当時人気絶頂だったビートルズのメンバーで世界的な大スターだったジョン・レノンさんと恋に落ち、結婚をした邦人女性オノ・ヨーコさん。最近報じられたヨーコさんの衰弱した姿も話題となっています。
オノ・ヨーコさんとジョン・レノンさんの出会いから結婚、子供についてや、ヨーコさんの現在の状態などについてまとめました。
この記事の目次
オノ・ヨーコのプロフィール
オノ・ヨーコ
出生名: 小野 洋子(おの・ようこ)
生誕: 1933年2月18日
出身地: 東京府(現:東京都)
職業: 芸術家・音楽家・平和活動家
活動期間: 1961年 –
ヨーコさんは銀行家の小野英輔さんの元に長女として生まれ、父親は当時横浜正金銀行のサンフランシスコ支店副頭取を務めており、それぞれの祖父は元日本興業銀行総裁、元貴族院議員を務めるなど大変裕福な家庭で育っています。
2歳のときにはサンフランシスコ、小学校の頃には父の仕事の都合でニューヨークに移住していますが、それぞれその後再び日本へ戻っており、その後小学校~大学(20歳まで)までは日本で暮らしています。
ヨーコさんは学習院大学の哲学科に在学していましたが、20歳のとき父親の赴任先のニューヨークへの移住を機に中退し、サラ・ローレンス大学に入学して音楽と詩を学んでいます。
最初の結婚
ヨーコさんはサラ・ローレンス大学在学中に作曲家の一柳慧さんと出会い、同大学を退学し結婚しています。
一柳慧(いちやなぎ・とし)
一柳さんは、1933年2月4日生まれ、兵庫県神戸市出身の作曲家・ピアニストです。
若いうちから才能を発揮し「天才少年」と呼ばれており、1954年に渡米しニューヨークのジュリアード音楽院に在学中にヨーコさんと出会い結婚。
1961年からは帰国して日本で活動し、80年代からは邦楽器のための作品を毎年のように発表しており、これまでに紫綬褒章や日本芸術院賞・恩賜賞など多数受賞しています。
ヨーコさんも1962年から1964年まで日本に帰国し前衛芸術の活動を始めますが、当時日本ではまだ理解が少なく、評論家からも批判されたヨーコさんはノイローゼ気味となり辛い日々を過ごしたと言います。
2度目の結婚、娘誕生
ヨーコさんは辛い日々を過ごす中でジャズミュージシャン・映像作家のアンソニー・コックスさんと出会い救われていきます。1962年11月にアンソニーさんと結婚しようとしていますが、一柳さんとの離婚が法的に成立しておらず無効に。同年6月に正式にアンソニーさんとの結婚が成立しています。
1人目の子供
8月には、娘のキョーコ・チャン・コックスさんが誕生。
1964年に理解者の多いニューヨークに戻り、1966年にはロンドンの現代芸術協会の招待で渡英。ここでジョン・レノンさんと運命の出会いを果たします。
その後アンソニーさんとは1969年2月に離婚し、ヨーコさんはキョーコさんの親権を得ようとして裁判までしていますが、ヨーコさんの不貞により離婚に至ったことなどからキョーコさんの方から決別宣言がありその後長い間連絡のない関係が続いていました。ですが、キョーコさんに子供が生まれたのを機に再び連絡を取るようになっています。
オノ・ヨーコの3番目の旦那はジョン・レノン!出会い~結婚まで
オノヨーコさんは、アンソニー・コックスさんとの結婚生活の中で出会ったジョン・レノンさんと恋に落ちていくことになります。
ジョン・レノンプロフィール
ジョン・レノン
出生名: ジョン・ウィンストン・レノン
生年月日: 1940年10月9日
出身地: イングランド リヴァプール
死没: 1980年12月8日(満40歳没)
学歴: リヴァプール・カレッジ・オブ・アート卒業
ビートルズ
ジョンさんは1960年代に圧倒的な人気を誇り、伝説的な成功を収めたバンド・ビートルズを立ち上げたリーダーでした。
死後35年以上経った現在も、その人気は衰えることなく続いています。
ジョンさんはヨーコさんと知り合う以前の1962年8月23日に同じ美術学校に通っていたシンシア・パウエルさんと妊娠を機に結婚しており、現在ミュージシャンとして活動している息子のジュリアン・レノンさんが誕生しています。
ジョンさんもヨーコさんと同様、シンシアさんとの結婚生活の中でヨーコさんと出会っており、恋に落ちています。
オノ・ヨーコとジョン・レノンの出会い、馴れ初め
ジョン・レノンとオノ・ヨーコ
ヨーコさんとジョンさんとの出会いは1966年11月9日。
1966年は、「ペイパーバック・ライター」や「イエロー・サブマリン」が発表された年でもありビートルズの人気も全盛期の頃でした。
ジョンさんは美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいたことから日本や東洋文化に興味を持ち、禅や空の概念に強い関心を持っており、この特色のあったヨーコさんのアート作品に強く惹かれたと言います。
オノ・ヨーコの個展『未完成の絵画とオブジェ』
ジョンさんが気に入ったことで有名な、ヨーコさんのアート作品。
部屋の中央に脚立が置かれており、それを昇って天井からぶら下げられた虫眼鏡を使い、天井に貼られたキャンバスの中の小さな「Yes」の文字を探すというものです。
レノンは当時を回想し「もし”No”とか『インチキ』みたいな意地の悪い言葉が書かれていたら、すぐに画廊を出て行ったよ。でも”YES”だったから僕は『これはいけるぞ、心温まる気持ちにさせてくれる初めての美術展だ』と思ったんだ」と後に語っている。
ヨーコさんの作品を気に入ったジョンさんは、ヨーコさんの個展に出資するなどいわゆるパトロンのような関係で交際を開始。
ビートルズのインド文化への傾斜が深まり、1968年の2~4月にメンバー4人それぞれが夫妻や恋人を伴いインドへ行き修行していたという間にも、ジョンさんとヨーコさんは文通をしていたとされています。
そしてその後まもなく、2人は同棲を開始。
同年7月にはシンシアさんが離婚を申請し、11月に離婚が成立しています。
息子のジュリアンさんが5歳のときで、ビートルズの曲「ヘイ・ジュード」は、ポール・マッカートニーさんが当時険悪な両親に心を痛ませていたジュリアンさんへの励ましの曲として作成したと言われています。
また、シンシアさんは後に当時のヨーコさんについて次のように語っています。
「最初、ヨーコは彼につきまとう熱心なファンの一人でした。彼女はジョンをイライラさせた。でも、アルマが亡くなると、奇妙なことが起きたのです。ヨーコはチャンスをうまく掴んで、新しいミミおばさんになりました。彼女はジョンが女性に何を求めているかを研究し、自分を変えていった」とシンシアは続ける。
オノ・ヨーコとジョン・レノンの結婚
1969年3月20日にヨーコさんとジョンさんはジブラルタルにて挙式。
当時ヨーコさんは36歳、ジョンさんは28歳で、ヨーコさんは7歳上の姉さん女房でした。
2人は新婚旅行で訪れたアムステルダムとモントリオールで、「ベッド・イン」という平和を訴えるパフォーマンスを行っています。
「ベッド・イン」
当時ベトナム戦争の最中だったことから、自身たちの結婚が大々的にマスコミに取り上げられるなら「平和を宣伝するために利用しよう」との考えから開催されたパフォーマンス。
ホテルの一室に記者を招き入れて平和について語り合うというもので、3月26日〜31日(アムステルダム)と5月26日〜6月1日(モントリオール)の2回に渡り数日間行われています。
また、結婚してまもない1970年にビートルズが解散したことから、ヨーコさんは「ビートルズを解散させた女」と揶揄されるようになり、ヨーコさんの奇妙な立ち振る舞いやジョンさんとの上記のような前衛的な活動からも多くの非難の声が寄せられていたと言います。
ですが2人は音楽ユニットのプラスティック・オノ・バンドの結成や、1971年にニューヨークに移住してからは反戦文化人の即時保釈を求める集会、北アイルランド紛争に抗議するデモ行進などの政治活動への参加や、刑務所で起きた暴動の被害者救済コンサートや知的障害を持つ子どもの救済コンサートなどのボランティア活動にも精を出していきます。
オノ・ヨーコ、息子ショーン・レノンの誕生とジョン・レノンの死
オノ・ヨーコとジョン・レノンの別居~復縁
1973年4月に架空の理想国家「ヌートピア」の建国宣言のイベントを行ったオノ・ヨーコさんとジョン・レノンさんでしたが、度重なる国外退去命令により挫折に終わっています。
同年9月にジョンさんはロサンゼルスに移り、2人は別居。
その間2人はそれぞれの活動をしていましたが、翌年11月にジョンさんがニューヨークで開催されたエルトン・ジョンさんのコンサートに出演したことがきっかけで再会を果たし、1975年の初めには再び同居を開始しました。
息子、ショーン・レノンの誕生
そして同年、ジョンさんと同じ誕生日の10月9日に2人の息子であるショーン・レノンさんが誕生しています。結婚生活7年目で恵まれた子供でした。
ショーン・レノン
出生名: Sean Taro Ono Lennon
別名: 小野太郎(日本名)
生年月日: 1975年10月9日
出身地: アメリカ・ニューヨーク州ニューヨーク
最終学歴:コロンビア大学中退
1998年に初のソロアルバム「Into the Sun」を発表。2006年のアルバム「Friendly Fire」ではアルバム全曲に映像をつけて発表。脚本、演出にも参加。アニメーションの原画も描く。2008年、ホンダFREEDのTVCMに出演。同年9月、本田ゆからとともに個人レーベル「Chimera Music」を設立。2009年1月「Chimera Music Release No.0」発表。
ショーンさんの名前の由来は、2人の復縁を取り持ってくれたエルトン・ジョンさんに由来しており、ジョンさんの民族的ルーツであるアイルランドで「ジョン」に相当する最もポピュラーな名前、ということから「ショーン」と名付けられています。
また、ミドルネームの「太郎」は、ジョンさんから何か日本名をと頼まれたヨーコさんが「ショーン」と同様に日本で最もポピュラーな名前、という理由から付けたそうです。
ショーンさんが生まれてからはジョンさんは音楽から離れた生活をしばらく送っており、1977年以降は家族揃って訪日もしており、日本でもショーンさんを連れて歩くジョンさんの姿が数多く目撃されています。
ショーンさんは日本のHONDAのCMにも出演しています。「ちょうどいい、ホンダ」で記憶にある方も多いでしょう。
1980年12月8日ジョン・レノン殺害事件
ショーンさんが5歳になった1980年12月に、悲劇は起こりました。
22時50分にスタジオからヨーコさんとジョンさんが自宅のダコタ・ハウスに戻り、車から降りたところでその場に待ち構えていたマーク・チャップマンに呼び止められるや否やマークがジョンさんに発砲。
ジョンさんは4発の銃弾を受け、病院に搬送されたものの全身の8割もの血液を失い、失血性ショックによりルーズヴェルト病院で23時過ぎに40歳という若さで帰らぬ人となってしまいます。
このジョンさん殺害のニュースは全世界のファンにとってもあまりにも衝撃的な出来事でした。
殺害計画はヨーコさんも狙われたものでしたが、幸いヨーコさんは無事でした。
ヨーコさんはジョンさん死後について、「1981年から1983年にかけての私とショーンは、まるで雪原の中に二人して立っているような思いだった」と語っています。
オノ・ヨーコの現在~認知症が発覚で病状は?車椅子姿も
オノ・ヨーコの車椅子姿が話題に
ジョン・レノンさん亡き後も精力的に活動していたオノ・ヨーコさんですが、今年4月に報じられたニューヨーク・セントラルパークでひさしぶりに見せた現在84歳のヨーコさんの変わり果てた姿は世間に衝撃を与えました。
車椅子姿のオノ・ヨーコ
ニューヨークのセントラルパークに現れたオノ・ヨーコさんは車いすに乗り、何人かのスタッフに付き添われていたといいます。目撃者は「衰えて、弱々しい感じになっているように見えた。そして30分の散歩の間、(車いすから)立ち上がることはなかった」と話しているということです。
内部関係者は米情報サイトRadarOnlineに、「ヨーコは驚くほどやせ細り、体調が非常に悪い。いつも元気いっぱいの彼女だったが、その面影は消えてしまった」と語っている。
オノ・ヨーコはレビー小体型認知症(DLB)、その病状は?
その後発売された週刊誌にて、ヨーコさんはレビー小体型認知症という認知症を患っていることが報じられました。ヨーコさんの実弟・啓輔さんが取材に応じ、病名や症状について本人も認識していると語っています。
「ヨーコっていうより、子どものショーンから聞いたんだよね、俺は。去年の2月の一件はインフルエンザということだった。DLBだと分かったのは、去年の5月か6月かそのへんだけど、今から考えると2月の段階ですでにそうだったんだな。ショーンに音楽活動はどうするんだよって聞いたら“ストップする”って感じで。(母親の介護のためとか)そんなにハッキリとは言わないけどな」
レビー小体とは、神経細胞に出来る特殊なたんぱく質です。レビー小体型認知症では、レビー小体が脳の大脳皮質(人がものを考える時の中枢的な役割を持っている場所)や、脳幹(呼吸や血液の循環に携わる人が生きる上で重要な場所)にたくさん集まってしまいます。レビー小体がたくさん集まっている場所では、神経細胞が壊れて減少している為、神経を上手く伝えられなくなり、認知症の症状が起こります。
引用:レビー小体型認知症とは
レビー小体型認知症は、初期の段階での幻覚、実際は違うのにそうだと認識してしまう誤認妄想、パーキンソン病のような手が震える、動作が遅くなるなどの症状の他、うつ状態や睡眠障害なども出てくると言われています。
宮根誠司キャスター(53)は「ほとんど知らない病気ですね。だから、オノさんは車いすだったんでしょうか?」と驚きの表情。すると、ゲストコメンテーターのRIKACO(51)が実父もレビー小体型認知症であることを告白。「アルツハイマーだと思っていたら、違ったんです。確かに歩行障害もあります」と明かしていた。
ヨーコさんの病状に、息子のショーンさんも音楽活動をストップしての介護も考えているようです。
まとめ
当時は世界中からの注目の的となり、現在は認知症を患っているというオノ・ヨーコさん。夫のジョン・レノンさんの死後からはかなりの年数が経っていますが、最近では死期を悟っているようにジョンさんについて語り、天国での再会を楽しみにしていると言います。
時期はまだ未定のようですが、先日ヨーコさんとジョンさんの愛が描かれた伝記映画が製作されることが発表されており、製作にはヨーコさんの名前も確認されています。
タイトル未定のこの映画は、アメリカにおける愛や勇気、政治的な行動主義をテーマとし、現代の若者に対してどんな世界を望むのか、明確なビジョンを持って立ち上がってほしいという願いを込めて製作されるという。
世代を超えてもなお、2人のラブストーリーは語り継がれていきそうです。