”国民的アニメ”として多くの傑作を世に送り出してきたスタジオジブリの宮崎駿監督。引退宣言と復帰を繰り返し、高齢ながら第一線で活躍し続けています。
宮崎駿監督という人、そして嫁や息子など家族について詳しくまとめたのでご紹介します。
この記事の目次
宮崎駿のプロフィール&生い立ち
”日本のウォルト・ディズニー”と世界で評される宮崎駿
世界的に愛されるアニメーション監督のウォルト・ディズニーと並び、宮崎駿監督もまた世界で愛される作品を作り続けてきました。
『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『千と千尋の神隠し』…などなど、宮崎駿監督が手掛けてきた多くのアニメーション映画は日本人を始め、世界中の人々に愛されてきました。
日本のアニメ業界を牽引してきた宮崎駿監督は現在、2017年7月に公開を予定している三鷹の森美術館用の短編CGアニメ『毛虫のボロ』を完成させたばかりのようですが、実は引退したと言われていた長編映画を再び作るという噂も…?
そして、宮崎駿監督を影から支えてきた嫁の朱美さんや、子供たちについてご紹介する前に宮崎駿監督の生い立ちや経歴からご紹介していきましょう。
宮崎駿の生い立ち&経歴
宮崎駿の実家は戦時中景気が良かった
宮崎駿監督が生まれた家は「宮崎航空興学」という飛行機の部品を作る工場を経営していました。こうした生い立ちが後に宮崎駿監督のメカ愛につながっているのでしょう。
宮崎駿監督の簡単なプロフィールはこちら。
名前:宮崎駿(みやざき はやお)
別名義: 秋津 三朗(あきつ さぶろう)、照樹 務(てるき つとむ 又は てれこむ)
生年月日: 1941年1月5日
出生地: 東京府東京市
血液型: O型
職業: 映画監督、アニメーション作家、漫画家
ジャンル: 映画、テレビアニメ
活動期間: 1963年 –
配偶者: 宮﨑朱美(妻)
著名な家族: 大田耕士(義父)、宮﨑吾朗(長男)、宮﨑敬介(二男)、堤大介(義甥)
事務所: スタジオジブリ
宮崎駿監督は1941年1月5日に、東京府東京市(現・墨田区、文京区)に4人兄弟の次男として誕生しました。
1941年といえば第二次世界大戦真っ只中ですが、宮崎家は「宮崎航空興学」という工場を経営し、軍需産業としての飛行機部品の組み立てをしていたため裕福だったそうです。
自動車の所有は一般的ではなかったものの、宮崎駿監督の父は原油不足の世情にあってもガソリン車に乗り、食糧不足だった当時において宮崎家は”おひつ”でご飯を食べていたという。
宮崎駿監督は幼少期に宇都宮に疎開し、小学校3年生まで生活をしていました。
体が弱く運動はダメだったが絵が抜群にうまかった宮崎駿監督
宮崎駿監督は小学校時代から文学を愛する少年で、運動ができない代わりに絵の才能を開花させていたようです。
宮崎駿監督は疎開先で空襲を受けたことを語っており、1945年7月の宇都宮空襲時に4歳半ながら、米軍の焼夷弾で町中が燃える中をトラックで逃げる際に、近所のおばさんが娘を抱いて「乗せてください!」と言ってきたことは覚えているという。
しかし、運転手はトラックに乗せて欲しいと懇願する人を乗せることなく逃げてしまったそうです。
自分が戦争中に、全体が物質的に苦しんでいる時に軍需産業で儲けてる親の元でぬくぬくと育った、しかも人が死んでる最中に滅多になかったガソリンのトラックで逃げちゃった、乗せてくれって言う人も見捨ててしまった、っていう事は、四歳の子供にとっても強烈な記憶になって残ったんです。
この体験は後に宮崎駿監督が制作することになるアニメ『コクリコ坂から』『風立ちぬ』に大きく影響を与えることになったと言われています。
アニメーターになった宮崎駿
漫画好きの少年・宮崎駿は大学時代にアニメーションの世界へ
宮崎駿監督は元々漫画家になりたかったようですが、大学に漫画研究部がなかったことから児童文学サークル(児童文化研究会)に入り、アニメーションの世界に進むことになっていったようです。
宮崎駿監督は手塚治虫や杉浦茂、福島鉄次など、漫画を当時から深く愛していて、東京都立豊多摩高等学校の3年生の頃に鑑賞した東映動画製作『白蛇伝』に感動してアニメーションにも興味を持つようになったそうです。
そして、学習院大学に入った宮崎駿監督は漫画を描き続けていたそうですが、卒業後は感銘を受けた東映動画にアニメーターとして動画マンなどを担当します。
宮崎駿監督は漫画家への未練はあったようですが、入社から1年して観たソ連のアニメーション映画『雪の女王』に感動し、一生アニメーターとして生きていく覚悟を決めたそうです。
宮崎駿、嫁・朱美さんと結婚する
1965年秋に嫁の朱美さんと結婚した宮崎駿
アニメ『ガリバーの宇宙旅行』でアニメーターの才能を開花させ、東映動画労働組合の書記長を若くして務め頭角を現し始めていた宮崎駿監督は現在の嫁
さんである朱美さんと社内恋愛の末結婚しました。
24歳で朱美さんと結婚した宮崎駿監督。朱美さんは3歳年上の姉さん女房ですが、当時は宮崎駿監督よりも期待される才能あふれるアニメーターだったそうです。
宮崎監督の長年の友人は、朱美さんについて次のように語る。
「奥さんは東映動画の先輩アニメーターで、“絵のうまさ”で高い評価を受けていたんです。当時は、宮崎さんより将来を嘱望されていたそうですよ」
東映動画の大きな期待を背負っていた嫁の朱美さんは宮崎駿監督と結婚し、次男の敬介さんが生まれた時に家庭に入ることになりますが、アニメーターへの未練はあったという。
「奥さんは『絵は私のほうが宮崎よりもうまいのよ』と言うんです。『でも、結婚したら私が絵を描く仕事をやめることになっちゃった』と、私に寂しげに愚痴を漏らしたこともありました。本当は、自分の作品も作りたかったんでしょうね……」
嫁の朱美さんは宮崎駿監督とどっちが描いたか見分けるのが難しいほど絵柄が似ているそうで、そうした部分にもシンパシーを感じて惹かれあい結婚したのかもしれませんね。
宮崎駿は嫁・朱美さんに負い目がある
嫁・朱美さんは夢を断念して家庭に入り、宮崎駿を生涯支え続けてきた
東映動画でアニメーターとして活躍していた朱美さんは宮崎駿さんよりも評価が高かったと言われていましたが、結婚と次男の出産を機に家庭に入らざるを得なかったことに宮崎駿監督は負い目を感じているという。
朱美さんは頑固で自分に厳しい宮崎駿監督が認めて好きになった人ですから、かなり優秀なアニメーターだったのでしょう。
しかし、次男の敬介さんを出産したことで共働きが不可能だと悟り、朱美さんは家庭に入って宮崎駿監督を支える道を選択しました。
そのことについてずっと宮崎駿監督は負い目に感じているようで、朱美さんが作品を作りたいと言えば共作も有り得たようです。
「宮崎さんは、奥さんに負い目があるんです。ですから、『今度は私にやらせてよ』ということになったら、宮崎さんが奥さんの出番を作ってあげるかもしれないですね。2人の絵は、どちらが描いたかわからないくらい似ているんです。奥さんが絵コンテを作って、宮崎さんが奥さんのサポートに回り、2人で新作アニメを完成させる可能性もあるんじゃないでしょうか」
制作現場では頑固で暴君とも言われる宮崎駿監督が嫁さんに頭が上がらないというのも意外な話ですが、スタジオジブリの影の功労者は嫁の朱美さんということですね。
宮崎駿監督の最初の大作『太陽の王子 ホルスの大冒険』
後の盟友でありスタジオジブリの看板監督の一人、高畑勲さんが初監督を務め、宮崎駿監督は初めて本格的にアニメーション制作に関わりました。
宮崎駿監督は1971年に高畑勲さん、小田部羊一さんと共に東映動画を退社してAプロダクションに入社。
『長靴下のピッピ』の制作に入る予定が原作者から許可が下りずに企画倒れになり、宮崎駿監督と高畑勲さんは代わりにTVアニメ『ルパン三世』の演出の仕事を請け負いました。
そして、宮崎駿監督は映画『パンダコパンダ』の制作にも携わり、脚本、場面設定、美術、原画などを担当しました。
宮崎駿、『アルプスの少女ハイジ』で大ヒット
再び高畑勲さん、小田部羊一さんとズイヨー映像(のちの日本アニメーション)に移籍した宮崎駿監督は場面設定・画面構成で制作に携わった『アルプスの少女ハイジ』で大ヒットを経験することになります。
『アルプスの少女ハイジ』といえば、最近でも「家庭教師のトライ」のCMで使われて人気ですが、テレビアニメとして放送された1974年当時は最高平均視聴率26.9%を記録し大ヒットとなったようです。
テレビアニメで成功を体験した宮崎駿監督は、1978年にアニメ『未来少年コナン』で初監督を務めることになります。
超人的な作業量を一人でこなした宮崎駿
宮崎駿監督の逸話の中でも”超人的”と言われているようですが、初監督を務めた『未来少年コナン』の制作では尋常ではない量の作業を一人でやってのけたそうです。
宮崎駿監督も初めて監督を務めた『未来少年コナン』の制作には特別な思い入れがあったのでしょう。その”超人的”な制作の様子は次のように紹介されています。
毎週放送という厳しいスケジュールの中で、演出を行いながら、オリジナル・スケッチ(ストーリーボード)・設定・キャラクターデザイン・メカデザインを全話担当し、大半の絵コンテ、レイアウトを描いた上、スタッフの作った脚本・絵コンテ・レイアウト・原画を、高畑勲応援分を除き全て1人でチェックするという、前代未聞の超人的な作業量をこなした。
原作である米作家・アレグザンダー・ケイの「残された人びと(The Incredible Tide)」の悲壮感漂うイメージを宮崎駿監督の持ち前の独創性で改変してオリジナル作品のように仕上げた『未来少年コナン』は、”宮崎アニメ”の原点とも言われているようです。
そして、テレコム・アニメーションフィルムに移籍した宮崎駿監督は、1979年に初めて映画『ルパン三世 カリオストロの城』で映画監督を務めることになります。
宮崎駿監督作・『風の谷のナウシカ』が生まれる
宮崎駿が初原作を務めた『風の谷のナウシカ』
『未来少年コナン』で大きな評価を得た宮崎駿監督は、温めておいた原作・『風の谷のナウシカ』での映画製作にたどり着きます。
宮崎駿監督の初原作となる『風の谷のナウシカ』は決して容易に映画製作が実現したわけではなかったようです。
宮崎駿監督は制作に携わっていたテレコム・アニメーションフィルムの日米合作アニメ映画『リトル・ニモ』の企画に疑問を持ち降板したようですが、この頃に『となりのトトロ』『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』などの企画を制作していたようです。
スタジオジブリ創立から現在に至るまでプロデューサーを務めている鈴木敏夫さんが『風の谷のナウシカ』の映画化を徳間書店に持ち掛けたようですが、「原作が無いものは無理」という理由で却下。
しかし、宮崎駿監督の才能に注目していた徳間書店のアニメ雑誌『アニメージュ』編集長の尾形英夫さんが漫画の連載を提案し、『風の谷のナウシカ』の原作を作るための連載が1982年2月号の同誌でスタートしました。
多くの人の尽力で生まれた『風の谷のナウシカ』
『アニメージュ』で連載を開始した『風の谷のナウシカ』は次第に読者から支持を集め、尾形英夫さんの尽力で徳間書店社長の徳間康快さんが劇場映画化を決定、そして宮崎駿監督の弟が務めていた博報堂が企画に乗る形でついに制作がスタートしました。
宮崎駿監督の才能に多くの人が動き、1984年についに映画『風の谷のナウシカ』は劇場で公開されました。
宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』は、観客総動員数は91万人で、興行収入は14.8億円とまずまずのヒットを飛ばすことになります。
スタジオジブリの歴代作品の中では決して高くはない数字ですが、当時の劇場アニメーションでは興行収入が10億円を下回ることが多かったようなので、時代背景を考えると大ヒットと言えるでしょう。
宮崎駿、スタジオジブリ設立
宮崎駿の生涯の戦場・スタジオジブリが徳間書店の出資で1985年に設立
『風の谷のナウシカ』で成功を収めた宮崎駿監督は、徳間書店の出資を得て現在まで戦い続けてきた生涯の戦場となるスタジオジブリを1985年に設立しました。
スタジオジブリの初仕事となる1986年の『天空の城ラピュタ』と1988年の『となりのトトロ』はどちらも11億円程度と『風の谷のナウシカ』を下回り興行成績は良いとは言えないものでした。
しかし、徐々に人気を獲得してロングラン作品となり、関連グッズやビデオなどの販売がスタジオジブリに非常に大きな利益をもたらします。
そして1989年の『魔女の宅急便』は全2作の約3倍もの興行成績を上げて大ヒット。この頃にスタジオジブリの労働体制を強化するためにスタッフの社員化をしたようです。
『紅の豚』『もののけ姫』とヒット作を生み続けた宮崎駿
宮崎駿の引退作と言われた『もののけ姫』
宮崎駿監督は数々のヒット作品を世に送り出し続けて、スタジオジブリの名前が完全に国内外に浸透します。
『魔女の宅急便』の後、初めてファンタジーから離れて岡本螢・刀根夕子原作の『おもひでぽろぽろ』が高畑勲さんが監督を務めてジブリ作品として公開されます。
そして宮崎駿監督は、1992年の『紅の豚』で304万人と過去最大の動員数を記録し、興行収入も47.6億円と過去最大のヒットとなりました。
高畑勲さんもその次に『平成狸合戦ぽんぽこ』で監督を務めて、『紅の豚』を上回る325万人(興行収入は44.7億円)を動員しましたが、悲しいかな宮崎駿監督の名前がメジャーになりすぎて”高畑勲”という名前は一般的には知られていません。
1997年には宮崎駿監督が監督を務めた『もののけ姫』が前作『耳をすませば』までの約6倍もの大ヒットを達成。興行収入は193億円で1420万人を動員しましたが、その背景には宮崎駿監督が完成打ち上げで「これが最後の作品になる」と引退をほのめかしたことも大きかったようです。
宮崎駿、『千と千尋の神隠し』が日本映画史上第1位に
『もののけ姫』に続いて日本記録を更新した宮崎駿
前作『もののけ姫』もそれまで日本映画興行記録を持っていた『E・T』を超えましたが、宮崎駿監督は2001年公開の『千と千尋の神隠し』でさらにその記録を塗り替えました。
『千と千尋の神隠し』は観客動員2,350万人、興行収入308億円という日本映画界の最高記録を作り出し未だ更新されていません。
日本人の約6人にひとりが観た計算になると考えるととんでもない数字ですね!
さらに、翌年には『千と千尋の神隠し』が国内作品で39年ぶり、アニメーション映画では初となるベルリン国際映画祭にて金熊賞を受賞し、2003年にはアカデミー賞長編アニメ賞を受賞。
宮崎駿監督は全てを出し尽くしてしまったと感じたのか、「もう長編アニメ映画は無理ですね」と引退宣言をしています。
宮崎駿、『ハウルの動く城』でも日本初の快挙
公開二日目で動員数、興行収入が日本歴代最高を記録した『ハウルの動く城』
前作『千と千尋の神隠し』の影響もあったのでしょう。宮崎駿監督の『ハウルの動く城』は公開二日目にして観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円という日本歴代映画の中で最高の滑り出しを記録しました。
2002年には森田宏幸監督の『猫の恩返し』が公開されて興行的には成功していますが、『千と千尋の神隠し』の三分の一程度となりました。
しかし、2004年に公開された宮崎駿監督の『ハウルの動く城』は興行収入196億円、動員数1,500万人と、”宮崎アニメ”の人気の高さを物語っています。
同映画はヴェネツィア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞の他、多数の賞を受賞しています。
アカデミ賞選考委員に選ばれた宮崎駿監督の元に招待状が届いたそうですが、創作活動に専念するために辞退したそうです。
宮崎駿の引退を止めた『崖の上のポニョ』
興行成績に納得いかなかったため引退撤回した宮崎駿
『崖の上のポニョ』は公開1ヶ月で興行収入100億円を突破するなど大ヒットは記録したものの、子供向けアニメ映画だったせいか前作『ハウルの動く城』には及ばず、悔しさから宮崎駿は引退宣言を撤回して長編アニメの次回作を作ることを決めたそうです。
『崖の上のポニョ』は興行収入155億円、動員数1,200万人と『ハウルの動く城』には一歩及ばず、ショックを受けた宮崎駿監督は長編アニメの次回作を作ることを決意しました。
また、それまでテレビへの露出を嫌っていましたが、『崖の上のポニョ』の制作時にはNHKの番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』に2度出演し、過酷な制作現場の様子を放送して好評を得ました。
そして、宮崎駿監督は日本外国特派員協会に招待されてアニメ業界について熱く弁舌し、文化功労賞も受賞しています。
宮崎駿、『風立ちぬ』で引退発表
宮崎駿の漫画を原作とした『風立ちぬ』で引退を決めた
宮崎駿監督は堀辰雄の小説『風立ちぬ』から着想を得て創作した自身の漫画を原作に映画『風立ちぬ』を2013年に公開し、長編映画からの引退がスタジオジブリ社長の星野康二さんから発表されました。
現在までで宮崎駿監督の最後の長編アニメ作品となっている『風立ちぬ』は、興行収入120億円、動員数1,000万人と『ハウルの動く城』の記録を抜くことはできなかったものの大ヒットを記録しました。
宮崎駿監督が同映画を最後に長編映画を引退するということも影響したのでしょう。
しかし、宮崎駿監督は後に再び引退撤回をすることになり、ネット上では”伝統芸”とか”引退するする詐欺”とネタにされることになります。
宮崎駿監督の歴代”引退宣言”を紹介する前に、宮崎駿監督の息子たちについてご紹介しましょう。
宮崎駿の息子たち!長男・宮崎吾朗の確執が凄い?
宮崎駿と嫁・朱美さんはふたりの子供に恵まれた
宮崎駿監督は24歳で嫁の朱美さんと結婚し、二人の息子に恵まれました。長男が吾朗さん、次男が敬介さんといいます。しかし、宮崎駿監督は『ゲド戦記』の監督を務めた宮崎吾朗さんとは確執があり仲が悪いと言われています。
宮崎駿監督にはふたりの子供がいますが、どちらも同じ美術畑の世界で活躍をしています。
まずは宮崎駿監督と同じ映画監督をしている長男・宮崎吾朗さんからご紹介します。
宮崎駿の長男・宮崎吾朗
父・宮崎駿と折り合いが悪いと言われる宮崎吾朗
宮崎吾朗さんのエピソードで有名なのは映画『ゲド戦記』の監督を務めることになり宮崎駿監督が猛反対してそれ以降関係に溝が生まれているというものですが、そんな単純な話ではなかったようです。
宮崎吾朗さんの簡単なプロフィールはこちら。
本名: 宮﨑 吾朗(みやざき ごろう)
生年月日: 1967年1月21日
出生地: 東京都
職業: 建設コンサルタント、映画監督
ジャンル: 映画
活動内容: 2006年 –
配偶者: あり
宮崎吾朗さんは始めからアニメーターだったわけではなく、元々は建築関係の仕事をしていました。
宮崎吾朗さんはある時、鈴木敏夫プロデューサーからスタジオジブリの美術館(三鷹の森美術館)を作る話を聞き、宮崎駿監督の構想に刺激を受けて建設計画、設計を請負います。
1998年にそれまで勤めていた会社を退社してスタジオジブリに入社し、三鷹の森美術館の運営会社である株式会社ムゼオ・ダルテ・ジブリの代表取締役に就任した宮崎吾朗さんは美術館のデザインを手がけました。
『ゲド戦記』の監督を務めた宮崎吾朗
2006年7月に公開されたジブリの長編アニメ『ゲド戦記』の監督を鈴木敏夫プロデューサーの推薦で務めることになった宮崎吾朗さんですが、父・宮崎駿監督は猛反対して以降確執が生まれたという。
宮崎吾朗さんが『ゲド戦記』の監督を務めるとわかった時、宮崎駿監督は激昂して反対したそうです。
駿は「あいつに監督ができるわけがないだろう」と指摘したうえで「絵だって描けるはずがないし、もっと言えば、何も分かっていないやつなんだ」と吾朗を厳しく批判した。さらに、駿は、吾朗を監督に推薦した鈴木敏夫に対して「鈴木さんはどうかしている」と激昂。
宮崎駿監督がここまで怒った理由のひとつとして、『ゲド戦記』の原作に惚れ込んでいたため自身の手で映画化したいと考えていたそうです。
しかし、物語が壮大すぎて2時間の映画には収められないと考えて断念していたようですが、宮崎吾朗さんを監督に据えて映画化が実現してしまったため、宮崎駿監督は悔しい思いもあったのでしょう。
それまでアニメーターの経験が無い宮崎吾朗さんは監督どころか絵もまともにかけないだろうと宮崎駿監督は思っていたようですが、宮崎吾朗さんが描いた竜とアレンを観て黙り込んでしまったそうです。
宮崎吾朗さんの描いた絵は『ゲド戦記』のポスターにそのまま使われたようで、絵コンテについても庵野秀明さんに「完全に宮崎アニメだ」と言わしめたほど完成度が高かったという。
大塚康生さんもしばらく宮崎吾朗さんが描いた絵コンテだとは思えず疑っていたようですが、本人が描いたものだとわかると「蛙の子は蛙だったのか」と感嘆してしまいました。
『ゲド戦記』から2年間口をきかなかった宮崎駿と宮崎吾朗
宮崎駿監督は息子の絵の才能は認めざるを得なかったようですが、宮崎吾朗さんが監督を務めた『ゲド戦記』の評価は低くスタジオジブリの名に傷を付ける形になってしまったためご立腹だったのかもしれません。
『ゲド戦記』の監督をやるかやらないかを巡って、机を叩き合うような激しい親子喧嘩を繰り広げた宮崎駿監督と宮崎吾朗さんはその後2年間口をきかなくなったと言われているようです。
宮崎吾朗さんはその後、2011年に公開された映画『コクリコ坂から』でも監督を務め、2014年放送のテレビアニメ『山賊の娘ローニャ』でも監督を務め活躍しています。
確実に実力をつけているようで、宮崎駿監督が本当に引退してしまった後は、宮崎吾朗さんが後継者としてスタジオジブリ作品の期待を背負っていくことになるでしょう。
宮崎駿の次男・宮崎敬介
宮崎駿の次男・宮崎敬介は版画家
宮崎敬介さんは大学卒業後は版画家として活動しているようですが、祖父(母・大田朱美さんの父親)が版画家だったことも影響しているのでしょうか?
次男の宮崎敬介さんは武蔵野美術大学造形学部に在籍していた頃に版画家・柄澤齊に感銘を受けて木口木版画を独学で勉強し始めたそうです。
版画家だった祖父・大田耕士さんの影響を受けていたという話は見当たりませんが、そうした芸術家のDNAはしっかり受け継いでいるのでしょう。
宮崎敬介さんは父親が宮崎駿監督だということは伏せて活動していたようですが、映画『耳をすませば』でスタジオジブリに自身の作品を提供しています。
同作の主人公・月島雫が「牢獄でヴァイオリンを作る職人」の本の挿絵を見つけるシーンで、この挿絵の版画を宮崎敬介さんが担当しています。
また、2002年には 三鷹の森ジブリ美術館に展示するための木口木版画も宮崎敬介さんが担当しています。
三鷹の森美術館は父・宮崎駿監督の構想で長男・宮崎吾朗さんがデザイン、設計を手がけ、次男・宮崎敬介さんが展示用の版画を提供するという親子で作られた美術館だということですね。
宮崎駿の度重なる引退宣言に「勘弁してください」
宮崎駿の度重なる引退発言が面白い!?
宮崎駿はネガティブな性格をしているのか長編映画を公開する度に引退とも取れる発言をすることが多いようで、『ワイドナショー』でも取り上げられました。
『思い出のマーニー』が宮崎駿監督が手掛ける最後の長編映画と言われていましたが、2017年5月19日にスタジオジブリの公式ホームページ上で”引退撤回”がなされ、新作の長編映画を制作中であることを発表しました。
実は、この長編映画の布石は2016年11月13日に放送された『終わらない人 宮崎駿(NHK)』という番組内で、宮崎駿監督が”長編企画 覚書”と書かれた企画書を鈴木敏夫プロデューサーに手渡す場面が公開されて噂になっていたようです。
この宮崎駿監督の”引退撤回”を受けて、ネット上では「もはや伝統芸」とか「祝やめるやめる詐欺」などと声が上がる他、検索エンジンには「勘弁してください」という予測検索まで表示される始末。
宮崎駿監督のこれまでの”引退宣言”については、それぞれ発表の方法は違えど最低でも過去に4回は引退を宣言しているようです。
宮崎駿、これまでの引退宣言がボジョレーヌーボーみたい
宮崎駿の引退宣言の数々はまさにボジョレーヌーボーの各年評価のよう?
宮崎駿監督がこれまでに残してきた”引退宣言”についてネット上では「ボジョレーヌーボーのようだ」とネタにされて盛り上がっているようです。
宮崎駿監督はどんな”引退宣言”を残してきたのか年表順に見てみましょう。
1986年…天空の城ラピュタ 「人生で最高に引退したい気分」
1992年…紅の豚 「アニメはもうおしまい」
1997年…もののけ姫 「100年に一度の決意。これを最後に引退」
2001年…千と千尋の神隠し 「引退してシニアジブリを立ち上げる」
2004年…ハウルの動く城 「ここ数年で最高の辞めどき」
2008年…崖の上のポニョ 「体力的にも本作が最後の長編になるだろう」
2013年…風立ちぬ 「出来は上々で申し分のない引退のチャンス」
宮崎駿監督の作品は世に出せば大反響は確実なので、毎回気持ち的に最高潮だったことでしょう。
こうした引退宣言が飛び出すのも頷ける作品ばかりが並んでいますが、ネット上では「まるでボジョレーヌーボーの評価のようだ」と話題になっています。
宮﨑駿の辞め文句、ボジョレー並だなwww
— へいじ・ざ・たやりん (@tayataya3939) 2017年5月28日
ボジョレー駿ここまで毎回言ってたのかw
— まろん (@maroron_5) 2017年5月28日
毎回引退宣言してたんですね笑
— コウメ (@y9lE4bi8IZ55pwJ) 2017年5月28日
ほんとに一作一作命をかけてつくってるんですね
引退撤回は嬉しい😌✨✨
まだまだ駿先生の作品を見続けていたい#宮崎駿#ワイドナショー
いつしか宮崎駿監督は”ボジョレー駿”という愛称までついてしまったようです。
しかし、放送を観たツイッターユーザーにより、実はこの引退宣言の内5つはファンによる創作ネタだと分かりました。
宮崎駿の引退宣言の一部は創作
『ワイドナショー』で発覚した宮崎駿引退宣言の創作ネタ
2017年5月28日に放送された『ワイドナショー』
で特集した宮崎駿監督の7つの引退宣言のうち5つが創作であることが分かりました。
フジテレビは『ワイドナショー』で放送した宮崎駿監督の引退宣言にツイッターユーザーの創作ネタが入っていたことについて公式サイト上で謝罪文を掲載しました。
また、J-CASTニュースも宮崎駿監督の引退宣言のひとつに誤りがあったことから記事を削除しています。
しかし、これについてスタジオジブリ側は特に不問としているようで、公式サイト上で「ノーコメント」と発表しました。
「(「引退宣言」は)個人の方がまとめられたもので、その真偽について特にコメントはないですし、『ワイドナショー』での取り上げられ方についても、特に申し上げることはございません」
宮崎駿監督は『もののけ姫』と『風立ちぬ』の時に長編映画から引退することを発表しましたので、残り5つがツイッターユーザーによる創作だということでしょう。
とはいえ、「出来は上々で申し分のない引退のチャンス」はさすがに創作ネタだと思いますので、『崖の上のポニョ』の時のような「体力的にも本作が最後の長編になるだろう」という感じで言ったと思われます。
宮崎駿、引退撤回し現在は長編映画を制作へ
本当に最後になる(かもしれない)宮崎駿の長編映画
『思い出のマーニー』を最後に長編映画を引退したと思われた宮崎駿監督が、短編映画『毛虫のボロ』の制作を終え、最後の長編映画に望むことを発表しました。
スタジオジブリの公式サイトでは、宮崎駿監督の年齢的にも”本当に最後”の作品になるとして、制作スタッフの募集をしています。
発表文では「作るに値する題材を見出したからにほかなりません。年齢的には、今度こそ、本当に最後の監督作品になるでしょう」と記載。「この映画制作完遂のために、若い力を貸して下さい」と呼びかけている。
映画の公開予定日は未定で、2016年11月13日に放送されたNHKの番組『終わらない人 宮崎駿』の中では「2019年完成」となっていたため、公開予定日は2019年か2020年あたりになるでしょう。
そうなると、宮崎駿監督は80歳になってしまうので、いよいよ体力的に長編映画制作が難しくなってくると思います。
宮崎駿監督は最高齢アニメ監督として世界ギネスに載ってもいいと思いますがどうなのでしょうか。
鈴木敏夫プロデューサーは宮崎駿監督が生きている間に新作が完成するか分からないと言っていたようですが、宮崎駿監督は76歳とは思えないほど若々しい顔をしているので大丈夫でしょう。
宮崎駿、なぜ長編映画に復帰した?
76歳という年齢が宮崎駿に深い死生観を考えさせた
宮崎駿監督はもうすぐ男性の平均寿命にさしかかろうとしていますが、昔からの仲間にはすでに亡くなった人も少なくないようです。宮崎駿監督は次の長編映画を自身の集大成として遺すつもりなのでしょうか?
宮崎駿監督は三鷹の森美術館で2017年7月から上映予定の短編映画『毛虫のボロ』を若いスタッフと完成させたばかりのようですが、昔から共に戦ってきた戦友が次々と倒れる中で最近”自身の死生観”について深く考えるようになったそうです。
そして、長編映画を作るに値する題材が見つかったことから宮崎駿監督は”引退撤回”を決めたそうで、年齢的にも本当にこれで最後の作品になるだろうと語っています。
そうはなって欲しくないファンは多いと思いますが、これが宮崎駿監督の遺作となるのなら、76年で得た全てを作品に乗せるつもりで制作に当たるでしょう。
とても深い作品になると思われ、公開予定の2019年が楽しみですね!
宮崎駿名言集
宮崎駿が残した数々の名言、迷言
宮崎駿監督のその深い探究心と頑固で暴君な性格から数多くの名言・迷言を残していますので最後にいくつかご紹介しましょう。
宮崎駿の名言
もう、とことん考える。ありとあらゆる方向を探るんです。とことん困ると、奥のほうでふたが開くんです。そのふたが開くと、最初に考えもしなかった方向が見えたりする。それでも、一歩進めるんです
世に出した全ての作品が名作と言われ、社会現象を巻き起こしてきた宮崎駿監督だからこそ深みのある名言ですね!
部屋で最新式のコンピューターに向かってポコポコやってるところからクリエイターは出てくるんじゃなくて、もっと古いものの集積の中から出てくるんだと思うんです。
コンピューターに頼った見た目綺麗な作品はいくらでも作れますが、本当に人の心に残っていく作品はクリエーターの内部の深いところから作られるということを表現した名言ですね。
「僕は文化人になりたくないのです。僕は町工場の親爺でして、それは貫きたい」「文化人ではありません」
引用:アサヒる敗戦利得者 – Yahoo!ブログ -【宮崎駿監督】引退記者会見 名言集:「僕は文化人になりたくないのです。僕は町工場の親爺でして、それは貫きたい」
これはとても宮崎駿監督らしい名言ですね。もしかするとどこかで工場長だった父親への尊敬の念も込められているのかもしれません。
宮崎駿の迷言
「どうせ君はガンダムみたいなくだらない物を作りたいんだろ?こんな下らないのをここまで面白くしてやったんだから、たとえ原作通りじゃなくても原作者は文句ないだろう」
引用:宮崎駿の名言・格言・迷言 & ジブリ制作秘話 – 宮崎駿の迷言~君はガンダムみたいなくだらない物を作りたいんだろ?~
宮崎駿監督のほかの作品批判は珍しくないようですが、親しい監督の作品も容赦なくこき下ろすところはクリエイターらしいですが迷言と言えば迷言なのでしょうか?
「僕はああいうもの、もういらないんですよ。最初の絵コンテ見ただけで『エライこと始めやがったな、この野郎』って思ったんですけど(笑)。”使徒”とかって聞いたときも、こりゃエライとこに突っ込むなあ、って思ったんですけど、まあ終わってよかったですよね」
庵野秀明さんが監督を務めたアニメ『エヴァンゲリオン』についての宮崎駿監督のコメントですが、最初の3分観て「もういいや」と観るのをやめたようで「観るに堪えない」と言っています。
しかし、実は宮崎駿監督は最終回まで観てから庵野秀明さんに電話してすぐ休むように伝えたようで、表向きは天邪鬼のように振舞うものの根底ではとても人情深いようです。
宮崎駿監督の名言・迷言はとても多いですので、ぜひ検索してみてください。
宮崎駿についてまとめると…
スタジオジブリの宮崎駿監督について、生い立ちから嫁、子供などの家族、そして引退撤回から現在の活動についてまとめてきました。
宮崎駿監督は2019年完成予定の長編アニメが本当の最後の作品になってしまう可能性が高いようですが、その後は宮崎吾朗さんがしっかりと”宮崎アニメ”を守っていってくれると思います。
とはいえ、再び宮崎駿監督の”引退撤回”を期待しているファンも少なくないでしょう。
新作長編アニメの続報が待たれます!