日本を代表する伝説的なプロレスラーで政治家としても活動していたアントニオ猪木さんは、「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」を患い闘病を続けていましたが2022年10月に亡くなられています。
この記事では、アントニオ猪木さんの本名や国籍、身長などのプロフィール、そして病気や闘病生活、死去などをまとめました。
この記事の目次
アントニオ猪木のプロフィールと経歴…本名・国籍・身長も紹介
「燃える闘魂」伝説のプロレスラー・アントニオ猪木
アントニオ猪木さんは最も日本プロレス界を沸かせた伝説的な元プロレスラーであり、その「燃える闘魂」は引退後国会議員になってからも発揮されていました。
アントニオ猪木さんについての詳しいプロフィールはこちら。
本名: 猪木 寛至(いのき かんじ)
生年月日: 1943年2月20日
出生地: 神奈川県横浜市鶴見区
出身校: 横浜市立寺尾中学校
職業: プロレスラー、政治家、事業家
所属政党: (スポーツ平和党→)(日本維新の会→)(次世代の党→)(日本を元気にする会→)無所属(無所属クラブ)
選挙区: 参議院比例区
当選回数: 2回
在任期間: 1989年 – 1995年
在任期間: 2013年7月28日 – 2019年7月28日
引用:Wikipedia – アントニオ猪木
アントニオ猪木の生い立ち
アントニオ猪木さんは父親・猪木佐次郎さん、母親・文子さんの間に10人兄弟の9番目として生まれました。
父親はアントニオ猪木さんが5歳の時に他界してしまいましたが、生前は石炭問屋をしていたものの第二次世界大戦後にエネルギー資源が石油に変わったため倒産し、その後県議会議員をしていたと言われています。
アントニオ猪木さんは12歳の頃から横浜市立寺尾中学校に通い始めましたが貧しい暮らしに耐えかねた家族は、当時ブラジルへの移民政策が勧められていたことから貧困から抜け出せると考えてブラジルへ移住しました。
サンパウロ市近郊にある農場で新しい生活が始まりましたが、アントニオ猪木さんは日本では運動音痴として同級生から馬鹿にされていたものの、ブラジル移住後に陸上選手として才能が開花し、砲丸投げなどの大会で優勝するようになりました。
アントニオ猪木の気になる本名や国籍は?
若かりし日のアントニオ猪木さん
左から)ジャイアント馬場さん、猪木さん、力道山さん。
アントニオ猪木さんの本名は「猪木 寛至(いのき かんじ)」ですが、1991年にイラクのシーア派の聖地・カルバラーでイスラム教に改宗した際にムスリム名「モハメッド・フセイン」を貰っているため「モハメッド・フセイン・イノキ」という名前もあるようです。
少年期にブラジルに移民として一時的に移り住んでいるため帰国後は日系人と思われたり、国籍もブラジルだと思われることが少なくなかったようですが、国籍を移動させているという話は無いため日本国籍のようです。
アントニオ猪木の身長は年々縮んでいた?公称身長サバ読み疑惑も!
本当は高身長ではないアントニオ猪木
プロレスラー現役時代に全日本プロレスのジャイアント馬場さんと双角を担っていたアントニオ猪木さんは高身長のイメージがあり公称身長も191cmとなっていますが実際は179cmくらいだったと言われています。
アントニオ猪木さんがジャイアント馬場さんと並んで「巨人」のイメージがある人は少なくないでしょう。
しかし、上の画像では女性をはさんで千代の富士さんと朝青竜さんが並んでいますが、それぞれ身長は183cm、184cmだと言われています。
見た目の印象ではアントニオ猪木さんは二人よりも身長が低いようなので、182cm以下であることは間違いなさそうです。
加齢による背骨の曲がりや関節の軟骨がすり減ることによる身長の縮みを考慮すると、全盛期は185cm以上あったと思われますので公称身長の191cmは全盛期時代の数字かもしれません。
今年を振り返った猪木氏は「きょう検査をしてきましたが、背がだんだん縮んでいくんですね」と苦笑。かつては190センチあった身長も、現在は「180ちょっとはまだありますけれど、しょうがない」と肩を落とした。
もしくは、師匠である力道山さんが身長を4cmサバ読んでいたことから、当時のプロレスラーは4cmサバを読む風潮があり、弟子であるアントニオ猪木さんもそうである可能性が高いことから本当の身長は185cmくらいだったかもしれませんね。
アントニオ猪木が北朝鮮との関係にこだわる理由
アントニオ猪木、きっかけは先生の娘が北朝鮮にいたからと語る
アントニオ猪木が北朝鮮に懇意にする理由
アントニオ猪木さんは1995年に北朝鮮を訪れてプロレスイベント「平和の祭典」を開催しており、日本政府・国民感情の意思を無視した形で交流を続けてきました。
そこで、気になるのが北朝鮮との関係がはじまったきっかけです。中央日報日本語版のインタビューでアントニオ猪木さんは北朝鮮との縁について語っています。
・これまで21度、北朝鮮に行って来たそうだが、北朝鮮との交流は師匠力道山との縁のためか。
「そうだ。あるスポーツ紙に先生の娘が北朝鮮にいるという記事を見てから北朝鮮との縁が始まった。娘さんの年齢は私と近いが、ご主人は体育協会会長を務めていると理解している。 」
この先生というのが何の先生かは不明ですが、この当時は力道山さんの故郷が朝鮮であることは知らなかったそうです。
アントニオ猪木、師匠・力道山との出会い
朝鮮出身のプロレスラー・力道山にスカウトされる
1960年4月11日にアントニオ猪木さんはブラジル遠征でサンパウロを訪れていた力道山に出会い、スカウトされて帰国し、日本プロレスに入団しました。
力道山さんは日本プロレス界の礎を築いた伝説的なプロレスラーですが、力道山さんの出身地は北朝鮮であることからアントニオ猪木さんに北朝鮮との縁が生まれました。
アントニオ猪木さんはプロレスラーとしてジャイアント馬場さんと同日の1960年9月30日にデビューしました。
力道山さんが死去して以降に日本プロレスが没落すると、アントニオ猪木さんは新日本プロレスを立ち上げ、ジャイアント馬場さんは全日本プロレスを立ち上げて日本プロレス界に新たな息吹を吹き込んできました。
昭和の二大レスラー。ジャイアント馬場が読売巨人軍に所属したプロ野球選手だったのは知っていましたが、昭和のスポーツ史を調べるまでアントニオ猪木とリングデビューが同じ日だということを知りませんでした。どこか馬場さんのほうが猪木さんより先輩ってイメージがあった。 pic.twitter.com/brU9681XoY
— 福井あしび (@makoXmako) 2018年9月9日
アントニオ猪木、北朝鮮との友好関係を築く
アントニオ猪木、プロレスラー初の国会議員へ
アントニオ猪木、師匠・力道山の祖国北朝鮮へ
力道山さんは北朝鮮では英雄的な扱いを受けるプロレスラーですが、その弟子であるアントニオ猪木さんも度重なる訪朝の末に国賓待遇で迎えられるようになりました。
アントニオ猪木さんは1989年に「スポーツを通じて国際平和」を掲げて「スポーツ平和党」を結成し、第15回参議院議員通常選挙において比例区で当選してプロレスラー初の国会議員となりました。
アントニオ猪木さんは1995年4月28日、29日に北朝鮮で「平和の祭典」を行いましたが、正しくは「平和のための平壌国際体育・文化祝典」であり、「平和の祭典」は1990年12月1日にイラクで行われたプロレスイベントです。
なお、「平和の祭典」はオリンピックの別称でもありますが、アントニオ猪木さんはプロレスにより世界平和への貢献を目指してきました。
アントニオ猪木、初外交はキューバのカストロ議長だった
アントニオ猪木さんはネット上では国会議員になってすぐに北朝鮮と懇意にし始めた売国奴のように言われることが少なくありませんが、「スポーツ平和党」の党首として国会議員になって初めて国外の外交をしたのはキューバのカストロ議長でした。
当時、アメリカとの外交に注力していた国会議員の誰もがキューバに訪れたことがなく、アントニオ猪木さんは平和外交のためにまずは同国のスポーツ大臣に会い、その次に産業大臣、最後にカストロ議長と対面することができました。
「誰かが動かないと始まらない」と語っていたアントニオ猪木さんですが、築き上げたカリスマや人格があったからこそカストロ議長と会えたのでしょう。
そして、このカストロ議長と親交を深めたことが1990年の湾岸戦争時のイラクの在留日本人人質事件の解決に重要な意味を持つことになりました。
アントニオ猪木の初めての「平和の祭典」はイラク
プロレスで世界平和に貢献したアントニオ猪木
当時、イラクのサダム・フセイン大統領がクウェートに進行した湾岸戦争において、クウェートに在留していた日本人41人が国外移動禁止の人質に取られる事件がありました。
アントニオ猪木さんはスポーツで世界平和を目指す信条を基にイラクで「平和の祭典」を開催することを発表し、日本政府は難色を示したため自費でトルコ航空機をチャーターして人質41人の家族46人と共にトルコ経由でイラクの首都・バグダードに入りました。
当時、現役プロレスラーでもあったアントニオ猪木さんは関係者から「撃たれるかもしれない」という忠告を無視して街をランニングしていましたが、その姿にイラクの要人が注目するようになり結果的にサダム・フセイン大統領の長男であるウダイ・フセインと会うことができました。
アントニオ猪木さんは現地でのプロレスイベントの成功と友好関係を築くことの熱意を伝え、イラクで「平和の祭典」を開催して成功させたことから、ウダイ・フセインにより人質の在留日本人41人は解放されました。
この功績が民衆から高く評価されてアントニオ猪木さんが代表を務める「スポーツ平和党」は1992年7月の第16回参議院議員通常選挙において2議席目を獲得しました。
また、スポーツで平和的に人質問題を解決させたアントニオ猪木さんの功績は、世界的にも大きな意味を持つかもしれません。
アントニオ猪木、北朝鮮での「平和の祭典」
師匠・力道山の出身地、北朝鮮でプロレスイベント
アントニオ猪木さんは新日本プロレス所属のプロレスラーを引き連れて北朝鮮を訪れ、1995年4月28日、29日に平壌にある綾羅島メーデー・スタジアムでプロレスイベント「平和のための平壌国際体育及び文化祝典」を開催しました。
アントニオ猪木さんは初めて北朝鮮を訪れた際、国会議員という肩書きよりも「力道山の弟子」として入りました。
最初は厳しい空気を感じていたというアントニオ猪木さんはジョークを飛ばす内に和やかなムードが漂い受け入れられるようになっていったそうです。
テポドン(ミサイル)が世間を騒がせているときだったので、相手側にミサイル問題を正面からぶつけました。
そしてその後の宴会の席で、私が大きな声で「ところで!」と叫んだら、皆がびっくりした。
「日本の“ミサイル”も北朝鮮に向いています」と言ったら皆が息をのんだ。そして、「北には美しい女性が多いですから(笑)」なんて言ったら、一発で場が和んだ。
こうしたジョークでの外交ができたのもアントニオ猪木さんの人間力の成せる技でしょう。
北朝鮮に受け入れられたアントニオ猪木さんは「平和のための平壌国際体育及び文化祝典」を成功させ、その後も毎年訪朝を続けていました。
アントニオ猪木、東京オリンピック開催にも貢献?
アントニオ猪木さんは「本当の友人のように迎えられている」と語るように、他の国会議員にできないような北朝鮮幹部との深い親交を深める中で、東京オリンピック開催にも貢献したことが伺えるエピソードがあります。
北朝鮮のIOC委員である張雄(チャンウン)さんと、私は長い付き合いです。彼は、もともとバスケットボールの選手で、背も高い。75歳だったから私より年齢は少し上になりますね。英語も喋りますし、私の英語でも通訳を入れないで簡単な話くらいならできますから。信頼が厚い方で、日本の五輪委員会の人たちとも懇意にしているようです。
12年11月に私が訪朝したときに、「東京に1票入れますよ」と北朝鮮は言って、10票ぐらいなら、アフリカの友好関係国をまとめられると言ってくれました。
これはアントニオ猪木さんが長年温めてきた北朝鮮との友好関係もこうした動きに一役買った可能性は大いにあるでしょう。
アントニオ猪木、北朝鮮外交を続けた理由
アントニオ猪木さんの訪朝回数は33回を数えましたが、他の政治家がやらないような外交を続けていた理由として以下のように語っています。
大好きな言葉の一つに「何にもしないで生きるより、何かを求めて生きようよ」がありますが、その心境です。人がやらない何かにチャレンジする、猪木にしかできないことに挑戦していくということです。
日本人は「日本が平和憲法を持った国家」であると思っている。しかし、実際は世界の人はそんなこと知らない。外国の憲法なんて誰も興味ない。ほとんどの日本人だって、韓国の憲法や米国の憲法なんて知らないでしょう。大事なことは、誰かが日本が平和国家であり、友好関係を結ぼうと訴えなければならないということです。
「プロレスラー・アントニオ猪木」としての生き様がそのまま政治家としても反映されていたようで、保身ばかりを考える政治家が多い中、こうした破格の行動ができる政治家はとても貴重であったことでしょう。
アントニオ猪木の現在①政界を引退し闘病~病名は全身性トランスサイレチンアミロイドーシス
アントニオ猪木の車椅子姿にプロレスファン騒然
「北朝鮮建国70年の記念式典」に参加したアントニオ猪木
アントニオ猪木さんは2018年9月9日に北朝鮮で開催された「北朝鮮建国70年の記念式典」に参加しましたが、その際の姿が車椅子だったことからプロレスファンを騒然とさせました。
アントニオ猪木さんの関係者の話では腰の治療のために長期入院をしていたため足腰が弱っており車椅子に乗っているということのようでしたが、やせ細ってしまった姿からかねてから噂されていた糖尿病の悪化を疑う声もあったようです。
同時期に北海道大地震や元モーニング娘。の吉澤ひとみ容疑者のひき逃げ事件があったことからアントニオ猪木さんのニュースが取りざたされることはほとんど無かったため世間的にはそこまで知られていなかったのですが、すでに後期高齢者ということもあり体調が心配されていました。
元気ですかー!
— アントニオ猪木 (@Inoki_Kanji) 2018年9月7日
これから平壌に行ってきます! pic.twitter.com/L03726tZPv
いまのアントニオ猪木が75歳の老人だという当たり前の事実に気付かされました。 pic.twitter.com/cAKEPlpAqD
— 吉田光雄 (@WORLDJAPAN) 2018年9月7日
アントニオ猪木が政界を引退
出典:https://bunshun.jp/
76歳で引退を表明
アントニオ猪木さんは2019年6月、翌月の参議院選挙には出馬しないとし、政界から引退することを表明しました。
「元気を売れなくなった」と語っていたアントニオ猪木さん。この時76歳ということもあり、不出馬の理由には高齢であることなどを挙げていました。
12年にわたる政治家生活を終えたアントニオ猪木さんですが、長年取り組んできた北朝鮮問題については、引退後も「自分なりの外交をやっていく」と意欲を示していました。
「元気を売る人間が、元気を売れなくなった……」。国会閉会日の26日、高齢を理由に7月の参院選への不出馬を表明している無所属のアントニオ猪木参院議員(76)は、こう記者団に言い残して「最後の国会」を去った。この日も決まり文句の「元気ですか」から取材に応じた猪木氏。「長いような短いような。体調も壊して最後は大変だった」と政治家人生を振り返り、北朝鮮訪問への意欲を改めて語った。
アントニオ猪木が病名を「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」と明かす
出典:https://ameblo.jp/
病名を公表
アントニオ猪木さんは2021年11月にNHK・BSプレミアムで放送されたドキュメンタリー番組「燃える闘魂 ラストスタンド~アントニオ猪木 病床からのメッセージ~」で、「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」という病気であることを明かしました。
「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」は、アミロイドという物質が全身にたまり血液循環が悪くなる難病で、治療法は確立されていないとのこと。
2018年にはこの病気を発症していたようなので、車いす姿を見せた時や政界を引退した時は、病気の影響があったものと思われます。
猪木の抱える病気は、タンパク質由来のアミロイドが心臓をはじめとする全身の臓器に沈着する難病で、重症化すれば生命を脅かす恐れもあるという。国内の患者数は約2000人。100万人に数人が罹るとするデータもある。猪木は2018年に発症し、闘病生活を続けている。
「知られていない病気だけど、おそらく苦しんでる人はもっと多いんじゃないかな。治療法が確立されていない上に、何の薬を飲めばいいのかも分からず、病院の先生方も困っている。(公表して)病気が広く認識されることで、少しでも研究が進むきかっけになればいい」
アントニオ猪木さんは2020年末には敗血症で緊急搬送され、それから入退院を繰り返していたそうです。また、闘病生活の中で身長が10センチ近く縮んでしまったとのことで、晩年のアントニオ猪木さんの身長は、前述のものよりもさらに低くなっていたと思われます。
「週刊文春」の取材では、「寝てもだめ、立っていてもつらい。」状態の時もあり、何度か「もうこれでいいかな」と思うくらいの気持ちになったことを明かしています。しかし、今はしっかり両足をつけて最後まで闘いたい」とも語っていました。
“元気があればなんでもできる”という台詞をトレードマークにしてきた猪木。「その言葉が嘘じゃないってことをひとつひとつ証明しなくてはならない。まだ時間はかかりますが、今はしっかり両足をつけて、私らしく最後まで闘いたい」と語った。
アントニオ猪木さんの病名公表には衝撃を受けたファンも多かったのですが、病と闘いながら懸命に生きる姿は、多くの人々に勇気と感動も与えたようです。
昨日NHKでアントニオ猪木のドキュメント番組を観た。
— ヨシ坊 (@yoshibo_4419) November 28, 2021
今、彼は難病と闘っている。
子供の頃テレビに映っていた観客を魅了する頃からは見る影もない姿を観ると哀しくもあり、寂しかった。
ただ眼だけは闘うアントニオ猪木の眼をしていた。
人間は死ぬまで闘い続けなければならない
頑張れアントニオ猪木 pic.twitter.com/nKdc1wYb2x
我が憧れの存在であるアントニオ猪木さんの特別番組を見ました。元気を発信して出会った人々、応援してくれるファンを幸せにする事が使命である生き様は健在であると思いました。尊敬の念は変わりません。やはりアントニオ猪木です。#燃える闘魂ラストスタンド #アントニオ猪木 #NHKBSプレミアム pic.twitter.com/iWp8gZuC6i
— MANA (@uwf840140) November 27, 2021
アントニオ猪木の現在②2022年に死去~死因は全身性トランスサイレチンアミロイドーシスによる心不全
最期まで闘い続けたアントニオ猪木
出典:https://news.yahoo.co.jp/
インタビューで笑顔を見せるアントニオ猪木
闘病を続けていたアントニオ猪木さんですが、2022年7月にはスポニチのインタビューに応じ、「元気があれば何でもできるんです。自分に言い聞かせて最強の敵と戦っているところです」と前向きな発言をしていました。
出典:https://news.yahoo.co.jp/
24時間テレビに出演
2022年8月には車いす姿で24時間テレビに出演。「元気ですかー!」の掛け声も披露したアントニオ猪木さんでしたが、これが最後のテレビ出演となってしまいました。
やせ衰え、言葉も出しづらそうだったが「元気ですかー!元気があれば何でもできる」とおなじみのセリフも披露した。
猪木さんは約3年にわたって心臓の難病「全身性アミロイドーシス」と闘っていた。当時も体調について「見た通りで、その瞬間、もう必死に頑張っています。本当は起きられる状態じゃないんですが、私もこうやって皆さんにお会いすることで、元気をもらいました」と語っていた。
2022年、心不全により79歳で死去
出典:https://www.cyzo.com/
自宅で死去
2022年10月1日、アントニオ猪木さんが東京都港区の自宅で亡くなられました。79歳でした。
アントニオ猪木さんは亡くなる2、3日前から低血糖で体調を崩し自宅で療養を続けていましたが、10月1日の朝状態が悪化し息を引き取られたとのことです。
死因は全身性トランスサイレチンアミロイドーシスによる心不全と公表されています。
プロレス界のスーパースターとして人々に元気や勇気を与え続け、スポーツを通じて外交を行うなど唯一無二の政治家としても活躍したアントニオ猪木さんの訃報に、日本中が悲しみに包まれ各界から追悼のコメントが続々と寄せられました。
猪木さんはプロレス界への長年の功績をたたえられ、10年にWWE殿堂入りを果たしていた。サイトでは「日本のプロレス史上、最も重要な人物であるアントニオ猪木さんは、スポーツエンターテインメントで最も尊敬された人で、故郷では正真正銘の伝説だった」とし、スタン・ハンセンやタイガー・ジェット・シン、ハルク・ホーガンらと激戦を繰り広げた歴史を紹介。その活動は日本にとどまらず、世界で興行を成功させたことから「プロレス界の素晴らしい大使でもあった」と称賛した。
アントニオ猪木さんは2020年に「アントニオ猪木『最後の闘魂』」というYouTubeチャンネルを開設し自身の闘病の様子などを公開していましたが、死去が発表された後、生前撮影されたという動画が「アントニオ猪木『最期の言葉』」と題して公開されています。
今回の撮影は、YouTubeチャンネルを再開するために撮影されたものだったという。自宅のベッドに横たわる猪木さんは「別にやりたくないよ。やりたくないけど、みんな『やりゃいいじゃん』って。欲も何も、全くないんだから。俺。欲がないというのは何の欲もない。金銭欲なのか、女なのか、いろいろ、生きていること自体がなんなのか」と語りつつ、笑顔で関係者と楽しそうに会話を続けた。
猪木さんは「もう俺も80だから。『もうそろそろ、猪木さん楽をしてください』という人は誰もいないだよ」と苦笑い。「この声が一番、俺の敵なの。敵がいる限り、いいじゃないか」と嬉しそうに笑っていた。
アントニオ猪木さんのご冥福を心よりお祈りいたします。
アントニオ猪木について総まとめすると…
・アントニオ猪木の現役時代の公称身長は191cmであるが、身長が縮み180cm前後になっていたとみられる。
・アントニオ猪木が北朝鮮との関係にこだわる理由は、先生の娘が北朝鮮にいたことと、師匠・力道山が在日朝鮮人であったことがきっかけである。
・アントニオ猪木は2018年に車椅子姿で訪朝する姿に病気を心配する声が多数あがっていたが、2021年に「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」という病気であることを明かした。
・アントニオ猪木は2022年10月に全身性トランスサイレチンアミロイドーシスによる心不全のため79歳で亡くなった。
「燃える闘魂」として日本プロレス界に伝説を残し、政治家としても平和活動に貢献してきたアントニオ猪木さんについて総まとめしてきました。
ネット上では在日朝鮮人だった力道山さんの弟子で、その母国北朝鮮と懇意にし続けてきたアントニオ猪木さんに対して「売国奴」と呼ぶ声も少なくありませんでした。
しかし、実際は力道山さんの弟子としての縁から北朝鮮問題に取り組み、口だけで動かない多くの政治家にはできない実行力をアントニオ猪木さんは示し続けていました。
世界を変えることができる人というのはアントニオ猪木さんのようにカリスマ性と人間力を兼ね備えた人だといえますね。
亡くなってしまったことが残念でなりませんが、アントニオ猪木さんが残した素晴らしい功績の数々は今後も語り継がれていくことでしょう。