中山勝正さんといえば、「竹中正久暗殺事件」に巻き込まれて暗殺された山口組の元若頭となります。
この記事では、中山勝正さんの身長などプロフィール、人柄と刺青、結婚した嫁と子供(娘など)と自宅、そして死因や墓についてもまとめました。
この記事の目次
中山勝正のプロフィール…元々は中井組の若衆だった
中山勝正さんは、1937年10月25日に高知県香美市に生まれています。
少年時代の中山さんは学校の番長をしていたらしく、中学時代には繁華街で絡んで来たヤクザ3人を病院送りにしたことまであったそうですね。
そんな中山さんの勇名は裏社会にも轟いていたそうで、1955年に高知県高知市を拠点としていた中井組と盃を交わしてヤクザとなりました。
ちなみに、中井組の組長・中井啓一さんは、戦中に海軍に召集された経験もある元軍人であった他、復員後は「高知製缶」相撲部に所属していたものの愚連隊化してしまった人物でした。
その後、高知の繁華街を牛耳った中井さんは、1948年に中井組を設立したと言われております。
中山勝正の経歴…菅谷政雄を引退させた男だった
中山勝正、シノギのセンスは抜群だった
中井組の構成員となった後の中山勝正さんは、中古自動車をレンタルで集め、白タク会社兼組事務所の「自動車愛好会」を設立しています。
高度成長期時代の日本では、タクシーは需要の高い花形産業だったこともあり、「自動車愛好会」は莫大な収益をあげたと言われております。
一方で中井組組長・中井啓一さんは、そんな「自動車愛好会」の売上をピンハネしては博打にのめり込んでいました。
甲斐性がありすぎる子分だった中山さんは、独立までに(現在の紙幣価値で)100億円近いお金を中井さんに献上していたそうですね。
中山勝正、「寺田組襲撃事件」で武闘派の異名を欲しいままにしていた
中井組に関しては、1957年に組長・中井啓一さんが高知市議会議員選挙に立候補したこともありました。
ヤクザが政界に転出することは当時の日本ではちょくちょくあった話らしく、1940年代後半頃の広島県呉市では、桑原組組長・桑原秀夫さんが市議会議員をしていたそうですね。
そんな時代の流れに乗り高知市議会議員に当選したこともあった中山さんですが、2期目を目指した1961年の選挙では、寺田組組長・寺田貢さんの裏切りもあり落選の憂き目となっています。
1957年、中井啓一は高知市議会議員選挙に立候補、中井組若頭の大黒麗夫と高知市松淵町に本拠を置いていた寺田組・寺田貢組長を選挙参謀に据えて初当選を果たす。その4年後の1961年1月に実施された市議会議員選挙では再選を目指したが、前回選挙参謀を務めた寺田貢が立候補したことなどもあり、結果的に中井も寺田も落選してしまった。
引用:中山勝正
その結果、仲間を引き連れて寺田組の賭場に報復の殴り込みをかけることとなった中山さんでしたが、反撃にあい部下が1人射殺されてしまうことになりました。
とはいえ、そんなアクシデントにも動じずに寺田さんを半殺しにした中山さんは、若き武闘派ヤクザとしての異名を四国中に轟かせることになったそうですね。
中井啓一、1961年に中井組若頭に出世していた
中井組に関しては、1958年に中井啓一さんが山口組組長・田岡一雄さんと盃を交わした結果、山口組の二次団体となりました。
当時の中井組は、地方の独立組織上りだった一方で、組員が200人もいるような一大勢力を誇っていたそうですね。
一方の中山勝正さんは、1961年にそんな中井組の若頭になった他、「自動車愛好会」を「豪友会」に改名しています。
中山さんが若頭を襲名した背景には、中井さんが高知市議会議選挙で落選をした責任を取って、選挙の参謀役であった前任者が辞任した影響が大きかったそうですね。
中山勝正、独立して山口組の直参となる
中井組の若頭に昇進した後の中山勝正さんですが、広島県尾道市を拠点とする「任道会」が高知進出を図ったため、全面抗争になったこともありました。
こちらの抗争では、警察の目を憚ることもなく市街地線を繰り広げた両者でしたが、「任道会」の戦闘責任者であった森田健介さんが逮捕されたことでシマを守り抜くことに成功したそうですね。
そんな数々の功績が田岡一雄さんに認められた中山さんは、1972年に35歳の若さで山口組の直参にまで昇進しています。
その後も順調な出世が続いた中山さんは、1977年に山口組の若頭補佐に就任するなど、日本を代表するヤクザの1人にまで上り詰めることになりました。
中山勝正、菅谷政雄を引退に追い込んだ男だった
中山勝正さんは、山口組の元若頭補佐だった菅谷政雄さんを引退に追い込んだ男としても有名です。
山口組の古参幹部だった菅谷さんが執行部より絶縁されたのは、1977年に起こった「三国事件」が原因でした。
「三国事件」については、山口組の直参に昇格するための工作活動をしていた菅谷組系川内組組長・川内弘さんと菅谷さんとの確執が発端となりました。
川内さんの傲岸不遜な態度に激怒した菅谷さんは破門の制裁を下しましたが、それでも態度を改めなかった川内さんは、山口組関係者に直参昇格のための工作を続けていました。
そんな川内さんの態度に堪忍袋の緒が切れ暗殺部隊を手配することとなった菅谷さんですが、破門者に制裁を加えた罪で山口組執行部より絶縁される結末が待っていたそうですね。
とはいえ、組員が数千人規模を誇っていた菅谷組は、山口組から絶縁された後も解散せずに公然とシノギを続けていたとか。
そのため、山口組若頭・山本健一さん経由で菅谷さんを引退に追い込む工作を依頼された中山さんは、引退済みの山口組関係者の力を借りて、菅谷組幹部の切り崩しを図ることになりました。
中山さんの菅谷組切り崩し工作は、傘下組織の組事務所に手榴弾を投げ込むなど、暴力を使っての追い込みもあったと言われております。
その結果、菅谷さんは1981年になると田岡一雄さんに詫びを入れて、菅谷組を解散させています。
中山勝正の身長や刺青…桜の刺青があった?
中山勝正さんは、昭和を代表する大物ヤクザの1人ですが、身長に関するエピソードは特にない状況となります。
また、刺青に関しても上半身が裸になった映像や画像が残っていない状況であり、「刺青は入れていなかった説」なども存在します。
とはいえ、後述する「竹中正久暗殺事件」時に週刊誌に掲載された現場写真を見たネットユーザーによると、腕に桜の刺青が彫ってあったそうですね。
1 :名無番長:2015/07/27(月) 17:28:29.97 0
○○は入れ墨してるとか話だけでなく見て確認した大物をあげてくれ
実際に見たのならベストだが、それはめったにない機会だから写真や動画で見た例をあげてほしい
俺が見たのは、
山田久、溝下秀男
上半身裸の写真で確認
中島順成
盃事の動画で胸元からチラリと見えた
青山秀明
盃事の司会で手首の部分に時計みたいに入れ墨してるのが見えた
服部武
盃事の集合写真で和服の袖からのぞいてた
中山勝正
山口組四代目といっしょに襲撃されたとき、上半身裸でベッドに
横たわっている写真が雑誌に載る
腕に桜の入れ墨があった
中山勝正の人柄…後藤忠政の出世の恩人だった
中山勝正さんの人柄については、昔気質の任侠であり、シノギのために一般人に迷惑をかけることを酷く嫌っていたそうですね。
50 :高知:01/09/27 14:51
地元では、悪く言う人は、殆んど居ないよ。
堅気の人達は、中山さん、とは呼ばず、勝正さんと言ってました。
本当によく出来た方だったらしいです。(決して堅気の人に、迷惑をかけるなと、組員
にも徹底してた)
当時の県警の中にも、その死を、惜しむ人達が多数いたとの事です。
また、才能のある若者を抜擢することが好きな人物だったらしく、静岡のローカルヤクザ(山口組系三次団体の組長)に過ぎなかった後藤忠政さんを直参に取り立てるようにと、山口組執行部に進言したこともありました。
ちなみに、当時の中山さんと後藤さんは面識もないような間柄だったとか。
そんな中山さんは、普段から横柄なところもまったくなく、目下の者にも気さくに話かけてくるような好人物だったと言われております。
その他、部下の面倒見も良かったそうで、組員の家族への誕生日プレゼントをかかさなかったり、組員の妻が働く飲み屋に顔を出して生活費などを渡していました。
中山勝正の結婚情報…嫁や息子・娘はいたのか?
中山勝正さんの家族情報については、生前は結婚しており、2021年現在で58歳となる娘がいました。
中山さんの娘については「豪友会」の拠点があった高知市育ちだったらしく、県立高知工業高校に通っていたそうですね。
また、若い頃は彫りの深い顔をした綺麗系の美少女だったそうで、大物ヤクザの娘なのにも関わらず偉ぶることもない性格だったとか。
ちなみに、中山さんは昭和のヤクザらしく愛人などもいたようで、そちらにも子供が何人か生まれていたと言われております。
その他、後述する山口組4代目継承争いが起こっていた頃には、長女か非嫡出子のどちらにかは不明となりますが、孫も生まれていたそうですね。
中山勝正の自宅情報…高知市長尾山町にあった
中山勝正さんの自宅については、高知県高知市長尾山町にあったそうですね。
ただし、中山さんが暗殺されたのが1985年の出来事だったこともあり、どれだけの豪邸だったのかを示す写真などは残されていません。
中山勝正の最期と死因…「竹中正久暗殺事件」に巻き込まれて死亡していた
中山勝正、山口組4代目継承争いでは竹中正久側についていた
高知のローカルヤクザから山口組の幹部まで上り詰めた中山勝正さんですが、1982年から1984年にかけて山口組4代目継承争いの当事者となっています。
山口組の跡目争いについては、1981年に田岡一雄さんが病死した後、4代目最有力候補だった山本健一さんまでもが獄中死してしまったことが発端となりました。
ちなみに、山口組内部では、当初は組長代行を務めていた山本広さんを4代目に推す声が支配的でした。
しかしながら、山本広さんが生前より田岡さんに信頼されていなかったため、未亡人・文子さんの鶴の一声により(若頭を務めていた)竹中正久さんが山口組4代目組長に就任することになりました。
ちなみに、中山さんは竹中派の有力組長の1人だったものの、反山本広派の神輿に担がれていた竹中さん本人は、文子さんに「中山こそが次期4代目に相応しい」と推薦していたと言われております。
とはいえ、当時40代中盤の若さだった中山さんを山口4代目にするのは早すぎるという文子さんの判断により、竹中さんの進言は退けられたそうですね。
そのため、竹中さんとしては、5年程度組長をやった後で中山さんに跡目を譲るつもりでした。
中山勝正、死因は暗殺だった
1984年6月5日にスタートした竹中正久体制下の中山勝正さんは、山口組の若頭に就任しています。
とはいえ、文子さんの横やりのせいで跡目争いに負けた山本広さんの怒りは収まることがなく、山口組を脱退して1984年6月13日に一和会を結成することになりました。
一和会に関しては、山本派の組長たちが合流した結果、結成当初は7000人(山口組は6000人)もの構成員が集まっていたと言われております。
しかしながら、山口組執行部が一歩も譲歩する姿勢を見せずに絶縁状を叩きつけた結果、戦争するつもりまではなかった一和会側に脱退者が続出し、1984年末頃には構成員が2800人まで減る事態に陥ったそうですね。
446名無番長2018/01/14(日) 16:00:24.000
襲撃前の時点でもうガタガタで山広は雲隠れで一和のもんと連絡つかず
加茂田だったかが引退するって話が4代目側の耳に入ってたんだって
だからあの時点でもう負け路線だったんよ
そのため、状況を打破しようと焦った一部の急進派が、一和会執行部に無断で竹中さんの暗殺計画を企てることになりました。
「竹中正久暗殺事件」については、1986年1月26日夜に大阪府吹田市にあるマンション内で起こっており、襲撃に巻き込まれた中山さんも命を落としています。
1985年1月26日午後9時過ぎ、中山は愛人が住む大阪府吹田市のマンションに向かう竹中組長に同行していたが、同マンション1階エレベーター前において、待ち伏せをしていた二代目山広組若頭・後藤栄治に指揮された二代目山広組組員・田辺豊記、同組組員・長尾直美、同組組員・立花和夫の3人に銃撃された。中山は複数の銃弾を受けており、病院へ運ばれて治療を受けたが、その甲斐無くおよそ4時間後に死亡した。
引用:中山勝正
中山勝正、お墓の場所は?
将来を有望視された大物ヤクザだったものの「竹中正久暗殺事件」に巻き込まれて死亡した中山勝正さんですが、お墓の場所は特に公表されていないそうですね。
そのため、どこにあるのか不明となる中山さんのお墓でしたが、ネット上では故郷である高知県香美市大栃にあるのではないかとの噂が流れています。
中山勝正についてまとめてみると…
中山勝正さんについては、山口組5代目有力候補だったものの、「竹中正久暗殺事件」に巻き込まれて命を落とした悲運のヤクザということになります。
中山さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。