「栃木リンチ殺人事件」の概要
「栃木リンチ殺人事件」は1999年12月4日に栃木県で発生した、主犯格・萩原克彦らによる須藤正和さんに対する拉致監禁、暴行恐喝、殺人と死体遺棄事件です。
萩原克彦らは無抵抗な須藤正和さんからお金を巻き上げ、2ヶ月間に渡り暴行加え、須藤正和さんの家族が警察に相談していることを知ると殺害。
また、須藤正和さんの両親から9度にわたる捜査依頼を受けながら理由もなく拒絶しつづけた栃木県警の失態も発覚した事件であり、「桶川ストーカー殺人事件」とともに当時警察の信用を失墜させた事件でした。
「栃木リンチ殺人事件」犯人・萩原克彦の生い立ちと家族
萩原克彦、両親に異常なほど溺愛されて育つ
萩原克彦は幼稚園に通っていた頃から、他の園児に無理矢理草を食べさせようとしたり、池につき落としたりと乱暴な面が目立ち、小学校に上がると近所の犬に石を投げつけたり、蹴飛ばすなど虐待する姿がよく目撃されていました。
そうした問題を起こすと謝罪にまわっていたのが父親であり、母親は1度たりとも息子の悪事について信じる事はありませんでした。そんな父親は警察官であり、県警捜査一課の外国人犯罪対策室を経て、事件当時は氏家警察署の交通課に勤務していたようです。
あまりに息子のことを溺愛するあまり、萩原克彦が仕事場で無断欠勤を繰り返し社長に解雇されそうになったときには、たびたび母親が訪れて「今度こそ真面目にやりますから」と謝罪するなど、一般常識からかけ離れた感覚の持ち主だったようです。
萩原克彦、警察官の父親が傷害・窃盗事件を示談にしたことも
萩原克彦が初めて刑事事件を起こしたのは1997年で、萩原克彦は同い年の少年から100万円を恐喝し、傷害と窃盗により検挙されていました。
すぐに父親が被害者宅を訪れて100万円を弁済し、示談を持ちかけてことを穏便に済ませるように持ちかけました。
そのため萩原克彦は保護観察処分で済みましたが、その後も萩原克彦は一切反省することなく悪友の村上博紀や梅沢昭博らとつるむようになっていきました。
「栃木リンチ殺人事件」共犯者2人(梅沢昭博・村上博紀)の生い立ちと家族
梅沢昭博の生い立ちと家族
引用:https://matome.naver.jp
萩原克彦の共犯者である梅沢昭博は、被害者となった須藤正和さんと日産の栃木工場に同期入社した同僚でした。
梅沢昭博は母子家庭で育ったようで、暴走族にいた頃に共犯者でもある村上博紀に出会ったようです。
村上博紀の生い立ちと家族
出典:matome.naver.jp
村上博紀は、宇都宮市にある野球の強豪校・作新学院高校に進学しますが、暴走族に入っていることが学校にバレたことで退学となっています。
実家はかなり裕福だったようで、高校退学処分後は親から新車のホンダ・インテグラをプレゼントしてもらい、この車で須藤正和さんを拉致監禁することとなりました。
高校退学後は警備会社に就職したそうですが、ほどなくして解雇。その後はアルバイトを転々としながら荒んだ生活をしていたようです。
「栃木リンチ殺人事件」の詳細① 被害者・須藤正和さんを恐喝・監禁
萩原克彦、後の共犯者となった2人を恐喝
1999年9月下旬に、萩原克彦は自分にやくざの知り合いがいることを利用して梅沢昭博にお金を要求し、最終的に20万円を巻き上げています。
また萩原克彦は、村上博紀に対しても同様に恐喝し、自宅から数十万円を持ってこさせ、梅沢昭博も2度にわたって50万円を奪われたことから、2人は萩原克彦に対して「もう勘弁してください」と泣きつきました。
萩原克彦は「知り合いから金を借りれそうなやつを探してこい」と身代わりを立てることで見逃す事を認めました。
萩原克彦、後の共犯者2人に自分の身代わりを差し出すよう指示
梅沢昭博は会社の同期のおとなしい須藤正和さんを身代わりにした
自分の身代わりとして梅沢昭博が目をつけたのが同期入社した須藤正和さんであり、とてもおとなしい性格であることから言うことを聞くだろうと思い白羽の矢を立てました。
そして1999年9月29日に梅沢昭博は須藤正和さんをコンビニに呼び出して萩原克彦を紹介しました。
梅沢昭博の置かれている状況も悲惨だとは言え、身代わりに須藤正和さんを紹介することさえしなければ事件は起こらなかったでしょう。
萩原克彦、須藤正和さんを恐喝・軟禁
萩原克彦は須藤正和さんに命令して銀行口座から7万円を引き出させ、梅沢昭博と村上博紀とともにそのお金を奪ってパチンコや飲みに出かけました。
須藤正和さんも強引に付き合わされ、その日は一緒にホテルに泊まることになりました。
萩原克彦らが須藤正和さんはこの日から軟禁して連れ回した理由は、暴行して楽しむためであり、頭髪や眉毛を剃っていかつい見た目にして辱めたり暴行加えるなどしていました。
軟禁から6日が過ぎた10月4日に、須藤正和さんの会社から両親の元に電話が入り、6日間も無断欠勤が続いていると知らされました。
両親は須藤正和さんに電話をして注意をしたため、須藤正和さんはこの日の夜勤には出勤しました。
しかし、10月12日から再び須藤正和さんは無断欠勤をするようになり、その理由は萩原克彦らに連れ回されていたからであり、この時点で負わされた借金総額は300万円に達しようとていました。
「栃木リンチ殺人事件」の詳細② 殺害された原因は警察の失態
須藤正和さんの捜索願が出されるも警察は動かず
10月18日になり、無断欠勤が続いていることを不審に思った会社の上司が須藤正和さんに近しい部下の社員に尋ねたところ、須藤正和さんにお金を貸したと言う社員が名乗り出ました。
上司はただことではないと感じ、須藤正和さんの両親に連絡を入れて、両親は管轄の石橋警察署に捜索願を提出。
翌19日に須藤正和さんの父親が石橋警察署に相談に行きましたが、生活安全課の巡査部長は「息子さんの場合は自分が悪い。金を借り歩いていると言うが、どうせ他の人間にも分け与えて面白おかしく遊んどるんだろう。警察は事件にならんと動けん」と憶測だけで語り、動こうとはしませんでした。
同月20日にも父親は石橋警察署に相談に行きましたが、巡査部長は3度目の訪問にうんざりした様子で「またか。今日は何しにきたんだ」と語気を強めて言いました。
父親はそれでも萩原克彦らの存在と多額の借金を抱え込んでいることに、監禁されている可能性を示唆しましたが、巡査部長は「憶測でものを言うな!あんたの息子は麻薬でもやっとるのと違うか」と自らが的外れな憶測で職務を放棄しました。
須藤正和さんの姿が確認される
10月27日に、須藤正和さんが同級生から2回に分けて借金していた31万円を返済しに来ると言うことで、その姿を見ようと父親は離れた場所から見ていました。
須藤正和さんは同級生に対して「親には絶対言わないでくれ」と頼まれていたからであり、約束を破ると同級生に何かしらの被害が及ぶ可能性を考えての行動でした。
同日午後9時ごろに、須藤正和さんと萩原克彦ら3人が車で到着しましたが、父親は現場から数十メートル離れていたため息子の姿を目視することができませんでした。
須藤正和さんはこの日は3万円のみの返済をしており、お金を受け取った同級生は須藤正和さんが右手に包帯を巻いていたことを父親に伝えました。
11月2日に、この同級生の父親から須藤正和さんの父親に連絡が入り、須藤正和さんが乗せられていた萩原克彦らの車のナンバーを控えていたためメモを渡したいと言うことでした。
そのメモをもとに須藤正和さんの父親は再度石橋警察署を訪れ、車のナンバーを伝えた上で持ち主の照会をしましたが、対応したのはいつものずさんな巡査部長だったもののこのときばかりはすぐに車を割り出し、持ち主が村上博紀であることがわかりました。
須藤正和さんが殺害された原因は警察の怠慢と失態
須藤正和さんの両親は梅沢昭博と村上博紀の保護者に直談判した
11月30日に、須藤正和さんの両親は梅沢昭博と村上博紀の保護者に協力を仰ぐため、梅沢昭博の母親と村上博紀の両親にファミリーレストランに集まってもらいました。
村上博紀の父親が萩原克彦が絡んでいる可能性を示唆したため、須藤正和さんは梅沢昭博と村上博紀の親からの同意を得て、その足で宇都宮東警察署に相談に行きましたが、すでに石橋警察署で捜索願を出しているため受理されませんでした。
そのため、3家族は石橋警察署に向かいましたが、対応したのが例の巡査部長だったため面倒くさがって動きませんでした。
ちょうどこの時、須藤正和さんから電話が入ったため、巡査部長は須藤さんの両親の友人を装って話をしましたが、3人のうちの1人が電話を代わって「あんた誰だ」と尋ねてきたところ、巡査部長は「誰だと?石橋の警察だ」とうっかり答えてしまったため電話は切れてしまい「あ、切れちゃった」と悪びれる様子もなく巡査部長は両親に携帯を返しました。
萩原克彦、警察の関与に気づき須藤正和さん殺害
萩原克彦は警察が関与していることを知り須藤正和さんの殺害を企て始めた
石橋警察署の無能な巡査部長がうっかり警察が関与していることを漏らしてしまったため、萩原克彦は11月半ば頃から「須藤正和さんを殺してしまおう」とよく口に出すようになりました。
巡査部長が失態を犯すまでは梅沢昭博と村上博紀は須藤正和さんの殺害にためらいを感じ萩原克彦を思いとどまらせていましたが、警察が関与していることを知り殺害に同調するようになっていきました。
その結果、12月1日に3人は鬼怒川の河川敷に集合し、萩原克彦が須藤正和さんの殺害を提案しました。この時に、3人のほかに都内で知り合った高校生Dもいましたが、会話には参加していませんでした。
萩原克彦は梅沢昭博と村上博紀に対して「明日までに決めておけ」と言い残し、宇都宮市内にいる彼女のもとに行きました。
翌日12月2日午後2時過ぎ頃に、萩原克彦と梅沢昭博、村上博紀の3人は人気のない市貝町の山の中で、須藤正和さんを殺害後に埋めるための穴を掘り始めました。
萩原克彦がネクタイでの絞殺を提案し、梅沢昭博は全裸で地面に正座をさせられている須藤正和さんの両脇に村上博紀と挟み込むように立ち、左右から須藤正和さんの首をネクタイで締め上げました。
須藤正和さんは首を強く締められたことで失禁し、うっ血から吐血したため、怖くなった村上博紀がネクタイを話してしまったため、梅沢昭博は村上博紀が持っていた部分を拾い上げ須藤正和さんの背後から締め上げ殺害しました。
そして、須藤正和さんの遺体をコンクリ詰めにして掘っておいた穴に遺棄し、4人は宇都宮市内のホテルに戻りビールで乾杯しながら「15年間何とか逃げ切ろう」と話しあったそうです。
「栃木リンチ殺人事件」の詳細③ 高校生Dの自白により事件が発覚
萩原克彦らは事件の隠ぺいを図っていた
須藤正和さん殺害の翌日3日に、4人は須藤正和さんを殺害したことを隠蔽するため、須藤正和さんの携帯を使って両親に電話をかけました。
かけ直してきた須藤正和さんの父親の電話に、梅沢昭博が鼻をつまんで須藤正和さんの声真似をして対応していました。
萩原克彦は4日に自宅に戻ると、彼女を呼び寄せて両親と4人で夕食を食べていましたが、現職の警察官である萩原克彦の父親は息子が須藤正和さんの失踪に関わっていることを知りながら黙っていたようです。
萩原克彦らが高校生Dの自白により逮捕
萩原克彦らは728万円も須藤正和さんから奪っていた
その後、東京の自宅に戻っていた高校生のDが良心の呵責に耐えられず、母親に須藤正和さんを殺害したことを打ち明けたため、三田署に出頭して事件が発覚しました。
Dの出頭により取り調べを行い、供述をもとに須藤正和さんの遺体を発見、翌日5日に萩原克彦ら3人を逮捕しました。
萩原克彦と梅沢昭博、村上博紀は、須藤正和さんを殺害する2カ月間の間に728万円ものお金を巻き上げていました。
「栃木リンチ殺人事件」の裁判…萩原克彦と梅沢昭博に無期懲役の判決
萩原克彦と梅沢昭博、村上博紀の3人は事件当時未成年でしたが、あまりの事件の凶悪さを鑑みて東京家庭裁判所は刑事処分を妥当とし、萩原克彦と梅沢昭博には無期懲役、村上博紀には懲役5〜10年の判決を言い渡しました。
萩原克彦は事件の深刻さを理解していたのか「死刑を覚悟している」と強気な発言をしていたものの、その後「須藤正和さんの分まで長生きしたいと言うのは正直な気持ち」と的外れなことを漏らしていました。
ちなみに、このコメントはネット上でキ〇〇イの犯人による代表的な名言としてネタにされるようになりました。
「栃木リンチ殺人事件」のその後現在…村上博紀はすでに出所していた
栃木リンチ事件のその後に関しては、須藤正和さんの母親・須藤洋子さんは2002年9月に脳出血のために死亡しています。
また、共犯者の村上博紀は懲役5年~10年の刑を終えて出所し、東京都内で整備工をしていると噂されています。
萩原克彦と梅沢昭博はともに無期懲役判決のため、現在も服役中です。
「栃木リンチ殺人事件」についてまとめると…
・萩原克彦は元々被害者側だった梅沢昭博と村上博紀と共謀して、須藤正和さんを恐喝・拉致監禁後に殺害した
・萩原克彦は警察が事件を捜査していることを知り須藤正和さん殺害を決意、梅沢昭博と村上博紀ら共に須藤正和さんを絞殺した
・萩原克彦の父親は現職警察官ながら息子に甘く、母親は息子を盲愛する社会性に乏しい人だった
・萩原克彦と梅沢昭博には無期懲役判決が下り、村上博紀は懲役5年~10年の刑を終えてすでに出所している
萩原克彦の家庭環境を見る限り、精神性が歪みきってしまったのは間違いなく両親のせいでしょう。
たとえ犯罪者でも我が子はかわいいものだと言われますが、両親が萩原克彦の本質を理解しようとせずにただ溺愛した結果が悲惨な事件を生んでしまったのかもしれません。