鳴海清といえば、山口組三代目組長・田岡一雄さんを襲撃して命を狙ったベラミ事件で有名ですが、後に何者かに殺害され、腐乱死体として発見されました。
鳴海清のプロフィールと生い立ち、背中の天女の刺青、殺され方の真相、女と子供、映画化など現在までをまとめました。
この記事の目次
鳴海清のプロフィールと生い立ち
鳴海清は、1952年に大阪府大阪市西成区で八百屋を営む両親の元へ生まれました。
当時の日本の一般家庭同様に子沢山家庭だったという鳴海家でしたが、働き者だった両親が地元の労働者を相手に食堂なども営んでいたため、貧しい思いをしなくても済んだようですね。
少年時代の鳴海清に関しては、特に素行が悪かったとのエピソードもなく、中学を卒業後は東大阪市にある印刷工場に就職しております。
2年ほどで印刷工場を退職し実家のある西成に戻って来た鳴海清ですが、たまたま立ち寄った喫茶店で口論となった末に相手を殴り殺してしまい、傷害致死罪で逮捕。浪速中等少年院に送致されています。
19歳の頃に浪速中等少年院を出所した鳴海清ですが、当初は土木作業員などをしており、真面目に働いていたようですね。
その後、近所の女性と恋仲になり結婚をした鳴海清は、実家の八百屋の部分を改装して「なるみ食堂」を営むようになりますが、不慣れな食堂経営は上手く行かず、客もまばらだったと言われております。
「なるみ食堂」の経営不振ぶりにやさぐれて行った鳴海清は、地元の暴力団・松田組系大日本正義団の催す賭場に出入りするようになり、やがて本職のヤクザとなってしまったとか。
ちなみに、「なるみ食堂」の方は営業開始から2年ほどで閉店しています。
鳴海清が起こしたベラミ事件(山口組三代目襲撃事件)とは
ベラミ事件までの経緯① ジュテーム事件
山口組3代目組長・田岡一雄さん暗殺未遂事件となる「ベラミ事件」ですが、そのきっかけに関しては、1975年の「ジュテーム事件」まで遡ります。
「ジュテーム事件」の始まりについては、山口組系佐々木組組員が、松田組系溝口組の賭場でトラブルを起こしたそうですね。
1975年7月になると、トラブルの報復に動いた溝口組関係者の手により、大阪府豊中市の喫茶店「ジュテーム」にて、佐々木組組員が銃撃を受けて3人の死者と1人の重症者が出ます。
とはいえ、「ジュテーム事件」当初の山口組は、松田組との全面戦争を回避する意向だったらしく、「すべては末端の組員同士のいざこざ」として和解に動いていたと言われております。
しかしながら、そんな山口組の意向を察知していなかった松田組は、山口組本部にまで銃撃を仕掛けてしまい、せっかくの和解のチャンスを不意にしてしまうことになりました。
「ジュテーム事件」より始まった松田組と山口組との抗争に関しては、「大阪戦争」の通称でお馴染みとなっています。
ベラミ事件までの経緯② 大日本正義団会長が射殺される
「ジュテーム事件」を機に本格化した「大阪戦争」ですが、1975年9月になると、本部襲撃のお礼回りに、山口組系中西組の関係者が松田組組長の邸宅を銃撃する事件が起こっています。
その後、落とし前をつけに中西組襲撃の実働部隊となったのが、松田組系大日本正義団だったと言われており、中西組関係者1人を射殺することになりました。
しかしながら、悪目立ちすることとなったツケも大きく、1976年10月になると、今度は大日本正義団が中西組からの報復の的となってしまい、会長の吉田芳弘さんが射殺される「日本橋事件」が起こります。
抗争は一時沈静化していたが、翌年の1976年10月3日に大阪日本橋筋商店街で大日本正義団の会長・吉田芳弘(当時36歳)が、待たせていた車のドアを開けようとしたところ、佐々木組組員2人組によって射殺された。
引用:大阪戦争
山口組的には、これで「大阪戦争」を手打ちにするつもりだったようですが、会長を殺害された大日本正義団側は実弟の吉田芳幸さんを後継者に担ぎ出し、報復を誓うことになりました。
鳴海清、ナイトクラブ「ベラミ」にて暗殺の機会を伺う
「日本橋事件」の復讐に燃える大日本正義団の中でも、特に怒りに燃えていたのが鳴海清だったそうで、火葬後の吉田芳弘さんの遺骨をかじって復讐を誓ったとの逸話まで残っています。
元々吉田芳弘さんの運転手をしていた鳴海清でしたが、「日本橋事件」直前に交通事故に遭い、事件当日は自宅で療養中だったため、会長の身を守れなかった無念さがより一層募ったのかもしれません。
その後、「日本橋事件」の報復として山口組3代目組長田岡一雄さんの命を狙うようになった鳴海清は、田岡さんが京都・三条大橋のナイトクラブ「ベラミ」の常連客だという情報を入手すると、暗殺の機会を伺うために「ベラミ」に通い始めたそうですね。
鳴海清、1978年7月に山口組三代目・田岡一雄を襲撃
「ベラミ事件」は、1978年7月11日に起こっています。その日、田岡一雄さんが「東映京都撮影所」帰りに「ベラミ」に立ち寄るとの情報を入手した鳴海清は、懐に拳銃を忍ばせ「ベラミ」に直行し、ダンスショーが終ったタイミングで田岡さんを襲撃。
鳴海清が放った銃弾は田岡さんの首を貫通した他、一般客2名を負傷させることになりました。
事件後、ただちに現場から逃走した鳴海清は、吉田芳幸さんに成果を報告し暗殺の成功を確信していたようですが、実際のところは全治2ケ月の重傷を負ったものの田岡さんは一命を取り留めていました。
その後、ニュースを通して暗殺失敗を知った鳴海清は、腹にダイナマイトを巻いて田岡さんに突撃する計画まで立てていたそうですが、周囲から止められて松田組系忠成会に匿われております。
ちなみに、とんだ事件に巻き込まれることとなった「ベラミ」ですが、後にママや従業員たちが料亭に招待され、田岡さん本人から謝罪を受けたそうですね。
「ベラミ事件」で店や一般人を巻き込んでしまったことを自省していた田岡さんは、以降は自分も含めた暴力団関係者が「ベラミ」に足を向けることがないことを約束したと言われております。
鳴海清の死の真相…背中の天女の刺青から身元が判明していた
鳴海清、新聞社に挑戦状を送って山口組を刺激
「ベラミ事件」後の鳴海清に関しては、1978年8月13日になると、大阪の夕刊紙に田岡一雄さんを嘲笑する挑戦状を送りつけるといった暴挙に出ることになりました。
田岡まだお前は己の非に気づかないのか…もうすこし頭のすづしい男だと思っていた。でも見そこなった様だ。
日本一ならば真の親分ならば恥を知る者だ。それを知らぬかぎりしょせん、くすぼりの成り上りでしかない。
このまま己の力を過信すれば、その過信がお前のすべてのものをほろぼす事になる。それは天罰だ。必ず思い知らされる時が来るぞ。
田岡さんといえば、3代目襲名時に三十数名の組員しかいなかった山口組を日本最大の暴力団へと成長させた立志伝中の人物でした。
そのため、ただちに報復に動いた山口組系佐々木組により、松田組系組員の射殺事件が相次ぎ幹部クラス3人を含む7名の犠牲者が出ています。
鳴海清、腐乱死体の特定は天女の刺青だった
松田組系忠成会に匿われていたはずの鳴海清でしたが、1978年9月17日なると、六甲山・瑞宝寺谷にてガムテープでぐるぐる巻きにされた腐乱死体で発見されています。
死後1ヶ月程度経っていると推定された鳴海清の遺体は、夏場に放置されていたことも手伝い蛆虫がわくほど腐乱しており、指紋が採取出来ないほど体が崩れていたようです。
そのため、本人確認をする術は、背中に彫られた「天女の刺青」とお守り袋の中に入っていた子供たちの写真だけだったと言われております。
大阪・西成の彫り師は写真を見て、1972年、一年がかりで彫った鳴海のものに間違いないと認め、鳴海の内妻は彼との間に生まれた長男、長女のスナップ写真だと、泣きながら答えた。
鳴海清殺害犯5人が逮捕される
「鳴海清殺害事件」では、実行犯として、鳴海清を匿っていたはずの松田組系忠成会の組員5人が逮捕されています。
とはいえ、忠成会組員らの供述には、実際の証拠と矛盾する内容が含まれていたり供述自体が変遷して行ったりと、疑問の残る部分が多かったようですね。
そのため、1990年1月に下った最高裁の判決では、組員らは逮捕監禁や同幇助罪でこそ有罪判決を受けたものの、殺人罪では無罪とされました。
以上のような複雑怪奇な経緯を辿ったこともあり、「実行犯は山口組で忠成会の面々は替え玉に過ぎなかったのではないか?」との噂も存在します。
しかしながら、鳴海清の身柄を確保して殺害したとなれば、出世間違いなしの大手柄となる中で、実際に自首をした山口組組員がいないことを踏まえると、山口組が関与している可能性は低そうです。
鳴海清の殺され方…性器が切り取られ壮絶なリンチを受けた形跡も
予期せぬ姿で発見された鳴海清ですが、前歯が折られ脇腹に複数の刺し傷があった他、爪や性器が切り取られているなど、壮絶なリンチを受けた形跡がありました。
英雄気取りで暴走した鳴海清が、松田組内で厄介者扱いされた末に殺されたのだろうと考える人間が多いようですね。
実際の話、「日本橋事件」後の松田組は山口組との和解の道を探っていたらしく、傘下の組員たちには報復行為を自重するようにとの指令が下っていたとも言われおります。
そんな中で起こってしまった事件が「ベラミ事件」だったようで、松田組系忠成会会長が鳴海清の身柄を引き受けた理由も、「日本橋事件」で亡くなった吉田芳弘さんと義兄弟の間柄だったためでした。
本来ならば恩義を感じて身を潜める立場だった鳴海清ですが、前述の通り新聞社に挑戦状を送り付けて報復を招いてみたり、勝手気ままに街中を出歩いてみたりと、やりたい放題だったとか。
ちなみに、鳴海清の腐乱死体発見以降も山口組からの報復は続き、松田組関係者より3名の死者と2名の負傷が出てることになりました。
「大阪戦争」に関しては、結局は和解するという形にはならず、1978年11月になると、山口組若頭・山本健一さんがマスコミを集め、一方的に抗争終結宣言をすることで幕を閉じる形となったようですね。
松田組にとって「大阪戦争」の後遺症は大きく、終結後に離脱する傘下組織が相次いだため、1983年頃に解散してしまいました。
鳴海清の結婚した嫁と子供…愛人が三菱銀行人質事件犯人の女になっていた
鳴海清、愛人との間に子供を作っていた
鳴海清に関しては、「なるみ食堂」を一緒に切り盛りしていた妻Aさんとは、離婚せずに最後まで添い遂げたと言われております。
とはいえ、とにかく女性にモテていた鳴海清は、Aさんの他に愛人Bさんとも別の家庭を持っており、長男と長女が生まれていました。
鳴海清は、愛人との間に生まれた子供をとにかく可愛がっていたらしく、銭湯にも自ら連れていくほどでした。
夫の愛人の存在については、Aさんも認知していたようで、デリカシーに欠ける部分があった鳴海清により引き合わされる機会が度々あり、出産の下準備を任されたこともあったそうですね。
鳴海清の愛人が「三菱銀行人質事件」の犯人の女になっていた
鳴海清が殺害された後の妻Aさんや子供たちの消息については不明となっておりますが、「ベラミ事件」の報復により、山口組から危害を食わえられることはなかったようですね。
一方で愛人Bさんに関しては、すぐに別の男を作ってしまったと言われており、1979年1月に起こった「三菱銀行人質事件」の犯人・梅川昭美の愛人になっていたとの噂も存在します。
「三菱銀行人質事件」では、三菱銀行北畠支店に銀行強盗目的で押し入った梅川昭美が、4人の被害者を出した末に警察に射殺される結末を迎えています。
そのため、再びフリーの身になってしまったBさんですが、その後は男に頼る人生を改めて、「尼崎連続変死事件」の角田美代子になったとの都市伝説まであるようですね。
今調べてたら、山口組田岡組長を狙撃犯鳴海清の愛人は、後年、三菱銀行人質事件を起こした梅川昭美の愛人となり、その後、尼崎連続変死事件を起こして留置場で自殺した角田美代子って噂があって、良くできているというか面白すぎ。
— yamasaci tohru やまん (@yamachin_nu) December 27, 2013
鳴海清の現在…伝説のヒットマンとして映画の題材に
鳴海清の現在については、話題性のある事件の当事者ということもあり、定期的に映画の題材となっています。
・総長の首(1979年)
・獅子王たちの夏(1991年)
・獅子王たちの最后(1993年)
・ドンを撃った男(1999年)
そのため、40年以上経った現在でも「ベラミ事件」の知名度は高く、鳴海清も伝説のヒットマンとして語り継がれている状況となっているようですね。
鳴海清についてまとめると…
・鳴海清はベラミ事件を起こした2ヶ月後に六甲山で腐乱死体で発見され、背中の天女の刺青から身元が特定された
・鳴海清は結婚した嫁と離婚することはなかったが、愛人との間に子供が2人いた
・鳴海清の死後、愛人が三菱銀行人質事件の犯人・梅川昭美の女になったといわれている
鳴海清に関しては、山口組3代目組長・田岡一雄さんの命を狙ったものの失敗し、壮絶なリンチの末に死亡した伝説のヤクザということになります。
鳴海清のご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。