中井組の組長であり、一和会の幹部だった中井啓一さんですが、タレントの高知東生さんの養父でもあります。
今回は中井啓一さんのこれまでの経歴や伝説、結婚した嫁や子供(息子・娘)、中山勝正さんとの関係、晩年や死因を紹介します。
この記事の目次
中井啓一は高知東生の養父だったヤクザの組長
中井啓一さんは、タレントの高知東生さんの養父として有名なヤクザです。
高知東生さんの母親が中井啓一さんの愛人だったようで、実際に同じ屋根の下で暮らしたことはないとのこと。
ちなみに、幼少期は叔父の元へ預けられていた高知東生さんは、小学5年生の時に母親と同居を開始しますが、母親はネグレクトをしていたそうですね。
母親がいたことがわかって嬉しかったけど、実際一緒に住んでみたら、もう逃げ出したいくらい最低な大人でした。テーブルの上にお金だけ置いて2、3日は平気で家を空けるし、夜中に酔っ払って帰ってきたと思ったら『タバコ買ってこい!』と命令する。とにかく毎日酒臭い。
また、高知東生さんが中井啓一さんと初めて顔を合わせた場所もキャバレーだったと言われており、まさにメチャクチャな家庭環境で育ったようです。
さらに一緒に暮らし始めてしばらくした後、いきなりキャバレーに連れて行かれたと思ったら、そこにいる男の客を紹介されて、『この人がお父さんよ』と言われました。その人は中井啓一という土佐の有名な侠客で、母は愛人だったんです。もうめちゃくちゃですよ。後に彼も本当の父でなかったことがわかるのですが、正直、ここで捨てられてしまったら、今度はどこに行かされて、そこでなにを言われるのかという恐怖が常にありました。
中井啓一は愛人一家の面倒をしっかり見ていた
子持ちの愛人を囲っていた中井啓一さんは、経済的な援助はしっかりしていたようです。
そのため、高知東生さんは中学受験をして私立の明徳義塾中学に進学するなど、一般的な家庭よりも裕福でした。
ただし、母親が高知東生さんと一緒に暮らしたくなかったのか、中学時代から寮暮らしになるなど、肉親からの愛情に恵まれない少年時代であったことは確かです。
ちなみに、高知東生さんの実父は実業家の男性だと判明しています。
実は俺、母親が自殺した時父親だと思ってた人が、実父じゃなかったことを知った。実父は既に実業家として成功している人だったけど、80過ぎて刑務所に入る事件を起こした。芸能界にいたからこの事が誰かにバレるのが怖かった。最後に一目会いたいって言われたけど世間体を気にして会いに行けなかった。
— 高知東生 (@noborutakachi) July 18, 2020
中井啓一の経歴① 戦後に中井組を立ち上げて組長に
中井啓一(なかい けいいち)
生年月日:1924年5月15日
出身地:高知県高知市
中井啓一さんは、多くの戦中世代同様、先の大戦中は海軍に徴兵された経歴を持っています。
運良く五体満足のまま終戦を迎え、故郷である高知県高知市に戻ることができました。
その後、地元の高知製缶に入社し、相撲部に所属する実業団選手だった時期もありました。
しかし、やんちゃな青少年たちの集まりに参加した中井啓一さんは、1948年に中井組を立ち上げ、他に目ぼしいライバルもいなかったことから、すぐに高知の繁華街を牛耳ったようです。
中井啓一の経歴② 山口組の傘下に下った
中井組を結成後、積極的に人材発掘に務めた中井啓一さんは、後に山口組若頭となる中山勝正さんをスカウトしました。
県下では向かうところ敵なしだった中井啓一さんでしたが、全国進出の野望はなかったようで、1958年になると、山口組と杯を交わして傘下に下っています。
山口組時代の中井啓一さんは、最高幹部の1人だった菅谷政雄さんと昵懇の仲になるなど、一定の勢力はあったものの、役職に就くようなことはありませんでした。
そのため、山口組幹部の覚えが良かった中山勝正さんは1972年に独立し、山口組の直参に昇格しています。
ちなみに、中山勝正さんは1981年に山口組の新体制が発足した際には、若頭補佐にまで昇進していますから、中井啓一さんは元子分よりも立場的に後れを取ったことになりました。
中井啓一の伝説的エピソード① 子分の100億円で博打三昧
中井啓一さんは博打好きとしても知られ、特に競馬が好きで、地元の高地競馬でよく遊んでいたと言われています。
ただし、博打の元手は自力で調達していたわけではなく、子分の中山勝正さんが経営していた白タク会社の売上の一部を徴収していたそうです。
中井啓一さんの豪遊ぶりは半端ではなかったらしく、中山勝正さんが独立するまでの間に、現在の貨幣価値で100億円近いお金を融通してもらっていたという伝説が残っています。
中井啓一の伝説的エピソード② 政治家だった時期も
高知市の市議会議員に当選
中井啓一さんは、政治家に転身したヤクザとしても有名な人物なんです。
現在ではあり得ない転身ですが、昔はそこまで珍しい話ではなかったらしく、過去には保良浅之助さんや吉田磯吉さんのように国会議員まで上り詰めたヤクザもいました。
中井啓一さんが出馬したのは、地元・高知で1957年に行われた市議会議員選挙で、見事当選しています。
選挙参謀役は中井組の若頭だった大黒麗夫さん、同じ市内に組事務所を構えていた寺田組組長・寺田貢さんでした。
2期目を目指すも、寺田貢の裏切りで落選する
ヤクザの身でありながら高知市議会議員を務めた中井啓一さんですが、その後、1961年に行われた高知市議会選挙に出馬して2期目を目指すものの、落選しています。
前回の選挙で選挙参謀役だった寺田組組長・寺田貢さんが、中井啓一さんの権勢ぶりを羨んで、寺田貢さん自身も出馬したため、上手く票が集まらなかったようです。
寺田貢さんも仲良く落選したようですが、面子を潰された中井啓一さん一派は、それで収まらずに、報復として寺田組の賭場に殴り込みをかけたそうですね。
寺田組への殴り込みを指揮したのは中山勝正さんで、部下に死者が出るほどの大事件となりました。
中井啓一の結婚情報:嫁や子供(息子・娘)
中井啓一さんの愛人は前述の通り、高知東生さんでしたが、結婚相手である本妻は、高知女子大学(現:高知県立大学)を卒業した才媛だったと言われています。
当時としてはかなりの晩婚の、30歳頃に結婚したようです。
中井啓一さんと本妻の間に子供がいたかは公開されていませんが、ネットの噂によると娘がいたようですね。
でもね、中井啓一の娘さんを写真でみたことあるけど、顔そっくりなんよね。だから、高知が中井啓一の隠し子ってのはにわかに信じがたい。4代目若頭の隠し子って噂も聞いたことある。
— Sunny Kruster (@kantaseo) June 24, 2016
子供たちがカタギの道を選んだため、家族情報が非公開になったと言われています。
また、一時は息子は高知東生さんとされていましたが、これは真実ではなかったようです。
中井啓一は山口組4代目継承争いで中山勝正と対立・一和会へ
1981年に山口組3代目組長・田岡一雄さんが病死、後継者と目されていた山本健一さんまでもが獄死してしまったため、跡目争いが本格化します。
それまでは高知の顔役として悠々自適な人生を送って来た中井啓一さんですが、これにより運命が一転したようです。
山口組内は、次期組長に山本広さん(山口組組長代行)を推す主流派と、竹中正久さん(山口組若頭)を推す改革派で対立。
中井啓一さんは山本広さん派につきましたが、元子分だった中山勝正さんは竹中正久さん派についたようです。
山口組4代目争いに敗れて一和会へ
当初は直参の組長の大半が山本広さんを支持していたため、山口組の4代目は山本広さんが有力視されていました。
しかし、生前の田岡一雄さんが山本広さんを信用しておらず、未亡人の田岡フミ子さんの介入により、竹中正久さんが4代目組長に就任するという逆転劇が待っていました。
その結果、竹中正久さんの4代目就任に納得がいかない山本派の面々が山口組から離脱し、一和会を結成する騒動が起こりました。
山本広さんを推していた中井啓一さんも一和会に合流することとなり、一和会の最高顧問になっています。
ちなみに、竹中派の中心だった中山勝正さんは山口組に残り、若頭に就任しています。
中井啓一と山一抗争
山一抗争では急進派の暴走もあった
1984年8月より、山一抗争が始まります。
山本広派が主流派だったこともあり、当初は一和会の構成員が7000人、山口組の構成員が6000人と一和会側が優勢でした。
しかし、一和会側は戦争をする覚悟までは固めていなかったため、山口組が絶縁状を送り付けたり殴り込みをかけると、離脱者が続出。
その結果、1984年の年末頃までには一和会の構成員が2800人、山口組の構成員が1万4000人と勢力が逆転してしまったようです。
その後、一発逆転を狙った一和会の急進派が、1985年1月に竹中正久さんの暗殺を実行しています。
焦った一和会側は密かに竹中暗殺を計画し、同年9月には暗殺部隊を結成。翌1985年1月に竹中に懲役6ヶ月の有罪判決が確定。同月26日、収監前の竹中は神戸の山口組新本部の上棟式の後、大阪府吹田市のマンションで、待ち伏せていた一和会 二代目山広組系組員に銃撃され、意識不明のまま翌27日に死亡した。
引用:山一抗争
「竹中正久暗殺事件」では、竹中正久さんのボディーガード役を務めていた中山勝正さんが巻き添えで亡くなっています。
中山勝正の部下から報復を受けていた
「竹中正久暗殺事件」は、あくまで一部の急進派の独断の犯行だったため、中井啓一さんら一和会の幹部は関与しておらず、寝耳に水の暴挙に対して激怒したと言われています。
しかし、山口組側はそうとは捉えておらず、事件後に壮絶な報復劇が繰り返されることになりました。
一和会の幹部の立場だった中井啓一さん率いる中井組も、中山勝正さんの部下だった豪友会の面々から報復を受け、死者が出ることになりました。
中井啓一の死因は肺がん
山一抗争での中井啓一さんは、山口組の圧力に負けて抜けていく多くの仲間たちとは対象的に、1987年2月に抗争が終決するまで一和会に留まり続けました。
その後、1988年10月にヤクザを引退しますが、1991年8月に67歳で肺がんで亡くなっています。
ヤクザを引退したのは、闘病が理由だったのかもしれませんね。
中井啓一のまとめ
中井啓一さんは中井組のヤクザであり、政治家になった過去を持つ人物です。
山一抗争に巻き込まれて元部下にカチコミをかけられるなど、晩年はヤクザらしいと言えばまさにヤクザらしい生活だったようです。
中井啓一さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。