映画「仁義なき戦い」若杉寛のモデルとなった人物としても有名なヤクザ・大西政寛さんですが、その生い立ちはかなり不遇でもあったそうですね。
この記事では、大西政寛さんの身長と経歴や伝説、結婚した嫁と子供や子孫、死因と墓の場所などをまとめました。
この記事の目次
大西政寛の経歴…映画「仁義なき戦い」の若杉寛役でお馴染みのヤクザだった
大西政寛、裕福な家庭に生まれるも不遇な生い立ちだった
大西政寛さんといえば、映画「仁義なき戦い」シリーズで俳優・梅宮辰夫さんが演じた若杉寛のモデルとなったことで知られているヤクザとなります。
そんな大西さんは、1923年に広島県呉市に生まれており、実家は裕福な商家だったと言われております。
とはいえ、モルヒネ中毒になった父親が1925年に急死したうえに、母親が実家から追い出されてしまったため、以降は祖母の手で育つことになりました。
ただですらグレやすい環境で育つこととなった大西さんですが、近所の子供たちから父親がモルヒネ中毒で死んだことをからかわれたりするなど、心ない扱いを受けることが多かったそうですね。
しかしながら、泣き寝入りするような気弱な性格でもなかった大西さんは、いじめられる度にやり返し続けた結果、荒んだ悪ガキとして育つことになっています。
大西政寛、文盲に育つも絵の才能が凄かった
尋常小学校に入学後の大西政寛さんに関しては、文字をまったく覚えようとしない特殊な傾向があったと言われております。
そのため、文盲に育った大西さんでしたが、芸術方面の才能はあったらしく、絵画コンクールでも毎年のように優勝や入選をしていました。
そんな大西さんが尋常小学校5年の時に祖母が亡くなり、再婚していた母親の元へ引き取られるアクシデントもありましたが、義父から虐待を受けたりすることはなかったとか。
その後の大西さんは、尋常小学校高等科1年の時に教師から「お前はペンキ屋にでもなるんじゃろうが、ペンキ屋は字も書かにゃならん」と暴言を受けたことに激高。その場で教師を文鎮で殴りつけ、怪我を負わせることになります。
とはいえ、授業中もひたすら絵を描き続けていた大西さんの態度が原因となった騒動なため、自業自得な一面が大きかったようですね。
そういえば。大西政寛なんてヤクザは小学校時代、授業中に絵ばっかり描いていてモロ発達障害だよなと思った次第。 https://t.co/ysyvBXHo7g
— Mitsuo Yosida (@YosidaMitsuo) October 28, 2017
ちなみに、儒教的気質の強い戦前の出来事だったため、教師に暴行を加えた大西さんは尋常小学校高等科を問答無用で退学になりました。
大西政寛、尋常小学校高等科を中退後はカシメ職人になっていた
尋常小学校高等科を中退後の大西政寛さんは、義父の紹介でカシメ職人となり、地元で造船業に携わることになりました。
軍港であった当時の呉ではカシメ職人は高級取りの花形職業であったため、大西さんの羽振りもかなり良かったそうですね。
そんな大西さんは、16歳の時に食堂でビールを飲んでいたところ、軍人に絡まれるといったアクシデントに遭遇しています。
いくら喧嘩慣れした身の上でも軍人相手には分が悪かったため、いったんは引き下がった大西さんでしたが、近所の商店で包丁を手に入れると食堂に戻り反撃を開始します。
この事件での大西さんは、軍人の腹を刺した挙句、片耳を切り落とすといった武勇伝を残すことになりました。
大西政寛、戦中に徴兵されて中国へ出兵していた
食堂で絡んで来た軍人を返り討ちにして以降の大西政寛さんは、界隈に勇名が轟くこととなり、地元・呉市に拠点を置く博徒系のヤクザ・土岡組とも交流が生まれたそうですね。
とはいえ、太平洋戦争の激化により1943年に懲役されて中国へ出兵する羽目になった大西さんは、1946年に復員するまでを大陸で過ごす羽目になったとか。
しかしながら、戦中の呉は1945年7月に米軍に空襲を受けた結果、街が焼け野原になってしまいましたから、徴兵されてかえって命が助かったパターンだったのかもしれませんね。
復員後の大西さんは、土岡組と盃を交わして本格的にヤクザ稼業に邁進しており、最終的には若頭にまで出世しています。
大西政寛はイケメンだが小柄だった…実際の身長は160㎝以下?
映画「仁義なき戦い」シリーズでは、俳優の梅宮辰夫さんが演じることとなった大西政寛さんですが、実物はいかつさのまったくない童顔のイケメンでした。
暴力団で思い出した。「悪魔のキューピー」こと大西政寛(だっけ?)って顔「は」かわいいよなぁ。初めて見た時ぶっ飛んだ。次は韓流ブームについてか…。
— 由佳 (@yuka1357999) September 18, 2011
また、男性の平均身長が160㎝程度だった戦前規準でも小柄で華奢な体格だった大西さんは、普段は物腰も柔らかく粗暴さのない人物だったと言われております。
そのため、見ず知らずのチンピラから絡まれる機会も多かったらしく、その度に鬼のような形相に変貌して相手を血の海に沈めていたとか。
そんな呉の要注意人物であった大西さんは、巷では「悪魔のキューピー」との異名を誇っていました。
大西政寛の家族情報…嫁は初子で子供や子孫は?
大西政寛さんは、初子さんという女性と結婚していました。
初子さんは、元々は呉市内の喫茶店でウエイトレスをしていた女性であり、小柄で色白の美女だったと言われております。
そんな2人の間には、1948年夏頃に長男が誕生していたものの、生後すぐに亡くなってしまったとか。
その後の2人に第二子が誕生したとの話も聞かないため、大西さんの子孫に関しては存在しないものと思われます。
大西政寛の伝説…土岡組を裏切って暗殺計画に加担した
大西政寛の伝説① 小原馨の腕を切り落とした
大西政寛さんの武勇伝に関しては、1946年8月に愚連隊のリーダー・小原馨さんの左腕を日本刀で切り落とした事件が有名となります。
事件の被害者となった小原さんは、呉の闇社会の利権をめぐり土岡組と対立していた桑原組の舎弟であり、表向きは土建業を装っていた桑原組の実行部隊的な存在でした。
そのため、地元の盆踊り会場で小原さんの姿を見つけた大西さんは、裏の畑まで小原さんを連行した末に、制裁として左腕を根元から切り落としたそうですね。
ちなみに、小原さんが連れ去られたとの一報を聞いた子分の磯本隆行さんも現場まで駆け付けたそうですが、大西さんを相手に何が出来るわけでもなく、逆に右腕を切り落とされてしまいました。
大西政寛の伝説② カミソリで切腹して留置所から釈放された
腕切り事件後の大西政寛さんに関しては、実は刑法上は初犯だったこともあり、すぐに釈放されてシャバに戻って来たそうですね。
一方で大西さんに左腕を切り落されたことで有名になってしまった小原馨さんに対しては、土岡組組長・土岡博さんの肝入りで舎弟に迎える計画も存在していたとか。
そのため小原さんは、不穏な噂に激高した桑原組組長・桑原秀夫さんよりヤキを入れられてしまうことになりました。
桑原さんが子分の移籍話にここまで激怒した背景には、既に市議会議員まで成り上がっていた手前、汚れ仕事をする駒を手放したくない大人の事情がありました。
その後、身勝手な都合でヤキを入れられた小原さんが桑原さんへの復讐を企てたことは言うまでもなく、部下を引き連れて桑原邸へのカチコミを計画することになりました。
そんな噂を聞きつけた大西さんは、両者の仲裁を思い立ち小原さん一派に同行しますが、事前に用意されていたヒットマンにより桑原さんが殺害される結末に終わっています。
そのせいで、共謀共同正犯として一緒に逮捕される羽目となった大西さんは、再度の拘置所送りとなったそうですね。
とはいえ、拘置所の窮屈な暮らしが大嫌いだった大西さんは、(治療施設がなかったため)病人や怪我人は刑が停止され釈放される当時のシステムを悪用することを思い立ちます。
その結果、拘置所内の洗髪室で手に入れたカミソリで腹を一文字に切り裂き病院へ輸送された大西さんは、まんまとシャバに戻ってくることに成功しました。
大西政寛の伝説③ 土岡組を裏切り組長土岡博の暗殺計画に加担した
拘置所で切腹をする荒業でシャバに戻ってきた大西政寛さんですが、無罪となったわけではなかったため、しばらくすると再び拘置所に戻る必要が生じています。
しかしながら、拘置所暮らしを嫌った大西さんは、収監を拒否して逃亡し続ける日々を選ぶことになりました。
ちなみに、妻の初子さんは自宅に残していたため、警察の目を盗みながら定期的に会いに行っていたそうですね。
大西さんがそんな騒がしい日々を送っている横で、呉では山村組という新たな対抗勢力も台頭して来ており、組長の山村辰雄さんは土岡組を弱体化させ蹴落とす機会を伺っていました。
そんな山村さんが目をつけたのが大西さんだったそうで、妻・邦香さんを初子さんに接近させて芝居見学や買い物に連れ出すことで信用を掴んで行ったとか。
その後、大西さんを山村組事務所に招いたりして距離を縮めて行った山村さんは、初子さんと一緒に暮らす隠れ家を提供するなどして大西さんを篭絡し、土岡組から引き抜くことに成功しています。
本来は、大西さんを土岡組組長・土岡博さん暗殺の鉄砲玉に仕立てるつもりだった山村さんでしたが、兄貴分の大西さんに泥を被らせるわけには行かないと思った美能幸三さんがヒットマン役を買って出たと言われております。
ちなみに、この美能さんこそが映画「仁義なき戦い」シリーズの原作となった獄中手記を書いた人物であり、同作の主人公・広能昌三のモデルとなった人物でした。
以降は、大西さんの情報網により土岡組の動向を掴んでいたこともあり、1949年9月27日に暗殺計画が実行に移されますが、美能さんの放った銃弾を浴びながらも土岡さんが一命を取り留める展開が待っていました。
大西政寛の最期…死因は射殺だった
土岡博さん暗殺未遂事件後の大西政寛さんですが、土岡組からの報復を恐れて逃亡することもなく、そのまま呉市内の隠れ家に留まり続けています。
その後、1950年1月4日に初子さんと一緒に呉市本通りを散歩していた大西さんは、酒に酔った土木作業員数名に絡まれることになりました。
初子さんのことを売春婦呼ばわりしてまで喧嘩を売る土木作業員たちに激高した大西さんでしたが、必死に止める初子さんの手前、いったんは引き下がることになったそうですね。
とはいえ、それで気が収まらなかった大西さんは、山村組の若衆に命令し土木作業員たちを探し出させ、その内の1人を高日神社の境内に呼び出して射殺しています。
事件後は山村組のネットワークを頼り、山村組顧問・岩城義一さん宅に潜伏していた大西さんですが、何者かに密告された結果警察に踏み込まれ、窓から逃げようとしたところを警察官に射殺されることになりました。
1950年1月18日に起こったこの捕物劇では、警察側も40人もの人員を動員して包囲網を築いた一方で、2人の警察官が大西さんに射殺されるなど多大な犠牲を払ったと言われております。
ちなみに、大西さんの居場所を密告した犯人は、山村辰雄さんだったとの説が定説化しているとか。
美能幸三が最後まで『山守は悪い男じゃ』言うとったのは、存在しない大西組の、はっぴまで着るほど慕ってた、兄貴分の大西政寛を、山守が裏切り、警察にチンコロしたのが、原点だと思われる。 pic.twitter.com/6E99wco3ZP
— 特撮/UNDERMINER (@UNDERMINER1118) September 6, 2019
山村さんからしてみれば、あまりに過激な行動を取りすぎる大西さんとこれ以上付き合っていたら、身が破滅するとの想いでもあったのかもしれませんね。
大西政寛の墓はどこ?…呉市内の竹藪の中にあった
26歳の若さで亡くなった大西政寛さんですが、その墓に関しては、呉市広長浜の竹藪の中にあると言われております。
広長浜あたりの地図見てたら大西政寛の墓とか史跡みたいになってるの草
— 逢坂いわし (@iwasi1842) December 19, 2019
大西政寛についてまとめてみると…
大西政寛さんは、慕う子分などもいた一方で仁義もへったくれもなかった一面もあった人物と言えます。
大西さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。