「最強の経済ヤクザ」の異名で知られる昭和の伝説的ヤクザ・石井隆匡が話題です。
この記事では石井隆匡の若い頃の経歴、名言や伝説、嫁や息子、娘、孫などの家族情報、地元横須賀市の自宅の豪邸の画像や、晩年の活躍と死因などについてまとめました。
この記事の目次
石井隆匡()のプロフィール
石井隆匡のプロフィール
本名 :石井進
生年月日:1924年1月3日
没年月日:1991年9月3日(享年67歳)
出身地 :神奈川県横須賀市
石井隆匡(いしい・たかまさ)は、戦後の時代から1980年代にかけて活躍した大物ヤクザで、稲川会系の2次団体・横須賀一家五代目総長を経て、稲川会二代目会長を務めました。
史上最悪の暴力団抗争と言われた「山・一戦争」を仲介して終結させた事や、竹下登首相就任時にも裏で力を発揮した事などで知られ、政財界にも絶大な影響力を及ぼしました。
晩年の1985年に東京麹町に不動産会社「北祥産業」設立し、ゴルフ場開発や株取引で莫大な利益を上げ、「最強の経済ヤクザ」の異名でも呼ばれた伝説的なヤクザとして知られています。
石井隆匡は1924年1月3日に、姉1人、弟3人の5人兄弟の長男として生まれました。実家は「朝日庵」という蕎麦屋を営んでいて裕福であったようです。旧制鎌倉中学(屈指の進学校)を中退後、海軍工廠を経て、横須賀海軍通信学校へ進み200人中トップクラスの成績で卒業。1945年の春に八丈島の人間魚雷「回天」の基地の通信兵として配属され、そのまま同地で終戦を迎えています。
1946年、石井隆匡は、笹田一家の親分で横浜の四親分としても名前が知られていた笹田照一の若い衆で自らも一家を率いていた石塚義八郎の若い衆として暴力団の世界へと入っています。
その後、兄弟分となった井上喜人(稲川会系の大物)との繋がりから、稲川聖城の若い衆となって稲川一門に連なり、稲川聖城は石井隆匡に絶大な信頼を置き、実子の稲川裕紘(稲川会三代目会長)を修行のためにと部屋住みとして預けたほどでした。
1963年には、稲川会(当時は鶴政会)傘下の暴力団・横須賀一家五代目を継承。
早い段階から企業経営志向を打ち出し、1969年には、建設関連会社「巽産業」を設立し、現在で言うところのフロント企業の先駆けとなりました。
1985年には不動産関連企業「北祥産業」を設立し、ゴルフ場や株取引などで莫大な利益を得ています。この頃の石井隆匡の活躍から「経済ヤクザ」という言葉が生まれたと言われています。
1986年5月15日に正式に稲川聖城の跡目を継いで稲川会二代目会長に就任(1985年10月に実務を継承)
1987年、義憤により、竹下登の総理就任に対する妨害活動を行なっていた右翼団体「皇民党」総裁を説得して街宣活動を停止させ、竹下登の総理就任に大きく貢献し、政界にも絶大な影響力を及ぼすようになり、当時は「裏総理」の異名でも呼ばれました。
石井隆匡(稲川会二代目会長)の名言
石井隆匡の名言も話題です。
「おまえら、 税金 を払うヤクザになれよ」
石井隆匡は子分らに常々、「税金を払え」と言っており、自身が経営していた企業もしっかりと多額の税金を納めて、国税局に表彰されるなどしていました。この納税に関する名言からもわかりますが、石井隆匡は「自分達のような(裏の稼業の)人間が正業で働いている人達に迷惑をかけては申し訳がない」というポリシーを強く持たれていたようで、密かに社会福祉活動(恵まれない子供への寄付など)にも力を入れられていたようです。
たとえ、合わないと思う人でも広い大きな心を持って人様と接しなさい。 何があったとしても相手を許すという気持ちが大切なんだ。
上の名言は、娘の悠子さんに常々諭すように語っていた言葉だという事です。石井隆匡には武勇伝はあまりありませんが、争い事やトラブルの仲裁役に力を発揮しました。これは、石井隆匡がその誠実な生き様によって周囲の人間から絶大な信頼を得ていたからこそ出来た事だったようです。
石井隆匡(稲川会二代目会長)の伝説
石井隆匡が現在でも伝説的に語られるのは、その経済的手腕と政治的手腕が卓越していたためでした。
石井隆匡は1987年に次期総裁を狙う竹下登から、右翼団体「皇民党」による街宣攻撃(ほめ殺しと言われる妨害活動)の解決を依頼され、見事解決しています。(皇民党事件)
数々の有力政治家が力を注いでも説得できなかった皇民党の総裁・稲本虎翁を説得して街宣活動を止めさせています。これ以来石井隆匡は政界に力を及ぼすようになり、それを足掛かりに経済活動を拡大させ、ゴルフ場開発や証券取引で莫大な利益を得ました。
当時、石井隆匡は一部のメディアなどで「裏総理」の異名を取っていましたが、関係者からは、最初に石井隆匡を裏総理と呼んだのは、他でもない、竹下登(元総理)と金丸信(元副総理)であったとの伝説も語られています。
石井隆匡(稲川会二代目会長)の嫁
石井隆匡は戦後間もない頃、石塚義八郎親分の若い衆だった頃に嫁と結婚されているようです。
出会いは当時の遊び場であった横須賀のダンスホールで知り合ったそうです。当時は高級品であったケーキセットを食べたときに、石井隆匡が自分の分のケーキも嫁に譲ったことがきっかけで恋が成就したのだとか。
嫁はハイカラ(先進的な事)な女性だったそうで、石井隆匡との結婚後も派手で気さくな姉さんとして知られていたようです。また、勝ち気な女性だったようで、石井隆匡も嫁には頭が上がらない恐妻家だったのだとか。
石井隆匡は当時は滅多にいないほどの高身長(180cmあったと言われる)と外国人俳優のような整った顔立ちだったことに加えて、紳士的な性格だった事から女性にすこぶるモテたそうで、常に何人かの愛人がいたそうなのですが、それに怒った嫁が離婚届を持って追いかけ回し、石井隆匡がひたすら「ごめんなさい」と謝っていたという意外なエピソードも伝えられています。
石井隆匡と結婚したばかりの頃は終戦後の貧しい時代で、この嫁も随分と苦労をされたようで、結婚後すぐに生まれた息子を背負いながら屋台を引いたり、蕎麦屋を経営したりして生活費を稼いでいたそうです。
石井隆匡は自分が経済的に成功した後は、若い頃に苦労をかけた事もあってか嫁をとても大切にされていたようで、嫁の誕生日には有名な芸能人をパーティに呼んだりもしたいたそうです。(現在で言うところの闇営業だが、当時は一般的に行われていた)
石井隆匡(稲川会二代目会長)の息子
石井隆匡には嫁との間に息子が1人います。この息子さんは嫁との結婚後すぐに生まれたということで、既に高齢になられているはずです。
この息子さんは、子供時代は石井隆匡の子分達や堅気の使用人の人々と生活を共にしていましたが、暴力団の世界には入らずに、絵画関係の仕事をされていたようです。結婚もされて子供(石井隆匡にとっての孫)も生まれています。
石井隆匡(稲川会二代目会長)の娘の石井悠子は父についての書籍を発表
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石井隆匡の娘の石井悠子さんは、1957年の生まれで、2017年に娘の目線から父親としての石井隆匡の実像を描いたノンフィクション「巨影~ほんとうの石井隆匡」を発表しています。
この作品によれば、石井隆匡は娘の悠子さんを溺愛していたようです。悠子さんは母親に似てかなり勝気な性格の女性だったようで、十代の頃からスポーツカーに乗って横須賀や東京の街を走り回っていたようです。
この娘さんは医者と結婚されて子供(石井隆匡の孫)も産まれているようです。
石井隆匡(稲川会二代目会長)の孫
石井隆匡には確認できているだけで、息子さんと娘さんにそれぞれ1人ずつ、少なくとも2人の孫がいるようです。
また、噂では愛人との間に子供が何人かいると言うことなので、孫はもっと大勢いる可能性もありそうです。
娘の悠子さんによれば、孫の1人は男の子で、石井隆匡はこの男の子の孫に対しては可愛がりつつも、それなりに厳しく「男なら運転手をつけられるくらいの男になりなさい」など、男の在り方などを説かれていたのだそうです。
石井隆匡(稲川会二代目会長)の自宅
出典:https://presidenthouse.net/
石井隆匡の自宅は、神奈川県横須賀市小原台の高台にある豪邸で、広い庭付きの洋風の3階建の建物です。
グーグルアースでこの自宅豪邸の画像が確認可能です。
出典:https://presidenthouse.net/
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石井隆匡(稲川会二代目会長)の晩年と死因
石井隆匡の晩年は、「経済ヤクザ」の先駆けとして大きな成功を収めたことで広くその名前を知られるようになりました。
1984年10月、60歳の時に賭博の罪で服役していた長野刑務所から出所した石井隆匡は、それからすぐに稲川会の二代目会長に就任し、「山・一戦争」を仲介して終結させたり、竹下登総理就任に力を発揮したりし、また、フロント企業を駆使して莫大な資産を得たりして、その名を轟かせました。
しかし、1990年が明けた頃、旅行先のメキシコ・アカプルコで容態が急変して帰国し、病院で脳腫瘍の診断を受けて、慶應義塾大学病院で手術を受けています。1990年4月11日に退院後、稲川会会長の跡目を稲川裕紘に譲り、自身も引退を表明して、1991年4月に慶應義塾大学病院に再入院。
この再入院後に、東急電鉄株買い占めに絡む証券スキャンダルが次々と発覚し、大騒ぎとなりますが、この頃には石井隆匡は容態が急変し意識混濁状態になっており、直接追及を受ける事はありませんでした。
1991年9月3日18時6分、石井隆匡は67歳でこの世を去りました。死因は「脳梗塞」でした。
葬儀は東京都大田区の池上本門寺で行われ、全国の大物を含む6000人以上が参列しています。
まとめ
今回は、戦後の時代から1980年代にかけて活躍した伝説的ヤクザ・石井隆匡についてまとめてみました。
石井隆匡は「最強の経済ヤクザ」、「経済ヤクザの先駆け」との異名を持つ伝説的人物ですが、一方で「おまえら、 税金 を払うヤクザになれよ」の名言が知られるなど、任侠映画でよく聞くような「カタギに迷惑をかけてはならない」を地で行くような古き良き時代のヤクザだった事でも知られています。
石井隆匡は嫁と戦後すぐの時代に結婚し、少なくとも息子を1人と娘を1人儲けています。孫も最低でも2人はいるようですが、こうした家族らは暴力団の世界には入らずに一般の社会で生活されているようです。
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晩年には、稲川会二代目継承や、「山・一戦争」や「皇民党事件」の解決などで、その名を轟かせましたが、その数年後に大病を患い、1991年に67年の生涯を終えています。死因は「脳梗塞」でした。