太宰治は『人間失格』や『斜陽』などを執筆した小説家です。昭和期を代表する文豪の一人ですが、その私生活は多くの女性に彩られ、スキャンダラスな作家としても知られています。
ここでは太宰治の名言、歴代の女性関係や子供(息子・娘)の情報、そして晩年の病気や入水自殺のことなどをまとめています。
この記事の目次
太宰治のプロフィール
ペンネーム:太宰治(だざいおさむ)
本名:津島修治(つしましゅうじ)
出身地:青森県
生年月日:1909年6月19日
没年月日:1948年6月13日(38歳没)
学歴:東京帝国大学仏文科中退
職業:小説家
代表作:『走れメロス』(1940年)、『ヴィヨンの妻』(1947年)、『斜陽』(1947年)、『人間失格』(1948年)など
太宰治は、現在の青森県五所川原市にある地元の名士の家に生まれました。学生時代は優秀で、東京帝国大学に進学するも、5年目で学費滞納で除籍となりました。(もともと入学時も温情で入れてもらい、当初から授業についていけなかったとも)
太宰治は17歳頃になると同人誌などを発行するようになり、やがて小説家を志すように。そして1933年(24歳頃)に『列車』で太宰治名義の小説家デビューを果たしました。
1940年前後になると私生活の安定から多数の名作を生み出し、かつての芥川賞落選の経緯で因縁のあった川端康成も彼の作品を絶賛しています。
晩年の作品の一つ「斜陽」はベストセラーとなり、1948年には『人間失格』などの彼の代表作となる作品を発表。
自殺マニアとも呼ばれ4回の自殺未遂を起こしており、5回目となる1948年に愛人であった山崎富栄とともに玉川上水で入水自殺で帰らぬ人となりました。
太宰治の名言~天才文豪が残した言葉とは
太宰が残した言葉たち
「人間は、恋と革命のために生まれてきた」(斜陽より)
「恥の多い生涯を送って来ました」(人間失格より)
「学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。」(正義と微笑より)
「弱虫は幸福をさえおそれるものです。綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられることもあるんです。」(人間失格より)
「笑われて笑われて強くなる」(HUMAN LOSTより)
「大人とは、裏切られた青年の姿である」(津軽より)
「もう一度お逢いして、その時、いやならハッキリ言って下さい。私のこの胸の炎は、あなたが点火したのですから、あなたが消して行って下さい。私ひとりの力では、とても消す事が出来ないのです。」(斜陽より)
「幸福感というものは、悲哀の川の底に沈んで、幽かに光っている砂金のようなものではないだろうか。」(斜陽より)
「愛は、この世に存在する。きっと、ある。見つからぬのは愛の表現である。その作法である。」(パンドラの匣より)
とくに有名な名言は、斜陽や人間失格などの晩年の代表作からが多いですね。
もし気になる方は、名言という一部だけではなく、全体を読んだ方が新たな自分だけの名言を見つけられるかもしれません。
太宰治の女関係~交際した女性は登場人物のモデルになっていた
太宰治を語る上で外せないのが女性関係です。彼女たちは太宰治作品の登場人物のモデルとなることも多く、その執筆に大きな影響を与えたとされます。
※以下、タイトル後にある()内は太宰治と関係のあった時期を指しています。
太宰治の女関係① 小山初代(1927年〜1937年頃)
太宰治は、学生時代に3歳年下の小山初代と知り合いました。結婚を誓い合った二人ですが、この関係に反対した津島家は、その他太宰の非合法な左翼活動も影響し、太宰を実家から落籍。その後二人は入籍は許されなかったものの内縁関係となりました。
しかしその後に初代が太宰義弟との姦通を犯したり、太宰・初代で薬物自殺未遂を図ったりするなど、穏やかではない二人の関係はやがて破綻し離縁。
小山初代はその後、北海道・満州青島・東京などを転々とし、荒んだ生活を送った末、1944年(33歳)に他界しました。
太宰治の女関係② 田部シメ子(1929年頃)
②田部シメ子
モデル登場作品:『道化の華』
太宰治が小山初代と内縁関係にあった時期、初代が故郷青森に帰っている間に、一緒に入水自殺を図った愛人が田部シメ子です。
田部シメ子は銀座のカフェで働いており、そこで太宰と知り合います。当時彼女は内縁関係の夫のいる人妻だったとも言います。(つまりW不倫)
その後、意気投合した二人は、まだ3回しか会っていないにも関わらず、一緒に自殺を決行。
この時の自殺方法は初代と同じで薬物(カルモチン)を大量摂取し、心中をはかるというものでした。(※時期的にはこちらの自殺が先)
しかし太宰治は生き残り、田部シメ子のみが死亡。太宰は警察に自殺幇助の罪をうたがわれていますが、彼の身内の力で起訴猶予処分となりました。
この心中未遂事件は、のちのち太宰の犯行だったとする見方もあります。
理由は使用した薬物に太宰が慣れていた事(耐性があった?)や、『道化の華』に殺害を匂わすような記述があったからです。
ちなみに当時、太宰と内縁関係にあった小山初代はこの心中未遂事件に対し大激怒したといいます。
太宰治の女関係③ 津島美和子(1938年〜1948年)
③津島美和子(旧姓:石原)
モデル登場作品:『女神』『父』『美男子と煙草』『家庭の幸福』など
津島美和子は旧姓石原美和子といい、太宰治の女性関係のなかで、唯一結婚(入籍)した女性です。
女学校の教師をしていた美和子は、1938年頃に太宰治と見合いしその後結婚。彼女と結婚した太宰は、これまでの私生活を悔い改め家庭を守る決意をしました。
見合いの仲人でもあった井伏鱒二(太宰の師でもある)の自宅で結婚式をあげ、9月に現在の東京都三鷹市に夫婦で移り住みました。
津島美和子は太宰治の間に3人の子供を産み、彼の作品にも大きな影響を与えたと見られますが、1948年に太宰は愛人と入水自殺。
太宰亡きあと、美和子は文京区に住処を移し、余生を過ごし1997年に心不全で死亡。当時の課税遺産額は9億円だったとも言われます。1998年に公開された太宰の遺書には美和子宛てに『誰よりも愛してゐました』と書かれていたとか…。
太宰治の女関係④ 太田静子(1941年、1944年?〜1947年頃)
④太田静子
モデル登場作品:『斜陽』
太田静子は、太宰治にファンレターを送ったことから返信がきて、彼の家に訪問。その後恋に落ちる事となります。
一時期は既婚者の太宰と距離を置いていたことがあったものの、戦時中の静子の疎開先に太宰が訪れ再会を果たしました。
太宰の執筆のため静子が提供した日記(もともと太宰に書くよう勧められ静子が書いたもの)は、名作『斜陽』の材料となり、静子はその後太宰の子を妊娠。しかしその後太宰の態度は冷たくなり、生まれた子(太田治子)は認知されていますが、そのまま静子は捨てられる形となりました。
太宰の死後は印税10万とともに『斜陽』や太宰に関する言動を一切慎むよう言われたり、津島家からの冷遇もあったりと、不遇の時代を過ごしました。そして1982年に肝臓ガンより他界。
太宰治の女関係⑤ 山崎富栄(1947年〜1948年)
⑤山崎富栄
モデル登場作品:なし?
山崎富栄は、日本最初の美容学校を作った山崎晴弘を父にもつ美容師です。戦時中に最初に結婚した夫を亡くし、戦後の1947年に飲み屋で太宰治と出会い「死ぬ気で恋愛してみないか」と口説かれ愛人関係になりました。
富栄は、当時かなり体調が悪化していたとされる太宰治の身の回りの世話から執筆の手伝いまでをこなしました。
しかし1948年5月頃から関係は良くなくなり、嫉妬や捨てられるといった感情がうずまいたとされる富栄。
そして1948年6月13日に太宰治と富栄は玉川上水に入水自殺。この自殺事件については、いろいろと解釈があり、富栄のもがき苦しんだ死に顔と違い、太宰の死に顔が安らかで、ほとんど水を飲んでいなかったことなどから、富栄が太宰治を殺したとした無理心中なども考えられています。
太宰治の子供は4人〜ダウン症の息子と娘が3人いた
太宰治の息子・正樹はダウン症(母親・津島美和子)
1944年8月10日に生まれたのが、太宰治の第二子となる長男・正樹さん。生まれつきのダウン症であり、肺炎のため15歳という若さで他界しています。
太宰の作品には息子をモデルにしたと思しき人物が登場した事がありますが、”痩せこけ、立てず、話せず、聞けず、トイレもできない”などという記述があったそう。
太宰治の娘・園子と里子(母親・津島美和子)
太宰治と津島美和子の2人の娘たち
1941年6月7日 長女 園子誕生
園子の夫は衆議院議員の津島雄二で、息子の津島淳も政治家。
1947年3月30日 次女 里子誕生
里子は小説家・津島祐子として活躍。『夜の光に追われて』や『火の山―山猿記』(※朝ドラ『純情キラリ』の原作)などを発表し国際的にも高い評価を受けました。2016年に肺がんのため死亡。二人の子供がいたが、第二子である長男は8歳の時に呼吸発作のため急死。
次女・里子(津島祐子)の語る父親とは?
父についても、どうか、だれにも聞かれないように、といつも願っていました。父はいませんと言えば、それはなぜ、とひとは聞きます。事故で死んだ、と答えれば、なんの事故、とさらに聞かれます。そうなると返事に困ってしまいます。「自殺」とはどうしても自分の口から言うことはできませんでした。今でも言いたくない言葉ですが。そのうえ、よその女のひとと一緒に死んだなどとは、どうしてもひとには知られたくないヒミツでした。
津島祐子さんは1947年生まれで、その1年後の1948年6月に父親を亡くしている訳ですから、父親との思い出よりも、亡くなってからの父親の存在という方が大きかったのかもしれません。
太宰治の娘・治子(母親・太田静子)
太宰治と太田静子の娘・太田治子
1947年11月12日生まれ 第4子三女
太田治子は小説家やエッセイストなどとして活動。見合い結婚をし子供を一人もうけるも、その後離婚。『心映えの記』や『津軽』などの著書あり。
母親のことや太宰治の作品について語る太田治子さん。
『斜陽』は私の母、太田静子が書いた日記をもとにした、母と太宰との共同作業の作品といってもいいと思うんです。そして、同時進行という形で私が生まれました。ですが、最後の結末は太宰の創作でした。主人公が語る結末は素晴らしいと思いますし、作品をお手伝いできた母も素晴らしいと今では思っています。
母は妻がいる人の子を産んだことをずっと「申し訳ない」と言っていて、それを聞くことは私にとってはとてもつらいことでした。けれど、「私は人道に背いたかもしれないけれど、天道には背かなかった」とも言っていました。太宰のことを悪く言うこともあったけれど、尊敬していたし、同志として共感し合っていた。
太宰治の死因は入水自殺~晩年は病気・肺結核再発で苦しんでいた
入水自殺した太宰治
発見された時の画像もググると出てきます。
1938年頃に津島美和子と結婚し改心したかに見えた太宰治ですが、その晩年は再び女関係が荒んでいくこととなります。すでにご紹介している通り、彼の晩年に現れた妻以外の女性は、太田静子と山崎富栄のふたり。
また太宰治は肺結核を患っており、晩年はそれが再発していたといいます。喀血をするほど健康状態は非常に悪く、それを看護師のようにケアしていたのが愛人の山崎富栄でした。もともと太宰治は戦争の際も肺の病気で徴用を免除されるなどしています。
周囲からは静養を勧める声があった矢先、太宰治は山崎富栄とともに入水自殺。死因は入水自殺ならば”溺死”などが考えられますが、この自殺事件はいろいろと曰くがつけられており、富栄による無理心中説や泥酔状態の水死説などがあります。
もちろん現代であるならば、その詳細の死因もわかったことと思いますが、時は70年以上前の出来事で戦後の混乱期。当時のことを今から確認することは難しいでしょう。
太宰治から家族に当てられた遺書のなかには「小説を書くのがいやになったから死ぬのです」などという文言も綴られています。
それ以外にも当時太宰は、体調不良や息子の病気(ダウン症)について思い悩んでいたという説があります。
一方で、太宰に死ぬ動機や前兆などがなかったという考察もありますが、真相はもう誰も知る由がありません。
太宰治についてまとめると…
・太宰治にはダウン症の息子1人と娘が3人誕生している
・太宰治は晩年、肺結核が再発し苦しんでいたといわれ、1948年6月に愛人の山崎富栄と入水自殺で死亡した
太宰治は作品もさることながら、その破滅的な人生にもスポットが当たりやすい作家です。
若くして亡くなったことも太宰を神格化させ、現在でも特に熱狂的なファンが多いことでも知られています。