山口組元組長代行・山本広さんといえば、山口組を脱退して一和会を結成し、「山一抗争」を巻き起こした人物として有名です。
この記事では、山本広さんの経歴、性格、息子と自宅など家族情報の他、引退後の生活や晩年の様子についてまとめてみました。
この記事の目次
山本広のプロフィール
山本広(やまもと ひろし)
生年月日:1925年2月15日
出身地:兵庫県
山本広、生後すぐに養子に出されるも恵まれた生活だった
山本広さんについては、生家は兵庫県洲本市で半漁半農を営む出口家だったそうですね。
しかしながら、経済的に困窮していた出口家の三男という立場だった山本さんは、2歳の時に姉の嫁ぎ先だった山本家に養子に出されてしまうことになりました。
2歳にして実の両親と離れて暮らすことになった山本さんでしたが、養子先の山本家が経済的に恵まれていたことから、何不自由なく暮らすことが出来たとか。
兵庫高等小学校を卒業後は、大手電機会社の工員として働いていた山本さんですが、1942年になると徴兵されて呉の海兵団に入団した後、南方戦線に派兵されています。
山本広の経歴…有能な実務家として山口組内で台頭していった
山本広、会社の都合で山口組入りをしていた
終戦後の山本広さんに関しては、取り合えずは生家のある洲本市に戻り、畑仕事や漁を手伝っていたそうですね。
その後、知人の紹介で兵庫県尼崎市にある土建業「白石組」に入社することとなった山本さんですが、社長の白石幸吉さんが山口組組長・田岡一雄さんの舎弟という曰くつきの企業だったとか。
1950年になると、朝鮮戦争の特需により神戸港で取り扱う物資量が急増したため、白石さんも港湾荷役事業に進出することになりますが、「白石組」での働きぶりが認められた山本さんは、新たに設立された「上栄運輸」の監査役に抜擢されています。
「上栄運輸」での山本さんは、港湾労務者たちを良く管理し「上栄運輸」の経営も絶好調だったと言われております。
そのため、企業舎弟的立場から抜けて事業に専念しようと考えた白石さんは、会社と山口組とのパイプ役に山本さんを選び、田岡さんに若衆候補として推薦したそうですね。
神戸港湾業界のドンとして山本さんの働きぶりを知っていた田岡さんは、白石さんの提案を歓迎して受け入れたそうで、山本さんは1956年に山口組の若衆となり極道デビューを飾ることになりました。
山本広、山口組ではとんとん拍子に出世していた
予期せぬ形でヤクザとなった山本広さんですが、実務能力に長けていたことに加えて、白石幸吉さんからの資金援助もあったことから、1957年には山口組若頭補佐に就任しています。
そんな山本さんが、自身の城である山広組を結成したのは1959年のこととなります。金融や債券取立をシノギとしていた山広組は、最盛期には200人を超える組員数を誇っていたとか。
山口組幹部としての山本さんは、若頭を歴任した地道行雄さんや梶原清晴さんに気に入られており、右腕的な存在だったそうですね。
山本広の性格は温厚?…社会人時代にトラブルらしいトラブルはなかった
企業舎弟的立場から卒業したい一方で、港湾荷役事業を捨てられなかった白石幸吉さんの都合により、ヤクザの世界に足を踏み入れる形となった山本広さんですが、少年時代より荒くれエピソードとは無縁な人物でした。
戦前の工員時代から喧嘩や遅刻に無縁だったという山本さんは、復員後も「白石組」で真面目に肉体労働に従事していたそうですね。
そんな山本さんは、極道入り後も周囲に染まることなく温厚な性格だったと言われており、山口組内でも実力者として一目置かれていました。
山本広はなぜ田岡一雄に冷遇されたのか?…大阪戦争では断指も経験した
山口組の歴代若頭からは信用され腹心的な立場だった山本広さんですが、組長である田岡一雄さんの評価は低かったことでも有名です。
当初は有能な実務家として山本広さんを歓迎していた田岡さんですが、「第一次頂上作戦」時に警察の締め上げに根をあげて山口組を解散させようとしていた地道行雄さんの側近だったことから疑念を抱くようになったとか。
そんな田岡さんの疑念は、梶原清晴さんが事故死した後に行われた若頭選でも色濃く出ており、幹部間投票で山本広さんが選出されたのにも関わらず、物言いをつけて山本健一さんを新たな若頭に指名しています。
1971年には若頭・梶原清晴(梶原組組長)の死を受けて行われた若頭選挙に立候補し、得票では勝利したが、田岡の意向により断念して山健組組長・山本健一に その座を譲った。
引用:山本広
その後の山本広さんは、「大阪戦争」の際に田岡さんが暗殺されかけたのにも関わらず、(敵対勢力である)松田組との和解交渉を進めて断指をする羽目になったりと、田岡さんの心象を損なうミスを続けることになりました。
そんな山本広さんの穏健派すぎる気質は、「三国事件」で菅谷政雄さんが絶縁された際にも色濃く出てしまい、田岡さんへの当てつけで菅谷組を解散させずにいた菅谷さんに対して、制裁を加えることが出来ませんでした。
山本広は山一抗争を起こした…部下の暴走で一和会が瓦解した
山本広、4代目継承レースに敗れて一和会を結成した
田岡一雄さんに冷遇されて、出世の芽を摘まれていた山本広さんですが、1981年になるとその田岡さんが病死した上に、翌年には次期組長候補だった山本健一さんまで急死するといった幸運が舞い込んできます。
暫定体制下では組長代行を務めた山本広さんは、山口組直参組長の大半から支持を経て、四代目候補筆頭格になっていた時期もあったそうですね。
しかしながら、田岡さんから「俺の跡目は山健、山健の下の若頭は竹中」との遺言を預かっていた未亡人・田岡フミ子さんの介入や竹中派の巻き返し工作もあり、最終的には竹中正久さんに山口組四代目の地位を奪われてしまうことになりました。
この時ばかりは、胸の内に怒りを収めておくことが出来なかった山本広さんは、1984年6月に山口組を脱退すると一和会を結成しています。
山本広、部下の暴走のせいで一和会が瓦解した
反竹中派が集まることとなった一和会に関しては、結成当初は6000人もの組員がいたそうで、竹中正久体制が発足したばかりの山口組(4700人)よりも優勢だったとか。
しかしながら、山口組が一和会に対して絶縁状を叩きつけるなど強固な姿勢を見せたことで状況は一変。山口組を相手に戦争するつもりまではなかった組員たちが相次いで離脱する状態へと陥り、1984年の年末には一和会の組員が2800人まで減るほどの劣勢に追い込まれています。
「山一抗争」と呼ばれた一和会と山口組の抗争については、劣勢を挽回しようと焦った一部の武闘派が、執行部に無断で「竹中正久暗殺事件」を起こしてしまったことで、かえって一和会の内部崩壊を招いてしまうことにもなりました。
組長を暗殺された山口組からの壮絶な報復もあり、ますます厭戦ムードが漂うこととなった一和会は、1989年になると山本さんの引退と一和会の解散を条件に山口組と和解し、「山一抗争」も終結しております。
山本広の家族情報…嫁や息子情報は?
日本極道史に残る抗争の当事者だった山本広さんですが、家庭では恐妻家だったことでも有名です。
山本さんの恐妻家ぶりはかなり徹底していたようで、山口組関連の宴会ですら夜10時になると切り上げて帰宅していた他、知人の葬式に出席した帰りに女遊びをして一晩家に帰らなかっただけで、妻から部下たちへ確認の電話がかかってくるほどでした。
そんな山本さんの子供情報に関しては、カタギとして生きているためか、表には一切出て来ていない状況となります。
山本広の自宅情報…品の良い和風邸宅だった
山本広さんの自宅については、兵庫県神戸市東灘区の住宅街にある品の良い和風邸宅でした。
歴代の山口組幹部たちの豪邸とは違い門構えにいかつさのない山本邸ですが、「山一抗争」時は消火器爆弾や手投げ弾を投げ込まれるなど、散々な目にあったようですね。
山本広の引退後の生活・晩年と最期…竹中武に命を狙われ続けていた
山本広、引退後の生活は大変だった
「山一抗争」終結後の山本広さんですが、「山本広の命を取らなければケジメがついたと言えない」と、和解に反対していた竹中組組長・竹中武さん(竹名正久の実弟)から命を狙われたため、雲隠れする日々が続くことになりました。
晩年の山本さんがどこで暮らしていたかは諸説あるそうで、山梨県にある日蓮宗総本山久遠寺に匿って貰っていたとの説もあれば、京都で隠遁生活を送っていたとの説もあるようですね。
山本さんの隠遁生活には、一和会と和解した手前もあり山口組も深く関わっていたそうで、生活資金5000万円に加えて隠れ家も手配してくれていたとか。
山本広、死因は病死だった
晩年の山本広さんに関しては、「山一抗争」時の心労に加えて、竹中武さんに命を狙われ続けたストレスから、病魔に侵されて体調を崩していたと言われております。
そのため、「山一抗争」締結からわずか4年後となる1993年8月に、神戸市内の病院で亡くなってしまったそうですね。
「山一抗争」では、双方で400人もの逮捕者が出た手前、病状の山本さんは、服役している一和会関係者の出所後の身の振り方について心配ばかり口にしていたとか。
山本広についてまとめてみると…
山本広さんについては、元々は真面目な会社員だったものの、周囲の大人の事情に流れてヤクザになった人物ということになります。
山本さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。