昭和のスター俳優でありながら、カリスマ的な人気を得ていたロックシンガーでもあった萩原健一さん。「ショーケン」の愛称で親しまれていますが、数々の事件で逮捕されたアウトローでもあります。
芸能界でも恐れられる萩原健一さんの逮捕歴、歴代の嫁、そして冨田リカと再婚後の生活や死去した現在までをまとめました。
この記事の目次
萩原健一のプロフィールや経歴
萩原健一のプロフィール
芸能界で怒らせたら怖い人物のひとり・萩原健一
萩原健一さんは「ショーケン」の愛称で親しまれる大御所俳優であり、カリスマロック歌手ですが、芸能界では怒らせたら怖いアウトローでも知られています。
萩原健一さんは度重なる逮捕を経験しながらも、その時期がズレていたため服役することはありませんでしたが、いつ刑務所に行ってもおかしくない事件を起こしてきています。
萩原健一さんがどういう人物なのか、生い立ちから嫁、子供まで詳しくまとめました。
萩原健一さんについてのプロフィールはこちら。
本名: 萩原 敬三(はぎわら けいぞう)
生年月日: 1950年7月26日
出生地: 埼玉県北足立郡与野町(現・同県さいたま市中央区)
血液型: O型
職業: 俳優・歌手
ジャンル: 映画・テレビドラマ
活動期間: 1966年 –配偶者
小泉一十三(1975年 – 1978年)
いしだあゆみ(1980年 – 1984年)
冨田リカ(2011年 – )
引用:Wikipedia – 萩原健一
萩原健一さんは度重なる事件の末に、2004年に映画製作現場のスタッフや共演者に暴行、暴言を加えて、プロデューサーを恐喝するという事件を起こして逮捕されたことはまだ覚えている人も少なくないでしょう。
萩原健一さんの年代別捉え方について的を得ているのがこちら。
50代より上の世代では、GSのカリスマ的なミュージシャンであり、俳優であり、代弁者であり青春の群像とも呼べる存在であろう。30、40代は、酷く恐ろしく、映画やTVの俳優で事件ばかり起こす人・・・・・・20代は、怖いヤクザみたいなおじさん。お母さんが好きだった・・・・・10代、誰それ?萩原流行ならわかる・・・・・・・
萩原健一さんをあまり知らない50代以下の世代にとってはやはりパッとしないイメージですが、次の動画を観ると確かに「唯一無二」のカリスマを持っていたと頷けます。
萩原健一さんの曲「ラストダンスは私に」のYouTube動画。
萩原健一さんは2004年で事件を起こして以降芸能界から干され、2009年頃に復帰するまで表舞台から姿を消していました。
なかなか芸能界でも例を見ないアウトローぶりを発揮してきた萩原健一さんですが、生い立ちから詳しくまとめたのでご紹介していきましょう。
萩原健一の生い立ち&経歴
学校で落ちこぼれ、アウトローになっていく萩原健一
萩原健一さんの現在までのアウトローな人生は中学時だいから始まっていたようです。
萩原健一さんは1950年7月26日に埼玉県北足立郡与野町で生まれました。
萩原健一さんの実家は鮮魚店で、兄が二人、姉が二人いるそうですが、それぞれ父親が違うというかなり複雑な家庭で育ったようです。
萩原健一さんの父親は母親が鮮魚店を開店する際に援助してくれた男性で、結婚していたわけではないようです。
萩原健一さんは小学校時代から成績が悪く、石原裕次郎の大ファンだったそうです。
萩原健一さんは東京都荒川区の聖橋中学校に上がると不良グループに入ります。
萩原健一のアウトロー人生の地盤は中学でできた
萩原健一さんは中学時代から不良グループの中で酒やタバコ、そして女を覚えたそうで、喧嘩に明け暮れていたようです。
萩原健一さんは学校をサボって映画館に行くことが多く、ずっと入り浸っていたことから後に映画監督を目指すほど映画好きになったようです。
不良グループで日々悪友たちと遊んでいた萩原健一さんは、お金が無くなると母親の鮮魚店から勝手にお金を盗んで遣っていたそうです。
それでも母親は好きだったようで、中学校まで母親の隣に寝ていたようです。
萩原健一さんの後の愛称である「ショーケン」が生まれたのはこの頃で、六本木のトムスというバーによくたむろしていた「ダイケン」と「チューケン」というふたりの高校生の不良と喧嘩をした際に、懐に包丁を忍ばせていったことから度胸を買われて「ショーケン」というあだ名で仲間になったようです。
聖橋高校に進学した萩原健一さんは芸能界デビューのため1年生で中退することになります。
萩原健一、スカウトで歌手デビュー
歌の才能に溢れていた萩原健一はスカウトされる
萩原健一さんは不良グループで遊ぶ中で歌うこともしていたのだと思いますが、16歳で歌手デビューを果たします。
日本の芸能界において唯一無二の個性を持った俳優、ロックシンガーだと言われる萩原健一さん。
16歳の頃に埼玉県大宮市でスカウトされて、当時に人気グループだった「ザ・スパイダース」の弟分的なバンドだった「バンドザ・テンプターズ」のボーカリストとしてデビューしました。
『神様お願い!』『エメラルドの伝説』などのヒット曲によりそのカリスマ性に火がついて爆発的に人気を集めていきました。
その後同バンドは解散しましたが、萩原健一さんは井上堯之さんや沢田研二さんなどの5人とニューロックバンド「PYG(ピッグ)」を結成。
ライブ活動の他ロックフェスティバルやテレビ出演もしていましたが、萩原健一さんはかねてより興味があった映画監督になるために音楽活動をセーブするようになります。
萩原健一、俳優デビューとブレーク
映画監督を目指すつもりが俳優に抜擢された萩原健一
人生が激変するのはちょっとしたきっかけであることも少なくないですが、萩原健一さんは映画監督を目指して助監督を務めていた頃に、アクシデントから俳優をすることになりました。
萩原健一さんは1972年製作の松竹映画『約束』で助監督を務める予定でしたが、主演の俳優が急遽降板となったため代役として俳優を務めることになりました。
萩原健一さんは演技の才能もあったため、女優の岸恵子さんと共演した『約束』は高評価を得て、萩原健一さんは本格的に俳優として活動していくようになります。
そして、萩原健一さんが憧れていた石原裕次郎さんが主演を務めたドラマ『太陽にほえろ!(日本テレビ系)』に初代新人刑事のマカロニ役で出演し、一躍全国的な知名度を獲得してブレークしました。
萩原健一の1度目の結婚:元嫁の小泉一十三と子供を1人もうける
萩原健一、小泉一十三との1度目の結婚
萩原健一さんは3、4回の結婚(詳細が不明)をしていますが、子供をもうけたのは最初に結婚した小泉一十三さんだけのようです。
萩原健一さんはそれまで休止していた音楽活動を1975年に再開させて初となるソロアルバム『惚れた』をリリースしました。
そして同年に当時モデルをしていた小泉一十三さんと結婚し、娘をひとりもうけましたが、3年後には破局、離婚してしまいました。
萩原健一は元嫁・小泉一十三と離婚後に養育費支払いのためにアルバイト
責任感と男気に溢れている萩原健一
萩原健一さんはアウトローで素行の悪さからダメ男だと思われることもあるようですが、自分の背負った責任は何がなんでも果たす男気を持っているようです。
萩原健一さんは小泉一十三さんと離婚した後に、離婚によって生じた補償金の他に、幼い子供を養っていくための養育費も毎月支払っていました。
しかし、1980年頃は仕事がないこともあったようで、養育費の支払いは容易ではなかったようです。
あのころ、払わなければならなかったのは補償金だけじゃない。毎月、小泉一十三さんに娘の養育費を送る義務もあった。しかし、働いて払おうにも、こんなおれを使ってくれるテレビ局や映画会社なんてあるわけがない。マスコミは早くも年内復帰をウワサしていたけれど、実際には子供の養育費の支払いにも四苦八苦してたんだ。
養育費の支払いに困窮していた萩原健一さんは知人から助け舟を出してもらって仕事を貰いますが、それは萩原健一さんのイメージからは程遠い”着ぐるみ”のアルバイトだったようです。
頭を抱えていたら、下馬二五七さんから、「ハギさん、アルバイトする? ぬいぐるみ着てもらうけど……」 やったよ、ぬいぐるみを着て。子供には、中にいるのがショーケンだなんてわかんなかっただろう。スッテンテンなんだから、何だってやるさ。三カ月間、ぬいぐるみのアルバイトは一日も休まなかった。天地真理ショーのバックで汗だくになって踊ったこともある。おかげで養育費の支払いは、一回も滞らせなかった。
”あの”「ショーケン」が愛くるしい着ぐるみを着て踊っていたことを想像するだけで顔が破顔してしまう人も少なくないと思いますが、子供のため、責任を果たすためならやりたくない仕事も喜んでやる萩原健一さんは男気の強い人のようです。
萩原健一の2度目の結婚:元嫁いしだあゆみとの結婚と離婚
萩原健一、いしだあゆみとの2度目の結婚
いしだあゆみさんと結婚したのか、後述するヘアメイクアーティストの女性と結婚したのか情報が錯綜しているようですが、『週刊新潮』の報道ではいしだあゆみさんとは結婚していたようです。
萩原健一さんは1980年に歌手で女優のいしだあゆみさんと結婚しましたが、その後2008年に出版された萩原健一さんの自叙伝『ショーケン』では未入籍であり事実婚だったと語られました。
しかし、追いかけるように出版された『週刊新潮』の中で「自叙伝の中で語られた未入籍は嘘」だと報じられています。
萩原健一さんといしだあゆみさんは1984年に破局、離婚を発表しました。
萩原健一といしだあゆみの結婚が私には釣り合わないと思う。全く釣り合わない。私にはこの結婚が不愉快なのだ。何故、不愉快か?いしだあゆみが萩原健一に不似合だからだ。pic.twitter.com/VTYd8VsQkM
— 森茉莉チャンネル (@morimari_ch) 2017年4月19日
萩原健一の逮捕歴① 大麻不法所持で逮捕される
萩原健一、度重なる女性問題で心をすり減らしていた?
萩原健一さんのカリスマ性が女性を惹きつけたのか、かなりのモテぶりを発揮していたようですが、離婚や破局の波乱続きで心をすり減らしていたのか大麻不法所持で逮捕されました。
萩原健一さんは1983年4月20日に大麻不法所持で逮捕されて、懲役1年・執行猶予3年の有罪判決を受けてしまいました。
この事件を起こしたことで萩原健一さんは芸能界から干され、約1年間に渡って芸能活動を停止させることになってしまいます。
萩原健一の逮捕歴② 人身事故で逮捕される
萩原健一、飲酒運転で人身事故を起こし逮捕される
大麻不法所持で逮捕された翌年には飲酒運転と人身事故という最悪のセットで逮捕されてしまい書類送検されています。
萩原健一さんは1984年に飲酒運転で人身事故を起こしたことで業務上過失傷害罪で逮捕されてしまいました。
萩原健一の逮捕歴③ 倍賞千恵子との不倫写真に激怒して記者を暴行
萩原健一、倍賞千恵子と不倫していた?
いしだあゆみさんとの離婚の後に、萩原健一さんは女優・倍賞千恵子さんと不倫していましたが度重なる浮気をして破局しています。
萩原健一さんと倍賞千恵子さんは1985年公開の映画『恋文』で共演したことがきっかけで交際に発展しましたが、この頃倍賞千恵子さんはアントニオ猪木さんと婚姻関係にありました。
萩原健一さんは同年11月に週刊誌から倍賞千恵子さんとのツーショット写真を暴露されてしまい、激怒して撮影した記者や編集者に暴行を加えて逮捕、書類送検されています。
つまり萩原健一さんと倍賞千恵子さんは不倫の関係にありましたが、倍賞千恵子さんは夫・アントニオ猪木さんと離婚して萩原健一さんを選んでいます。
しかし、この頃に萩原健一さんは同時に世界的バイオリニストと言われた前橋汀子さんとも交際しており、その後女優の石田えりこさんとも浮気したことから倍賞千恵子さんと破局。
事実婚状態にありましたが関係を破棄しました。
その後、萩原健一さんは1996年から2006年までヘアメイクアーティストの女性と交際していたと言われています。一説では結婚していたとも言われていましたが、結婚してしておらず事実婚状態だったようです。
萩原健一の逮捕歴④ 恐喝で逮捕される
ワイドショーでも報道された萩原健一の恐喝事件
萩原健一さんは2004年まで事件を起こさずにきましたが、同年10月に2件の事件を起こして逮捕されています。
萩原健一さんは2004年10月に交通事故を起こしてしまい業務上過失傷罪で現行犯逮捕されました。
そして撮影が進行していた萩原健一さんの主演映画『透光の樹』で、監督、スタッフ、共演者など関係者への暴言や暴行があまりに酷かったため強制降板させられ、プロデューサーからは前払いしていた出演料の半額である750万円の返還を求められました。
しかし、萩原健一さんは「一方的に降板させられた」と激昂して返還を拒否し、ついには残りの750万円の支払いを求めてプロデューサーに電話をかけ、国税庁や警視庁など法を持ち出す一方で実在するやくざ組織の名前を挙げて脅迫した内容を留守電に残しました。
萩原健一は激昂しすぎて留守電に脅迫文言を残す
冷静な状態なら留守電に脅迫に当たる文言を残すことは後に不利になることは明白だとわかりますが、萩原健一さんは激昂しすぎてまともな判断もできなかったようです。
留守電に残すというヘマをやってしまった萩原健一さんは同年11月に映画製作サイドから告訴されてしまい、翌年2月に萩原健一さんは恐喝未遂容疑で逮捕されました。
萩原健一さんは脅迫した事実は否定していましたが、留守電に録音された音声を聞かされて認めたようです。
この一件はワイドショーやマスコミでも報じられ、その音声が幾度となく公開されました。
萩原健一さんは同事件により2005年6月に東京地裁から懲役1年6ヶ月・執行猶予3年の有罪判決を受けています。
しかし、萩原健一さんは懲りた様子がまるでなく、有罪判決の降りた翌月にテレビ番組に出演し「大麻解禁にしましょうか」と問題発言をしたことで、厚生労働省から直接注意を受けていますが、萩原健一さんは「ジョークのつもりだった」と釈明しています。
萩原健一は本当にロックな男。何度も逮捕されたけど、彼には彼の「法」のようなものがあると思う。アウトロー扱いされるけど決してアウトローなんかではない。ただ彼の「法」を遵守した生き方してただけだ。
— 田中将 (@trickytanaka) 2011年1月17日
萩原健一の3度目の結婚:冨田リカと再婚して幸せに暮らしていた
アウトロー過ぎた萩原健一も冨田リカと結婚して現在は幸せに
萩原健さんはモデルの冨田リカさんにベタ惚れしていたようで、アウトローを忘れて温和なおじいちゃんに変わりました。
萩原健一さんは 2011年2月7日にモデルの冨田リカさんと結婚し、当時の心境について「ジェットコースターのような人生だったが今後はメリーゴーラウンドのようなゆっくりした人生を送りたい」とアウトローとは思えない発言をしました。
さらに、それを行動で示すかのように、その後の萩原健一さんは俳優や歌手として芸能活動を続けながらも四国八十八箇所をお遍路するなど”豊かな老後”に向けて活動を始めていたようです。
萩原健一さんは冨田リカさんと出会った時の心境について下記のように答えています。
結婚の決め手を聞かれた健一は「家内に会った瞬間、全て過去を忘れました」と明かし、離婚歴についても「悪戦苦闘したことも全て忘れた。いいことも悪いことも、帳尻が合う。いまは幸せですよ」とはにかんだ。
不器用に生きてきたアウトロー・萩原健一さんが冨田リカさんという心安らぐ伴侶を得て、今後は事件を起こさずに平穏に生きていくと思われますが、視聴者はやはり萩原健一さんが出演すると身構えてしまう人も少なくないようです。
萩原健一さんの歌は
— タマとポチ (@pipi2017ABC) 2017年8月2日
タイムリーで聴いたことなくて
初めて聴きました。
これで成立してるのかなぁ?
モデルさんと結婚してから
お二人ともテレビに出演しなく
なったので久しぶりに拝見しました。
放送事故にならないか
ハラハラして楽しむどころじゃなかった#うたの夏まつり #フジ
アウトローだった頃が嘘のように、萩原健一さんが仏のような優しい人物として認識される日が来るか期待したいところです。しかし・・・
萩原健一の現在~2019年3月26日に消化管間質腫瘍で死去
幸せに暮らしていたかと思われていた萩原健一さんですが、2019年3月26日午前10時30分、GIST(消化管間質腫瘍)のため都内の病院で死去したことがニュースになりました。
グループサウンズ「ザ・テンプターズ」のボーカルも務めた萩原健一(はぎわら・けんいち)さんが26日午前10時30分、GIST(消化管間質腫瘍)のため都内の病院で死去したことが28日、分かった。
実は、再婚をした2011年から闘病しており、本人の強い希望で病名の公表を控えていたようです。最近になり容体が急変し、奥さんに看取られて息を引きとりました。故人の遺志により、葬儀は家族のみで営まれ、27日に都内の斎場でだびに付されています。
理加さんの愛情に支えられての闘病生活だった。萩原さんは死と隣り合わせの難病と立ち向かうため、病名の公表をあえて控え、仕事をこなしながら通院する日々が8年続いた。
萩原健一さんが患った消化管間質腫瘍は10万人に1・2人が発症する希少ながん。胃や小腸などの消化管の壁にできる悪性腫瘍の一種で転移や再発を起こします。消化管間質腫瘍の発症は男女差がなく、胃に最も多く見られ70%、小腸20%、その他の消化管となります。その症状は腹痛や下血、貧血などで、自覚症状がなく、発見が遅れることが多いようです。
萩原健一についてまとめると・・・
若干16歳でボーカリストとしてロック歌手デビューし、俳優としてもカリスマ的な人気を得てきた萩原健一さんについてまとめてきました。
「ショーケン」が何度重大事件を起こしても完全に芸能界から干されなかったのは、やはり余りある魅力があったからでしょう。
冨田リカさんと結婚した年には消化管間質腫瘍での闘病を始めたようで、死を悟っていたからこそ晩年はおとなしくなったのかもしれません。
萩原健一さんのご冥福をお祈りいたします。