世界的にも著名なビートたけしさんですが、1980年代にフライデー襲撃事件を起こし、前科持ちでもあります。
ここではビートたけしさんが1986年に起こしたフライデー襲撃事件についてまとめています。
ビートたけしのプロフィール
芸名:ビートたけし
本名:北野 武(きたの たけし)
出身地:東京都足立区島根
生年月日:1947年1月18日
身長:168cm
血液型:O型
出身高校:東京都立足立高等学校
最終学歴:明治大学工学部(現:理工学部)機械工学科除籍(特別卒業認定)
所属事務所:オフィス北野
ビートたけしさんは、1980年代の漫才ブームの中で「ツービート」で人気を博し、その後映画界にも進出した文化人です。芸人としてはタモリ・明石家さんまと並んで「ビッグ3」に位置付けられ、映画監督としては国内外で多くの賞を受賞しています。
ビートたけしのフライデー襲撃事件!逮捕で前科持ちに
フライデー襲撃事件
フライデー襲撃事件
日時:1986年12月9日 午前3時
場所:講談社フライデー編集部
フライデー襲撃事件の概要
・動機:当時ビートたけしさんが交際していた女性に対する過剰取材。
1986年12月8日、東京都渋谷区の路上で、ビートたけし(以下「たけし」、当時39歳)と親密交際していた専門学校生の女性(当時21歳)に対し、『フライデー』の契約記者が、女性が通う学校の校門付近でたけしとの関係を聞こうと声をかけたが、それを女性が避けて立ち去ろうとしたため、記者が前方に立ちふさがってテープレコーダーを彼女の顔に突きつけ、手を掴んで引っ張るなどの行為に及び、頸部捻挫、腰部捻傷で全治2週間の怪我を負わせた。
・事件の流れ。
これに怒ったたけしは、フライデーの発行元である講談社に電話をかけ、強引な取材に抗議した上、「今から行ってやろうか」と通告し、翌12月9日の午前3時過ぎ、たけしは彼の弟子集団たけし軍団メンバー11人と共謀して、タクシー3台にそれぞれ4人ずつ分乗し東京都文京区音羽にある講談社本館のフライデー編集部に押し掛け、その結果、暴行傷害事件へ発展した。
田中康夫による裁判傍聴記においては、当初たけしは手を出さないよう軍団メンバーに言っておいたものの、当時の編集次長による「自分は空手が得意である」旨の発言をはじめとした、編集部員の挑発的言動が原因で暴行に至ったと記されている。報道によれば、たけしが「担当者を出せ」と迫った後、どちらからともなく一斉にもみ合いになった。たけしらは「ブチ殺すぞ、この野郎!おれは刑務所行きも覚悟している!」などと怒鳴りながら、粉末消火器を噴射した上、同誌の編集長及び編集部員らに室内にあった雨傘や拳で殴打したり蹴ったりして、肋骨骨折などで1ヶ月から1週間の傷害を負わせた。たけしらは住居侵入・器物損壊・暴行の容疑で、大塚警察署によって現行犯逮捕された。
メンバー(東国原英夫の先陣切り、つまみ枝豆の不参加理由)
フライデー襲撃メンバー
柳ユーレイ(現:柳憂怜)、大森うたえもん、サード長嶋、ガダルカナル・タカ、グレート義太夫、ふんころがし(現・ダンカン)、キドカラー大道、大阪百万円、そのまんま東(現:東国原英夫)、松尾伴内(23歳)、19歳の少年の11名です。
いわゆる、たけし軍団のメンバーですね。
フライデー襲撃時に先陣を切り、編集部に乗り込んだ東国原英夫(当時そのまんま東)ですが、それには深い事情がありました。実はいやいや付いていき、結局一番最後にエレベーターに乗ったところ、「先陣切り」の大役に!
編集部を襲撃する前、たけしは東国原氏に電話をかけて、一緒に参加するよう話をしたという。しかし、東国原氏が「イヤだ」と断ったので、たけしが「あっそう。じゃあお前、(今後は)縁がねえと思いな」と言い捨てたところ、急いで駆けつけてきたそうだ。講談社のエレベーターで、たけしは、ためらう東国原氏を最後に引きずり込んだ。そのため、東国原氏が自然と暴徒の先頭になってしまったそうだ。
一方で参加していなかったつまみ枝豆には、ビートたけしさんからの配慮があったようです。
枝豆はたけしを熱狂的に崇拝していたため、何をするか分からないからと、たけしは「枝豆には連絡するな」と軍団メンバーに命令を下し、枝豆は襲撃の現場に呼ばれなかったという。
さらに枝豆は、たけしが逮捕されたことを受け会見を開いていた講談社に乗り込もうとしたが、その時大塚署からたけしの電話。「みんなの面倒は見るから、勘弁してくれ。今は動かないでくれ」と言われて乗り込みも中止したという。結局、事件に関与することもなかった枝豆。「殿(たけし)が守ってくれた」と、当時を振り返った。
そのまんま東には来いといいながら、つまみ枝豆にはくるなという。そんな状況下でも、軍団メンバーの性質を見極めて招集していたのかという感じですね。
たけし前科一犯に!
ビートたけしは懲役6か月執行猶予2年の判決!
ほかの軍団11名は、起訴猶予処分となりました。
フライデー襲撃事件後のビートたけしさんの活動自粛期間は、半年以上に及びます。
たけしは事件後、いったんは1週間足らずで芸能活動を再開したものの、そのことに世間から批判の声も上がり、結果的に半年以上ものあいだ活動を自粛する。この間、東京地裁では4月より3回にわたり公判が行なわれ、6月10日には、たけしに対し懲役6カ月執行猶予2年の判決が下った。
実際に復帰となった舞台は、1987年7月18日〜19日にかけて放送された「FNSスーパースペシャル 一億人のテレビ夢列島」にて。この番組のトーク企画のコーナーにて、総合司会をつとめていたタモリ、明石家さんまに出迎えられ、テレビ復帰となりました。
ちなみに、たけしさんは活動自粛期間中には大橋巨泉さんの家や伊豆にいたそうです。
1986年のフライデー襲撃事件後は、巨泉さんの家で謹慎していたことを明かし、「マイナスなことは言わずに気に掛けてくれました」。
活動自粛中のたけしは一時、伊豆に逗留している。そこではゴルフや天体観測をしたり、さらに数学者・広中平祐の著書を読んで「考える持続力」をつける必要を感じ、中学校の教科書の内容をやり直したりしていたという(筑紫哲也監修『たけし事件 怒りと響き』太田出版)。こうした体験は、のちの人気番組『たけし・逸見の平成教育委員会』の企画へとつながっていく。
わりと悠々自適に過ごした自粛期間だったのかと思えば、ただでは帰ってこない人ですね。
ビートたけしのフライデー襲撃事件の背景・影響
1980年代当時、写真週刊誌の報道は行き過ぎが問題視されていたころでもありました。
中でもその先鋒は「フライデーされる」という今でもよく聞く言葉を生み出した週刊誌「FRIDAY」です。そのため事件後には、ビートたけしさんらに同情的な声がありました。
このような過激なスクープ合戦は負の部分も大きい。フライデー襲撃事件が起きた頃も、写真週刊誌による行き過ぎた報道が問題視されていた。そのような背景もあってか、当時の官房長官・後藤田正晴が「ビート君の気持ちもよくわかる」と発言するなど、たけしへの同情論も目立っていた。
そして、フライデー襲撃事件ではそれまでの過激取材の風潮を変えたとの評も。
車のボンネットに飛び乗ろうがなんだろうが、「決定的瞬間」を撮れさえすれば何でもありの風潮を変えたのは、この事件だった。
またビートたけしさん個人の状況からいうと、当時の交際相手の女性に対する過剰取材をしたのは、もともと彼と懇意にしていた記者だったそう。そのためいろいろと事情を知っていた記者が、その情報を利用して過剰取材へ……。
当時、「フライデー」の契約記者だったAは、たけしに取り入って、四谷三丁目にあった居酒屋「北野家」に出入りし、ただ酒を食らいながら、たけしの身辺の情報を入手していた。ところがAは、たけしを裏切って、専門学校生やその家族にまで、今でいうストーカーまがいの取材をしたのである。それに対して、たけしは怒ったのだ。
こういった背景・事実もあるフライデー襲撃事件でした。
まとめ
ビートたけしさんのフライデー襲撃事件についてまとめました。現在でもまれに「(自分には)前科があるから」と話すことがありますが、それはこの当時のことですね。
自分を慕う爆笑問題の太田光(51)についても「太田プロに入る前から知っていた」といい、“ポストたけし”の呼び声もあることに「俺に勝てるわけはない」と毒づき、その理由について「前科がないし、死にかけたこともない」と波乱の半生を持ち出して笑いを誘っていた。