2022年11月にがんで亡くなった映画監督の崔洋一さんですが、韓国との関係や武勇伝も話題です。
今回は崔洋一さんの家族(父親・母親)、生い立ちや経歴、芸能人との交流エピソード、結婚した嫁や子供、死因や現在を紹介します。
この記事の目次
- 崔洋一は2022年11月に亡くなった映画監督
- 崔洋一(映画監督)の家族(父親と母親)
- 崔洋一(映画監督)の国籍は韓国
- 崔洋一(映画監督)の経歴① 小学1年時まで父親の顔を知らなかった
- 崔洋一(映画監督)の経歴② 中学時代にカメラの趣味に目覚める
- 崔洋一(映画監督)の経歴③ 朝鮮学校時代はしごきに泣いていた
- 崔洋一(映画監督)の経歴④ 専門学校時代に活動家にかぶれる
- 崔洋一(映画監督)の経歴⑤ 高校時代の先輩のツテで業界入り
- 崔洋一(映画監督)の経歴⑥ 下積み時代に助監督として数々の名作に携わる
- 崔洋一(映画監督)の経歴⑦ こだわりが強すぎて干された時期もあった
- 崔洋一(映画監督)の経歴⑧ 「十階のモスキート」が出世作
- 崔洋一(映画監督)と大物芸能人とのエピソード
- 崔洋一(映画監督)の武勇伝① 口も手も出るタイプの業界人だった
- 崔洋一(映画監督)の武勇伝② 機動隊の前でスタッフを殴りつけて抑止された
- 崔洋一(映画監督)が結婚した嫁・子供情報
- 崔洋一(映画監督)の死因はがん
- 崔洋一(映画監督)の現在:葬儀の喪主は嫁が務める
- 崔洋一(映画監督)のまとめ
崔洋一は2022年11月に亡くなった映画監督
崔洋一(さい よういち)
生年月日:1949年7月6日
出生地:長野県佐久市
崔洋一さんは、日本映画協会の理事長を務めた映画監督で、代表作は「血と骨」や「月はどっちに出ている」などが挙げられます。
『血と骨』は好きな作品なんだが主演俳優(たけしではない方)が残念なことになっちゃったのであまり振り返られることはないのかな…
— 三家本礼🍊 (@reimikamoto) November 28, 2022
たけしに「残業代払え!」と迫った北村一輝が酷い目に遭わされる場面が好き。たけしは自分が監督だと「カッコよくて怖い」になりがちだけどこちらはただ怖い。
【血と骨】
— そな@映画垢 (@oDkU0fgKuKOdk11) April 26, 2021
全編にわたってイヤ~な空気。不快描写が次から次へと…
それでもなんか見ちゃう話だったなぁ。嫌なんだけど怖いもの見たさに知らない世界を覗き見る。
たけしは不気味なの似合う。こわいよ!最後あの場所である事を思い出して、何を思っただろうね。
まだまだ知らない事がいっぱいだな… pic.twitter.com/xKmP2VCQRA
この記事では、崔洋一さんのこれまでの経歴や家族情報の他、昔気質の映画人らしい武勇伝などを紹介します。
崔洋一(映画監督)の家族(父親と母親)
父親は在日朝鮮人で母親は熊本の令嬢だった
崔洋一さんは、在日朝鮮人1世の父親と日本人の母親の間に生まれた日朝ハーフです。
父親・崔斗煥さんは日本共産党の中央委員で、レッドパージを経験するほどの大物でした。
また、母親の遠坂ツヨさんは、熊本の士族出身の資産家家庭育ちだったと言われています。
東京で共産党員として活動していた兄・遠坂良一さんのアパートに、演劇志望だったツヨさんが転がり込んできて、兄の家に出入りしていた斗煥さんと親密な関係となって結婚に至りました。
崔洋一(映画監督)の国籍は韓国
前述の通り、崔洋一さんの父親は在日朝鮮人だったため、元々の国籍は北朝鮮です。
しかし、1994年に国籍を北朝鮮から韓国に変更しているため、以降は韓国籍となりました。
崔洋一(映画監督)の経歴① 小学1年時まで父親の顔を知らなかった
活動家だった父親は長年警察に追われる日々で、小学1年生の頃まで一緒に暮らしたことがなく、一緒に暮らすようになった後も公安にマークされていたそうです。
そのため、一般企業に就職できなかった父親は、生活の糧を得るためにプラスチックの成形工場を経営していたものの、上手くいかず3度の倒産を経験しています。
母親の兄・遠坂良一さんは、茨城県水戸市で「新いばらきタイムス」という地方新聞社を経営し、一時期はかなり羽振りが良かったようです。
ただし、その新いばらきタイムスも全国紙にシェアを奪われ、さらに地方経済の疲弊もあり、2003年に倒産してしまったとのこと。
崔洋一(映画監督)の経歴② 中学時代にカメラの趣味に目覚める
父親が活動家だった崔洋一さんですが、少年時代の崔洋一さんはノンポリだったそうです。
中学までは地元の公立学校に通っており、理科の先生がネガフィルムを焼く授業をしてくれたことをきっかけに、カメラの趣味に目覚めることになりました。
中学卒業後は、母親の勧めで東京朝鮮中高級学校に進学。
ただし、父親は日本共産党の幹部として北朝鮮の実態を知っていたため、朝鮮学校への進学に乗り気ではなかったとも言われています。
崔洋一(映画監督)の経歴③ 朝鮮学校時代はしごきに泣いていた
母親の勧めで東京朝鮮中高級学校に進学した崔洋一さんは、人生初の寮生活を経験しています。
寮では上級生のしごきがきつく、1年生は朝3時に起こされてコンクリートの上に正座させられる毎日だったそうで、1年で寮を退寮。
また、毛沢東の「文芸講話」を読まされる毎日でしたが、この時はそこまで感化されなかったそうです。
崔洋一(映画監督)の経歴④ 専門学校時代に活動家にかぶれる
高校を卒業後の崔洋一さんですが、東京朝鮮中高級学校時代は写真部に在籍していたこともあり、東京綜合写真専門学校に進学しています。
この東京綜合写真専門学校は、多くの写真家を輩出している名門です。
学校創立以来、篠山紀信や操上和美などの写真家を輩出している。また出身者には美術系大学の写真学科にて教鞭を執る者も存在し、大阪芸術大学の土田ヒロミや須田一政、武蔵野美術大学の小林のりお、東京芸術大学の鈴木理策、日本写真芸術専門学校副校長の樋口健二などが挙げられる。
引用:東京綜合写真専門学校
ただし、崔洋一さんが入学した当時の校長が共産主義者だった影響もあり、学生運動が盛んな学校でもありました。
そのため、崔洋一さんもかぶれて活動家になり、自治会に入り浸っていたそう。
ちなみに、崔洋一さんが所属していた組織は、マルクス・レーニン派の学生解放戦線だったと言われています。
崔洋一(映画監督)の経歴⑤ 高校時代の先輩のツテで業界入り
東京綜合写真専門学校時代、あまりに過激な活動を続けた結果、崔洋一さんは警察に逮捕され、学校も退学になっています。
それでも学生運動を続けていた崔洋一さんですが、1971年に行われた日比谷野外音楽堂での集会がガラガラだったせいで、引退を決意。
その後、高校時代の先輩のツテで、映画「婉(えん)という女」の照明助手見習の仕事を紹介され、映像業界で働き始めることになりました。
ちなみに、照明助手見習の仕事は、重い照明ライトを抱えて現場を走り回る重労働でした。
そのため、崔洋一さんも活動家時代のノリで、「なぜこのライトを右から左へと運ぶのか。労働の必然性を説明せよ」などと現場でゴネたりもしていたそうです。
崔洋一(映画監督)の経歴⑥ 下積み時代に助監督として数々の名作に携わる
先輩のツテで業界入りを果たした崔洋一さんでしたが、仕事が重労働だったせいもあり、照明係ではなく小道具係に転身。
その後さらに演出家に転身し、テレビドラマの助監督をやるようになっていました。
下積み時代に携わった作品には、「キイハンター」や「刑事くん」などが挙げられます。
また、若松プロダクションに出入りしていた関係で、日本初のハードコアポルノ映画「愛のコリーダ」のチーフ助監督も担当しています。
怖いもの見たさでクライテリオン版『愛のコリーダ』(1976)を観る。噂に違わぬハードコアでありましたがここまで頽廃を極めると見えてくるものもあります。二人の心理状態、とりわけ定の健気さが感じられました。逮捕後に人気が出たのが分かる気がします。老乞食の殿山泰司氏を見て思いましたのは〜続 pic.twitter.com/fbEO1v7xNz
— フローレン(旧ムーミン) (@yuri_chan5656) July 1, 2022
崔洋一(映画監督)の経歴⑦ こだわりが強すぎて干された時期もあった
10年近い下積み時代を送っていた崔洋一さんですが、助監督を担当していたドラマ「プロハンター」の最終回で、監督に抜擢されることになりました。
#プロハンター
— サファリ (@redshad62864674) November 1, 2018
昨日東映CHでプロハンター最終回。柴田恭兵が恋人(竹田かほり)共々殺され、草刈正雄&藤竜也が特別機動捜査隊で刑事役を演じてるおっさんを仇討ちするシーンは圧巻だったしジーンと来た(泣かないよ😁)。俺は思った、昭和のアクションドラマって最高だなぁって。 pic.twitter.com/d1aLEWMhrA
撮影現場での崔洋一さんは最大限にこだわり、「コーヒーカップがあれば、飲まなくてもコーヒーを入れろ」とスタッフに要求するなど、リアリティを追求。
そんな崔洋一さんの態度は、現場では生意気と受け止められたといいます。
一方で、出演者だった宍戸錠さんなどは「昔はお前みたいなのがゴロゴロいた」と崔洋一さんのやり方を支持してくれたそうです。
ただし、崔洋一さんのこだわりは上層部からは評価されなかったらしく、「プロハンター」の放送が終わると、仕事がない時期がしばらく続きました。
そんな時期、崔洋一さんは「愛のコリーダ」で主演を務めた藤竜也さんにご飯に誘ってもらい、励まされたこともあったそうです。
崔洋一(映画監督)の経歴⑧ 「十階のモスキート」が出世作
その後、内田裕也さんの誘いで映画「十階のモスキート」の監督を務めることとなり、スランプ時期を脱出するきっかけになります。
ちなみに「十階のモスキート」は、内田裕也さんが脚本を執筆していたものの尺が足りず、崔洋一さんが大幅加筆。
また、「戦場のメリークリスマス」と撮影期間がバッティングしたせいで、主演の内田裕也さんが途中で抜けてしまい、撮影が滞るというアクシデントもありました。
そんな難産だった「十階のモスキート」ですが、ベネチア国際映画祭の招待作品になるなど崔洋一さんの出世作になっています。
崔洋一を「素晴らしい監督だった」と讃えるには難しい時代かもしれない。しかし『十階のモスキート』(これもまた褒めそやすと眉を顰められる)は暗い男の情念が炸裂した、優れた映画であることに疑いはない。この世に孤独な魂をもつ男がいる限り、永久に救済し続ける名作。RIP pic.twitter.com/8fwADnUfGz
— 公式『さらば雑司ヶ谷』 (@byezoushigaya) November 27, 2022
崔洋一(映画監督)と大物芸能人とのエピソード
ビートたけしとは複雑な関係だった
崔洋一さんと言えば、ビートたけしさんとの複雑な関係も有名です。
崔洋一さんは、自身の代表作となった「血と骨」を映画化する際に、「聖の部分と俗の部分を表現できるのは彼だけ」と、ビートたけしさんを主演に抜擢。
一方のビートたけしさんは、映像業界の伝統であったシゴキ文化に否定的な考えを持っており、「出演者を怒鳴ったり、殴るようなことをしたら降りる」との条件でオファーを受けました。
そのため、いつもの現場とは違い、出演者を追い込んでの作品作りができなくなった崔洋一さんは、スタッフを怒鳴りつけて気を紛らわしていたそう。
それでもフラストレーションが収まらなかった崔洋一さんは、撮影現場のトイレで「たけしのバカヤロー!」と叫んでいたとの逸話が残っています。
松田優作とは親友だった
崔洋一さんは俳優の松田優作さんと仲が良く、松田優作さんがしょっちゅう自宅に遊びに来るような関係性でした。
そんな2人は、1978年に崔洋一さんが松田優作さん主演の映画「最も危険な遊戯」の助監督を務めた際に知り合ったそうです。
ただ、初対面の日は松田優作さんからの飲みの誘いを崔洋一さんが断るなど、良好なスタートではありませんでした。
しかしながら、その後はお互いの才能を認め合う仲へと進展し、松田優作さんが出演する焼酎のCMのディレクターを崔洋一さんが務めます。
また、松田優作さんの代表作であるドラマ「探偵物語」の予告編を崔洋一さんが担当したところ、監督話が舞い込んで来たようです。
この時は崔洋一さんがオファー断っていますが、1983年に放送されたSPドラマ「松本清張の断線」で共演が実現しています。
ず〜っと観てなかった松田優作さん主演、崔洋一監督「松本清張の断線」「新妻を棄て愛人を殺し年上の女と心中した男」そのままで面白かった。野獣死すべしに始まる優作さんの怪演が光る。崔監督は「十階のモスキート」や「性的犯罪」と同じ時期なのでガランした室内の孤独なアングルなど似た雰囲気も。 pic.twitter.com/xEZjjTCPFS
— 稲輪吉泰 (@yoshiyasuinawa) May 29, 2020
崔洋一(映画監督)の武勇伝① 口も手も出るタイプの業界人だった
崔洋一さんは、学生時代に武闘派の活動家だったせいか、手も出るタイプの昔気質の業界人でした。
かつてVシネマ作品の撮影のために沖縄でロケをしていた際には、スタッフルームの地図に、過去に崔洋一さんがスタッフを殴りつけた場所に赤いマークをつけられるイタズラをされたそう。
俺は地図を見ながら、「何だよ、このマークは。ロケ地と近いじゃないか」と問い詰めるんだけど、それでも笑っていて。で、さらに問い詰めながら気づいたんだけど、マークが貼られている場所は、俺が怒って、誰かを殴った場所だったんですね(笑)。
崔洋一(映画監督)の武勇伝② 機動隊の前でスタッフを殴りつけて抑止された
崔洋一さんは1980年代後半頃、在日米軍基地前でトラックが走るシーンを撮影していたところ、トラブルを起こしています。
たまたま担当スタッフが不在だったタイミングで、基地を守る機動隊の隊長から道路使用許可証の確認を求められたとのこと。
早く撮影に戻りたかった崔洋一さんが、「おい、道路使用許可証だって、早く持ってこい!」と怒鳴ったところ、担当スタッフが別の現場に移動していたことが発覚。
その後、説明にやって来たスタッフを激怒した崔洋一さんが殴りつけてしまいました。
直接、撮影の邪魔になっていたわけじゃないけど、そのときの俺にとっては機動隊の一個中隊が目障りだったのでしょう。向こうにとっちゃ、逆に「何だ、こいつら」って感じでしょうが。それで職務質問代わりに軽く聞いたつもりが、いつの間にか、俺に製作部の若いスタッフが殴られている状態になっていて。さすがに中隊長も慌てたみたいで、「監督さん、それ以上やると現行犯逮捕します」って(笑)。
崔洋一(映画監督)が結婚した嫁・子供情報
崔洋一さんは、「青木映子さん」という女性と結婚していたようです。
ただし、崔洋一さんはあくまで映画監督であり芸能人ではないため、プライベート情報は基本的に非公開で、詳しい家族情報などは明かされていません。
崔洋一(映画監督)の死因はがん
崔洋一さんは、2022年11月27日に膀胱がんで死去しています。
崔洋一さんの身に膀胱がんが発覚したのは2019年の頃で、全摘術を受けたものの予後が悪く、2021年になると肺や右の腎臓、リンパ節などへの転移が確認されたそうです。
以降は抗がん剤治療を受けながら入退院を繰り返していました。
そして、2022年11月中旬頃より容態が急激に悪化し、73歳で亡くなりました。
崔さんは今年4月に東京・新宿の映画館での上映イベントに出席後は、がんの治療のため入退院を繰り返していた。8月下旬に感染症で1か月半入院。10月上旬から自宅で、妻の青木映子さんに支えられて、闘病生活を送っていた。 11月中旬に体調が悪化、25日午後から意識がなくなり、27日午前1時、監督作品「血と骨」のテーマ音楽が流れる中で、映子さんと親しい隣人たちに見送られ、安らかに旅立った。
崔洋一さんの訃報に対しては、ネット上でも惜別の言葉が溢れていました。
40新規スレ立て人募集 社説+の募集スレまで2022/11/27(日) 18:39:23.40ID:GfgaVnnw0
大森一樹といい、この人といい
なんだかちと早い年齢の気がするけど、団塊の世代過ぎると平均寿命縮まって来るのかな133新規スレ立て人募集 社説+の募集スレまで2022/11/27(日) 18:50:33.36ID:d6s9P8T+0
いろいろ言う人もいるだろうけど
生み出した作品はテーマ性高く素晴らしかった
映画人として優れた人物だったご冥福をおいのりします
崔洋一(映画監督)の現在:葬儀の喪主は嫁が務める
崔洋一さんの死後、生前の崔洋一さんの希望通り家族葬で、喪主は妻の青木映子さんが務めました。
仕事関係者向けには、お別れ会が別に開かれるとのことです。
崔洋一(映画監督)のまとめ
崔洋一さんは、若い頃は過激な学生活動を展開し逮捕・高校の退学を経験した後、下積みを経て映画監督になった人物です。
昔ながらの手も口も出る監督で、数々の武勇伝も有名。また、ビートたけしさんをキャストに起用した際のエピソードや松田優作さんとの親密な関係だったことも知られています。
晩年はがんを患い、闘病生活を送っていたようで、死因は膀胱がんでした。
葬儀は家族葬のようですが、生前の功績から近々行われるお別れの会にはおそらく多くの著名人が参加することでしょう。
崔洋一さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させていただきます。