきっかけに妻の手を放し、それで妻は流されてしまったという事のようです。
続けて、加藤朝香のものと思われるブログには以下の内容が綴られています。
ごめんね本当に…。ママに逢いたいです。小さい頃もずっとママが欲しかった。皆にはママがいて私には居なくて悲しかった。 今でもママが戻ってきてほしいと思っている。あと優香にも戻ってきてほしいんだ。私には妹がいたんだよ。 ママがいなくなっても明るい朝香でいてねって色んな人に言われた。 そう簡単に言うなと思ったよ。けど私なりに頑張ってきた。毎日明るく生きてる…
はっきりと「朝香」という名前が綴られているため、内容と照らし合わせても加藤朝香のブログである可能性はかなり高いです。なお、加藤直樹の娘が「加藤朝香」という名前である事は、事故発生当時、読売新聞をはじめとする大手メディアが報じているため間違いありません。
加藤朝香のブログが発掘されると、これがネットで晒されて炎上します。要するに、このブログが感傷めいた内容であった事から、自業自得な行動によって、子供の命が奪われ、多くの救助隊員が危険に晒されて、数千万円の血税が使われた、悪名高き「玄倉川水難事故(DQNの川流れ)」を、感傷的にポエムのように語るなと炎上してしまったのです。
ただ、当たり前ですが、当時5歳の子供だった加藤朝香には何の責任もなく、むしろ最大の被害者の1人です。さらに、このブログを綴った当時も加藤朝香はまだ中学生の子供であり、この内容で責められるというのは理不尽だと感じます。
加藤直樹の娘の加藤朝香は、現在は20代半ばの大人になっているはずですが、その後や現在の様子などは不明です。
なお、加藤直樹の長男の加藤一樹(当時1歳、流される直前に放り投げられ奇跡的に救助された男の子)のその後や現在についても不明です。
まとめ
今回は「玄倉川水難事故」、通称「DQNの川流れ」の生存者の1人、加藤直樹についてまとめてみました。
加藤直樹は、その場所でキャンプをするのは危険だと何度も警告を受けていながら、それを全て無視し、「玄倉川水難事故」を発生させた原因の人物だと言われ、現在もネット上で批判され続けています。
また、加藤直樹が忠告や警告にきた人々や、救助にあたった人々らに耳を疑うような暴言を吐いていたとの情報がネットで暴露されており、これも加藤直樹への批判につながっています。
加藤直樹が、事件のその後や現在どのように暮らしているのかは何もわかっていません。これだけ長年にわたって批判されネット上で話題にされ続けている人物であるにも関わらず、何の情報も出ていないのは、既に名前を変え、全くの別人として暮らしているという事かも知れません。