菅谷政雄さんといえば、山口組最高幹部として栄華を極めながらも、「三国事件」をきっかけに没落したことで有名となっています。
この記事では、菅谷政雄さんの兄弟分、息子と娘、山本健一さんや石原裕次郎さんとの関係、そして死因や墓についてまとめました。
この記事の目次
菅谷政雄のプロフィール
菅谷政雄(すがたに まさお)
生年:1914年
出身地:兵庫県神戸市
菅谷政雄、国際ギャング団の頭領時代もあった
1914年に兵庫県神戸市に生まれた菅谷政雄さんに関しては、少年時代より喧嘩好きで悪さばかりしていたそうで、見兼ねた近所のお寺の住職から「この煩悩め!」と一喝されたことまであったそうですね。
ちなみに、この時の住職の檄が菅谷さんの愛称の「ボンノ」のきっかけになったといわれております。
「ボンノ」の渾名は、少年時代に近隣の法専寺の和尚から「この煩悩め!」と一喝されたことから、以降そう呼ばれるようになったとする説がある。両親からはボンノーと呼ばれていた。彼も「ボンノ」という渾名が気に入っていたようだ。
引用:菅谷政雄
戦前から神戸市三宮を拠点とする愚連隊のリーダーだったという菅谷さんは、戦後は中国人や韓国人を仲間に引き連れて国際ギャング団を結成し、当初は闇市の用心棒をしていたとか。
しかしながら、国際ギャング団時代の菅谷さんは次第に凶暴性を増して行き、倉庫や輸送トラックなどを襲撃して物資を略奪することも度々あったそうで、「三宮のロビンフッド」との異名をつけられたこともありました。
菅谷さんが、後の山口組3代目組長・田岡一雄さんと知り合ったのもこの頃だったようで、神戸の自警団を自認していた山口組と在日外国人グループとの抗争の仲介役となったのが菅谷さんでした。
その後、1946年に闇市の利権に絡む問題で、対立組織のメンバーを拉致殺害するように指示した容疑で逮捕されることとなった菅谷さんは、13年間もの服役を経験する羽目になります。
菅谷政雄の経歴…山口組最高幹部になるも大阪戦争で失脚していた
菅谷政雄、出所後に山口組入りをしていた
1959年に出所した後の菅谷政雄さんは、田岡一雄さんの誘いを受けて山口組の若中となった他、菅谷組を結成しています。
菅谷組結成後の菅谷さんは、神戸市三宮の水商売の利権を手に入れるなど、瞬く間に闇社会で台頭していったそうですね。
その後の菅谷さんは、山口組では御法度扱いされていた麻薬利権にも手を伸ばしていたそうで、北関東や四国に麻薬の密売組織を作りシノギとしていたため、警察からは「麻薬暴力団」との異名もとっていたとか。
豊富な資金力が売りだった菅谷組に関しては、最盛期には全国各地に支部を持っており、1200人を超える組員がいたと言われております。
菅谷政雄、口の軽さが原因で山本健一と仲違いしたこともあった
山口組入りをして以降の菅谷政雄さんについては、1963年に山口組若頭補佐に就任するなど、とんとん拍子に出世しています。
最高幹部として組内の人事にも関与することが増えた菅谷さんは、1971年に行われた山口組の若頭選にて、不条理な展開で敗れた山本広さんの説得に当たるなど、交渉事も得意だったようですね。
当初山本健一は最高幹部間で行われた入れ札(選挙)で山広組組長・山本 広に2対4で敗れていたが、田岡の指名により逆転就任することとなった。
引用:山本健一 (ヤクザ)
しかしながら、国際ギャング団から40代中盤で山口組入りした経緯もあり、ヤクザの世界の仕来りを尊寿しない悪癖があった菅谷さんは、山本広さんに対する説得工作の手柄を周囲に風潮して回るなどしたせいで、山本健一さんと疎遠になったりもしたとか。
菅谷政雄、大阪戦争で失脚していた
山口組入り後もギャング時代のように自由気ままに生きていた菅谷政雄さんですが、そんな気質が仇となり失脚したこともあります。
菅谷さんの失脚原因となったのは、1975年より始まった「大阪戦争」でした。
山口組系佐々木組の組員らが、松田組系溝口組の賭場にてトラブルを起こしたことを発端に始まった「大阪戦争」は、山口組本部に松田組幹部が銃弾を撃ち込むなど、全面戦争の様相を呈していました。
そんな中、松田組組長・樫忠義さんと顔なじみだった菅谷さんは、山口組執行部に無断で和解交渉を進めた結果顰蹙を買い、謹慎処分と降格処分(若頭補佐から筆頭若衆への降格)を受けることになりました。
菅谷政雄、三国事件をきっかけに山口組を絶縁された
「大阪戦争」にて、山口組No3の地位から失脚した菅谷政雄さんですが、1977年に起こった「三国事件」では、山口組から絶縁の憂き目にもあっています。
「三国事件」とは、菅谷さんと山口組菅谷組系川内組組長・川内弘さんとの確執をきっかけに起こってしまった暗殺事件となります。
組員400人を誇り、福井を拠点に静岡・岐阜・京都・栃木・福島などに支部を持っていた川内組は、山口組の二次団体と比較してもまったく引けをとらない有力三次団体でした。
そのため、山口組の直参昇格を願った川内さんは、当初は親である菅谷さんに話をつけて貰おうと交渉していたものの反対にあったため、山口組若頭補佐・山本広さんを通して直参入りの工作をしていました。
そのことを知った菅谷さんは、激怒して川内組を破門としたものの、当の川内さんは意にも介さずに直参入りの交渉を続けていたそうですね。
川内さんの不義理な態度に激怒した菅谷さんは、暗殺部隊を組織して「三国事件」を起こしてしまったと言われております。
「三国事件」後の菅谷さんに関しては、執行部に無断で破門者に制裁を加えた罪を問われて、山口組を絶縁されることになりました。
菅谷政雄はファッションリーダー…石原裕次郎にジーパンを薦めた
「舶来文化」好きであり、「リンカーン・コンチネンタル・マークⅡ」などの超高級外車を乗り回し、ジャズを愛聴していたと言われている菅谷政雄さんに関しては、ヤクザ界のファッションリーダーとして有名でした。
着物を好んでいた従来型のヤクザとは違い、神戸の老舗洋服店「ニシカワ」でオーダーした白系のスーツを着こなすなど、とにかくファッショナブルな存在だった菅谷さんは、日本で初めてジーパンを履いたとの伝説もあるとか。
こちらの伝説については、ハリウッド映画のポスターを見てジーパンのことが気になった菅谷さんが、デニム生地を仕立て屋に持ち込んで、店主に見様見真似で作らせたそうですね。
そんな菅谷さんには、知人だった俳優の石原裕次郎さんにジーパンを薦めたとの逸話まで存在します。
菅谷政雄の兄弟分は?…山口組内に盟友はいなかった
菅谷政雄さんが率いていた菅谷組に関しては、山口組きっての大勢力だったこともあり、山口組系後藤組元組長・後藤忠政さんや六代目山口組元総本部長・大原宏延さんなど、後の大物ヤクザを多数輩出しています。
一方で勝手気ままに行き過ぎた菅谷さんには、山口組内で兄弟分となるような盟友はいなかったようで、大阪の独立組織である酒梅組組長・中納幸男さんと兄弟杯を交わした程度だったとか。
菅谷政雄の家族情報…嫁や息子・娘情報は?
菅谷政雄さんの家族情報については、元々は淑子さんという女性と結婚していたものの、山口組入りする前に死別しています。
その後の菅谷さんは、生涯独身を通したということもなく、別の女性と再婚しているようですね。
そんな菅谷さんには、正彦さんという息子がいたようですが、極道の世界には入らずに一般人として生きており、既に亡くなっているとか。
菅谷政雄の晩年と最期…死因は肝臓がんだった
菅谷政雄、1981年に病死していた
山口組を絶縁後の菅谷政雄さんに関しては、菅谷組を解散せずに独立組織として維持していたそうですね。
そんな菅谷さんに対しては、山口組側も山健組や宅見組が潜伏先を探り当てて、襲撃の機会を伺っていたとも言われております。
しかしながら、1978年に「ベラミ事件」が起こり田岡一雄組長が暗殺されかけたことに加えて、菅谷さんが収監されて手出しが出来なくなったこともあり、襲撃は未遂に終わってしまったそうですね。
その後の菅谷さんは、1981年に出所をしたものの末期の肝臓がんであることが判明します。
末期がんであることは菅谷さん本人には伝えられなかったそうですが、事情を知った側近たちからの進言があったため、1981年6月に菅谷組を解散することになりました。
1981年に出所した菅谷は波谷守之に相談しに行き、組の解散を進言される。この時点で波谷と菅谷組の実力者・浅野二郎は菅谷の体が癌に侵されていて、余命が長くないことを医師から伝えられていた(本人には伝えられていなかった)。2人にとって、余命をカタギとして穏やかに暮らして欲しいと願っての進言だった。
引用:菅谷政雄
菅谷組解散後の菅谷さんに関しては、これまでの不義理を山口組組長・田岡一雄さんに詫びに行った後、1981年11月に67歳の若さで病死しております。
菅谷政雄、お墓は神戸市内にあった
菅谷政雄さんのお墓に関しては、兵庫県神戸市にある住吉霊園内の小高い丘の上に存在するようです。
神戸といえば、山口組発祥の地であり多くの関係者の故郷でもあったため、菅谷さんのお墓のすぐそばには山口組元若頭・山本健一さんのお墓もあるとか。
菅谷政雄についてまとめてみると…
菅谷政雄さんに関しては、ギャング時代の気質が抜けきらなかったために、最後は山口組内で失脚の憂き目となった悲運のヤクザと言えます。
菅谷さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。