浜田雅功さんが卒業生として知られる日生学園第二高等学校ですが、”日本一のスパルタ教育”の学校として有名です。
日生学園第二高等学校のスパルタ教育の内容エピソード15選や事件、卒業した芸能人・有名人、現在の様子などについて詳しくまとめました。
この記事の目次
日生学園第二高校とは…日本一のスパルタ教育をしていた学校
日生学園第二高校は軍隊式を取り入れた日本一のスパルタ学校
軍隊式を取り入れた日本一のスパルタ学校
日生学園第二高等学校の詳しい情報はこちら。
過去の名称: 日生学園第二高等学校
国公私立の別: 私立学校
設置者: 学校法人日生学園
設立年月日: 1980年
共学・別学: 男女共学
課程: 全日制課程
単位制・学年制: 学年制
設置学科: 普通科
学科内専門コース: 特進S、特進、進学
学期: 3学期制
高校コード: 24514D
所在地: 〒515-2692 三重県津市白山町八対野2739引用:Wikipedia – 青山高等学校 (三重県)
学校情報にあるように、日生学園第二高等学校は2015年4月1日から青山高等学校(あおやまこうとうがっこう)に名称変更しており、それに伴って特別進学Sコース、特別進学コース、進学コースの3コース制を設けました。
日本一のスパルタ教育で有名になった日生学園第二高等学校の他に、日生学園第一高等学校、日生学園第三高等学校がありましたが、それぞれ日生学園から独立し、前者は現在桜丘中学校・高等学校になり、後者は自由ヶ丘高等学校になっています。
日生学園第二高等学校は1990年代までスパルタ教育を取り入れており、軍隊さながらの過度な教育から生徒同士の暴行事件、寮からの脱走、自殺などの不審死が相次ぎ、1985年には当時の教師が週刊誌に内部告発して荒れた学園模様を暴露し注目を集めました。
日生学園第二高校のスパルタ教育を提唱した初代学長・青田強
創立者・青田強は”お国のために死ねる”生徒を育てたかった?
1980年代からのスパルタ教育が最も盛んだったと言われる日生学園第二高等学校(系列校含む)の学長は青田強さんですが、すでに亡くなっており現在は息子の青田進さんがその思想を引き継いでいます。
生前、青田強さんの教育理念は「一流の人間を育てる」というもので、その思想を体系化した「青田強全集」という10巻からなる著書を残しています。
日生学園第二高等学校の行き過ぎたスパルタ教育を見る限り、軍国主義を体験した青田強さんの徹底した統制を以て私欲を捨て去り公に尽くすという考え方が浸透しているようですが、戦後40年あまりが経過した昭和後期の時代にはまったく合いませんでした。
また、当時は高度経済成長期のいわゆるバブルに沸いた時代でしたが、それを下支えしてきたのが「モーレツ社員」「企業戦士」と呼ばれた、現代の言い方に置き換えると”社畜”のようなサラリーマン達でした。
こうした背景もあり、青田強さんはそうした”モーレツ”な社会人になれるような生徒を育てたかったのかもしれません。
しかし、バブルの崩壊とともに時代にそぐわなかった青田強さんの教育も崩壊し、現在の青山高等学校のようにスパルタ教育は時代に合わせて緩和していきました。
日生学園は野球やダンス部、放送部などの強豪校でもあり、そうした学校を創り上げた青田強さんの銅像がグラウンドに建てられています。
後に紹介する同校の卒業生である浜田雅功さんや今田耕司さんなどの存在があるのも、青田強さんの”普通”から逸脱した教育環境のおかげかもしれません。
日生学園第二高校の事件…いじめやスパルタ教育で自殺者や事故死者が多発
日生学園第二高校では自殺者や不審死が多発していた
日生学園では数々の不祥事を起こしてきた
創立年でありスパルタ時代の1980年代から日生学園では数々の暴力事件や脱走事件が起きており、その中で自殺者や事故死者などを出してきました。
この問題は当時国会議員も乗り出して国勢調査が行われ、三重県も日生学園に対する行政指導を行いました。
また、近年では部活動での不祥事も目立つようになってきており、2009年には日生学園第三高等学校の柔道部員が自主練習中に死亡する事故がありましたが、顧問は「不適切な練習はさせていない」と主張していました。
2010年には野球部員が喫煙や暴力事件などで試合の出場停止などの処分を受けています。
日生学園第二高校のスパルタ教育がわかる動画
カルト宗教もビックリな日生学園の日常生活
以下の動画はYouTube上で公開されている日生学園第二高等学校の日常生活の動画ですが、一般人には理解できないカルト宗教の修行よりもさらに強いインパクトを与えてくれます。
動画タイトルにもあるように、この動画を初めて観た人が持つ大方の反応は「キチ○イ」というものだと思いますが、これは番組収録用に普段よりも3~5割増しでやれと先生から言われていることでしょう。
日生学園の生徒は狂信的な宗教心を持っているわけではなく、大半の生徒はスパルタ教育に嫌気が差していながら通っているようなので、普段からここまで熱を込めることはできないでしょう。
日生学園第二高校卒業の芸能人~浜田雅功や今田耕司も出身者だった
日生学園第二高校出身の芸能人① 浜田雅功は副学寮長を務め卒業
日生学園第二高等学校で副学寮長を務めていた浜田雅功
ネット上で日生学園第二高等学校が特に注目されてきたのは、ダウンタウンの浜田雅功さんの出身校だったからであり、当時副学寮長を務めていたことが番組で紹介されていました。
浜田雅功さんは創立翌年の1981年度・第2期生であり、まさにスパルタ時代の渦中を通っていました。
浜田によれば、同校は外部から隔離されており、月に一度の散髪で使う床に敷く新聞紙が情報源だったという。当時を振り返り、浜田は「遠足も修学旅行も何もなかったんで、外部との接触一切させられへん」と語った。なお、後輩の今田はあまりの過酷さに同校を退学しているが、浜田は在校時に「副学寮長」なる役職を務め、最終的には無事卒業したそうだ。
日生学園第二高校出身の芸能人② 今田耕司は1年生の秋に脱走していた
また、今田耕司さんは日生学園第一高等学校の出身者ですが、同じく番組で1年生の秋に逃亡を図ったことがあることが紹介されていました。
今田は「便器を素手で洗う」「全寮制で甘い物や菓子類の持ち込みが禁止されていた」等、当時の同校の過酷な環境を明かした。
また、生徒間の上下関係も厳しかったそうで、今田は先輩に夜中にトイレに呼び出され、腹に蹴りを入れられるなどの「指導」を受けたことも明かした。
日生学園第二高校出身の芸能人③ プロサッカー・野球選手も輩出
元日本代表DF・千葉和彦も卒業生
日生学園出身者にはプロ野球選手やプロサッカー選手もいます。現在は名古屋グランパスで活躍する千葉和彦さんも卒業生で、2001年に特待生として日生学園入学し、高校2年生の時には「全国高校サッカー選手権大会」に出場しています。
その他の日生学園出身者は以下の通りです。
鮫島秀旗…元・野球選手・ヤクルトスワローズ(1991年度・第12期生)
山口賢一…プロボクサー・WBO Asia-Pacific チャンピオン(1998年度・第19期生)
尾崎瑛一郎…サッカー選手(2002年度・第23期生))
日生学園第二高校卒業生の声「あの高校は収容所」
浜田雅功さんも今田耕司さんも口を揃えて「あの高校は刑務所」だと語っていました。
卒業生は口を揃えて「収容所」と言っている
日生学園に通っていた卒業生のコメントがYahoo!知恵袋や掲示板などで見られますが、それによれば高校ではなく「収容所」という感想が多いようです。
一高の卒業生です。
日生は人殺し学校です。
私が在校時にも後輩が学祭の日に亡くなりましたが、学校は「喧嘩ではなく友達同士ふざけてたら死んだ」みたいなことを言ってきちんとした説明はありませんでした。
過去にも教師の暴力で生徒が死亡しています。
今は変わったと言われてますが、校長を始め当時の教師は殆ど残っています。
他に行ける学校が全くないなら別ですが、明るい気持ちで入る学校ではありません。
日生学園第二高校のスパルタ教育内容15選(1~5)
日生学園第二高校のスパルタ教育① 平日一日のスケジュール
日生学園第二高等学校では毎日朝4時に起きる
生徒は水曜日と休日の日曜日以外の平日は、毎朝4時に起床します。
起床後点呼を取り、歯磨きや洗顔、着替えなどを済ませた後、”心行(しんぎょう)”と呼ばれる大声で叫びながら足を大きく広げて床を一心不乱に磨く修行が待っています。
これを各部屋10分間、各階の廊下で10分間を終えた後、全校生徒全員が道場(体育館)に集合して約1時間するため、大合唱で小刻みに震えながら床を1時間あまり磨くその光景は異様なものになります。
体育館から寮に戻る前にも点呼を取り、さらに寮に着いても点呼、急いで汗を拭いて制服に着替え、整列の後に集団登校し食堂前に集まります。
そこで国旗と校旗掲揚(雨天時は省略)し、食堂に入り朝食を素早く摂り、その後校歌斉唱をします。
早くから活動していることから午前中に4時間、昼食を挟んで午後に1時間の5時間制です。
放課後は整列して集団下校し、寮に着いたら点呼、そして素早くジャージに着替えて雄叫びを上げながら心行をします。
清掃活動の心行が終われば約6キロのマラソンをし帰寮と点呼、階ごとに風呂に入るため待っている間は自由時間ではなく自習をしなければなりません。
風呂が終われば食堂前に集まって国旗と校旗の掲揚をし夕食、食事の際には10曲以上あると言われる校歌を大声で歌います。
夕食後は速やかに帰寮し点呼、そして自習が始まりますがここで唯一とも言える”優しさ”なのか、間食としてアンパン(タカツキパン製)と牛乳が支給されます。
自習を終えると消灯し、激しい一日を終えて就寝となります。
これらのスケジュールの中で自由時間は一切なく、授業の間の休み時間や食事中も24時間一切の私語は禁止で、寮にはテレビはもちろんラジオや雑誌、新聞など娯楽に繋がるものは一切ありません。
そのため、生徒らは極度のストレスが溜まっており、その発散方法は唯一いじめや喧嘩しかありませんでした。
なお、これらの生徒を指導する先生はさらに厳しい戒律があると言われており、坊主頭はもちろん生徒らより1時間早い夜中3時に起きる必要がありました。
日生学園第二高校のスパルタ教育② 日曜日のスケジュール
日生学園の日曜日にも休息はない
世間は休日である日曜日は朝7時に起きることが許されていますが、点呼と歯磨き・洗顔を終えて声を張り上げながらの15分の心行は365日休むことは許されません。
その後食堂に集まって点呼、朝食を摂り、校歌を歌ってから帰寮と点呼、昼食までは自習時間となり、昼食は食堂ではなく寮にパンが配られます。
その後再び自習となりますが、昼寝タイムもあるものの頭を休める15分程度の仮眠であり、オーバーすると”誤睡”として怒られてしまいます。
仮眠が終わると夕食まで自習となり、夕食後も自習ですが優しさの間食パンは支給されます。
そして就寝時間まで自習して消灯となります。
くどいようですが日曜日にも自由時間はありません。
日生学園第二高校のスパルタ教育③ 先輩・教師には絶対服従
軍隊のように上下関係が厳しい縦社会
寮はすし詰め状態で、ひと部屋最高で48人まで収容でき、ひとつの階に4部屋まであります。
1年生から3年生までの区別はなく、一緒に生活しているため天下の3年生以下は何かしら窮屈な思いをします。
日生学園第二高等学校の卒業生が以下のように学校での上下関係について語っています。
日生学園第二高校の卒業生です。
少年院と言うより収容所。
僕らの頃はもう素手で便器を磨いたりとかそこまでの厳しさはありませんでした。
しかし、その名残と言うか早朝マラソンが毎朝あったり、全寮制独特の厳しさはありましたよ。
先輩が怖かったです。
三年生は天下、二年生は平民、一年生は奴隷なんて言われていましたからね。
先輩の言うことは絶対。
いじめや暴力、喫煙も日常茶飯事でしたね。
脱走する生徒も月に数人は出ましたね。
とにかく自由な時間や空間がなく、プライバシーなんて無視ですね。
僕は普通科にいましたが、普通科でさえこんな感じです。
戸塚ヨットスクールと良く比較され、陸の戸塚と言うあだ名があります。
過去には自殺者や校内での不審死も相次いだ時期もあります。
とにかく高校と呼べるような学校ではありません。
僕はもう二度とあんな収容所みたいな所には行きたくないです。
この卒業生の時代は最も過酷だったスパルタ時代の後期のようですが、人権剥奪レベルの規律に反発して喫煙なども横行していたようです。
さながら北朝鮮の強制収容所のように語っていますが、致命的な肉体的拷問が無いだけで精神的苦痛が大きかったことを物語っています。
特に1年生は”奴隷”であるため、上級生らの身の回りの世話はすべてする必要があり、3度の食事も上級生らが口にするまではお預けとなります。
口答えすることは万死に値するため、3年生の言うことには絶対服従が原則でした。
たとえストレスが溜まった3年生や教師から理不尽な説教や暴行を受けても1年生は甘んじて受け入れるしか無かったようです。
日生学園第二高校のスパルタ教育④ 校内いじめや拷問が多発
いじめや拷問による自殺者が多発した
3年生や先生からのいじめや暴力は日常茶飯事であり、肩パン・平手打ちは当たり前、時にはまるでプロレスラーのようにパイプ椅子で殴られたり、一晩中正座をさせられたり、腕を上に上げさせて動かないように命令されるなど、これらはまだかわいい方でした。
校内では公然と拷問が横行しており、ホッチキスを開いて叩きつけて芯を刺したり、ほうきを膝の裏に挟み込ませて正座をさせ、その上に乗るなど、その他にも水責め等致命的にならない程度の拷問は行われていました。
権力を握っていた教頭の怒りが爆発した時には、ベルトを引き抜いて金属製のバックルで思い切り頭を叩かれることもあったようで、流血している生徒にハンカチを差し出すことすら許されませんでした。
暴力以外にも拷問はあり、病気になっても致命的で無い限り病院には連れて行かれませんでした。
風邪をひいて熱が出ていても、先生が体温計で体温を測り、38度を超えないと休むことは許されず、たとえ40度の高熱が出ても市販薬だけ支給され、病院に行かせて貰えず根性で治すしかありませんでした。
こうした人権を剥奪した環境にあったため、生徒らの脱走は日常茶飯事であり、自殺者・不審死も多数発生しました。
日生学園第二高校のスパルタ教育⑤ トイレ掃除は素手
日生学園で有名な”素手でトイレ掃除”
スパルタ時代の日生学園の代表的なエピソードとして挙げられるのが”素手でトイレ掃除”というもので、生徒らは雄叫びを上げながら頭を激しく揺さぶり素手で便器に手を入れてこびりついた汚物を綺麗にしていました。
雄叫びを上げながら頭を激しく揺さぶっていたのは便器に手を入れているという現実から意識を背けていたのかもしれません。
日生学園には「便器は心の鏡」という教えがあり、便器が汚れていると心も汚れていることの表れであり、汚い便器をあえて素手で洗うことに意義を見出していました。
しかし、素手で便器を洗う人は芸能界にも少なからずおり、サッカー選手の槙野智章さんや俳優の高橋一生さんも素手で洗うようです。
素手で洗うとたわしやスポンジでは分からない便器表面の目に見えない汚物や水垢の凹凸までわかるため、神経質な男性ほど素手で便器を洗う人が多いようです。
日生学園第二高校のスパルタ教育内容15選(6~10)
日生学園第二高校のスパルタ教育⑥ 偏差値40以下から這い上がる
スパルタ時代の日生学園は偏差値40以下だった
まだ”素手で便器洗い”の風習が残っていたスパルタ時代の日生学園の偏差値は40以下であり、国内の最底辺のランクの高校でした。
そのため、日生学園に入学する生徒の多くは他の高校では通用しない不良・問題児ばかりで、この当時は手に負えない生徒をスパルタ教育で叩き直す学校がいくつかありました。
ただ、偏差値が低いと言っても問題児を受け入れるための措置であり、入学後は全寮制であることもあって前述のように自由時間はすべて自習時間に置き換えられていました。
定期テストの時期などは、消灯後も自習をする時間が許可されるなど、日生学園は学力向上の対策が講じられていました。
また、日生学園では上級生が下級生の勉強を率先して見てあげることが多く、下級生の成績を上げることに尽力します。
これは親切心からやっているのではなく、下級生の成績不振は上級生の責任だという”面倒見”の文化があるため、ペナルティを受けないためにも上級生は暴力をふるってでも下級生に勉強をするように仕向けます。
日生学園第二高校のスパルタ教育⑦ 机の範囲から出てはならない
トイレ以外は机の範囲から出ると怒られる
普通の学校では多くの生徒が机のパイプの上にレッグレストのように足を置くことは普通ですが、日生学園ではパイプに足を乗せたり、机の範囲から足を出すことは許されません。
また、授業の合間の休憩時間はトイレ以外に席を立つことは許されず、当然私語も禁止のため次の授業の準備を終えたら姿勢を正して座っていることが求められます。
日生学園第二高校のスパルタ教育⑧ 大体声が枯れる
大声を出し続ける学園生活で声が枯れる
日生学園に入学すると、まず3日の内に校歌、応援歌、寮歌など10曲を丸暗記させられます。
そして、これらの歌を歌う際は腕を大きく振りながらはち切れんばかりの大声で歌うことが求められます。
また、歌以外の返事や心行中の掛け声など多くの場面で大声を出すことを求められるため、ほとんどの生徒は入学3日を待たずして声が枯れるそうです。
日生学園第二高校のスパルタ教育⑨ 厳しい服装規定
日生学園は下着の色まで決まっている
スパルタ時代の日生学園の制服は普段の学校生活用と実家への帰郷用と2種類があり、女子も含めてズボンとなります。
男子は薄いブルーのYシャツにネクタイ、まるで特攻服のように短いブレザーで、帰郷用はブレザーが普通のものに変わります。
寮に戻った時などはジャージに着替え、靴や靴下は学校指定のもの、下着は無地の白のみとなっています。
男子の髪型は寒い冬も合わせて年中五厘となります。
日生学園第二高校のスパルタ教育⑩ 買い物は許可制
生徒はお金の所持が許されていなかった
スパルタ時代の日生学園では生徒はお金を所持してはならず、文房具など学校生活の必需品を買う場合は購買部を通して必要なものを書き、それを朝担任に提出して許可が降りれば買うことができました。
もちろん校内に自動販売機などは一切なく、生徒が口にできるのは水道水か熱いお茶、間食の牛乳くらいでした。
日生学園第二高校のスパルタ教育内容15選(11~15)
日生学園第二高校のスパルタ教育⑪ 雨具は禁止
雨よけすることは許されなかった
どういう理由があったのかは分かりませんが、スパルタ時代の日生学園では傘をはじめとした雨具は所持が禁止されており、豪雨や台風、豪雪でもそれらに打たれるしかありませんでした。
日生学園第二高校のスパルタ教育⑫ 教師は生徒の鏡に
生徒の鏡になるため教師はさらに厳しかった
日生学園では住み込みの先生を教師と呼び、通勤してくる先生を講師と呼びました。
前述のように教師は生徒らよりも1時間早い夜中3時に起きて準備を始め、生徒が登校してくる前に道場(体育館)で心行を行います。
もし遅れたり気合が入っていなかったりすると、教頭から容赦なく殴られていました。
教師はタコ部屋ではなく個室が与えられており、時間外の飲酒や喫煙は認められていましたが、全国からどうしようもない問題児が集められていたため、教師の多くは武道経験者や元不良など強面で舐められないタイプが多くいました。
しかし、中には教員免許を持たないまま教師をしていた人もいたと言われており、それほど日生学園は担い手がいなかったのでしょう。
日生学園第二高校のスパルタ教育⑬ カンニングはし放題
日生学園のテスト平均点は異常に高かった?
テスト前日になると消灯後の勉強が許されたものの、これは”カンニング”を含めた慣習的なものであり、先生が出題されるテスト問題を教えてくれていました。
もちろん答えまでは教えてくれなかったものの、当日のテストで出る問題を書き写すことができた生徒たちは前日中に同級生や先輩などと協力して答えを導き出しテストに臨んでいました。
そのため、スパルタ時代のテストは赤点を取りようもなく、平均点は異常に高かったようです。
このカンニングとも言える問題の流出が行われていたのは、生徒の点数が悪いと教師が教頭などから酷い体罰を受けるためでした。
日生学園第二高校のスパルタ教育⑭ 帰郷時の慣習
日生学園では”下界”するにも作法があった
日生学園第二高等学校は山奥にあったため、テレビや新聞、ラジオなどを聴けない生徒らは俗世から隔離されていたため世間を「山の下の世界」という意味も込めて”下界”と称しており、帰郷が近づくと「あと何日で下界に帰れる」と待ち遠しい思いで待ちました。
帰郷の2日前には男子は全員綺麗に五厘刈りにしなおし、当日は朝4時に起床して心行を行うとところまでは一緒ですが、帰郷用の制服に着替えて朝食後に食堂前に集合します。
そして麓の駅まで送るマイクロバスが到着すると、待ってましたと言わんばかりに生徒らから拍手喝采が沸き起こりました。
広大な敷地に立つ日生学園第二高等学校は、校門まで2キロあり、駅までバスで15分でした。
そして、駅に到着すると教師から休暇中の戒め等話があり、西の大阪方面と東の名古屋方面に行く人で分かれてそれぞれ実家に帰郷します。
日生学園の冬休みや春休みは20日ほどあるものの、夏休みは世間よりも短く3週間ほどしかありません。
大半の生徒は帰郷しますが、部活で合宿がある生徒は学校に1週間ほどの居残りとなります。
この時ばかりは生徒は朝7時の起床が許されており、さらに親などからお菓子やジュースなどの差し入れも許可されていました。
日生学園は普段が自由が全く無い反面、長期休暇中の宿題や課題は全く無いという極端ぶりで、それも手伝って休暇の終わりが見えてくると生徒らは「また地獄が始まる」とうつ病のように落ち込む人も少なくありませんでした。
日生学園第二高校のスパルタ教育⑮ 校内で密輸が横行?
リスクを冒して密輸が横行
日生学園の給食は不味いこと有名で、白米ではなくぬるい麦飯に冷え切った味のぼやけたおかず、時には小石や虫など異物も混入されており、とても成長期の生徒が食べるような食事ではありませんでした。
当然お菓子など嗜好品は皆無で持ち込みも禁止だっため、食に対しての不満も溜まっていた生徒らは、何とかして密輸を企てていました。
思春期であることからも異性を愉しむための雑誌も渇望され、親に頼んで仕送り品の枕などの中に細工をして忍び込ませて密輸していたようです。
それでも頻繁に仕送りできるわけではないので、年に数回の楽しみだったと思われますが、もし密輸が見つかれば激しい体罰が待っていたため、まさに命懸けの密輸でした。
日生学園第二高校の現在~青山高校と改称し不登校経験者の受け皿に
現在は21世紀型グローバル教育を謳った全寮制の高校に変革
現在は青山高等学校と改称し21世紀型グローバル教育を謳った全寮制高校に変革、不登校経験者やヤンキーなどの受け皿として全国から進学する生徒も多いようです。
しかし、現在も当時の名残はあるようで月曜日から土曜日までは毎朝寮別の朝のマラソンがあるようですが、ジョギング程度の軽いもので参加しない生徒もいます。
また、スパルタ時代から現在まで恋愛禁止の校則が続いており、当時は退学処分の対象になりましたが現在はそこまで行かずとも厳重な処分程度のようです。
日生学園創業者である青田強さんの息子の青田進さんが2代目理事長を引き継いでいるため根本的な思想は変わっていないようですが、偏差値の低さの割に国公立大学や早稲田大学などに進学する生徒も増えてきており、スパルタ教育は過去の産物となっているようですね。
日生学園第二高校についてまとめると…
・日生学園第二高校は日本一のスパルタ教育を謳い自殺者や事故死者を多数出し社会問題となった
・日生学園第二高校は浜田雅功や今田耕司など大物芸能人が出身者であることから有名になった
・日生学園第二高校は現在、青山高校と改称し21世紀型グローバル教育を謳った全寮制高校に変革した
日本一のスパルタ教育で有名になった日生学園第二高等学校について総まとめしてきました。
日生学園と並んでスパルタ教育で注目されたのが戸塚ヨットスクールですが、どちらの創業者もどうしようもない問題児を更正させる学校として創立したようです。
中には卒業生が社会で事件を起こしたケースもありますが、更生できた生徒も多くいたことでしょう。