ビートたけしさんに降って湧いた事務所独立騒動ですが、その背景には愛人女性へ財産を相続させるためなどという噂も囁かれています。
この記事では、たけしさんの事務所独立騒動の詳細の他、結婚した嫁と子供など家族情報に関してまとめてみました。
この記事の目次
ビートたけしのプロフィール
名前:ビートたけし
本名:北野武(きたの たけし)
出身地:東京都足立区島根
生年月日:1947年1月18日
身長:168cm
学歴:明治大学理工学部除籍
デビュー年:1972年
漫才ブームに乗り大成功したビートたけし
ビートたけしさんといえば、お笑い芸人と映画監督の2刀流で成功を収めている日本芸能界の顔と呼べる存在です。
元々はお笑いコンビ「ツービート」として芸能デビューを果たしていたたけしさんは、1970年代後半に起こった漫才ブームの波にのり、1980年には年収20億円に到達していたとも囁かれる程の成功を掴みます。
1981年より始まった「オレたちひょうきん族」に出演して以降は、コンビ解散こそ明言されていないもののピンでの活動が中心となったたけしさんは、「風雲!たけし城」や「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」といった番組で活躍し、日本芸能界のトップに躍り出ます。
1989年に公開された映画「その男、凶暴につき」以降は、映画監督としても活動が続いているたけしさん。
たけしさんの映画監督としての評価は国際的にも高く、1997年に映画「HANA-BI」にてヴェネツィア国際映画祭・金獅子賞を獲得した他、2003年にも映画「座頭市」にてヴェネツィア国際映画祭・銀獅子賞を獲得するなど、日本を代表する映画監督として認知されております。
そんなたけしさんの身に降って湧いた事務所独立騒動ですが、その裏事情に関しては様々な噂や憶測が流れている状況なため、これからこの記事で詳細情報を紹介したいと思います。
ビートたけしの嫁・北野幹子は元漫才師の内海ミキ
女性問題の話題には事欠かないビートたけしさんですが、実は現在までに結婚は1度しかしておらず、バツゼロの身の上だったりします。
そんなたけしさんの現在までに至る唯一の本妻という立場の女性が、幹子さん(66)ということになりますね。
幹子さんもたけしさん同様に元漫才師という経歴を持っており、武庫川女子大学短期大学部在学中の1971年に、女子大生漫才師コンビ「ミキ&ヤワ」の司ミキとして芸能デビューを果たしております。
しかしながら、幹子さんの芸人生活は順調には行かなかったようで、芸名が渚ミキに変わるなど迷走をした挙げ句、「ミキ&ヤワ」も早々に解散をする羽目になりました。
その後は女性漫才コンビ「内海桂子・好江」の門下生となり、内海ミキとして再起を図ったりもした幹子さんでしたが、内海ミチさんと共に組んだ漫才コンビでもブレイクすることは出来ずに、以降はピン芸人として活動することになります。
TV共演をきっかけに嫁・北野幹子と結婚したビートたけし
ビートたけしさんと幹子さんとの出会いは、「大正テレビ寄席」という演芸番組がきっかけだったようですね。
当時、幹子さんが「大正テレビ寄席」のアシスタントをしていたところ、ツービートとして番組に出演していたたけしさんと知り合い、交際が始まったと言われております。
2人の出会いは1978年頃と言われているため、1年後の1979年には漫才ブームの波にのりツービートが国民的スターへとのし上がっていることを踏まえると、幹子さんは俗にいうアゲマンなのかもしれませんね。
さらには、漫才ブーム以前の売れない芸人時代には、幹子さんがスナックに働きに出てたけしさんを養っていた時期もあったらしく、まさに糟糠の妻というポジションにいるのが幹子さんということになります。
子供誕生後も3年間未入籍だったビートたけし夫妻
ビートたけしさんと幹子さんが結婚をしたのは1980年となりますが、入籍に関しては遅れに遅れて、1983年にようやく入籍を果たしたという流れだったようです。
1981年に長男・篤さんが、1982年には長女・井子(しょうこ)さんが生まれるなど、順調に子宝に恵まれたたけしさん・幹子さん夫妻が、結婚後しばらく未入籍だったことは意外な印象を受けますが、その背景には夫婦間の不仲があったと言われております。
特に、井子さんが誕生した当時は、夫婦間で離婚を前提とした話し合いの最中だったとも言われており、そのまま離婚をしていれば、2人の子供たちは私生児になっていたかもしれない立場だったりもします。
たけしさんといえば、幹子さんとの30年以上にも渡る別居生活ネタで有名でもありますが、新婚早々に幼い子供たちを残しての離婚とならないようにと、あえて夫婦間で距離を置いて暮らし始めたという裏事情でもあるのかもしれませんね。
ちなみに、2人の子供のいる家庭ということもあり、たけしさんが家にまったく帰らないということはなかったようで、毎週金曜日だけは家族で一緒に食事をとるなど、妥協点を見出しながら夫婦関係を維持してきたようですね。
たけしさんは家に帰らないことをテレビなどでネタにしていますが、公然と愛人をつくって“火宅の人”状態なのを幹子さんは黙って認めてきたわけではありません。毎週金曜日は夫婦で食事を共にするとか、決めごとがあり、それにたけしさんも忙しい時間を縫って、従ってきたんです。1月18日のたけしさんの誕生日には、たけし軍団のお弟子さんも招いて内々の誕生パーティーを開く。幹子さんは手料理でもてなし、最後に見送る役目だったのです
ビートたけしの収入のほとんどは嫁・幹子へ
30年以上別居暮らしを続けた挙げ句、夫は愛人と遊び放題というと、心労が積み重なっていそうな境遇に思えてしまう幹子さんですが、ビートたけしさんの収入の7~8割は幹子さんの懐に入る仕組みになっていたとの噂もあります。
たけしさんが「太田プロダクション」から独立して以降、たけしさんのマネジメントを担当していた芸能事務所「オフィス北野」に関しては、映画プロデューサーの森昌行さんが社長を務めていることは有名な話です。
幹子さんは、その「オフィス北野」からたけしさんのギャラを受け取る資産管理会社の社長という地位にあり、事実上北野家の財布を握る立場にあったとか。
ちなみに、ビートたけしさんは幹子さんからの小遣い制で生活していたようですね。
実際にオフィス北野からのギャラはM夫人の元へ入り、そこから彼に送金されるのです。たけしの手に渡るのはギャラ総額の2、3割ほどだとか。
たけしはまた、かつて芸能人長者番付が発表された際に、「オレが4位か5位で、カミさんが6位だった。2人で1位だよ」と話し、レストランへ食事に行った時に、夫人が一番高いメニューを頼むのを見て、「オレに20万円ちょうだい」と小遣いをねだった経験を話した。
結婚生活の大半が別居生活という男性本位の夫婦生活が維持し続けられた理由に関しては、自由と引き換えに妻に財布を全面的に握らせていた、たけしさんなりの処世術があってのことだったのでしょうね。
ビートたけしの子供情報~長女・井子の子供と養子縁組も
長男・北野篤は博報堂ケトルに勤務するプランナー
ビートたけしさんの長男・篤さんといえば、思春期に高校を中退するか否かで悩んでいたエピソードでお馴染みの人物だったりします。
その際は、機転を利かせたたけしさんが、篤さんをたけし軍団の面々に引き合わせて、「高校なんて辞めちゃいなよ。毎日遊べて楽しいよ」などと煽らせたことで、高校中退を思いとどまらせることに成功したなんて逸話が残っています。
上記のエピソードなどを踏まえると、現在は親のすねかじりの高等遊民でもやっていそうなイメージのある篤さんですが、実は博報堂ケトルで広告関連のプランナーとして活躍中だったりします。
元々はCDショップのバイヤーを務めていた叩き上げのビジネスマンだったりする篤さんですが、博報堂ケトルの設立者である嶋浩一郎さんに誘われて、2010年に博報堂ケトルに転職することとなったとか。
ちなみに、篤さんが務めていたCDショップに関しては、ネット上ではタワーレコードではないかと噂されていますね。
長男・篤には元タレントとの間に私生児も
ビートたけしさんの長男・篤さんには、タレントのたかだゆうこさん(42)との間に、子供が1人生まれているようですね。
篤さんとの交際当時のたかださんは、「オフィス北野」所属であったため、それが縁となり交際に至ったのではないかと思われます。
交際中の2005年に子供が誕生していた篤さんとたかださんのカップルでしたが、妊娠発覚当初はそのまま入籍をする予定だったと言われおります。
しかしながら、出産後すぐに仕事復帰をしたい意向だったたかださんと、母親としてしっかりと子育てをして欲しかった篤さん側とで対立することとなってしまったとか。
たけしさんは篤さん側についていたようで、北野家とたかださんとの間には軋轢が生じることとなってしまいました。
その後、たかださんのお腹の中の子供が本当に篤さんの子供なのかといった疑惑まで持ち上がり、最終的には篤さんが入籍も認知も拒否する事態にまで陥り、2人は破局することとなりました。
たかださんも黙ってはおらず「女性自身」などに一連の騒動を告発したものの、情勢が覆るということはなかったようで、現在は「北野オフィス」を退社し、実家のある京都に帰省して子育て中だったりします。
ちなみにたかださんは、篤さんとの私生児の他にも3人の子供がいるようで、北野家側から色々と疑いをかけられても仕方がない男性関係の奔放さはあったようですね。
長女・北野井子は歌手デビューするも大成せず
ビートたけしさんの長女といえば、元歌手の北野井子さんとなります。
ビートたけし娘・北野井子の現在!元旦那と子供・学歴・消えた理由まとめ
1998年にYOSHIKIさんのプロデュースで歌手デビューしたことでも知られている井子さんですが、本人の意思で歌手デビューしたわけではなく、当時反抗期真っ盛りだった井子さんの身を案じたたけしさんが、芸能界に引きずり込む形となったようですね。
前述の通り、物心がついた頃には両親が別居した家庭に育った井子さんの反抗期はかなり荒れてしまっていたようで、母・幹子さんとは殴り合いの喧嘩を繰り返していたとも言われております。
たけしさんからすれば、娘が情緒不安定なのは自分のせいという負い目があったことは言うまでもなく、何とかして井子さんの気を鎮めたい気持ちが強かったのだと思われます。
肝心の井子さんの歌手活動に関しては、1stシングルの「Begin」がオリコン週間チャートで10位に輝くヒットを飛ばしたものの、2ndシングル「薔薇と緑」は週間29位と低迷。
ちなみに1stシングルの「Begin」のMVの監督は父であるビートたけしさんで、本人も出演。
さながら北野映画のワンシーンのような出来栄えになっています。
その後、1999年1月に芸能活動休業を発表した井子さんは、そのままアメリカへ留学してしまうという急展開を迎えます。
反抗期真っ盛りの少女にとっては、父親の七光りでの芸能活動に耐えられなかったのかもしれませんね。
長女・井子は調理師と結婚するも3ヶ月で離婚
アメリカ留学後の井子さんに関してですが、高校を卒業後は日本に帰国していたようで、2004年に都内在住の調理師の男性とできちゃった婚をしております。
2人の間には2005年に長女が生まれていたものの、出産から3ヶ月後には井子さんが離婚を決意するほど関係が悪化していたようですね。
その後程なくして離婚をした井子さんでしたが、長女の親権に関しては、当然ながら井子さん側が獲得しました。
長女に関しては、たけしさんとの間に養子縁組が成立し、たけしさんの養女という立場となったことで話題になりました。これはビートたけしの相続税対策と若かった娘の将来を考えてのことといわれています。
現在の井子さんの消息に関しては明らかとなっておりませんが、おそらくは幹子さんの元で一緒に仲良く暮らしているのではないかと思われます。
ビートたけしの代表的な愛人たち~愛人との間に子供も
愛人その1「フライデー襲撃事件」時に交際していた専門学校生
1980年代中盤頃から妻・幹子さんと別居し、愛人たちとの自由奔放な生活が続いているビートたけしさんですが、当然ながら度々ゴシップ誌の餌食となっております。
その中でも、愛人Bさんを追いかけ回して怪我を負わせた「週刊フライデー」記者に激怒したたけしさんが、たけし軍団と共に編集部に殴り込みをかけた「フライデー襲撃事件」は、戦後の芸能史を代表する事件と言えます。
ちなみに、「フライデー襲撃事件」の起こった1986年当時21歳の専門学校生だったBさんは、1990年にたけしさんとの間に女児を出産しているそうですね。
しかしながら、子供がいるからといってたけしさんを引き止められ続けるわけではないことは、本妻・幹子さんが証明しているように、Bさんに関しても、1990年代前半頃にたけしさんと破局を迎えたと言われております。
愛人その2 人気グラドルだった細川ふみえ
ビートたけしさんの愛人には、人気グラドルの細川ふみえさん(46)もいました。
細川ふみえの今現在は?離婚した元旦那と子供・美容整形後の画像まとめ
たけしさんと細川さんは、1990年代前半頃に、バラエティ番組「スーパーJOCKEY」での共演をきっかけに交際が始まったと言われております。
細川さんと交際時のたけしさんの身に起こった出来事といえば、1994年8月2日深夜に起こったバイク事故が挙げられます。
細川さんに会いに行くために、深夜に酒気帯び運転をした挙げ句に事故という何とも情けない経緯となりましたが、56日間の入院生活のうえ、テレビ復帰までに半年もかかったという洒落にならない大怪我を負うことになってしまったたけしさん。
バイク事故では右側頭部頭蓋骨陥没骨折や脳挫傷、右頬骨複雑骨折などの重傷を負い、56日間入院。生死の境をさまよった。
さらには、復帰後しばらくは顔面に麻痺が残るといった後遺症などもあり、さしものたけしさんもこの後しばらくは芸人としての低迷期を迎えることになりました。
この頃のたけしさんは、1993年に公開された映画「ソナネチ」が、5億円の制作費で1億円未満の興行成績に終わる大コケを記録して気落ちしていた時期でもあります。
そのため、バイク事故に関しては、たけしさん本人も「うつ病で自殺未遂だったのかも」と振り返るほど、精神が不安定だった時期に起こってしまったアクシデントだったようですね。
愛人その3 女優・大家由祐子
ビートたけしさんの歴代愛人の中には、女優の大家由祐子さん(46)もいます。
大家さんには、元々は女子大生タレントとして、「オールナイトフジ」のMCを務めていたなんてユニークな経歴もあります。
たけしさんと大家さんが知り合ったきっかけに関しては、たけしさんが監督を務め、1996年に公開された映画「キッズ・リターン」だったと言われております。
以降交際することとなった2人ですが、それに伴って大家さんも2003年の「座頭市」までの間、キタノ映画の常連女優となります。
たけしさんと大家さんの交際期間は8年ほどだったと言われているため、「座頭市」から2005年に公開された「TAKESHIS’」の間に、2人は破局したということなのでしょうね。
たけしさんと長く交際した愛人の中では、珍しく交際中に大事件が起こらなかった大家さん。
それだけ2人の相性が良く、精神的にも満たされた日々が続いたということなのかもしれませんね。
愛人その4 キャリアウーマン女性
ビートたけしさんの現在の愛人に関しては、2014年に「週刊文春」のスクープにより発覚しています。
2014年当時49歳だったCさんは、元々は関西の高級ホテルの「アドバイザー」として活躍していた女性だとか。
2009年から2013年にかけて、自らホテル事業の関連会社を立ち上げて経営していたと言われているCさんですが、たけしさんとの交際が始まると会社を清算して、たけしさんのサポートに専念することになったようですね。
Cさんは、大手広告代理店の幹部を経て、熊本県議も務めた経歴を持つ父親の元に生まれており、家柄もかなりしっかりしている女性だと言われております。
ちなみに、2014年当時のCさんは、たけしさん名義の目黒区のデザイナーズマンションにて、たけしさんと半同棲状態でした。
それまでの愛人たちと違い、たけしさんが本妻・幹子さんと別れて結婚したがっていると、2014年当時から報道されていたCさん。
当時の「週刊文春」記事によれば、たけしさんは全財産の100億円を渡すから離婚して欲しいと幹子さんに迫っていたとか。
この「100億円離婚報道」に関しては、たけしさんが即座に否定したために、長らくヨタ記事扱いとなっておりましたが、結局はこのCさんの存在が、30年以上続いたたけしさんと幹子さんとの大人の関係を終わらせた元凶となってしまいました。
ビートたけしが愛人と独立~本妻・幹子との手切れ金は100億円?
ビートたけしが愛人と一緒に「オフィス北野」から独立
2018年3月に日本列島を駆け巡った大ニュースといえば、ビートたけしさんが「オフィス北野」から独立するというショッキングなニュースとなります。
タレントで映画監督のビートたけし(北野武)さん(71)が所属事務所「オフィス北野」を3月末で退社し、独立する意向であることがわかった。同社が14日、明らかにした。
同社によると、本人から「軍団を含め、これまで背負ってきたものをいったん降ろしたい。自分の時間を増やしたい」と申し出があったという。
「オフィス北野」といえば、社長こそ映画プロデューサーの森昌行さんですが、主要株主はたけしさん本人であり、北野一家の家業と目されていた芸能事務所です。
当然ながら、「オフィス北野」からの独立は、たけしさんと本妻・幹子さんとの決別という文脈上で語られる話でもあり、そのような背景も含めて芸能メディアから様々な推測がなされている状況になっております。
独立の1年前には「生前贈与」をしていたビートたけし
ビートたけしさんの独立騒動の予兆に関しては、実は以前にたけしさん本人の口から語られていたりもします。
2017年に自身の出演する政治討論番組「TVタックル」にて、「財産全部生前贈与したので今はすっかからん」という旨の発言をしていたたけしさん。
当時は、「相続税対策で家族に生前贈与したんだろ」といった意見やたけしさん特有のジョークだと受け止めていた人間が多かった「生前贈与発言」。
今から思うと幹子さん側に全財産を渡すことと引き換えに、「オフィス北野」からの独立が成立したという話だったのでしょうね。
独立騒動の裏には嫁・幹子と愛人の遺産相続争いも
独立後のビートたけしさんのマネジメントに関しては、「T.Nゴン」というたけしさんが社長を務める芸能事務所が行うことは既定路線のようですね。
そして、2015年にその「T.Nゴン」を設立した人物が、愛人・Cさんだと言われております。
そういった経緯を踏まえると、たけしさんの独立問題に関しては、2015年くらいから水面下で画策していたことは、ほぼ確実ではないかと思われます。
実際の話、2016年頃からCさんに焚き付けられたたけしさんと「オフィス北野」側でギャラを巡る対立などもあったと噂されており、それまでお金に無頓着だったたけしさんが、ギャラの多寡に拘るようになってしまったなんて報道まであります。
そんなCさんの業界内での評判は良くはないようで、今回の独立騒動も本妻・幹子さんとCさんとの遺産相続争いの一環だと噂されている状況ですね。
「A子さんは気が強く、上昇志向も強いのです。かねてより財産を管理する幹子夫人との間にひと悶着起きるのではないかと危惧していましたが、それは現実になりつつあります。A子さんがたけしさんに『私の将来のことも考えて!』と嘆願したことも会社設立、さらに“独立”の理由の1つのようです」
要するに、独立後のたけしさんの稼ぎを「T.Nゴン」に残して、それをCさんが相続出来るような段取りをたけしさんが整えているとの噂が、業界内では流れている状況になっています。
たけしは幹子夫人が社長を務める資産管理会社の役員を辞任した代わりに、『T.Nゴン』の社長に就任。さらに今年1月には増資(※資本金を増やすこと)も行っている。
増資したのは『A種類株式』というものですが、その株式の所有者は非常に強力な権限を持ちます。《A種類株主が死亡したときは……》という条件が記載されているのも非常に珍しいですね」(相続問題に詳しい司法書士)
ちなみに、Cさんはたけしさんの弟子たちにあたる「たけし軍団」の面々とも不仲と言われており、今回の独立騒動に対して、たけしさんの後を追い「オフィス北野」から「T.Nゴン」に移籍する弟子たちがいないのは、そのためだとも言われております。
「オフィス北野」に多額のお金を残して去ったビートたけし
ビートたけしさんにとって、家族に匹敵するほど重きをなしている存在が、「オフィス北野」に所属するたけし軍団の面々となります。
前述の「フライデー襲撃事件」の際に、たけしさんに従いフライデー編集部を襲撃した結果、前科者となってしまったたけし軍団の古参組に対して、「一生面倒を見る」と誓ったたけしさんの想いは、現在でも健在だったようですね。
たけしさんは、「オフィス北野」からの独立の際に、幹子さん側にほとんどの財産を明け渡しただけではなく、「オフィス北野」自体にも多額のお金を残して去っていたことをタレントのガダルカナル・タカさんが証言しています。
たけしさんが「オフィス北野」に残したお金に関しては、ゴシップメディアの記事では数十億円単位ではないかとも噂されおり、たけしさんの有言実行ぶりに対しては、ネット上でも賞賛の声があがっております。
タカは、たけしは自分が抜けた後の軍団とオフィス北野を心配して、株を処分したり退職金などを残すなど相当な額の資金を事務所に残したことも告白。「これで俺がいなくてもやっていけるよねということで。かなり、びっくりするくらいのお金を残してくれているので、運転資金としては心配することがない状況です」と話した。
ビートたけしの現在~独立後もレギュラー番組はとりあえず継続
今後の映画製作も白紙状態のビートたけし
「オフィス北野」から独立後のビートたけしさんですが、現在持っている6本のレギュラー番組はとりあえず継続して行く予定となっています。
しかしながら、もう1つの本業である映画制作に関しては、長年キタノ映画のプロデューサーを務めていた森昌行さんとの決別により、次回作以降の制作を危ぶまれている状況だったりします。
北野映画の今後と五輪演出の件について、オフィス北野に話を聞くと、
「映画に関しましては白紙の状態です。引き継ぎなども多く手が回っていません。」
森さんは、予算やスケジュールを管理することに対しては、日本映画界で右に出るものはいないレベルの辣腕プロデューサーだと言われております。
たけしさんが赤字を出さずに映画を作り続けられた要因には、森さんの撮影スケジュール管理術による貢献が大きかったと言われており、森さんと決別したたけしさんが、これまでのように映画を作り続けることは難しいだろうという意見が業界内では多いようですね。
まとめ
・ビートたけしの結婚した嫁は元漫才師の内海ミキ(本名・北野幹子)さんである。
・ビートたけしと嫁・幹子の間には子供が2人。長男・篤さんは博報堂関連会社勤務。長女の井子は歌手デビューするもヒットせず芸能界を引退。
・ビートたけしには昔から愛人が多数おり、「フライデー襲撃事件」当時は21歳の専門学校生と交際。1990年に子供を出産した。
「老いらくの恋のせい」などとも揶揄されているビートたけしさんの独立騒動ですが、関係者に対するケジメに関しては、しっかりとつけてはいるようですね。
一部では、「後妻業の女にビートたけしが操られている」などといった声もあったりしますが、関係者に対する筋の通し方を見る限りでは、たけしさんがもうろくしたということはなさそうに見えます。
戦後の芸能史を彩ったスターであるたけしさんだけに、この独立騒動がハッピーエンドで終わることを祈っております。
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