元WBA世界スーパーフェザー級王者、元WBA世界ライト級王者の2階級制覇を成し遂げた元プロボクサー・畑山隆則さんの現在が話題です。
ここでは畑山隆則さんの生い立ちや若い頃の武勇伝、戦績や引退理由、2度の結婚と嫁、息子や自宅、現在の活動などについてまとめました。
この記事の目次
- 畑山隆則のプロフィール
- 畑山隆則の生い立ち① 小学生時代は野球部
- 畑山隆則の生い立ち② 中学時代も野球部だが不良に
- 畑山隆則の生い立ち③ 野球の名門校に進学も先輩に反発し野球部を退部
- 畑山隆則の生い立ち④ プロボクサーを志し高校を中退し上京
- 畑山隆則の若い頃の武勇伝
- 畑山隆則の戦績は29戦24勝(19KO)2敗3分
- 畑山隆則がまだ23歳という若さで1度目の引退をした理由は?
- 畑山隆則は引退を撤回しWBAライト級王座獲得
- 畑山隆則が引退を撤回し復帰した理由
- 畑山隆則はWBAライト級王座陥落で完全引退
- 畑山隆則は結婚歴2回で1度目の嫁は一般女性の真由美さん
- 畑山隆則の1人目の嫁の真由美さんとの息子は隆将さん
- 畑山隆則と1人目の嫁の真由美さんの離婚理由は?
- 畑山隆則の2度目の結婚の嫁はフリーアナウンサーの清原久美子
- 畑山隆則には現在の嫁の清原久美子との間にも息子の心翔くんがいる
- 畑山隆則の自宅は?
- 畑山隆則の現在① 竹原慎二とボクシングジムを経営
- 畑山隆則の現在② 竹原慎二とYouTubeチャンネルもやっている
- 畑山隆則の現在③ 経営者として成功している
- まとめ
畑山隆則のプロフィール
畑山隆則のプロフィール
生年月日:1975年7月28日
出身地 :青森県青森市
身長 :172.5cm
血液型 :A型
畑山隆則さんは、1990年代から2000年代初めにかけて活躍した元プロボクサーです。
元OPBF東洋太平洋スーパーフェザー級王者、元日本スーパーフェザー級王者、元WBA世界スーパーフェザー級王者、元WBA世界ライト級王者で、日本人として4人目の世界二階級制覇の快挙を成し遂げました。
プロボクサー引退後はタレントとしても活躍し、バラエティ番組「ガチンコ!」の大人気シリーズ「ファイトクラブ」への出演で人気を博しました。このガチンコファイトクラブでも共演した、元WBA世界ミドル級王者である竹原慎二さんと「竹原慎二&畑山隆則のボクサ・フィットネス・ジム」を開設し、現在も代表を務められています。
畑山隆則の生い立ち① 小学生時代は野球部
畑山隆則さんの生い立ちについてみていきます。
畑山隆則さんは青森県青森市の生まれで、父親はタクシー運転手、2歳年上の兄がいる家族で育ちました。
家族は裕福ではなく、子供の頃から金持ちになりたいと思っていたそうです。子供の頃から番長のような存在で、よく喧嘩もしていたとの事。小学生時代は野球部に所属してポジションは投手で4番、青森甲子園と呼ばれていた「青森市児童親善野球大会」にも出場し、将来の夢はプロ野球選手だったそうで、高校入学までは野球を続けています。小学校時代は勉強の成績も悪くなかったのだそうです。
畑山隆則の生い立ち② 中学時代も野球部だが不良に
中学進学後も野球部に所属し、中学1年で身長がすでに170cmまで伸び、エースで4番の中心選手として活躍、球速は当時で130㎞/hとかなり速いボールを投げていたそうです。一方で、中学時代は不良少年で喧嘩は連戦戦勝で、他校にまで喧嘩をしに行く特攻隊長だったという事です。
畑山隆則さんは初めて女性を体験したのは中学1年生の頃で、相手は年上の女性だったとのエピソードも明かされています。
畑山隆則の生い立ち③ 野球の名門校に進学も先輩に反発し野球部を退部
畑山隆則さんは、高校は野球推薦で強豪野球部を持つ「青森山田高校」へと進学し、野球部に入部しています。
しかし、1年生の時に玉拾いをさせられ、先輩がエラーして転がったボールまで拾いに行かされたため反発し無視していたところ、先輩に「何やってんだ取れよコラ」などと怒鳴られ、「自分がエラーしたんだから自分で拾え」と言い返した事が問題になり、野球部に居づらくなって退部し野球の道は諦めてしましました。
畑山隆則の生い立ち④ プロボクサーを志し高校を中退し上京
野球を辞めた後、ガソリンスタンドでバイトしながら夜遊びは喧嘩をするという荒れた生活を送っていた若い頃の畑山隆則さんでしたが、高校2年生の頃に辰吉丈一郎の世界タイトルマッチ(WBC世界バンタム級を制覇した試合)をテレビで観てプロボクサーを志し、「世界チャンピオンになる」と言い放って、青森山田高校を中退し、バイトで貯めた8万円(2万円説もあり)だけを持って両親に無断で家出同然に上京しています。
畑山隆則さんは名門「ヨネクラジム」に入門し、新聞配達で生活費を稼ぎながらボクシングのトレーニングを始めました。ヨネクラジムは練習生も多く、必死に練習しても中々目立つ事ができずに、丁寧に教えてもらう事もできなかったため、程なくして京浜川崎ボクシングジムに移籍、世界チャンピオン製造機とも称された韓国出身の柳和龍(ユ・ファヨン)トレーナーと出会い、すぐにその才能を認められ、二人三脚での指導を受ける事になります。
畑山隆則さんは、柳和龍トレーナーの指導を受け始めてからわずか3ヶ月後にプロテストに合格し、プロボクサーとしての道を歩み始めています。1993年6月17日のプロデビュー戦をKO勝利で飾った後も、連戦連勝を続け、デビューからわずか半年の1993年12月18日に、東日本スーパーフェザー級新人王を獲得、その翌年2月には、全日本スーパーフェザー級新人王全日本スーパーフェザー級新人王とMVPを獲得するなど、瞬く間に天才ボクサーとして注目の存在となりました。
畑山隆則の若い頃の武勇伝
出典:https://images-na.ssl-images-amazon.com/
畑山隆則さんはプロボクサーになる前は、地元青森県ではかなり有名な不良少年だったようです。
当時の武勇伝などは、畑山隆則さん本人がプロボクサーになった後にたまに語られていて、野球部の試合後に相手と喧嘩してノックアウトしてしまった話や、高校時代にはアルバイトで金を貯めて連日スナックに通っていた事、徒党を組むのが嫌だったので絶対に暴走族には入らなかったが、喧嘩は連戦連勝無敗だったといった話はよく知られています。
ボクサーを志して上京する前の畑山隆則さんは喧嘩に明け暮れていたという事でしたが、上京後に柳和龍トレーナーに出会ってからは、プライベートでどんなに屈辱的な状況になってもボクシングの場以外では絶対に相手に手を出さなかったようです。
それほど絶対に世界チャンピオンになるという想いが強かったのだろうと想像されます。そうした点の方が、上京前のやんちゃ話よりも余程格好良い武勇伝だと感じられます。
畑山隆則の戦績は29戦24勝(19KO)2敗3分
出典:https://anohito-genzai.com/
畑山隆則さんのプロボクサーとしての生涯戦績は29勝24敗(19KO)2敗3分です。
畑山隆則さんの戦歴と戦績の詳細は以下の通りです。
戦 | 日付 | 対戦相手 | 相手国籍 | 勝敗 | 時間 | 内容 |
1 | 1993年6月17日 | 福村和宏 | 日本 | 勝利 | 1R | KO |
2 | 1993年8月4日 | 川田斉志 | 日本 | 勝利 | 1R | KO |
3 | 1993年9月2日 | 坂寄友昭 | 日本 | 勝利 | 4R | TKO |
4 | 1993年10月4日 | 上田真也 | 日本 | 勝利 | 4R | 判定 |
5 | 1993年11月4日 | 市川健二 | 日本 | 勝利 | 4R | 判定 |
6 | 1993年12月19日 | 坂本和則 | 日本 | 勝利 | 1R | KO |
7 | 1994年2月13日 | 小谷繁 | 日本 | 勝利 | 3R | KO |
8 | 1994年6月20日 | 楊熙哲 | 韓国 | 勝利 | 3R | KO |
9 | 1994年9月19日 | 堀口昌彰 | 日本 | 勝利 | 4R | TKO |
10 | 1994年11月21日 | 表炫雨 | 韓国 | 勝利 | 3R | KO |
11 | 1995年2月20日 | 文炳洙 | 韓国 | 勝利 | 3R | TKO |
12 | 1995年5月15日 | ジュン・マタナガス | フィリピン | 勝利 | 2R | KO |
13 | 1995年7月17日 | 朴宰佑 | 韓国 | 勝利 | 2R | KO |
14 | 1995年10月16日 | フラッシュ・ペナ | フィリピン | 勝利 | 6R | TKO |
15 | 1995年12月12日 | バート・ナバレス | フィリピン | 勝利 | 4R | KO |
16 | 1996年3月18日 | 崔重七 | 韓国 | 勝利 | 2R | TKO |
17 | 1996年6月19日 | ルディ・カビレス | フィリピン | 勝利 | 12R | 判定 |
18 | 1996年9月21日 | オッキー・バクリン | インドネシア | 勝利 | 9R | KO |
19 | 1997年2月17日 | 尹東澈 | 韓国 | 勝利 | 4R | TKO |
20 | 1997年5月19日 | ホルヘ・ルイス・ロペス | メキシコ | 勝利 | 10R | 判定 |
21 | 1997年10月5日 | 崔龍洙 | 韓国 | 引分 | 12R | 判定 |
22 | 1998年3月29日 | コウジ有沢 | 日本 | 勝利 | 9R | TKO |
23 | 1998年9月5日 | 崔龍洙 | 韓国 | 勝利 | 12R | 判定 |
24 | 1999年2月13日 | サウル・デュラン | メキシコ | 引分 | 12R | 判定 |
25 | 1999年6月27日 | ラクバ・シン | モンゴル | 敗北 | 5R | TKO |
26 | 2000年6月11日 | ヒルベルト・セラノ | ベネズエラ | 勝利 | 8R | TKO |
27 | 2000年10月11日 | 坂本博之 | 日本 | 勝利 | 10R | TKO |
28 | 2001年2月17日 | リック吉村 | アメリカ | 引分 | 12R | 判定 |
29 | 2001年7月1日 | ジュリアン・ロルシー | フランス | 敗北 | 12R | 判定 |
上記の戦績のうち16戦目の崔重七戦に勝利し、OPBF東洋太平洋スーパーフェザー級王座を獲得。その後3度防衛に成功した後、世界戦挑戦のために王座を返上しています。
22戦目のコウジ有沢戦で、日本スーパーフェザー級王座を獲得していますが、この1戦は「史上最大の日本タイトルマッチ」として語り継がれています。このタイトルも世界戦挑戦のために防衛戦をせずに返上しています。
続く23戦目の崔龍洙戦に勝利してWBA世界スーパーフェザー級王座を獲得し1度防衛に成功しますが、25戦目にモンゴルのラクバ・シンに敗戦し王座陥落。畑山隆則さんはこの敗戦後に一度引退を表明しています。
しかし、その約半年後に引退を撤回し階級を上げての世界戦への再挑戦を宣言。復帰初戦でベネズエラのヒルベルト・セラノに勝利してWBA世界ライト級王座を獲得しています。その後1度の防衛に成功し、引き分けでの2度目の防衛成功を挟んだ29戦目にフランスのジュリアン・ロルシーに敗れて王座陥落し、この試合を最後に完全引退しています。
畑山隆則がまだ23歳という若さで1度目の引退をした理由は?
畑山隆則さんの生涯戦績は29戦ですが、25戦目にモンゴルのラクバ・シンに自身初の敗戦を喫してWBAスーパーフェザー級王座を陥落した時に、1度目の引退を表明しています。
引退後は、当時マネージャーを務めていたタレントで俳優の片岡鶴太郎さんの紹介により、芸能界入りしてタレント活動を始めています。
この時の引退理由については、畑山隆則さんのモチベーション低下だと言われています。また、当時のボクシング界では世界王座を陥落した場合は即引退するという慣習もあったため、それも引退の理由の一つだったと思われます。
しかし、才能あふれるファイターであった畑山隆則さんの23歳の若さでの引退は周囲に強く惜しまれ、また、畑山隆則さんの闘志もまだ消えておらず、その半年後には早くも引退を撤回し、階級をライト級に上げての世界戦再挑戦を表明する事になりました。
畑山隆則は引退を撤回しWBAライト級王座獲得
ラクバ・シンに敗北しての王座陥落後、1999年7月に引退を表明した畑山隆則さんでしたが、それからわずか6ヶ月後、2000年の年明けに引退を撤回し、さらに、同年6月11日には階級をライト級に上げて復帰初戦で世界戦に挑戦する事も発表されました。
その相手は、WBA世界ライト級王者、ベネズエラのヒルベルト・セラノで、畑山隆則さんは8ラウンドの激戦末、3ノックダウンルールによってTKO勝ちを収め、WBA世界ライト級王者に輝き、同時に日本人で当時史上4人目だった2階級制覇の偉業を成し遂げています。
畑山隆則が引退を撤回し復帰した理由
畑山隆則さんは最初の引退表明から約半年ですぐに引退を撤回しましたが、その引退撤回の理由については、当時ライト級の世界ランカーだった人気と実力を兼ね備えたボクサー・坂本博之さんと対戦したいためと説明されています。
また、ラクバ・シンとの試合が「あまりにもな負け方」であったため「このままボクシングを辞めていいのか」という想いもあったとも引退撤回の理由として語られていました。
畑山はライト級にカムバックした理由について「彼(坂本)とやりたいがため。大金を稼ぐとか何十回防衛をするとか、大それたことは全く考えてなかった」と告白。「このままボクシングを辞めていいのか」という想いからの復帰だったという。
畑山隆則はWBAライト級王座陥落で完全引退
畑山隆則さんはWBA世界ライト級王者獲得後、かねてからの宣言通り、坂本博之さんと1度目の防衛戦を戦い勝利しています。この試合は互いに死力を尽くした事がはっきりと伝わるような一戦で現在もボクシングファンの間では伝説的に語られています。
その後、畑山隆則さんは2戦を戦い、2度目の防衛戦となったリック吉村戦は12Rを戦い引分で2度目の防衛に成功しましたが、続くフランスのジュリアン・ロルシー戦で12R判定負けを喫し、この試合を最後に2002年1月に今度は完全な引退を表明されています。
この時の引退理由については、今度こそボクサーとして燃え尽きたためと、ボクシングファンの間では見られています。
畑山隆則は結婚歴2回で1度目の嫁は一般女性の真由美さん
畑山隆則さんは実はこれまでに2度結婚されています。1度目の結婚は1995年6月頃で、OPBF東洋太平洋スーパーフェザー級王座を獲得する前に結婚されています。
嫁は一般女性の真由美さんという方で、畑山隆則さんの1歳年上でした。2人の馴れ初めは、神奈川県川崎市内のデパートで店員として働いていた真由美さんに畑山隆則さんが一目惚れした事だったそうです。
畑山隆則さんは嫁の真由美さんの一目惚れしたものの、なかなか声をかけられず、3週間そのデパートに通ってこっそり見ていた事なども明かされています。
また、畑山隆則さんは、テレビ出演時には「初恋は今の奥さん」と語るなど、オシドリ夫婦として知られ、2001年度の「日本のナイス・カップル」にも選出されていました。
畑山隆則の1人目の嫁の真由美さんとの息子は隆将さん
畑山隆則さんは、最初の嫁の真由美さんとの間に息子さんが1人産まれています。
息子さんの名前は隆将(りゅうしょう)さんで、1996年に生まれています。最初の嫁の真由美さんと結婚のきっかけは、この息子さんの妊娠だったようで、当時は「できちゃった結婚」とも報じられていました。
当時、畑山隆則さんはこの息子さんの隆将さんを溺愛する様子も見せていて、「ボクシングをやりたい」と言わないように甘やかせて育てたといったエピソードも話されていました。
畑山隆則さんは、1度目の引退表明からの復帰戦で2000年にWBA世界ライト級王座を獲得した後、試合後の控室に当時4歳だった息子さんがすぐに駆けつけてくれた事も嬉しそうに話されていました。
現在、この畑山隆則さんの最初の息子さんの隆将さんは成人されているはずですが、今の様子などは残念ながら伝わっていません。
畑山隆則と1人目の嫁の真由美さんの離婚理由は?
オシドリ夫婦として知られていた畑山隆則さんと最初の嫁・真由美さんでしたが、畑山隆則さんが完全にボクサーを引退された後の2003年8月に離婚されています。
この離婚は週刊誌などでも報じられましたが、離婚理由などは一切情報が漏れていなかったようで、明らかにされていません。
一部の噂では、息子の隆将さんに障害があり、それが離婚の理由などと噂されましたが、これは根も歯もないデマ情報だったようです。
畑山隆則の2度目の結婚の嫁はフリーアナウンサーの清原久美子
畑山隆則さんは最初の嫁の真由美さんとの離婚から2年〜3年後の2005年から2006年の間に、フリーアナウンサーの清原久美子さんと2度目の結婚をしています。清原久美子さんは畑山隆則さんの7歳年上ですが、2人がどういった経緯で知り合い結婚したのかなどは明かされていません。
畑山隆則の現在の嫁・清原久美子のプロフィール
生年月日:1968年7月30日
出身地 :石川県
身長 :164cm
血液型 :A型
畑山隆則さんの2度目の結婚の嫁の清原久美子さんは石川県出身で、地元のテレビ金沢のアナウンサーとして勤務後、1994年に上京してフリーアナウンサーになり、「世界ふしぎ発見!」のミステリーハンターなど、テレビタレントとしても活躍し、2000年には水着写真集「MOTHER」も発表するなど人気を集めました。
現在も芸能事務所に所属されているようですが、目立った芸能活動はされていないようです。
畑山隆則には現在の嫁の清原久美子との間にも息子の心翔くんがいる
畑山隆則さんは2度目の結婚相手の清原久美子さんとの間にも息子さんが1人おり、名前は心翔さんのようです。畑山隆則さんによって2人目の息子の心翔さんの生年月日は2006年9月28日で、2021年8月の現在は14歳で中学3年生です。
母の清原久美子さんのインスタグラムにはこの息子さんの心翔さんもたまに登場していて、親子仲は良好な様子です。
なお、ボクシングはしておらず、ゴルフをされているようです。
畑山隆則の自宅は?
畑山隆則さんの自宅は公開されていませんが、嫁の清原久美子さんのインスタグラムに時折投稿されている自宅内の画像を見ると、かなりオシャレな自宅に住われているようです。
畑山隆則さんの自宅の場所も不明ですが、現在経営されているジムが東京都大田区に所在しているので、自宅も東京都内の可能性が高いのではないかと思います。
畑山隆則の現在① 竹原慎二とボクシングジムを経営
畑山隆則さんは、引退後の2002年に、友人の元WBA世界ミドル級王者の竹原慎二さんと「竹原慎二&畑山隆則のボクサ・フィットネス・ジム」を開設し、現在もその代表を務められています。
現在、同ジムには、男女通じて日本人初の世界5階級制覇王者である、女子ボクシングの藤岡奈穂子さんが所属しています。藤岡奈穂子さんは現在、WBA女子世界フライ級王者です。
畑山隆則の現在② 竹原慎二とYouTubeチャンネルもやっている
畑山隆則さんは現在、竹原慎二さんと元WBA世界ライトフライ級王者の渡嘉敷勝男さんと3人で、YouTubeチャンネル「渡嘉敷勝男&竹原慎二&畑山隆則 公式チャンネル」を運営されています。
畑山隆則の現在③ 経営者として成功している
畑山隆則さんは現在、経営者としても成功されています。
上述したボクシングジムの経営以外にも、アパートの経営や、バンのリース事業などを展開する
「有限会社エイチティム」、ラーメン店「尾道ラーメン 麺一筋」などを経営し、多角経営で成功を収めています。
経営者としての手腕も評価され2021年7月には、「躍進企業応援マガジン COMPANYTANK」の表紙も飾っています。
まとめ
今回は、元ボクシング世界王者で日本人史上4人目となる2階級制覇の偉業も成し遂げた元プロボクサーの畑山隆則さんについてまとめてみました。
畑山隆則さんは、青森県青森市で生まれた生い立ちを持ち、高校入学までの若い頃はプロ野球選手を夢見て野球に打ち込んでいました。
しかし、高校の野球部で先輩に反発していづらくなり退部し、その後プロボクサーを夢見て家出同然に上京し、身一つでアルバイトをしながらトレーニングに打ち込み、プロデビューを果たすと瞬く間に勝利を重ねて世界チャンピオンに輝き、スター選手となりました。
畑山隆則さんは2度結婚されており、1度目の嫁は一般女性の真由美さんで息子さんが1人おり、オシドリ夫婦として知られていましたが、その後離婚されています。離婚理由は明かされていません。
その後、畑山隆則さんは現在の嫁のフリーアナウンサー清原久美子さんと再婚し、久美子さんと間にも息子さんを1人儲けられています。
現在は既にボクサーは引退しており、元世界チャンピオンの友人・竹原慎二さんと共にボクシングジムの経営やYouTube運営をしており他、経営者としても成功しており、バンのリース会社やラーメン店経営、アパート経営などを手がけられています。