「ドラえもん」の藤子・F・不二雄さんと「笑ゥせぇるすまん」の藤子不二雄Ⓐさんによって結成された「藤子不二雄」は現在も多くのファンに愛され続けています。
藤子不二雄のA・F違いやコンビ解散理由、作品やキャラクター、結婚や自宅、藤子不二雄の2人の死去と死因などについてまとめました。
この記事の目次
藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄Ⓐ)のプロフィール
「藤子不二雄」は「ドラえもん」、「キテレツ大百科」などで知られる漫画家、藤子・F・不二雄さんと、「忍者ハットリくん」、「笑ゥせぇるすまん」などで知られる漫画家、藤子不二雄Aさんがコンビを組んでいた時代のペンネームです。
2人は小学校の同級生で共に手塚治虫さんに憧れて漫画家を志し、「足塚不二雄」の名義でコンビ漫画家としてデビューし、「UTOPIA 最後の世界大戦」など数々の作品を発表しました。
その後、2人は「不二雄不二雄」名義に変更して活動を続け「お化けのQ太郎」をはじめとする数々の名作を生み出しました。
次第に2人はこの「藤子不二雄」名義を使いながら別々に作品を発表するようになり、それぞれが大ヒット作品を次々と生み出しました。
1987年、「藤子不二雄」はコンビを解消し、それぞれ「藤子・F・不二雄」、「藤子不二雄Ⓐ」の名義で活動を開始しています。
藤子・F・不二雄のプロフィール
本名 :藤本弘(ふじもとひろし)
生年月日:1933年12月1日
没年月日:1996年9月23日(享年62歳)
出身地 :富山県高岡市
血液型 :O型
藤子・F・不二雄こと藤本弘さんは、幼い頃から絵が上手く、高岡市立定塚国民学校時代に転校してきた藤子不二雄Ⓐこと安孫子素雄さんと、休み時間にノートに描いていたイラストをきっかけにして仲良くなります。
高校卒業後には製菓会社に就職しますが、機械に手を挟まれでもしたら漫画描けなくなると不安になった藤本弘さんは3日で退職し漫画家一本での活動を開始。1954年に安孫子素雄さんを誘って上京し「藤子不二雄」として本格的に活動をスタートさせ、一躍売れっ子漫画家となりました。
以降は生涯をかけて児童漫画家として活躍し「ドラえもん」をはじめとする、今なお子供達に愛される数々の国民的漫画作品を生み出した後、1996年9月23日に62歳の若さでこの世を去っています。藤子・F・不二雄さんの死因については後述します。
藤子不二雄Ⓐのプロフィール
本名 :安孫子素雄(あびこもとお)
生年月日:1934年3月10日
出身地 :富山県氷見郡氷見町(現在の氷見市)
血液型 :A型
藤子不二雄Ⓐこと安孫子素雄さんは、富山県氷見郡氷見町の曹洞宗光禅寺の住職の家に生まれますが、小学生(当時は国民学校)だった1944年に父親が突然他界し、富山県高岡市に転居します。
転校先の高岡市立定塚国民学校で、藤子・F・不二雄こと藤本弘さんと出会い、その漫画の才能に衝撃を受け、共に漫画家を志すようになりました。
高校卒業後の1952年に、富山新聞社に就職し、漫画の技術を活かし紙面に載せるイラストや似顔絵などを担当します。1954年、富山新聞社を退職し、2人で上京して本格的に漫画家としてデビューしました。
「ドラえもん」、「キテレツ大百科」など、児童向けの漫画を中心に発表した藤子・F・不二雄さんに対して、藤子不二雄Ⓐさんは「笑ゥせぇるすまん」をはじめとするブラックユーモアにあふれた作品や、実写映画化もされ大ヒットした「少年時代」や、自伝的作品「まんが道」などの大人向けの作品も数多く発表しています。
藤子不二雄のA・F違い
藤子・F・不二雄さんと藤子不二雄Ⓐさんの作風は随分と違います。
藤子不二雄のA・Fの違いは、わかりやすく言えば、児童向け作品にこだわったのが藤子・F・不二雄さんで、ブラックユーモアを交えた青年向け作品を自分の作風としたのが藤子不二雄Ⓐさんです。
藤子不二雄Ⓐこと安孫子素雄さんは、後年に受けたインタビューにて、だんだんと年を取り、お酒を飲んだり、ゴルフをしたり、女の子と付き合ったりするうちにだんだん汚れてきて、児童漫画のようなものが描けなくなったと語っています。技術的に描く事はできても、作者に気持ちが入っていないと読者には伝わってしまう。それでだんだんと路線変更したとも話されていました。
さらに、安孫子素雄さんは、自分は社交性がある方だったので酒やゴルフを覚えたけれど、藤本弘(藤子・F・不二雄)さんはそういうところがなかった、だから児童向けの漫画を描き続ける事ができたとかたり、それが藤子不二雄A・Fの違いを生んだのだろうといった内容を説明されていました。
藤子不二雄のコンビ解散理由
2人はコンビを組み「藤子不二雄」の名義で作品を発表していましたが、実際には共同で漫画を描いていたのは最初の頃だけで、それぞれが各自に漫画を描き、同じ「藤子不二雄」という名義で発表するというスタイルを取ってきました。
しかし1987年、2人はその関係についに終止符を打ちコンビの解散を発表しました。2人はコンビ解散理由について「『藤子不二雄』のネームバリューに頼らず、一本立ちしても良いのではないか」、「それぞれがやりたいことをやってみるのも面白いのではないか」と話し合った結果だと発表しています。
しかし、2人の本当のコンビ解散理由は、藤子・F・不二雄さんの作品「ドラえもん」が空前の大ヒットとなり、稼ぎ出す収入に大きな開きが出たためという見方があります。
事実、コンビを組んでいた時の納税額は2人ともほぼ同じ額でしたが、コンビ解散後は、藤子・F・不二雄さんの方が圧倒的に納税額が多くなったのです。
こうした収入格差は、幼い頃からの親友関係である2人には大した問題ではありませんでしたが、既に2人には結婚して家族もいたため、後々金銭的なトラブルを起こさないためにもこのタイミングで2人はコンビ解消を決断したのが真相だろうと言われているのです。
藤子不二雄(藤子・F・不二雄)の代表作品やキャラクター
続いて、藤子・F・不二雄さんの生み出した代表作品やキャラクターを紹介します。
『パーマン』
『21エモン』
『ドラえもん』
『キテレツ大百科』
『エスパー魔美』
『チンプイ』
ドラえもん
藤子・F・不二雄さんの作品として真っ先に名前が出るのは、間違いなくこの「ドラえもん」でしょう。日本人であればこの作品を知らない人はいないと言っても過言ではないでしょう。
22世紀の未来からやってきた猫型ロボットのキャラクター「ドラえもん」と、運動も勉強もからっきしダメな小学生のキャラクター「のび太くん」の不思議な日常を描いたSF作品です。
1970年代から現在に至るまでアニメが放送されており、定期的に劇場版も公開される国民的アニメ作品としても知られています。
ドラえもんをはじめ、主人公ののび太、その同級生のジャイアン、スネ夫、しずかちゃんなど個性あふれるキャラクター達も人気です。
キテレツ大百科
「キテレツ大百科」は、先祖に江戸時代の発明家「キテレツ斎」を持つ小学生のキャラクター「キテレツ」が、先祖の残した「奇天烈大百科」を基に様々な発明品を作り、それによって引き起こされる騒動が描かれる作品です。
「キテレツ大百科」の有名なキャラクターとして、キテレツが最初に作った発明品であるロボット「コロ助」がいます。
この作品は1988年にアニメ化され、ゴールデンタイムで8年間放送される大ヒットアニメとなりました。アニメは何度も再放送されており、現在も高い人気を誇ります。
エスパー魔美
「エスパー魔美」は1977年から1983年にかけて発表された作品です。当時の児童向け漫画としては珍しく、女子中学生が主人公でした。
主人公のキャラクター・佐倉魔美はごく普通の女子中学生でしたが、ある出来事をきっかけに超能力に目覚め、正義のために活躍するというストーリーになっています。
この作品も1987年から1989年にかけてテレビアニメが放送され、高い人気を獲得しました。
藤子不二雄(藤子不二雄Ⓐ)の代表作品やキャラクター
藤子不二雄Ⓐさんの代表作品やキャラクターも続けて紹介します。
『忍者ハットリくん』
『怪物くん』
『まんが道』
『プロゴルファー猿』
『魔太郎がくる!!』
『笑ゥせぇるすまん』
忍者ハットリくん
藤子不二雄Ⓐさんも、数々の大ヒット作品を生み出しています。「忍者ハットリくん」は藤子不二雄Ⓐさんが最もお気に入りと言っている作品で、服部半蔵の血を引く少年のキャラクター・ハットリカンゾウ、通称ハットリくんの活躍を描くギャグ漫画です。
忍者は表情読まれてはならないという理由から常に無表情で実は顔が能面であるとの都市伝説まで生まれました。さすがは藤子不二雄Ⓐさんというべきシュールなキャラクターです。
1981年から7年間にわたってアニメが放送され人気を集めました。
プロゴルファー猿
少年マンガ史上初のゴルフ漫画と名高い作品が、この「プロゴルファー猿」です。
猿にそっくりな野生児で、天才ゴルフ少年というキャラクター猿丸が、賞金を稼ぐために個性あふれるゴルファー達と激闘を繰り広げた末、プロテストに合格するまでが描かれました。
笑ゥせぇるすまん
「笑ゥせぇるすまん」は、藤子不二雄Ⓐさんのブラックジョーク世界の極致とも言える作品です。
不気味な笑顔を浮かべる謎のセールスマンのキャラクター・喪黒福造が、悩める現代人に近づき願望を叶えるが、同時に何らかの契約を負わせ、その人物が欲望に負けてそれを守れなかったりすると大きな代償を支払う事になり最終的に破滅するというのを基本プロットにしたショートストーリーからなるオムニバス漫画です。
大人向けの内容ですが、何とも言えない不気味な雰囲気から小・中学生の間でも人気が高い作品です。現在もカルト的人気があります。
藤子不二雄の結婚…2人とも結婚している
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藤子不二雄の2人の結婚についても見ていきます。
藤子・F・不二雄こと藤本弘さんは、お見合いで正子さんという女性と結婚しています。媒酌人は手塚治虫さんが務めました。藤子・F・不二雄さんはこの正子さんとの間に3人の娘さんを儲けています。
藤子不二雄Ⓐこと安孫子素雄さんは、藤子・F・不二雄さんの結婚から4年後の1966年に2歳年下の和代さんと結婚しています。和代さんは共立女子大学の英文科卒で、若柳流の日本舞踊の名取資格を持つ才女でした。
和代さんが藤子不二雄Ⓐさんのアシスタントを務めたのが出会いで、3年の交際期間を経て結婚したという事でした。こちらも結婚式の媒酌人は手塚治虫さんが務めました。
藤子不二雄の自宅
藤子不二雄さんの自宅といえば、多くの有名漫画家達が若手時代に住んだ伝説的下宿「トキワ荘」が有名です。藤子不二雄の2人は上京してからしばらくの間この「トキワ荘」を自宅に漫画家として活動されました。
2人は、漫画家として成功を収めた後、神奈川県川崎市多摩区生田にそれぞれ一軒家を建て、そこを自宅として活動しています。ちなみ藤子不二雄Ⓐさんの自宅の3軒左隣の家が、藤子・F・不二雄さんの自宅です。
藤子不二雄(藤子・F・不二雄)の死因は肝不全
藤子・F・不二雄さんは、1996年9月23日に62歳という若さで亡くなりました。自宅で仕事中(ドラえもんの大長編・ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記の執筆中だった)に鉛筆を持ったまま意識を失い、搬送先の病院で亡くなりました。死因は肝不全と発表されています。
藤子不二雄(藤子不二雄Ⓐ)の死因は調査中
藤子不二雄Ⓐさんは、ジャンプスクエアにてコミックエッセイ「PARマンの情熱的な日々」を連載されていましたが、2015年に心不全を患って休載が発表されました。藤子不二雄Ⓐさんは同作の休載にあたって「バテた、元気出るまで休ませて」とコメントを発表されています。
その後、藤子不二雄Ⓐさんは2022年4月7日午前、川崎市内の自宅で亡くなっているところを発見されました。
2022年4月7日午前8時40分ごろ、神奈川県警多摩署に「藤子Aさんの自宅敷地内で男性が倒れている」と通報があり、警察官が駆け付け、現場で死亡が確認されました。死因は不明で目立った外傷はなく、県警が死亡した状況を調べています。死去は午後1時前に報じられ、事務所の藤子スタジオは午後6時すぎに訃報を発表。「応援いただいた読者の皆さま、関係者の皆さまに深く感謝申し上げます」とコメントを寄せています。
藤子不二雄の現在
藤子不二雄は現在も子供から大人まで多くのファンに愛されています。
藤子・F・不二雄さんは亡くなっていますが、その代表作である「ドラえもん」は現在も絶大な人気を誇り、新たなコンテンツが次々と生み出されています。
藤子不二雄Ⓐさんも亡くなってしまいましたが、「忍者ハットリくん」「笑ゥせぇるすまん」「オバケのQ太郎」「怪物くん」などの作品は今でも人気があります。
まとめ
今回は「ドラえもん」の藤子・F・不二雄さん、「忍者ハットリくん」や「笑ゥせぇるすまん」の藤子不二雄Ⓐさんの2人の漫画家コンビ「藤子不二雄」についてまとめてみました。
「藤子不二雄」は、少年時代に出会った藤子・F・不二雄こと藤本弘さんと、藤子不二雄Ⓐこと安孫子素雄さんによる漫画家コンビのペンネームで、高校生時代にデビューして以来、現在まで残る数々の名作を生み出してきました。
2人は1987年にコンビを解散しましたが、その後も関係は良好であり、それぞれに精力的に活動を続けられていました。
藤子・F・不二雄さんは1996年に他界され、藤子不二雄Ⓐさんは2022年に亡くなっています。2人のご冥福をお祈りいたします。