イギリス王室・チャールズ皇太子の元妃だったダイアナ妃の事故の真相が注目されています。
この記事では、ダイアナ妃の事故の詳細と本物の事故写真(閲覧注意)、そして死因や暗殺の真相について詳しくまとめましたのでご紹介します。
この記事の目次
ダイアナ妃のプロフィールと経歴
ダイアナ・フランセス・スペンサー(Diana Frances Spencer)
生年月日: 1961年7月1日
出身地: イングランド、サンドリンガム、パークハウス
配偶者: ウェールズ公チャールズ王太子(1981年 – 1996年)
死去: 1997年8月31日(36歳没)
チャールズ皇太子は2人の愛人と不倫していた
ダイアナ妃はまさに王室といった美しい金髪と清楚なルックス、高いファッションセンスなど女性なら誰もが憧れるような美しい女性で、ロイヤルファミリーの中でも最も世界中で愛された皇太子妃でした。
1981年2月24日に、ダイアナ妃とチャールズ皇太子は婚約を発表し、同年7月29日に結婚式が挙げられ英国中の祝福を受けて結ばれました。
一見幸せそうに見えた2人ですが、チャールズ皇太子が結婚の際に記者から「ダイアナ妃に恋をしているか」と質問され「えぇ。恋が何かによりますが」と含んだ言い方をしており、これが後にチャールズ皇太子は望んでダイアナ妃と結婚したわけではなかったことがわかりました。
実は、チャールズ皇太子にはダイアナ妃と結婚する前に交際していたカミラ・ローズマリー・シャンドと言う恋人がいましたが、ダイアナ妃との縁談話が持ち上がったため、カミラは交際を継続するのは難しいと考えて他の男性と結婚しました。
チャールズ皇太子は不本意ながらもダイアナ妃との縁談を進めましたが、カミラに対する思いは断ち切ることができず、ダイアナ妃と結婚まもなくカミラとの不倫に走ってしまいました。
この2人の関係に気づいていたダイアナ妃は、ストレスのあまり過食症に陥るようになりました。
当時ダイアナ妃の料理を作っていたシェフは「ただただ言われるままに大量の料理を作るしかなかった」と語っています。
ダイアナ妃はさらに自傷行為にも走るようになり、チャールズ皇太子との結婚生活が完全に破綻したことから1996年に離婚が成立。離婚後のダイアナ妃は、エイズの啓発活動や地雷撤去活動など人道支援活動で貢献し、その類稀な美しさと素敵な笑顔で多くの人を魅了してきました。
ダイアナ妃の事故詳細① 事故当日、ドディはプロポーズする予定だった
ドディは大富豪の御曹司でプレイボーイだった
ドディの父親はイギリスの老舗百貨店「ハロッズ」の元経営者であるモハメド・アルファイドで、サッカーチーム「フラムFC」や、ダイアナ妃とドディが事故前日に泊まっていたホテル「リッツ・パリ」の元オーナーと言う大富豪でした。
英紙「インディペンデント」によれば、スポーツカーと美しい女性に目がないプレイボーイで、ロンドンのパーティーシーンでは知られた存在だったとか。
そんなプレイボーイだったドディとダイアナ妃の出会いは1986年のウィンザーで行われたポロの試合でした。当時まだ夫であるチャールズ皇太子のチームが出場することから応援するために駆けつけていましたが、ドディのチームとの試合でありこれを機に知り合うこととなりました。
とは言え、ダイアナ妃とドディは深い交流をしていたわけではなく、チャールズ皇太子との離婚の翌年1997年の夏に、ドディが所有していたヨットに招待され仲良くなったといわれています。
ダイアナ妃の事故についての追悼番組では必ずドディの名前も取り沙汰されてきましたが、ダイアナ妃がチャールズ皇太子と離婚した後に交際していたと言われています。ドディはダイアナ妃に事故が起きなければプロポーズする予定だったとも噂されています。
ダイアナ妃は当時外科医のハスナット・カーンと2年ほど交際していましたが、別れを告げてドディのもとに走りました。ハスナットは他に好きな人ができたのかと問いましたが、ダイアナ妃はその時は否定したものの、数週間後にドディとの熱愛スキャンダルが発覚することになりました。
ダイアナ妃の事故詳細② パパラッチとのカーチェイスの末に事故死
時速150キロのカーチェイスの末に事故死
1997年8月30日に、ダイアナ妃とドディはパリ郊外にあるル・ブルジェ空港にチャーター機で到着しました。2人は「リッツ・パリ」から派遣された運転手とボディーガードを伴ってホテルに向かいました。
ダイアナ妃はその日の夜はドディのアパートで寝る予定でしたが、ホテルの外に多数のマスコミが待ち構えていたため、8月31日に入った午前0時20分頃にホテルの裏口から出て出発しました。
車に同乗していたのはダイアナ妃とドディ以外に運転手のアンリ・ポール、ボディーガードのトレヴァー・リース=ジョーンズの4人でした。パパラッチが気づいて車で追ってきたためアンリは時速135キロから150キロと言う猛スピードで車を走らせました。
しかし、実はアンリは運転前に飲酒をしており、アルマ広場下のトンネルで他の車を避けようとして運転操作を誤り中央分離帯のコンクリートに正面衝突してしまいました。
公式の発表では事故原因は「運転手のアンリの過失による事故」と発表されています。
ダイアナ妃の事故詳細③ ダイアナ妃の死因は内臓破裂だった?
ダイアナ妃の死因は「内臓破裂」?
画像は大破した事故車のベンツ
この事故によりシートベルトを締めていなかったドディとポールは即死し、ダイアナ妃は重傷、ジョーンズは重傷を負いましたが唯一シートベルトをしていたことから生存しました。
駆けつけた救急隊が潰れた車の天井を1時間かけてはがし、全部座席と後部座席の間に倒れていたダイアナ妃を外に救出することに成功。
ダイアナ妃は頭部と胸部に傷を負っていたもののしばらくは意識がありましたが、病院に搬送される頃には意識を失い8月31日午前4時ごろに亡くなりました。
事故から21年が経過した2018年8月31日に、ダイアナ妃の救出に当たった男性が当時の事故現場を思い返しインタビューで語っています。
「後に私が『ダイアナ妃だ』と聞かされた女性は、車内後部の床部分にいました。わずかに動いていたため、まだ生きているのだと私にも分かったのです。」
「右肩にちょっとした怪我があるのは分かりましたが、それ以外にひどい怪我は(見た限りは)ありませんでした。」
身体には血痕も付着していなかったため、同氏はダイアナ妃を落ち着かせようと手を握り「助けに来たのですよ」「動かないで」などと声をかけたという。ショックを受けていたに違いないダイアナ妃は、そのとき「ああ神よ。いったい何が起こったというの」と話したというが、担架に乗せられた後に心停止状態となり、呼吸も止まったという。だがすぐに心肺蘇生法を施され息を吹き返したダイアナ妃は、その後に乗せられた救急車の中でも生きていたとのこと。
「(外傷ではなく)体内の損傷が酷かったのだと聞きました。あの事故のことが今も心から離れないのです。」
この男性の証言から、ダイアナ妃の死因は内臓破裂の可能性が高いかもしれません。もしくは破裂とまではいかなくても、内臓がズタズタにされたことによる出血性ショック死、多臓器不全なのかもしれません。
ダイアナ妃の事故詳細④ 本物の事故写真が流出していた【閲覧注意】
2006年にイタリアの週刊誌で公表された事故当時の本物写真
2006年にイタリアの週刊誌「Chi」において、ダイアナ妃が事故にあった直後に車内で酸素吸入を受けている姿を収めた写真が公開されて話題となりました。
この写真を撮影した記者は、車内で血まみれになって倒れているダイアナ妃を助けるよりもスクープ写真を撮ることに集中していたことがわかり、写真の生々しさと合わせて世間で大きな物議をかもしました。
それは1人の人間の命よりも社会的にセンセーショナルな話題性を優先した記者の非人道的な行動に対してであり、事実こうした記者の多くは救護義務違反により逮捕され写真もフランス当局に没収されているようです。
ダイアナ妃の事故死の真相…イギリス王室による暗殺・陰謀説も浮上
ダイアナ妃の暗殺説が浮上した理由
ダイアナ妃の手記から暗殺の可能性が浮上した
ダイアナ妃が事故により死亡した後しばらくして、世界では事故は暗殺だったのではないかと言う説が浮上しましたが、これの発端となったのはダイアナ妃の直筆の手記が見つかったためでした。
この手記は事故の10ヵ月前である1996年10月に書かれたもので、ダイアナ妃は自分が交通事故に見せかけられて暗殺されることを示唆する内容で、自分の死を最も望んでいるのはチャールズ皇太子と言う衝撃的なものでした。
このダイアナ妃の手記が見つかる以前からフランス当局の捜査によって事故に関する不可解な点がいくつかわかっており、すでに英国内では一部で暗殺説が陰謀論的にささやかれていました。
その主な不可解な点とは以下の2つです。
・英国の重要人物であるダイアナ妃を乗せる車の運転手が事前に飲酒をしていた。
・ダイアナ妃を乗せた車が事故を起こした当時、傍を白いフィアット・ウノが走り抜けていったところを複数の人が目撃していたが、この車もドライバーもその後追跡できなかった。
また、ドディがイスラム教徒であったことから、ダイアナ妃がドディと結婚した際にイスラム教徒に改宗することを恐れ、未来の英国王の母親がイスラム教徒と言う事態を防ぐためにイギリス王室が暗殺を図ったと言う陰謀論を当時カダフィによる独裁政治体制家にあったリビアが主張し始めました。
これと同様に、ドディの父親であるモハメド・アルファイドも未来の英国王の母親がアルファイド家の人間であることを阻止するために暗殺したと言う主張をしました。
こうしたことからイギリス当局は王室の名誉にかけて陰謀論を晴らすため徹底的な捜査をし、裁判の場で暗殺ではない証拠を突きつけたことからモハメドも反論ができなかったため、暗殺説に終止符が打たれることとなりました。
それでも、ネット上では以下に紹介する陰謀論的な暗殺説がささやかれてきました。
ダイアナ妃の暗殺にエリザベス女王が関与?
エリザベス女王が黒幕である可能性は低い
ダイアナ妃暗殺の黒幕がエリザベス女王であるとする陰謀説が浮上した理由は、嫁姑関係が悪かった可能性が見て取れる映像が残されていたからのようです。
ダイアナ妃はチャールズ皇太子との結婚生活がうまくいかないことをエリザベス女王に相談しましたが、エリザベス女王は「あなたができることなど私にはわからない」と言う旨を冷たく言い放ち「チャールズは絶望的」と言い残したとその映像内でダイアナ妃が語っていたようです。
こうして聞くと日本でもよくある姑問題のような感じを受けますが、さらにエリザベス女王が事故で亡くなったダイアナ妃の遺体を英国王室が受け入れるべきではないと主張したと言うことや、ダイアナ妃死後に声明を出さなかったことなども陰謀説に拍車をかけたと思言われています。
こうした英国王室の態度に対して英国民の批判が噴出し始めると、エリザベス女王は特別声明を出し、追悼テレビ演説や準国葬である「王室国民葬」による埋葬、バッキンガム宮殿に半旗を掲げる異例の処置等、国民感情を沈静化させる対応を取りました。
また、エリザベス女王はダイアナ妃の葬儀で棺が目の前を通る際に頭を下げており、誰にも頭を下げることのない身分でありながら元妃にこうした礼を取った事は英国民にとって大きな衝撃だったようです。
加えて、死後6日ほど経ってからエリザベス女王が友人に宛てた手紙には「ダイアナ元妃の死を受け入れられない。英国にとって計り知れない損失」と綴っていたと言われるなど、陰謀論が霧散するには充分すぎる行動をとっていたようです。
ダイアナ妃の暗殺にチャールズ皇太子に父親が関与?
ダイアナ妃の暗殺はMI5のエージェントが請け負った?
イギリスのタブロイド紙「Daily Star」によると、MI5(英国情報機関)のエージェントだったジョン・ホプキンスが、医師から数週間の命と余命宣告を受けたことで、ダイアナ妃を暗殺したのは自分であると明かしました。
このホプキンスは、国家安全保障に関わる個人を暗殺するのが仕事で、1973年から1999年にかけて23回の暗殺を行ったと証言しています。
ホプキンスは「彼女はロイヤルファミリーから直接依頼された唯一のターゲットだった」とし、「彼女がチャールズ皇太子と離婚すると言う証拠を持っていた。彼女は英国王室に関する多くの秘密を知っていて、大きな恨みを抱えていたことから英国王室の狂気的な重大な犯罪を公開するつもりだった」と言う旨を語っています。
このホプキンスにダイアナ妃の暗殺を依頼したのが、チャールズ皇太子の父親、つまりエディンバラ公フィリップ王配だと言われており、チャールズ皇太子を支配的に操っていたと言われています。
ただ、これが事実であるとは確認されているわけではなく、証言したホプキンスも既になくなっているため本当の真相は明らかにされないまま闇に葬られてしまったことになります。
ダイアナ妃の事故のその後…準国葬として葬儀が執り行われる
陰謀説もあったダイアナ妃の死でしたが、1997年9月6日にイギリス王室は準国葬として葬儀を執り行いました。
ダイアナ元妃の準国葬が執り行われ1997年9月6日の午前9時、ダイアナ元妃の棺桶はケンジントン宮殿からウェストミンスター寺院まで葬列を伴って運ばれた。
ダイアナ妃はお墓はペンサー伯爵の領地オルソープにあり、2017年8月にはケンジントン宮殿の庭園に建てられたダイアナ妃の像がついにお披露目されました。これについて息子のウィリアム王子とハリー王子は共同で声明を発表しています。
「僕たちの母が亡くなってから20年が経ちました。彼女がイギリスや世界に与えたポジティブな影響を認識するのに適切な時期だと感じています。僕たちの母は、多くの心に触れ合ってきました。この像を建立することで、ケンジントン宮殿を訪れた人たちが母の人生や母が世の中に遺してくれたものについて考えてもらえると嬉しいです」
最愛の母親を亡くしたウィリアム王子は当時15歳、ヘンリー王子はまだ12歳でした。
現在はヘンリー王子の結婚と王室離脱により兄弟仲が悪いともいわれていますが、最愛の母親の急死は2人の息子に大きな影を落とし、ウィリアム王子は「ショックは20年経過した現在も感じ続けている」と告白しています。
ダイアナ妃の事故についてまとめると…
・ダイアナ妃の事故についてはイギリス王室による陰謀説もあったが、イギリス当局によりそうした証拠は無いと結論づけられた
・ダイアナ妃の葬儀は準国葬扱いとなり、最愛の母を亡くしたウィリアム王子とハリー王子は現在も深刻な精神の不調に悩まされ続けている
ダイアナ妃はチャールズ皇太子と離婚した後もイギリス王室の面々よりも世界的に注目され輝いていたため、それを面白くないとする王室もいたのかもしれません。
とは言え、MI5のエージェントだったホプキンスの証言が事実であれば、ダイアナ妃はイギリス王室のこれまでに重ねてきた狂気的な悪行の数々を知っているため口封じのために暗殺されたと言うことになります。
ダイアナ妃は光が大きすぎるあまり影も大きくなりすぎた悲しい結末に終わってしまいました。