天童よしみさんといえば、2017年で紅白歌合戦出場22回を誇る大物演歌歌手ですが、ネット上では在日韓国人説があるようですね。
この記事では、天童さんの在日韓国人説の真相の他、家族や結婚情報などに関してまとめてみました。
この記事の目次
天童よしみのプロフィールと年齢
名前:天童よしみ(てんどう よしみ)
本名:吉田芳美(よしだ よしみ)
出身地:和歌山県田辺市
生年月日:1954年9月26日(年齢63歳)
身長:147cm
学歴:大阪緑涼高等学校卒業
デビュー年:1970年
所属事務所:天童事務所
大物演歌歌手のイメージのある天童よしみさんですが、実はかなりの遅咲き歌手です。
初ヒット曲「道頓堀人情」自体が、1985年12月(31歳)リリースだったりする天童さん。
演歌歌手の一流の証である紅白歌合戦出場となると、1993年(39歳)までかかったという中年の星とも言うべきキャリアだったりします。
その後の天童さんは、「むかい風」や「旅まくら」というヒット曲が続きながらも、1994年から1996年にかけて3年連続で紅白歌合戦落選の憂き目にもあっております。
そんな天童さんが紅白歌合戦に定着をしたのは、1997年(43歳)に2度目の出場を果たして以降となります。
現在では、大物演歌歌手という印象の強い天童さんですが、何度もの挫折を乗り越えてようやく掴んだ地位だったというわけですね。
天童よしみの半生!~天才歌ウマ少女だったがプロの道は甘くなかった?
のど自慢大会出身の天才歌ウマ少女だった天童よしみ!
現在も大阪在住の天童よしみさんですが、4歳の時に父親の仕事の都合で和歌山から大阪に引っ越したそうですね。
天童さんの父親である吉田義行さんは、1929年生まれの所謂「戦中世代」だったりします。
中学を卒業後は、和歌山県内のバス会社で運転手として働いていた義行さんは、結婚後に大阪のタクシー会社に転職しますが、これが吉田家が大阪に引っ越した理由となります。
歌やサックス演奏が趣味だった義行さんの影響により、常に歌があふれていた家庭に育った天童さんは、自然と歌好きの少女に育ちました。
そんな天童さんを見込んだ義行さんにより、吉田家では、夕食後は父娘のワンツーマンの歌のレッスンが日課となっていたとか。
やがて、関西ののど自慢大会に参加するようになった天童さんは、多くの大会で優勝を攫う「コンテスト荒らし」の歌ウマ少女として、名声を高めていったようですね。
そんな歌ウマ少女だった天童さんですが、「日清ちびっこのどじまん」というテレビ番組に出演した際に、日本コロムビアにスカウトされて、アニメ歌手としてのデビュー話が舞い込んで来ることになりました。
芸能デビューにあたり母と2人で上京した天童よしみ!
デビュー話がまとまった当時の天道さんは、高校1年生でした。
そして、「吉田よしみ」名義で1970年9月に、アニメ「いなかっぺ大将」の主題歌「大ちゃん数え唄/いなかっぺ大将」にて、歌手デビューを果たした天童さん。
歌手デビューにあたり、母娘2人で上京するほどの力の入れ具合だった天童さん一家でしたが、ヒット曲に恵まれない日々が続くという、辛い芸能生活が待っておりました。
1972年には、オーディション番組「全日本歌謡選手権」で10週連続勝ち抜き、グランドチャンピオンとなった天童さんですので、当時から歌の上手さは折り紙付きだったのでしょうが、歌が上手ければ売れるわけでもないのがプロの世界です。
歌が売れないことでレコード会社から見限られ、仕事もどんどん減っていく天童さんに対して、父・吉田義行さんは、大阪に戻っての再起を提案します。
仕事がなく、行き詰まっていた20歳のころ、「大阪に帰ってこい」と言ってくれたのも義行さんだった。「大阪に仕事なんかない」と強く反発するよしみさんを「時期を待て。充電せえ」と帰ってくるよう説得した。「親の愛を感じなくなると人は心の底から歌えない。すさんだ歌を歌うよしみを見たくない。人に愛を与える最高の歌を聞かせてくれ」と訴えた。
「負けたまま大阪に帰りたくない」と思った天童さんは、義行さんの提案に反発したもの、「良い歌を唄うために今は休め」という義行さんの言葉に説得されて、大阪に戻ることを決意しました。
歌手業に挫折した天童よしみはカラオケ教室で再起を図った
「神童も二十歳過ぎればただの人」の典型例になるところだった天童よしみさん。
1975年12月、東京・広尾の2階建てマンション。娘の芳美が「天童よしみ」となった5年前から、ここで母娘だけの生活を続けていた。夜も更けたころ、大阪から手伝いに来た夫と3人で、近所の迷惑にならないように静かに荷物を運び出し、トラックに積み込んだ。上京の時の華々しさが嘘(うそ)のように思えた。
夢破れての大阪への帰郷は、母・吉田筆子さんにとっても屈辱的なことだったようで、筆子さんは「絶対に東京に戻って来る」と、強く誓いながら東京のマンションを引き払ったとか。
大阪に戻った天童さんは、カラオケ教室などを主催するようになりますが、これが大当たりとなり、最盛期には生徒数500人を数えるほどの人気となったそうですね。
一方で、歌手業では相変わらずヒット曲とは縁遠い日々を送っていたため、歌手を廃業して「カラオケ教室の先生」として余生を過ごす道もあった天童さん。
しかしながら、30代となって初めてのシングル(1985年12月発売)となる「道頓堀人情」リリースの際に、天童さんは人生最大の勝負に出ます。
「道頓堀人情」のプロモーションのために、全国津々浦々に営業に向かうことを決意した天童さんは、カラオケ教室を閉鎖し、1ヶ月で300本もの地方営業に打ち込みました。
退路を断ったプロモーション活動が実り、「道頓堀人情」は、天童さんにとって初めてのヒット曲となりました。
天童よしみの家族情報!~結婚はしておらず母と2人暮らし
父・義行は2008年に病死している
天童よしみさんの現在に関しては、大阪府八尾市に5階建ての事務所兼自宅を建てて、母・吉田筆子さん(写真右)と2人で暮らしています。
ちなみに、建設当時は時価5億円の豪邸として、マスコミから騒がれました。
天童さんの父である吉田義行さんに関しては、2008年に大腸がんで亡くなっております。
演歌歌手天童よしみ(50)の実父で天童事務所の会長でもある吉田義行(よしだ・よしゆき)さんが3月7日、大腸がんで入院先の大阪府内の病院で亡くなっていたことが26日、分かった。享年78歳。葬儀・告別式は親族ですませた。
引用:天童よしみの父死去
義行さんが亡くなられたのは、天童さんが大阪・新歌舞伎座にて座長公演中の出来事でした。
そのため、天童さんは父親の死に目には会えなかったとか。
賛否呂論のある芸能人の「仕事ファースト主義」ですが、天童さんの場合は、父・義行さんからの言いつけにより、興行を優先していたようですね。
「プロヘッショナル(プロフェッショナル)は甘えてはいけない。お父ちゃんに何があっても舞台は務めなあかん。それが“よみ”(よしみの愛称)の宿命や」
タレントなどの仕事とは違い、歌手の公演は多くのお客がその日を待ちわびている大切なイベントでもあります。そのため、「天童よしみの歌を愛してくれるファンこそ一番大事」という気持ちが、義行さんの中にはあったのでしょうね。
天童よしみが結婚をしなかった理由とは?
一般女性にとっては、人生の一大イベントである結婚式ですが、2017年で63歳となる天童よしみさんは、現在独身なうえ、結婚歴自体がなかったりします。
作詞作曲は本職の先生たちにお願いする演歌の世界では、歌手や事務所の稼ぎとなるのは、公演や営業となります。
そのため、売れっ子女性歌手ほどスケジュールがタイトになりがちなため、独身や離婚経験者が少なくないのが、演歌の世界の現実です。
天童よしみさん以外でも、坂本冬美さんや水森かおりさんなどの著名演歌歌手も現在まで独身を貫いております。
天童さんの場合は、演歌歌手の中でもかなりの遅咲きな部類であり、20代を演歌歌手としての再起に費やした他、30代は紅白歌合戦出場のための実績作りの時期となってしまったため、余計に結婚のタイミングがなかったのだと思われます。
結婚を犠牲にして仕事に打ち込んだ結果、大阪・八尾市の豪邸の他にも、東京・麻布に地上3階&地下1階の別宅まで持てる大金持ちとなった天童さんだけに、 その選択は間違いではなかったと言えるでしょうね。
夫はともかく、子供のいない生活というのは、年を重ねるごとに寂しさが募るものになるとは言いますが、生涯現役も可能な歌手である天童さんにとっては、応援してくれるファンやスタッフなどもおりますから、寂しさを紛らわせることも可能なのかもしれませんね。
天童よしみには在日韓国人説が~原因はあのヒット曲のせい?
天童よしみの在日韓国人説はヒット曲「珍島物語」のせい?
天童よしみさんといえば、日本の伝統工芸品である「こけし」に似ている人物です。
そのため、顔だけで言うなら、日本人顔の範疇だと思われる天童さんですが、ネット上では在日韓国人説が流れ続けている状況となっています。
天童さんにネット上で在日韓国人説が流れている理由に関しては、天童さんが1996年にリリースしたシングル「珍島物語(ちんどものがたり)」が関係してきております。
タイトルにある「珍島(ちんど)」とは、朝鮮半島の西南端にある島のことで、海割れという自然現象が起こることで有名な島でもあります。
天童さんの代表作であり、ミリオンセラーとなった「珍島物語」は、海割れにちなんだ珍島の伝説「ポンお婆さんの伝説」をモチーフにした曲だと言われております。
昔々、虎村(現在の回洞里)の人々が虎から逃れようと向かいの茅島に逃げる途中で、ポンお婆さんだけが取り残されてしまいました。家族に会いたいポンお婆さんが海の神様に毎日祈りを捧げたところ神様が現れ「明日、海を渡るがよい」と告げました。翌日海の中から道が現れ喜んだお婆さんでしたが、神様に感謝の祈りを捧げたまま倒れ、息を引き取ってしまいました。以来、回洞里と茅島の村人たちは互いの村を行き来しながら、お婆さんの魂を慰め、豊漁を願う祭りを始めたとのことです。
抽象的な歌詞内容でもあるため、深読みすれば、「朝鮮半島統一を願った歌詞の歌ではないか?」だのと、様々な推測が可能な名曲となってしまった「珍島物語」。
そのため、「珍島物語」を唄う天童さんに関しても、在日韓国人の方ではないかという疑惑が、ネット上で浮上してくることになりました。
天童よしみの在日韓国人説はネットの気の回しすぎ?
名前:中山大三郎(なかやま だいさぶろう)
出身地:宮城県都城市
生年月日:1941年2月15日
学歴:法政大学中退
職業:作詞家/作曲家
天童よしみさんのヒット曲である「珍島物語」ですが、当然ながら作詞も作曲も天童よしみさんは関わっておりません。
天童さんの代表曲である「珍島物語」の作詞と作曲を担当したのは、中山大三郎さんという音楽家となります。
中山さんは、島倉千代子さんの「人生いろいろ(作詞のみ)」や尾形大作さんの「無錫旅情(作詞・作曲)」といったヒット曲を手掛けたことでも知られている人物です。
天童さんが中山さんからシングル曲の楽曲提供を受けたのは、1994年の「向かい風」以来2度目のことでした。
さらに言うと、「珍島物語」がヒットして以降の天童さんは、中山さんからシングル曲の提供を受けておらず、2人の間には、歌手と作家としての絆的なものは存在していなかったと言えるでしょうね。
そのため、中山さんが「珍島物語」の歌詞にどのような意味を込めたかの問題は別にして、その想いを天童さんに託すような間柄ではなかったことだけは確かだと言えます。
上記の事情を踏まえると、ネット上の「天童よしみ在日韓国人説」は、物事を深読みしすぎてしまった人たちから発生したデマなのはではないかと思われます。
まとめ
■天童よしみは30代で「道頓堀人情」をリリース。この曲のヒットにより演歌歌手として返り咲く。
■天童よしみはいまだ独身であり、実母の2人暮らしである。また、2008年に実父は大腸がんにより亡くなっている。
■「珍島物語」がヒットしたことにより、天童よしみの在日韓国人説が流れたが、実際はデマである。
ネットの噂とは、人の想像力の分だけ増殖し続けるものなのかもしれませんね。
典型的な「ドラえもん体型」なため、生活習慣病なども心配されている天童よしみさんですが、2017年も全国津々浦々を回りコンサートを開くなど、60代になっても衰えを知らぬ歌手活動を展開しております。
天童さんの意欲的な歌手活動がこの先も続くことを祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。