日本の最高齢(119歳)だった田中カ子さんですが、徳川慶喜が存命だった時代から生き抜いた波乱の人生が話題です。
今回は田中カ子さんの若い頃、結婚した旦那や子供・孫、がんなどの病気、コーラやオロナミンC好きなど食生活、死因など現在までを紹介します。
この記事の目次
- 田中カ子は日本の最高齢(119歳)だった女性 【2022年4月に死去】
- 田中カ子の若い頃の経歴① 生まれた頃はまだ徳川慶喜が生きていた
- 田中カ子の若い頃の経歴② 19歳で旦那と結婚・子供4人を授かる
- 田中カ子の若い頃の経歴③ 戦時中は旦那や子供が徴兵される
- 田中カ子の若い頃の経歴④ 戦時中は女手ひとつで子供を育てた
- 田中カ子の若い頃の経歴⑤ 戦後はクリスチャンになり、教会で幼稚園を開業
- 田中カ子の若い頃の経歴⑥ 家業を息子に譲って悠々自適の隠居生活に
- 田中カ子の若い頃の経歴⑦ 花屋をオープンしてまた働き始める
- 田中カ子の病気歴① 45歳で膵臓がんを患っていた
- 田中カ子の病気歴② 103歳で大腸がん手術
- 田中カ子の晩年:長男の病死をきっかけに老人ホームに入っていた
- 田中カ子の子供・孫情報 【孫5人・ひ孫は8人いる】
- 田中カ子の食生活:コーラやオロナミンC好きだった
- 田中カ子は119歳で死去:死因は老衰だった
- 田中カ子のまとめ
田中カ子は日本の最高齢(119歳)だった女性 【2022年4月に死去】
田中カ子(たなか かね)
生年月日:1903年1月2日
出身地:福岡県福岡市東区
田中カ子さんは日本の最長寿者だった女性で、119歳で亡くなりました。
アジアでも史上1位、世界ランキングでも歴代2位でした。
ちなみに世界の最長寿者記録は、フランス人女性のジャンヌ・カルマンさん。1997年に122歳で亡くなっています。
この記事では、田中カ子さんの経歴や家族情報の他、死因などを紹介します。
田中カ子の若い頃の経歴① 生まれた頃はまだ徳川慶喜が生きていた
田中カ子さんは、1903年1月2日に、福岡県糟屋郡和白村(現・福岡市東区和白)で生まれました。
生まれた時は未熟児で、乳も飲めない状況だったそうですが、その後は負けん気が強い少女に育ち、納得できないことがあると庄屋の娘が相手でも口論をするほどだったそうです。
なお、田中カ子さんが生まれた1903年と言えば、ライト兄弟が人類初の有人動力飛行に成功した年であり、翌1904年は日露戦争が勃発しています。
・香淳皇后
・小津安二郎(映画監督)
・山本周五郎(小説家)
・金子みすゞ(詩人)
・堀越二郎(零戦の設計者)
・尾崎紅葉(小説家)
・滝廉太郎(作曲家)
・西郷頼母(戊辰戦争時の会津藩の家老)
・市来四郎(歴史学者)
・津田真道(政治家)
また、江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜の没年が1913年です。つまり、田中力子さんが10歳の頃までは徳川慶喜が存命だったことになります。
ちなみに、徳川慶喜は東京在住で田中力さんは福岡在住だったため、生前の徳川慶喜に会ったことはないそうです。
12歳から丁稚奉公
田中カ子さんの実家は農家で、9人兄弟という子沢山家庭だったため、豊かではなかった可能性が高そうです。
1915年に和白尋常高等小学校を卒業した後、12歳の若さで近くの村に奉公に行くことになりました。
子守りや裁縫・機織り、農作業と様々な雑用をやらされたそうです。
田中カ子の若い頃の経歴② 19歳で旦那と結婚・子供4人を授かる
少女時代から働き詰めだった田中カ子さんですが、19歳の時に1歳年上のいとこ・田中英男さんと結婚しています。
旦那の実家が「田中餅店」という食料品店を営んでいたため、田中カ子さんも嫁として店を手伝うことになりました。
ちなみに、田中英男さんはかなり商才のある人物だったようで、小麦を製粉する機械を購入し、うどんの店頭販売に乗り出すなど、順調に事業を拡大していったようです。
家族で「田中餅屋」という店を営み、餅やぜんざい、うどんなどの店頭販売を行っていた。加えて、松葉(燃料)・砂利・縄の販売、船舶による運送、店舗(乾物屋)の賃貸など、経営は多岐にわたっていた
引用:田中カ子
2男2女をもうけるものの娘は2人とも死んでいた
田中カ子さんは結婚後、英男さんとの間に2男2女をもうけています。
ただし、戦前戦後の乳幼児死亡率の高い時代だったこともあり、娘は2人とも早逝してしまいました。
・1925年に長男・信夫さん誕生
・1929年に長女・悦子さん誕生(1歳3か月で死亡)
・1930年に次男・恒男さん誕生
・1946年に次女・和子さん誕生(生まれてすぐ死亡)
そのため、長女の悦子さんが急死した後は、姉の次女だった当時7歳のハツエさんを養女として迎え入れています。
田中カ子の若い頃の経歴③ 戦時中は旦那や子供が徴兵される
田中カ子さんの夫・英男さんは実業家でしたが、1937年の日中戦争で徴兵され、1939年に無事帰還しています。
その後、太平洋戦争でも再度徴兵され、ガダルカナル島へ派遣されています。
1万人を超える餓死者・戦病死者が出たことでも悪名高い「ガダルカナル島の戦い」では、英男さんも飢餓に苦しむことになりましたが、転進命令により運良く助かったそうです。
田中カ子の長男はシベリアに抑留
太平洋戦争で夫が召集された田中カ子さんですが、長男・信夫さんは本職の軍人でした。
信夫さんは1942年に水戸陸軍飛行学校に入隊た、1943年には大陸へ出征しています。
戦死は免れた信夫さんでしたが、終戦後はソ連の捕虜となり、シベリア抑留になるなど過酷な強制労働を強いられました。
多くの日本人が命を落とす中、信夫さんは生き抜き、1947年に日本への帰国が叶いました。
田中カ子の若い頃の経歴④ 戦時中は女手ひとつで子供を育てた
夫も長男も戦争に駆り出されてしまった戦時中、田中カ子さんは女手ひとつで「田中餅店」を切り盛りしていました。
またこの頃、夫の妹夫婦が亡くなり、妹夫婦の子供たち3人を引き取って育てることになっています。
当時の田中力子さんの苦労は並大抵のものではなく、心身共に男になったつもりで働き続けたと言います。
「男手はないが、めそめそしてはいられない。身も心も男のようになり、精米や餅つきでも何でもできるようになった」。福岡の軍基地にうどん店を出し、次男と養女に加え、戦死した親戚の子3人を育てた。
チフスに倒れる
戦時中は寝る間もないほど働いていた田中カ子さんは、過労が祟り、1938年7月にパラチフスに罹患して、3か月間入院しています。
なおこの時、養女のハツエさんも一緒にパラチフスにかかってしまったそうです。
田中力子さんはパラチフスの症状に長期間苦しめられ、一歩間違えれば死んでいたほどの重症だったようです。退院後も、2か月ほど稼業を休業をせざるを得なかったそうです。
また、終戦間際の1945年2月19日、養女だったハツエさんが23歳の若さで亡くなるなど、不幸が続きました。
田中カ子の若い頃の経歴⑤ 戦後はクリスチャンになり、教会で幼稚園を開業
田中カ子さんは戦後の1950年になると、夫の英男さんと一緒にキリスト教に入信しています。
田中力子さんがクリスチャンになったのは、当時親交があった駐留米軍関係者の影響が大きかったようです。
入信後の田中さん夫妻は、畑を提供して教会の設立に貢献するなど、かなり熱心に活動します。
1959年には、通っていた日本バプテスト連盟西戸崎キリスト教会内に「さざなみ幼稚園」を開設し、運営もいました。
園長は夫の英男さんが務めていて、1997年に閉園されるまでに累計で950人ほどの園児たちが通っていたと言われています。
田中カ子の若い頃の経歴⑥ 家業を息子に譲って悠々自適の隠居生活に
激動の時代を必死に生き抜いてきた田中カ子さんは、1966年に夫婦で経営していた田中餅店を長男・信夫さんに譲り、隠居生活に入っています。
12歳で奉公に出るなど、幼少期から苦労したものの、田中餅店の経営に成功した結果、隠居後は子供や孫を訪ねて国内旅行をしたり、海外旅行をしたりと悠々自適に過ごせていたようです。
ちなみに、1960年代はごく限られた富裕層しか海外旅行には行けなかったことから、当時の田中家の経済力の高さがうかがえますよね。
しかし、海外旅行の黎明期である1960年代は、購入できる客層が限られた超高額商品だった。海外渡航の自由化から1週間後の4月8日にJTBが主催した、ハワイ9日間「第1回ハワイダイヤモンドコース旅行団」の旅行代金は、当時の国家国務員大卒初任給(1万9100円)の19倍という36万4000円。1965年4月10日に出発した「ジャルパック/ヨーロッパ16日間コース」は67万5000円だ。
1970年には、金婚式の記念に夫婦でアメリカ・ロサンゼルスに旅行に出かけたといいます。
田中カ子の若い頃の経歴⑦ 花屋をオープンしてまた働き始める
他人が羨むような悠々自適な老後を送っていた田中カ子さんですが、本人的にはどこか物足りないと感じる日々だったようです。
そのため、1970年になると隠居を撤回して花屋をオープンし、再び働き始めています。67歳の頃ですね。
花屋は想像以上に好評だったようで、1983年に80歳となったことで経営からは退いたものの、その後も2005年の102歳までは店頭に立つ機会があったといいます。
そんな田中力子さんは、2020年9月の106歳の時、日本歴代1位の長寿記録を更新し、その日のニュースでも大きく取り上げられました。
高齢になっても積極的に仕事をしたり、人と会話したりして、体や頭をフル回転させ続けたことが功を奏したのかもしれませんね。
田中カ子の病気歴① 45歳で膵臓がんを患っていた
119歳まで生きた田中カ子さんですが、人並み外れた健康体だったというわけではなかったようです。
45歳の時には膵臓がんが判明し、九大病院で手術を受けています。
術後の5年生存率が20~40%程度と、かなり予後が悪いことでも知られている膵臓がんですが、田中力子さんは運良く再発を免れたようです。
その後も、76歳に胆石手術、90歳の時には白内障手術と、田中力子さんはさまざまな病気を経験しています。
田中カ子の病気歴② 103歳で大腸がん手術
世間での「長寿=病気知らず」というイメージとは違い、田中カ子さんは103歳の時には、大腸がんを患い、順天堂大学病院で手術しています。
103歳という超高齢でのがん手術は、日本でも5例しかなかった上に、病状もステージIIの第3段階と、かなり悪い状況でした。
〈ガンは大腸下部でS字状に曲がって直腸につながる部分に見つかった。S状結腸ガンと呼ばれる。(中略)「最高齢なので最悪の場合、人工肛門になるかもしれない」と(医師に)言われた。ガンにはステージ0からI~IVまで5段階あり、0が一番早期で軽く、これは完治する。IVが最も進行しているが、カ子のガンはステージIIで「ガンが大腸の壁の外まで浸潤している」という第3段階だった〉
腸閉塞が進行しており癒着が強く、また年齢上、全身麻酔の加減も難しく開腹手術は困難を極めた
一般的に、高齢での手術は体への負担が大きく、さらに癒着が見つかるなど病状も悪いという難しい状況でしたが、田中力子さんは手術を無事乗り越えています。
田中カ子の晩年:長男の病死をきっかけに老人ホームに入っていた
戦中戦後の激動の時代を力を合わせて生き抜いてきた田中カ子さん夫婦ですが、1993年に夫・英男さんが享年91歳で亡くなります。田中力子さんは当時90歳でした。
2005年には、田中餅店の跡取りだった長男・信夫さんが大腸がんで亡くなるなど、この頃になると、夫や息子に先立たれるという田中力子さんにとって悲しい日々が続きました。
息子が亡くなったことがきっかけとなったのか、同じ2005年、田中力子さんは102歳で福岡市東区にある有料老人ホーム「グッドタイムホーム1・海の中道」に入所しています。
我が家を離れて、老人ホームで生活することになった田中力子さんですが、自営業で成功したバイタリティが新生活も発揮され、すぐに施設に馴染むことができたようです。
「冗談ばかりでなく、カ子さんは周囲への気遣いが凄い。例えば、介護職員が入居者の世話で手一杯の時に『私はいいから、他の人の面倒を見に行きんしゃい』と声をかけてくれる。周囲の様子を本当によく観察していて気を配るので、職員もカ子さんの人間性を尊敬しているんですよ」
齢116の彼女からすれば、80代、90代の超高齢者も息子や娘の世代にあたる。カ子さんは施設では“入居者の母”として慕われているんだとか。
田中カ子の子供・孫情報 【孫5人・ひ孫は8人いる】
田中カ子の長男・次男は自分よりも先に死んでいる
4人の実子と養子1人がいた田中カ子さんですが、前述の通り、養子を含めた娘は3人とも早世してします。
一方で、息子たちは戦中戦後をたくしく生き延びており、次男・恒男さんは明治大学を卒業後、教科書販売会社に就職しています。
その後の1970年には、神奈川県横浜市で紙器を生産する「株式会社タナカ」を起業するなど、恒男さんは両親と同じ実業家の道を歩むことになりました。
そんな次男・恒男さんも2017年に亡くなってしまいます。
しかし、次男の死にショックを受けて田中力子さんの体調が急変することを恐れた親族は、恒男さんの死を隠し通したようです。
田中カ子のひ孫はツイッターを開設していた
子宝には恵まれたものの、成人した子供は2人だけという悲しい思いをした田中カ子さんですが、孫が5人、ひ孫が8人という大家族になっています。
また、ひ孫がツイッターに公式アカウントを開設してくれるなど、一族の中でも田中力子さんは自慢の存在だったようです。
田中カ子さんのツイッター公式アカウントはこちら→田中カ子 @tanakakane0102
【敬老の日】
— 田中カ子 (@tanakakane0102) September 20, 2021
敬老の日のニュースで観た方もいるかと思いますが、福岡県と福岡市から記念品を頂きました💐
また、皆さんに最近のカ子さんの元気な姿をお見せすることが出来て良かったです!
歩くことも少なくなってきていますが、ワクチン接種も無事に終わり、施設で変わらず元気に生活しております。 pic.twitter.com/5E0iHe4Hwx
お久しぶりです!
— 田中カ子 (@tanakakane0102) March 2, 2021
実はカ子さん1月の初めに体調を崩しておりましたが、元気になりました😊
誕生日会もこのご時世もあり延期しております😅
オンライン面会が出来るということで、先日初めてオンライン面会を行いました💻
元気そうでとても安心しました❗️
施設の方、お忙しい中ありがとうございました🙇♀️ pic.twitter.com/KCZhcUaNOP
田中カ子の食生活:コーラやオロナミンC好きだった
老人ホーム入所後の田中カ子さんは、入居者と一緒にオセロで遊んだり、週1回配られる脳トレ用の学習プリントを楽しんだりして暮らしていたようです。
「勉強するのも好きで、未だに好奇心旺盛なところが長寿に繋がっていると思います。自分は丁稚奉公をして勉強ができなかったから、今できるのが楽しいと仰います。脳トレの時間が本当に楽しみだそうで、カ子さんはお餅を売る店を営んでいたので計算は得意ですね」
超高齢とあって、近年はさすがに固形物は食べられない状況で、ペースト状の食事中心だったようです。
ただし、好物のチョコレートや炭酸飲料を楽しむなど、最晩年まで食欲が衰えませんでした。
中でも、田中さんの特にお気に入りの炭酸飲料は、コーラやオロナミンCだったと言われております。
公式ツイッターでは、おいしそうにオロナミンCを飲む田中力子さんの様子が何枚もアップされていますので、ぜひのぞいてみてください。
田中カ子は119歳で死去:死因は老衰だった
田中カ子さんは2022年4月19日、福岡市内の病院にて老衰で亡くなりました。
最晩年までシルバーカーの補助で自力歩行できており、トイレもオムツなしで大丈夫だったという元気なおばあちゃんでした。
ただし、2021年夏頃に体調を崩して入院(同年の9月に退院)してからは、持ち前の元気もなくなっていたらしく、自力歩行が困難となり車椅子での移動が増えていたようです。
一方、意識の方は最後まではっきりしていたようで、日常会話は難しくなってはいたものの、職員の問いかけにジェスチャーで応じていたと言われています。
田中さんの訃報に対しては、ネット上でも惜別の言葉が溢れていました。
最長寿だった119歳の田中カ子さんが亡くなったそうです
— Misa (@HealthyPlanet7) April 27, 2022
ご冥福をお祈りすると共に、カ子さんのように「一番楽しかったのは?」という質問に、110歳を超えたときでも『今』と答えられるような人生を送りたいなぁ、と思います。
折角若くして被爆をしないキャリアパスになったからには120歳目指すか😁 https://t.co/q8ElBM3dOF
今回亡くなったギネス最高齢の田中カ子さん
— さちがい (@MajideOichiguy) April 25, 2022
美人
このかた、1903生まれで第二次世界大戦当時既に36歳。
第一次世界大戦どころか日露戦争まで経験しているまさに歴史の証人。
大大往生を前にしてもあいかわらず人類が戦争してるのを見て、ガッカリしていたことだろう。 https://t.co/htlxBPJlmM pic.twitter.com/yXUkjeyyeb
田中カ子のまとめ
田中カ子さんは、徳川慶喜が存命中だった1903年に生まれ、世界歴代2位の119歳まで生きたスーパーおばあちゃんです。
夫や子供5人を自分より早くに亡くすなど、多く生きていた分、悲しいこと・辛いことも多かったと思いますが、インタビューで楽しいのは「今!」と答えていた姿が印象的です。
田中力子さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。