石川裕雄さんといえば、山一抗争にて山口組4代目・竹中正久さんを暗殺したヒットマンチームを指揮した人物として有名です。
この記事では、石川裕雄さんのこれまでの経歴、そして事件と現在の様子についてまとめてみました。
この記事の目次
石川裕雄のプロフィール
石川裕雄(いしかわ ひろお)
生年月日:1948年6月5日
石川裕雄、元々は石川屋総業の頭領だった
石川裕雄さんについては、少年時代からグレて少年院に入るようなワルだった一方で、出所後は関西経理専門学校に進学し、経理を学ぶなど勉強熱心な一面もありました。
関西経理専門学校を卒業後の石川さんは、大阪学院大学に進学することとなりますが、結局中退してしまったそうで、国粋主義色のある独立組織「石川屋総業」を結成するなど、本格的にアウトローの世界に入っていきます。
そんな石川さんが山口組入りをするきっかけとなったのは、地場の暴力団とトラブルになり組員を殴り倒した際に、山口組系北山組組長・北山悟さんが仲介役となり、場を収めてくれたことがきっかけでした。
石川裕雄の武勇伝…小西一家の若頭を一刀両断していた
石川裕雄、掟破りの山口組系小西一家の若頭を日本刀で斬殺していた
石川裕雄さんの武勇伝に関しては、1970年代前半頃に山口組系小西一家の若頭・Bさんを日本刀で斬殺した一件が有名となっています。
2人が揉めた原因については、Bさんが北山組の若衆に覚せい剤を売りつけていたことがきっかけでした。
山口組では、組長・田岡一雄さんの一存により薬物をシノギにするのが御法度となっていたこともあり、Bさんの暴挙に気が付いた石川さんは何度も注意を重ねていたようですね。
しかしながら、Bさんは忠告を聞き入れないどころか逆切れをして銃撃して来たそうで、日本刀で応対することとなった石川さんは、Bさんを切り殺してしまうことになりました。
事件後の石川さんは、Bさんを病院に運び込んだ後警察に自首しており、傷害致死罪で逮捕されています。
石川裕雄、山口組からの処分は断指のみだった
Bさん殺害後の石川裕雄さんについては、5年間ほど刑務所に服役することとなります。
No2を20代の若造に殺された形となった小西一家ですが、Bさんが掟破りの薬物犯罪に手を染めていた負い目もあったせいで、北山組への報復などはなかったようですね。
また、山口組執行部も石川さんを破門や絶縁にすることはなかったようで、処分はケジメの断指のみで済んでいます。
出所後の石川裕雄…アメリカ・ネバダ州に留学していた時期もあった
出所後の石川裕雄さんに関しては、そのまま極道の世界に戻るのではなく、アメリカ・ネバダ州に留学をしていた時期もあったようですね。
アメリカ時代の石川さんは、現地の空手大会に出場した他、空手が縁で知り合ったアメリカ人警察官から射撃訓練を受けたりと、留学生活を謳歌していたとか。
そのまま日本へは帰らずに、中東で傭兵にでもなろうかと考えていた時期もあった石川さんでしたが、1970年代末頃に日本へ帰国し極道の世界に復帰することになりました。
帰国後の石川さんは、北山組の若頭へと出世しており、悟道連合会を率いる親分にもなっています。
石川裕雄と山一抗争…竹中正久暗殺事件の指揮を執っていた
石川裕雄、山一抗争により一和会の直参となっていた
石川裕雄さんは、1980年代に入ると今度は山一抗争の当事者となっています。
山一抗争は、山口組3代目組長だった田岡一雄さん亡き後に、山口組4代目候補筆頭格だった山健組組長・山本健一さんまで病死したせいで始まった跡目争いが発端でした。
山本健一さん亡き後の山口組では、竹中組組長・竹中正久さんを推す勢力と山広組組長・山本広さんを推す勢力に二分されることとなりました。
山口組の跡目争いに関しては、直系組長の間で竹中さん支持派が優勢だったことに加えて、田岡元組長の未亡人である田岡文子さんが竹中さん支持に回ったこともあり、竹中さんが4代目に就任することが決定しています。
その結果、竹中さんの風下につくことを不満に思った山本広さんは、1984年6月になると山口組から脱退して一和会を結成。
山本広さんの元には反竹中派の組長たちが集まったこともあり、一和会は総数7000人もの大勢力となったそうですね。
石川さんについても、北山組組長・北山悟さんが山本広さんの元へ合流し組織委員長に就任したことで一和会側の勢力につくことになり、直参に出世し常任理事の地位を得ることになりました。
石川裕雄、竹中正久の愛人宅を突き止めていた
結成当時は、山口組を凌ぐ勢力を誇っていた一和会ですが、あくまで反竹中派の寄せ集めにすぎなかったことに加えて、戦争を覚悟で合流した組員などは少ない状況でした。
そのため、山口組側が戦争も辞さない覚悟で「義絶状」を送り付けたり、一和会組員たちを襲撃し始めると、山口組に出戻ったり極道を引退する組員たちが続出することになりました。
そんな劣勢状態を挽回するために、一和会系山広組若頭・後藤栄治さんは竹中正久さんへの暗殺計画を立てるようになり、山広組舎弟・長野修一さんを行動隊長に任命します。
1984年7月から始まった「竹中正久暗殺計画」に関しては、独自に動いていた石川裕雄さんが竹中さんの愛人の居場所を突き止めたことで一気に具体化することとなったそうですね。
10月には石川裕雄は、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」に竹中の愛人が住んでいることをつかんだ。12月初旬に石川は同マンションの204号室を知人名義で借りて潜入、無線機を置いて一和会の「GSハイム江坂」の見張り要員と交信できる様にした。長野も12月21日に大阪市西区の「GSハイム西長堀」の302号室を借り、武器の隠し場所にした。
引用:山一抗争
その後、「竹中正久暗殺計画」に合流することとなった石川さんは、長野さんに無線機の使い方を教えたり、拳銃を譲渡したりと精力的に動くことになります。
石川裕雄、事件後に渡辺芳則や宅見勝の暗殺も主張していた
「竹中正久暗殺事件」が起こったのは、1985年1月のことでした。山口組若頭・中山勝雅さんと南組組長・南力さんをボディーガードに従えて「GSハイム第二江坂」に向かった竹中正久さんは、待ち伏せしたヒットマンたちに襲撃されて射殺されています。
事件後見張り役から連絡を受けた石川裕雄さんは、一和会本部に足を運び渡辺芳則さんや宅見勝さんといった山口組最高幹部たちの暗殺も主張します。
しかしながら、「竹中正久暗殺事件」について「やりすぎだ!」と批判する人間が一和会幹部にも多かったため、石川さんの主張は退けられてしまったとか。
その後、「竹中正久暗殺事件」の主犯格として指名手配を受けた石川さんは、潜伏生活を送る羽目になりますが、1986年7月に福岡県内のゴルフ場で逮捕されることになりました。
ちなみに山一抗争は、石川さんの逮捕後間もなく山本広さんの引退と一和会の解散という条件にて終結しています。
石川裕雄の現在…無期懲役刑を受けて出所はしていない
石川裕雄、ヒットマンチームを徹底的に庇い死刑も求刑されていた
逮捕後の石川裕雄さんは、長野修一さんの供述もあり警察から「竹中正久暗殺事件」の首謀者とみなされています。
一方で石川さん側は徹底してヒットマンチームを庇っていたようで、取り調べに対しても「すべて私の指示であり、責任を取る」と明言していたとか。
公判中も「任侠道を守るためにやった。世間を騒がしたことは申し訳ない」と淡々と語る石川さんは、検察から死刑を求刑された際もまったく動じる様子もありませんでした。
そんな石川さんの姿は、山口内部でも「ヤクザの中のヤクザ」と高評価を受けたことは言うまでもありません。
また、竹中正久さんの実弟であり、山口組最高幹部の地位を捨ててまで山本広さんの命を狙い続けた竹中組組長・竹中武さんも、公判中の石川さんの「今は竹中4代目の冥福を祈っている。それが仁義というものだ」との言葉に感涙を受けることになりました。
その結果竹中武さんは、配下の組員たちに「石川が出所して堅気だった場合は命を狙うな」との言葉を残していたとの逸話も存在します。
石川裕雄、無期懲役判決を受けて現在も服役中だった
「竹中正久暗殺事件」での石川裕雄さんは、1989年3月になると無期懲役が確定しています。
死刑こそ免れた石川さんでしたが、「竹中正久暗殺事件」の実行犯たちが懲役20年、見張り役が懲役10年の判決だったことを踏まえると、ひときわ重い刑罰が下ったと言えます。
その後、旭川刑務所に収監されることとなった石川さんでしたが、2020年現在出所のニュースは存在しないため、服役中なのでしょうね。
70歳を過ぎた老齢の身でありながら刑務所暮らしが続き、健康面も心配な石川さんですが、旭川刑務所は2016年より全室個室にリニューアルされているため、体への負担は他の刑務所よりも少ない状況になっているようですね。
施設の老朽化のため2011年から建て替えを進めていたのだが、高齢受刑者の健康のために定員500人の居室はすべて個室となったそうだ。個室の広さは約7平方メートル(およそ4畳半ほど)。それぞれにベッドと机、イス、洗面台、トイレが設けられている。ベッドを設置したことによって、高齢者の体の負担が減るのだとか。
旭川刑務所が全室個室にリニューアルしたというので、色々な個室をならべてみました。
— どエンド君 (@mikumo_hk) September 12, 2016
・旭川刑務所 専有7㎡ 0円/月
・某プライベートルーム@池袋 5.7万円/月
・某シェアハウス@大塚 専有7㎡ 11.6万円/月 pic.twitter.com/HXpHtaqBrv
石川裕雄についてまとめてみると…
山一抗争で伝説を残すこととなった石川裕雄さんですが、3人もの人間の命を奪った首謀者とみなされたため、現在も出所はかなわずに服役中ということになります。
石川さんが日々健康な服役生活を続けられることを祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。