幼少期から歌の才能を発揮し、マネージャーを務めた母・喜美枝さんに支えられながら時代のスターとなった美空ひばりさん。
その人生は波乱万丈の一言に尽きますが、8歳から歌手として活動し命日となる1989年6月24日まで羽ばたいた美空ひばりさんについて詳しくまとめたので紹介しましょう。
この記事の目次
美空ひばりのプロフィールと経歴
激動の時代の中、数奇な運命を生きた美空ひばり
美空ひばりさんと言えば思い浮かぶのは「川の流れのように」だと思いますが、この名曲が誕生するまでの美空ひばりさんの人生は想像を絶するものでした。
美空ひばりさんのプロフィールはこちら。
出生名: 加藤 和枝(かとう かずえ)
生誕: 1937年5月29日
出身地: 神奈川県横浜市磯子区滝頭
死没: 1989年6月24日(満52歳没)
学歴: 精華学園高等部卒業
ジャンル: 歌謡曲、演歌、ジャズ
職業: 歌手、女優
活動期間: 1949年 – 1989年
レーベル: 日本コロムビア
事務所: ひばりプロダクション
1988年に東京ドームで開催された美空ひばりさんの「不死鳥コンサート」は”伝説のコンサート”として今も語り継がれています。
美空ひばりさんは今でも多くの人の心の中で生きているようで、美空ひばりさんの公式サイトも随時情報が更新され、2017年6月24日にはアルバムCD『美空ひばりベスト ~名曲をうたう』も発売されました。
まさに日本の歌謡界で伝説の鳥となった美空ひばりさんについてご紹介していきましょう。
美空ひばりの生い立ち&経歴
レコードがあり歌好きの両親の元で育った美空ひばり
美空ひばりさんは1937年5月29日に神奈川県横浜市磯子区滝頭で加藤家の長女として生まれました。
美空ひばりさんの本名は加藤和枝(かとう かずえ)さんといい、美空ひばりさんの父親の増吉さんは魚屋「魚増」を営み、母・喜美枝さん、妹・勢津子さん、ふたりの弟・哲也さん、武彦さんの6人家族でした。
家にはレコードがあり、両親がよく歌謡曲を聞いていたことから美空ひばりさんも影響を受けてよく歌を聴き、歌うようになります。
1943年(昭和18年)4月22日、当時は第二次世界大戦真っ只中であり、父の増吉さんは出征することになり壮行会が開かれましたが、その時に増吉さんのために美空ひばりさんが歌った『九段の母』に集まった人々が感動し、その様子に母の喜美枝さんは美空ひばりさんの歌の才能を見出したそうです。
以後、美空ひばりさんは母親の計らいの元で人々の前で歌う機会を得ていきます。
美空ひばりさんは1944年(昭和19年)4月1日に滝頭国民学校という学校に入学しています。
美空ひばり、プロデビュー
1945年に本格的に歌手となった美空ひばり
美空ひばりさんの母・喜美枝さんが「青空楽団」を開設し、”美空 和枝”の芸名で歌手活動を始めました。
美空ひばりさんのデビューとなる舞台は近所の銭湯や公民館などでしたが、人前で興業をするわけですから立派なプロ歌手デビューでした。
その評判は瞬く間に広まり、美空ひばりさんは全国デビューしようと1946年にNHKの『素人のど自慢』に出場しました。
美空ひばりさんのレベルは他を凌駕していたため、合格を確信していたようですがそうはなりませんでした。
理由は歌唱力は認めるものの、子供ながらに赤いドレスを着て熱唱する姿が子供らしくなく、教育上良くないというものでした。
美空ひばり、古賀政男との出会いでプロへ
美空ひばりさんと母・喜美枝さんは横浜市磯子区の杉田劇場で初舞台を踏み、着実に評判を得ていきます。
NHKからの全国デビューを果たせなかった美空ひばりさんと喜美枝さんは地道に活動を積み、横浜で開催されたのど自慢大会に審査員として参加していた昭和期の代表的作曲家である古賀政男さんに美空ひばりさんは「悲しき竹笛」を目の前で歌い、聞いてもらいます。
すると、古賀政男さんは「すでに完成されている」と賞賛し、プロ歌手としてとしての太鼓判を押しています。
そして、後に古賀政男さんは美空ひばりさんへ「娘船頭さん」や「江戸の闇太郎」など楽曲を提供しています。
九死に一生を得た美空ひばり
二つの幸運が重なり命を拾った美空ひばり
プロ歌手としての道を歩み始めたばかりの美空ひばりさんでしたが、交通事故により命を落としかけたことがあったようです。
古賀政男さんと出会って以降、美空ひばりさんは歌うステージに恵まれ始めたようです。
1947年から漫談の井口静波さんと俗曲の音丸さんの前座として歌い始めた美空ひばりさんは、一緒に地方巡業をするようになります。
しかし、美空ひばりさんと喜美枝さんが乗ったバスが高知県長岡郡大杉村(現長岡郡大豊町)の国道32号線で前方のトラックを躱そうとして崖へ転落。
普通なら崖下の川に落ちて全員死亡していたところでしたが、バスのバンパーが奇跡的に崖に生えていた桜の木に引っかかり車体が止まり崖下への転落は免れました。
しかし、美空ひばりさんは重傷を負って意識不明の重体、瞳孔も開いており仮死状態でしたが、幸い村に医師がいたようで蘇生することができ、美空ひばりさんは九死に一生を得たそうです。
美空ひばり、山口組の庇護を受け始める
昭和50年頃はまだ興業をやくざが牛耳っていた
今でも芸能界と裏社会は密接な関係が続いていますが、昭和50年頃は完全に興業自体をやくざが牛耳っていたようで、才能に溢れていた美空ひばりさんは力のある暴力団組織・山口組の庇護を受けるようになります。
美空ひばりさんが最も活躍したと言われる1950年、60年代は社会は安定とは程遠い情勢で、芸能界の興業は完全に裏社会の人間が取り仕切っていました。
当時次第に売れっ子になっていった美空ひばりさんも神戸での興業に幅を利かせていた山口組三代目組長の田岡一雄さんの庇護を受けるようになります。
美空ひばりと命名される
1948年に美空ひばりさんは横浜国際劇場と準専属契約を結び出演の舞台を得ますが、喜美枝さんが演出をしていた宝塚の岡田惠吉さんにお願いして”美空ひばり”という芸名を考えてもらったそうです。
美空ひばりさんの人気は瞬く間に膨らみ、同年3月には映画『のど自慢狂時代』に初出演を果たした美空ひばりさんは、8月にも映画『踊る竜宮城』に出演。主題歌になった『河童ブギウギ』で11歳の若さでレコードデビューを果たします。
そして、翌1949年には12歳で映画『悲しき口笛』で主演を務め、シルクハットに燕尾服で歌った美空ひばりさんの主題歌は45万枚という当時としては最高のセールスを叩き出しました。
1950年3月に美空ひばりさんは滝頭小学校を卒業し、4月1日から精華学園中等部に入学しています。
「歌謡界の女王」「銀幕のスター」になった美空ひばり
1950年代からは美空ひばりさんは多くの映画への出演と主題歌を歌い、空前絶後の大ブレークの中にいました。1953年からは喜美枝さんは美空ひばりさんのことを”お嬢”と呼び、それは次第に周囲に広がっていきました。
美空ひばりさんを庇護していた山口組三代目の田岡一雄さんは、1958年4月1日に芸能事務所となる神戸芸能社を立ち上げました。
さらに同年6月にはひばりプロダクションを立ち上げ、田岡一雄さんが副社長となって東映と専属契約を結び、数多くのヒット作映画に美空ひばりさんを出演させ続けました。
美空ひばりさんの女優としての経歴は凄まじく、生涯を閉じるまでのキャリアでおよそ150本以上の作品に出演し、そのほとんどが主演作だったという。
そのため、美空ひばりさんは「歌謡界の女王」と呼ばれ、さらに銀幕のスターでもありました。
美空ひばりと旦那・小林旭の結婚と離婚
大スターとなった美空ひばりは結婚後から少しずつ悲運が襲う
1960年まではまさに絶頂期を生きてきた美空ひばりさんは1962年についに結婚。旦那は長身で男前の日活スター俳優だった小林旭さんでした。
美空ひばりさんと旦那となった小林旭さんの馴れ初めは雑誌での対談でお互いに惹かれて交際を始めましたが、美空ひばりさんは小林旭さんにぞっこんだったようです。
小林旭さんは結婚を考える時期ではなかったものの、美空ひばりさんが父親同然だった田岡一雄さんに口添えをお願いし、山口組三代目組長の強引な押しもあり小林旭は断れずに結婚を決断しました。
ただ、結婚とは言っても美空ひばりさんと小林旭さんは入籍はしていなかったため、戸籍上は生涯独身ということになるそうです。
ただ、ふたりの結婚を猛反対していた喜美枝さんや周囲の人間の干渉もあり、落ち着いた結婚生活は遅れず、旦那の小林旭さんは美空ひばりさんに家庭に入ってもらいたいと思っていたことも、美空ひばりさんの歌手活動への情熱が強すぎて叶わず、離婚へと向かっていきます。
そして、結婚した翌年には父の増吉さんが肺結核で他界します。
美空ひばり、離婚
結婚から2年で離婚した美空ひばり
美空ひばりさんは旦那とのすれ違いから別居をしていましたが、結局結婚から2年ほどで離婚してしまいます。
美空ひばりさんと小林旭さんの離婚を取り持ったのも田岡一雄さんで、引導を渡された小林旭さんは問答無用で離婚を飲んだようです。
どれだけやくざが力を持っていたかがわかる時代背景ですね。
美空ひばりさんが小林旭さんと離婚したことで安堵した喜美枝さんは、影から支え続け美空ひばりさんが最も輝けるようにプロデュースし続けた手腕から「一卵性親子」というあだ名がマスコミから命名されました。
美空ひばりの暴力団になった弟の不祥事と母の死
山口組との関係が明るみとなった美空ひばり
美空ひばりさんの弟たちであるかとう哲也さんと香山武彦さん(共に芸名)は美空ひばりさんの影響力で芸能界に入りましたが、不祥事を起こした上、世間から山口組との関係を取り沙汰されて非難されました。
1973年に美空ひばりさんの弟であるかとう哲也さんが起こした不祥事により、美空ひばりさんも含めて暴力団である山口組と関係があることを世間からバッシングを受け始めます。
そして美空ひばりの弟も、いつしかどっぷりと付き合いが深くなってしまいます。加藤益夫が本名で小野透という芸名で芸能活動をした時期もありますが、かとう哲也として知られている弟は、いつの間にやら暴力団の世界に入り父親の葬儀の際の花輪に書いた肩書きに「山口組系益田組の舎弟頭」という肩書きを書いたことが決定打になったといえるでしょう。美空ひばりはヤクザの山口組と深い関係があるうえに、実の弟はヤクザだといわれることになりました。
1963年から10回連続でトリを務めていた『NHK紅白歌合戦』を辞退せざるを得ない状況になり、代わりにこの年の年末は現在のテレビ朝日が企画した『美空ひばりショー』に出演しました。
そのため、美空ひばりさんはこの年以降、『紅白歌合戦』のオファーを断り続けていました。
1981年にはこれまで二人三脚で芸能界を走ってきた喜美枝さんが転移性脳腫瘍により68歳で死去してしまいます。
さらに、実の父のように慕っていた山口組三代目組長の田岡一雄さんも直後に亡くなっています。
美空ひばり、実弟二人の死
実母を1981年に亡くした美空ひばりさんは1983年にかとう哲也さん、1986年に香山武彦さんを立て続けに亡くし、失意の底に沈んでしまいます。
美空ひばりさんは肉親を短期間の内に立て続けに亡くした孤独感から、お酒を浴びるように飲み、タバコの量は増えて次第に体を壊していくことになります。
そしてその体の変調は1985年5月の、美空ひばりさんの誕生日記念で開催されたゴルフコンペ中に起こります。
足腰に違和感を感じた美空ひばりさんはそれでも精力的にツアーを続けましたが、無理し続けたことが祟って1987年の四国公演中に耐えられないほどの激痛に襲われてしまいます。
医師の診断の結果は、重度の慢性肝炎および両側特発性大腿骨頭壊死症とマスコミから報じられましたが、美空ひばりさんの周囲が世間に大きな不安を抱かせないように症状を軽く報告しただけで、実はさらに重症の肝硬変を発症していたのです。
美空ひばりの病気と全国ツアー・伝説のコンサート…息子の加藤和也が述懐
美空ひばり、病気と戦いながらの全国ツアー
病気が完治しないまま体に鞭打って巡業を続けた美空ひばり
歌うことをやめたくなかった美空ひばりさんは、体が悲鳴を上げてもなお自分を騙しながら全国ツアーを続けました。
美空ひばりさんは1987年8月3日に退院をすると、ファンの前に笑顔で姿を現しました。
退院後の涙の会見では「お酒は止めますが、歌は辞めません」とコメントし、全国のファンを安堵させましたが、美空ひばりさんの肝硬変は6割程度しか回復していない上に、大腿骨頭壊死は進行中でした。
美空ひばり、伝説のコンサートを開催
美空ひばりの完全復帰を印象づけた伝説のコンサート
美空ひばりさんの歌手人生でも大一番となったのは1988年4月11日に東京ドームで開催されたコンサート「不死鳥 美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって」で、普通なら立っていられないほどの足腰の激痛に気力だけで耐えながら39曲を熱唱しました。
現在でも美空ひばりさんの特集をする時にはよく使われますが、赤に金色をあしらったフェニックスを模した衣装で39曲を歌い上げた美空ひばりさん。
激痛に耐えながらも歌唱中はほとんど表情には出さなかったようですが、最後に約100mもある花道を歩いて退場する際には苦痛に耐えているかのように見えたそうです。
しかし、美空ひばりさんは退場の時までもファンに完全復活を印象付けるようにアピールし、退場した先に待機していた息子の加藤和也さんに倒れこむように身を任せ、そのまま救急車で病院まで搬送されたようです。
美空ひばり、生涯最後の名曲「川の流れのように」
珠玉の名曲「川の流れのように」は最後のシングルだった
美空ひばりさんの代表曲である「川の流れのように」は、美空ひばりさんが亡くなる直前に自らアルバム「不死鳥パートII」からシングルカットを望み実現した曲でした。
美空ひばりさんは「川の流れのように」という曲について次のように語っています。
美空ひばりは、このアルバムに関するインタビューで、「もう『川の流れのように』の曲を1曲聴いていただくと、10曲全てが分かるんじゃないでしょうか」と、えん然と答えたそうです。美空ひばりは、死期を前にして、この1曲に、これまでの自分の歌手人生全てが表されていることを感じ取っていたに違いありません。
ちなみに、美空ひばりさんのアルバム「不死鳥パートII」の企画はAKBグループを世に送り出した秋元康さんのもので、「川の流れのように」の作詞も担当しています。
美空ひばりさんは「川の流れのように」が自身の人生の集大成としてふさわしい曲だと感じたのでしょう。
美空ひばり、コンサートで命を燃やし尽くす
時代は「昭和」から「平成」へ
美空ひばりさんは元号が平成に変わってからも、自身の生命のすべてをコンサート会場に置いてくるかのようなツアーを敢行します。
美空ひばりさんにとって人生最後のテレビ出演は、1989年1月15日に放送された『ミュージックフェア(フジテレビ)』となりました。
そして、美空ひばりさんはこの年には全国ツアー「歌は我が命」を福岡県博多区にある福岡サンパレスからスタートさせましたが、肝硬変が悪化してチアノーゼを引き起こしてしまいます。
美空ひばりさんは足元もおぼつかず、周囲の関係者は公演中止を提案しましたが、美空ひばりさんは反対を押し切ってコンサートを開催しました。
そして、翌日2月7日には福岡県北九州でのコンサートでしたが、陸での移動手段が美空ひばりさんにとって体の負担が大きく耐えられないと判断し、ヘリコプターを手配しての移動となりました。
楽屋に入るとすぐにベッドへ横になり、いつでも病態悪化に備えて医師が待機していたそうです。
この時に美空ひばりさんを支えていた息子の加藤和也さんは次のように述懐しています。
息子・和也は後に「おふくろはもう気力だけで立っていたんだと思います…お医者さんには、間髪入れずに『倒れて出血したらもう終わりです。喉を切開して血を抜かないと、窒息をしちゃいますよ。いつ倒れてもおかしくないからですからね』と言われてたんで、袖で陣取っていたんですけど、ここの時ほど心細い時はなかった。本当…死んだ親父やばあちゃんがいたらな…って思いましたよ」
美空ひばり死去とその後…死因は特発性間質性肺炎
美空ひばり死去、死因とは
美空ひばり、1989年6月24日に特発性間質性肺炎のため死去
最後の最後まで歌のために生きることを望み、闘病を続けた美空ひばりさんでしたが、ついに1989年6月24日に死去されました。死因は特発性間質性肺炎による呼吸不全ということです。報道では死因を心不全とされていたようですね。
美空ひばりさんは北九州での公演を何とか終えた後も、横浜アリーナでのコンサートになんとしてでも出演したいと願っていたようですが、ついにそれは叶うことはありませんでした。
そして、1989年3月21日に美空ひばりさんは人生で最後のメディア出演として、ラジオに自宅から生放送で出演しました。
美空ひばりさんはラジオの終盤には下記のようなコメントを残しています。
「ひばりに引退は有りません。ずっと歌い続けて、いつの間にかいなくなるのよ」
このラジオ番組への出演の後、美空ひばりさんは死因でもある間質性肺炎の病状が次第に悪化していきます。
美空ひばりさんが間質性肺炎になった理由は分からないそうですが、有効な治療法とされるステロイドホルモンが肝硬変に副作用を起こす可能性からほとんど使用ができなかったという。
再入院をした美空ひばりさんはメディア出演をする力は残っておらず、5月27日に自身の写真と下記のメッセージを公開。
麦畑 ひばりが一羽 飛び立ちて… その鳥撃つな 村人よ!
引用:一首鑑賞 日々のクオリア
そして、下記のような美空ひばりさんの声を録音した肉声テープも公開しています。
〈私自身の命ですから、私の中にひとつでも悩みを引きずって歩んでいくわけには参りませんので、後悔のないように、完璧に人生のこの道を歩みたいと願っているこの頃です〉
引用:アサ芸プラス – 美空ひばり “没後25年”未公開取材メモで明かされる「光と孤独」(4)病室で録音したファンへのメッセージ
このメッセージが美空ひばりさんが世に残した最後の言葉となりました。
1989年5月29日、病室で誕生日を迎えた美空ひばり
美空ひばりさんは52歳の誕生日を迎えた2週間後に病態が悪化し呼吸困難に陥るようになりました。そして、最後に遺した言葉は医師たちに向けた「よろしくお願いします。頑張まります。」だったそうです。
美空ひばりさんの息子である加藤和也さんも傍らで励まし続けたようですが、人工呼吸器が装着されることを知った美空ひばりさんは目に涙を溜めて「このまま死ぬんじゃないの!?悔しい!」と自分の死期を悟ったように声を絞り出して悔しがっていたと後に語っています。
「その頃からだんだんしゃべることが少なくなって『ごめんね』『ありがとう』としか言わなくなった。僕も何も言えなくて、ずっと見つめていることが多くなりました。亡くなる日も何か言わなきゃと思っているうちに『ごめんね』って言われちゃって‥‥。それで、おふくろがまた何か言おうとしたので、言葉を制して『大丈夫だよ』と言って病室を出てきたんです。それが最後の会話になりました」
引用:アサ芸プラス – 美空ひばり “没後25年”未公開取材メモで明かされる「光と孤独」(4)病室で録音したファンへのメッセージ
1989年6月24日の午前0時28分、美空ひばりさんは再び不死鳥として復活することを果たせずこの世を去ってしまいました。
死因は特発性間質性肺炎の悪化による呼吸不全でした。
多くの著名人が参列した美空ひばりの葬儀
美空ひばりの葬儀には合計で4万2千人が弔問した
美空ひばりさんの訃報が報道されると全国では悲しみの声が上がり、ひばり邸前に6000人のファンが詰めかけたという。
美空ひばりさんの葬儀は7月22日に青山葬儀所で執り行われ、ファン4万2千人が弔問しました。
葬儀には芸能界からも美空ひばりさんと親交のあった王貞治さん、和田アキ子さん、石橋貴明さん、北島三郎さん、森昌子さんなどほかにも名だたる歌手やタレントが葬儀に参加しました。
そして、参列した歌手らにより美空ひばりさんの代表曲「川の流れのように」が歌われて、美空ひばりさんの霊前へ捧げました。
美空ひばりさんの戒名は慈唱院美空日和清大姉で、横浜市港南区にある横浜市営日野公園墓地に埋葬されました。
2017年6月24日、美空ひばりの命日にツイッターで追想される
美空ひばりのレコード総売上は8000万枚
美空ひばりさんは生前、多くのアーティストへ影響を与え、そのオリジナル楽曲数は517曲、通算レコーディング曲数は1,500曲に登りました。まさに日本芸能史上で”伝説の歌姫”として今日も語り継がれています。
今日は美空ひばりさんの命日です亡くなられてもう28年今だに色褪せる事なくひばりちゃんの歌は受け継がれています私は山内惠介さん(恵ちゃん)もカバーしてる「ある女の詩」が大好きです📀 pic.twitter.com/cN9RukIy9H
— あい (@waky18621) 2017年6月24日
昨日のライブ、美空ひばりの命日ってこともありセレクトされたと思われるひばりさん楽曲、まさるちゃんが歌った「花笠道中」そして純さんが歌っ「柔」。どちらも浜田真理子さんがカバーしてた。いろんな個性の歌い手に歌い継がれていって欲しい名曲だなあ。
— あとりえままや (@ateliermamaya) 2017年6月25日
24日は美空ひばりさんの命日だとか。
— 神立尚紀 (@koudachinaoki) 2017年6月22日
私は生前に二度、取材している。最後は亡くなる半年前の昭和63年11月、最後に出演したドラマの撮影現場、TBS緑山スタジオ。5年ぶりのドラマ出演だった。写真はその時の掲載誌。亡くなったのが52歳だからこの時まだ51歳。貫禄があったなぁ、と思う。 pic.twitter.com/mwxe7XB6Op
美空ひばりさんがテレビ出演最後の歌唱となった「川の流れのように」の動画がこちら。
1989年1月15日に放送された『ミュージックフェア(フジテレビ)』にて。
死去する約5ヶ月前とは思えない美空ひばりさんの堂々とした姿は今でも語り継がれています。
美空ひばりについてまとめると…
日本を代表する歌姫であり、唯一の天才と言われた歌手・美空ひばりさんについてまとめてきました。
戦前、戦後と激動の時代を歌を武器に多くの人を癒してきた美空ひばりさん。
現在は息子の加藤和也さんをはじめ、多くのファンによって生きた証を語り継がれていますが、美空ひばりさんの人生から感じられるのは時代が生んだ後にも先にも無い天才だということでしょう。
現在も新しいアーティストにも影響を与えている美空ひばりさんは、現在も歌の中に生きているのだと思います。