1987年から日本、メジャーの両リーグで活躍したかつて「日本最強投手」と呼ばれた伊良部秀輝さん。
しかし、2011年米ロサンゼルス郊外にある自宅で首を吊り自殺を図り、42歳の若さで死去しました。
伊良部秀輝さんの生い立ちや高校時代、暴行事件、結婚した嫁と子供、そして自殺の真相などを詳しくまとめました。
この記事の目次
伊良部秀輝のプロフィール&生い立ち
「最速投手」の名を欲しいままにした伊良部秀輝
伊良部秀輝さんはかつてロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)で村田兆治さん、前田幸長さんらと活躍し、清原和博さんとの対決は「平成の名勝負」と呼ばれ球界を盛り上げる一方で、メジャーデビュー後は「反逆者」と呼ばれバッシングの的になった異色の投手でした。
伊良部秀輝さんについての詳しいプロフィールはこちら。
本名: 伊良部 秀輝(いらぶ ひでき)
出身地: 兵庫県尼崎市
生年月日: 1969年5月5日
没年月日: 2011年7月27日(42歳没)
身長: 193 cm
体重: 108 kg
投球・打席: 右投右打
ポジション: 投手
プロ入り: 1987年 ドラフト1位
初出場: NPB / 1988年5月7日、MLB / 1997年7月10日
最終出場: MLB / 2002年7月12日、NPB / 2004年6月11日
引用:Wikipedia – 伊良部秀輝
2017年12月8日にメジャーリーグのロサンゼルス・エンゼルスと契約合意し晴れてメジャーリーガーデビューを飾った大谷翔平投手。初打席から本塁打を放つなど完璧すぎるメジャーデビューに日本のみならずアメリカメディアでさえも「ベーブルースの再来」と大絶賛しました。
そして、伊良部秀輝さんは1997年5月にヤンキース史上初の日本人メジャー選手として活躍し「和製ノーラン・ライアン」と呼ばれ、モントリオール・エクスポズを経てテキサス・レンジャーズでは「球団史上に残るクローザー」と呼ばれ確かな足跡を残していました。
2011年7月27日に伊良部秀輝さんはアメリカ・ロサンゼルス郊外にある自宅で首吊り自殺を図り、亡くなっているところを知人が発見しました。
42歳という若さでの死去でしたが、伊良部秀輝さんの自殺の原因を含め、生い立ちから詳しく総まとめしましたのでご紹介しましょう。
伊良部秀輝はアメリカと日本のハーフ
伊良部秀輝はアメリカ人と日本人のハーフだった
伊良部秀輝さんは沖縄県コザ市(現在の沖縄市)で誕生し、兵庫県尼崎市で育ちましたが、父親は在日米軍兵士だったアメリカ人で、母親が日本人であることからハーフでした。
父親は生後まもなく帰国したため、伊良部秀輝さんはメジャーリーガーデビューで渡米するまで父親がアメリカ人だったことを知らされていなかったそうです。
―伊良部さんがそこまでメジャーリーグにこだわるのは、お父さんを捜しにアメリカ(※4) に行くためだという報道もありました。
伊良部 (驚いた表情で)誰がそんなことを言い出したんですか? それは事実ではないです。だって、ぼくはアメリカに行くまで、自分の本当の父親がアメリカ人ということを知らなかったですもの。
伊良部秀輝さんはヤンキースに入団して1998年のキャンプの際に球団から自分の父親を名乗る男から連絡が入っていると教えられたそうです。
―実のお父さんに会われてどんなふうに思われました?
伊良部 これといった感情はなかった。生みの親より育ての親みたいな。今も年に2回ほどは連絡を取り合ってますけど、それだけです。
確かに大人になるまで実の父親を知らなければ赤の他人も同然でしょう。
伊良部秀輝の高校時代~「四国の豪腕エース」と呼ばれ甲子園で活躍
常光寺小学校、若草中学校に進学した伊良部秀輝
伊良部秀輝さんは中学時代にボーイズリーグ・兵庫尼崎に入団し、4番エースを務めていました。
伊良部秀輝さんの才能に目をつけた香川県の尽誠学園高等学校はスカウトして入学させ、伊良部秀輝さんは「四国の豪腕エース」と呼ばれて高校2年生時と3年生時の全国高等学校野球選手権大会に出場しました。
1年生時に出場できなかったのは野球部の先輩が暴行事件を起こしたため1年間の対外試合の禁止処分を受けていたからでした。
伊良部秀輝の野球人生~日本人初のヤンキース入団から帰国まで
伊良部秀輝、ドラフト1位でロッテに入団
入団当時は試練の時代が続いた伊良部秀輝
伊良部秀輝さんは1987年のドラフト会議でロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)から1位指名され、契約金5000万円・年俸500万円で入団を決めました。
伊良部秀輝さんは入団1年目から1軍投手としてマウンドに立ち、それまで弱小投手陣と言われていたロッテを村田兆治さんや前田幸長さんらとともに汚名返上を果たしました。
しかし、伊良部秀輝さんは当時から剛速球ではあったもののコントロールが悪かったため成績は降るわず試練の時が続きました。
1993年に伊良部秀輝さんは当時西武ライオンズに所属していた清原和博さんと対戦し、その際の球速は158km/hと当時の球界では最速であり、「平成の名勝負」と呼ばれて語り継がれてきました。
1994年には伊良部秀輝さんはオールスターゲームに初選抜されて、同シーズンでは最多勝、最多奪三振のタイトルの獲得と2年連続の最優秀防御率を達成するなど7年目にして球界の最強投手となりました。
伊良部秀輝、日本人発のヤンキース入団を果たす
日本人として始めてヤンキースへ入団
伊良部秀輝さんは1997年5月に日本人としては初となるメジャーリーグ・ヤンキースへ入団が決まりました。
伊良部秀輝さんはメジャーデビュー戦で9奪三振を記録するなど、日本人としては初となる初登板での初勝利を収め、当時のヤンキースのオーナーであるジョージ・スタインブレナーからは「和製ノーラン・ライアン」と讃えられました。
しかし、その後の伊良部秀輝さんは成績が振るわず、降板時にブーイングを浴びせられた際にファン席に向かって唾を吐きかけるなどして米メディアを沸かせ、次第にヒールとなっていきました。
伊良部秀輝さんは復調せずに敗戦投手続きとなり、ジョージ・スタインブレナーからも「伊良部にはもう期待しない」と言われてしまうほど苦渋を舐めました。
伊良部秀輝、帰国して阪神タイガースで活躍するも最後は戦力外通告
伊良部秀輝、チームを転々とし帰国
伊良部秀輝さんはヤンキースを離れるとモントリオール・エクスポズやテキサス・レンジャーズを経て帰国し、2002年12月7日に阪神タイガースと1年2億円で契約しました。
2003年に当時阪神タイガースの監督だった故・星野仙一さんは伊良部秀輝さんを抑えとして起用するつもりでしたが先発の希望を組みました。
伊良部秀輝さんは1996年以来7年ぶりとなるオールスターゲームへの出場を果たし、同シーズンでは13勝を挙げて阪神タイガースの18年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献しました。
しかし、伊良部秀輝さんはその後調子を落として勝利数に陰りが出始め、日本シリーズでも第2、6戦で先発出場しましたが福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)の前に敗戦投手として終わってしまいました。
翌2004年の登板数は3試合に留まり、伊良部秀輝さんは調子を取り戻す前に戦力外通告を受けて球界の引退を決意しました。
伊良部秀輝の引退後~アメリカにわたり事業家に転身
伊良部秀輝、アメリカでうどんチェーン店を開店
伊良部秀輝、球界を引退して事業家へ転身
伊良部秀輝さんは2005年3月に現役引退をしてアメリカに渡り、グリーンカード(外国人永久居住権)を取得してうどんのチェーン店を立ち上げました。
伊良部秀輝さんは高校時代からの友人と共同経営する形で、カリフォルニア州ロサンゼルスで「SUPER UDON」というフランチャイズチェーン展開で2005年9月にうどん店を開きました。
しばらくは元メジャーリーガーの伊良部秀輝さんのお店ということもあり人気がありましたが次第に廃れて行き、2007年に土地のリース契約が切れると同時に廃業を決意しました。
伊良部秀輝、店員への暴行と店舗の破壊で現行犯逮捕
伊良部秀輝さんは2008年8月20日にバー店長への暴行事件で逮捕されています。
元プロ野球投手の伊良部秀輝容疑者(39)が20日午前5時すぎ、大阪市北区のバーで、男性店長(22)に暴行し、大阪府警曽根崎署に暴行の現行犯で逮捕された。同容疑者はカードの支払いをめぐり店側とトラブルになり、洋酒のボトルを投げ付けるなど、大暴れ。かつてのタイガースの投手が大トラに変身。この日夕まで約10時間、曽根崎署の取り調べを受け、釈放された。同署は捜査を継続、書類送検する方針。
伊良部秀輝、5年ぶりに球界復帰するも怪我で2度目の引退へ
伊良部秀輝、フォーム改良で古傷を克服
伊良部秀輝さんが球界引退した原因のひとつに膝の故障からくる痛みがありましたが、現役時の踵をを浮かせた投球フォームから地に付けたフォームへと改良したところ痛みが消えたため、本格的に球界復帰を目指して練習に励んでいました。
伊良部秀輝さんは2009年4月27日に北米独立リーグであるゴールデンベースボールリーグ所属のロングビーチ・アーマダに月給約15万円で入団し、5年ぶりに球界復帰を果たし、初登板初先発で勝利投手となりました。
日本でのプレーを希望した伊良部秀輝さんは同年8月には日本の独立リーグである四国・九州アイランドリーグ所属の高知ファイティングドッグスに月給約16万円で入団しましたが、翌月に右手首腱鞘炎を発症してしまい、全治3週間と診断されて治療するも復帰が困難となり、伊良部秀輝さんは自ら退団を希望しました。
伊良部秀輝さは2010年1月19日に自身のブログで二度目の球界引退を発表し、同年5月にはロサンゼルスで飲酒運転により逮捕されてしまいました。
伊良部秀輝がアメリカの自宅で首吊り自殺~詳しい死因と原因とは?
伊良部秀輝、2011年7月 泥酔状態で首を吊り自殺
すべてに絶望した伊良部秀輝は自殺を選んだ?
伊良部秀輝さんは2011年7月27日にロサンゼルス郊外にある自宅で首を吊って死亡しているところを知人により発見され、28日に遺体を安置していたカリフォルニア州ロサンゼルス郡保安官事務所により自殺であることが公表されました。詳しい直接の死因は不明です。
伊良部秀輝さんの異変に最初に気づいたのは知人で、隣人女性に警察に通報するようにお願いし家の中を調べたところ首を吊って絶命している伊良部秀輝さんを発見したようです。
隣に住む米国人女性メアリー・フュアリクトさんは「男性が“警察に連絡してほしい”と言ってきた。“家の中を調べたい”と言うので私が通報しました。多くの警察が来て騒然となったが、警察から自殺との説明があった」と明かした。
伊良部秀輝さんは7月24日から姿を見せなくなっており、ポストには郵便物が溜まっていたため隣人女性もおかしいとは思っていたそうです。
司法解剖の結果、伊良部秀輝さんの体内からは大量のアルコールが検出されており、泥酔した勢いで首を吊ったことが分かりました。
伊良部秀輝さんは自殺をする1ヶ月ほど前から嫁と子供と別居をしており、球界に関わることができなくなったことや、事業失敗などと合わせて自殺の原因だとされてきました。
伊良部秀輝さんの自殺の真相について詳しく総まとめしましたのでご紹介しましょう。
伊良部秀輝、事業の失敗が自殺の原因ではなかった?
自殺の直接的な原因は事業失敗ではなかった
伊良部秀輝さんの自殺の原因について一部ではうどんチェーン店「SUPER UDON」の失敗による事業撤退と負債などが囁かれていましたが、要因のひとつではあると思われるものの、本当に影響を与えていたのは球界引退だったと言われています。
先述した2008年8月のバーの店長への暴行事件を起こす1ヶ月前くらいに、伊良部秀輝さんは日本のテレビ局を訪ね歩いていたようです。
「『解説者として使ってくれ』と。プロ野球中継そのものがなくなりつつあったので、衛星放送の小さな制作会社にも足を運んでいました。伊良部さんの実績に相応しいギャラを出せないと伝えても、『お金は二の次』と地方球場の試合でも、解説をやってくれました。バーでの大トラ事件はそれが軌道に乗った矢先のトラブルでした…」(関係者)
当時、伊良部秀輝さんはメジャーリーグで活躍した投手には少なすぎる5万円というギャラで地方球場での解説をしていたようですが、お金に困ってなりふり構わずというわけではなく、心の底から野球に関わっていたいという思いがあったからでした。
そして、2009年に四国・九州アイランドリーグ所属の高知ファイティングドッグスでプレーしていた時にも、伊良部秀輝さんはいずれは本気でプロ野球界に復帰することを目標にしていたそうです。
しかし、伊良部秀輝さんは腱鞘炎になってしまいリハビリをしても回復の兆しが見えなかったことからその夢は断念せざるを得ませんでした。
伊良部秀輝さんがプロ野球球団からのコーチなどのオファーが無かったのは、現役時の問題児ぶりが仇となっていたようです。
「独立リーグでも自ら若手のなかに入り、野球の話をしていました。日本球界でコーチ業をやりたいと思っても、ロッテ、阪神からオファーがくるはずもなく、野球以外で夢中になれるものは見つからず、交遊も限られ、喪失感に見舞われていたんだと思います」(球界関係者)
伊良部秀輝さんは同時期に友人の長谷川滋利さんに東日本大震災のチャリティーの企画を持ちかけましたが、その企画が実現することはなく自殺後にメディアで「伊良部秀輝さんはチャリティーを企画していた」と報じられただけに終わりました。
自殺する直前には雑誌の取材に「日本に帰りたいが家族がアメリカでの生活を気に入っているため帰れない」と日本での生活を望んでいることや、指導者になりたいことを明かしていたそうです。
しかし、伊良部秀輝さんはその希望もどこかで叶わない夢だと諦めていたようです。
―コーチや監督をやる気は?
伊良部 監督の器ではないことはわかっています。コーチ? 日本で雇ってくれるところがあるかなぁ(苦笑い)。三軍のピッチングコーチならばできるかな。
インタビューからは伊良部秀輝さんがどれだけ日本での生活に憧れていたかが分かりますが、この頃は家族と別居する前であり自分のわがままを通すことができなかったようです。
―このまま日本に戻らず、アメリカに永住する予定ですか?
伊良部 家族がこちらの生活がいいと言っているんで。ぼくとしては日本に帰りたいです。英語も話せないし。もし話せたとしても日本がいいですね。日本が好きですから、テレビ番組も面白いし、四季もあるし。
伊良部秀輝さんの自殺の原因には嫁との意見の食い違いなどから別居した喪失感も考えられ、一部には離婚しているとまで報じられていましたが、嫁の葬儀後の行動を見ればそれはあながち外れではないのかもしれません。
伊良部秀輝さんも、要領よく生きられなくて、苦労の多い人生だったのでしょう。
— 渡辺 (@takashi10bike) 2011年7月30日
人のいい人が幸せになれるとは限らない世の中です。
うどん屋などの失敗などで、疲れてしまったんでしょうね。
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ここ数日訃報が続くけど、伊良部秀輝の自殺は群を抜いてショック大。まだ伸びしろのある人だったから。彼の野球理論(速球理論)は新書のかたちで発表して欲しかった。
— ルイ (@tundratiger) 2011年7月29日
伊良部秀輝が結婚した京淑(キョンス)夫人と子供は?
伊良部秀輝は死後に京淑夫人から貶められていた
伊良部秀輝さんが結婚した相手は韓国人の京淑(キョンス)という女性ですが、自殺後の京淑夫人の伊良部秀輝さんへの仕打ちを見れば関係は完全に冷め切っていたようです。
伊良部秀輝さんには2人の娘がいるようですが、夏輝(なつき)さんという名前は分かるものの長女か次女かが不明で、もうひとりの子供の名前は公開されていないようです。
伊良部秀輝さんが自殺した後に、京淑夫人とその実母は葬儀をした後のお骨を伊良部家に何の相談もなく無縁仏として千葉市内のとあるお寺に納骨していたことが発覚しました。
伊良部秀輝さんは自分が死んだ後はロサンゼルスのリトルトーキョーにある東本願寺別院に納骨して欲しいと言っていたようですが、京淑夫人はその希望を無視したようです。
さらに伊良部秀輝さんの実姉が死後に人目顔を見るためにアメリカに飛んだそうですが、京淑夫人は面会を拒否しました。
伊良部秀輝さんと京淑夫人の間にどんな確執があったのかはわかりませんが、日本人なら夫婦仲が例え冷め切っていてもここまでの仕打ちはできないでしょう。
伊良部秀輝さんが自殺をしたのは結婚相手を間違えてしまったことも原因のひとつだったのかもしれませんね。
日本人と偽って高島弟に接近!やり方が最悪よね。中韓とは付き合うべからず!@MIB40: 日本人は騙されやすいから…それだけいい人でもあるわけだけど。中韓とは距離を置いて付き合うべきね。 @高島弟・可哀想に思う。天国の伊良部秀輝さん、どうか高島弟を悪妻チョン嫁から守ってあげて!
— でぶねこ❤まろちゃん (@ChatChartreux) 2012年6月2日
伊良部秀輝の昔の若い頃の画像特集
伊良部秀輝の昔の若い頃の画像①
伊良部秀輝さんの野球人生を振り返ると不遇なことが多いように思えます。
伊良部秀輝の昔の若い頃の画像②
伊良部秀輝さんは手首の腱鞘炎さえ発症しなければ引退することもなく自殺はしなかったかもしれませんね。
伊良部秀輝の昔の若い頃の画像③
メジャーリーガーとして日本中が注目した伊良部秀輝さんの自殺は当時衝撃的でした。
伊良部秀輝の昔の若い頃の画像④
現在はメジャーリーグで活躍する田中将大さんが伊良部秀輝さんと並ぶ158km/hを出し、大谷翔平さんは161km/hともうすぐ人類最速記録を出す勢いですが、当時では伊良部秀輝さんが群を抜いて剛速球でした。
伊良部秀輝の昔の若い頃の画像⑤
伊良部秀輝さんは豪腕過ぎた結果として膝や手首に負担が積み重なっていたのでしょうか。
伊良部秀輝の昔の若い頃の画像⑥
伊良部秀輝さんの自殺にはやはり事業失敗、野球引退、家族と別居(離婚)が重なった結果だったのでしょう。
伊良部秀輝の昔の若い頃の画像⑦
「奇跡の投手」と呼ばれた伊良部秀輝さんは確実に日本野球史に大きな足跡を残しました。
伊良部秀輝の昔の若い頃の画像⑧
悪い噂の耐えない伊良部秀輝さんですが、悪い人間ではなく非常に繊細で誤解を受けやすかった人物だと言われています。
遅くなったけど…伊良部秀輝さんの死、本当にお悔やみ申し上げます。
— しぇりす (@maron_2000_1126) 2011年7月31日
小学生の時の僕にとって、伊良部、野茂は本当に憧れの存在でした。とくに伊良部さんの158はやばかった。
伊良部秀輝は”悪童”と呼ばれたが優しい繊細な性格だった
人望は厚かった伊良部秀輝
伊良部秀輝さんについて同じチームでプレーした経験のあるかつての仲間たちは「心優しく、いい人だった」という声が多いようです。
「凄くシャイでデリケートな男。誤解されやすかったが、私にはそんなことはなかった。野球に熱く、とことん突き詰めていく。一生懸命に取り組んでいた」
「ただただ、残念ですね。その振る舞いが独特な方でしたが、それと内面が比例していない印象でした。まったく裏腹な内面の細やかさを持っていた」
伊良部秀輝さんの友人であり、現在は北海道日本ハムファイターズの1軍投手コーチをしているさんは以下のようにコメントしています。
「わしの友達のブーブーが、逝ってしまいました」「寂しがりやのくせに強がりで、でも、やさしくて繊細な心を持った笑顔がキュートな男でした」
これらの伊良部秀輝さんを偲ぶ声を見ても、本当は心優しい人物だったことが分かります。
ただ、伊良部秀輝さんはあまりにも繊細で不器用、そして不運だったのかもしれませんね。
伊良部秀輝…… 本当はいい人だったんだ、なんてつまんない話じゃないと思う。感情の起伏は激しくて、遠慮なくズバスバいく人だったんだろう。誰とでも仲良くできる人ではないかもしれない。でも、彼が素直に心通わせる人にとっては、不器用で真っ直ぐな人だったんだろうな。
— 小久保せまき (@semakixxx) 2011年8月1日
伊良部秀輝について総まとめすると・・・
・伊良部秀輝は高校時代「四国の豪腕エース」と呼ばれ甲子園で活躍した。
・伊良部秀輝は日本人初のニューヨークヤンキースに入団し、「和製ノーラン・ライアン」と呼ばれメジャーリーグで活躍した。
・伊良部秀輝は韓国人の京淑(キョンス)さんという女性と結婚し、2人の子供がいる。
・伊良部秀輝は2011年7月、アメリカの自宅で泥酔状態で首を吊り自殺をした。
・伊良部秀輝の自殺の原因は、うどん店の失敗と負債も要因の1つであると思われるものの、本当に影響を与えていたのは球界引退だったと言われている。
伊良部秀輝さんは現役時から問題行動から”悪童”と呼ばれ批判も浴びる存在でしたが、事業の失敗と度重なる怪我での引退、そして家族との関係不和に自殺という手段で自ら命を絶ってしまいました。
自殺の直前はそれまで連絡を取り合っていた親しい友人らとも連絡を断ち、伊良部秀輝さんは自宅に篭ったまま孤独を抱えて自殺をしたと思うといたたまれない思いですね。
まさに波乱に満ちた人生だったと言えますが、伊良部秀輝さんが後継の選手らに与えた影響は現在も生きているでしょう。