成宮寛貴さんは、2000年に芸能界デビューし2016年12月に引退しました。
ここでは成宮寛貴さんの生い立ちを、ご家族(父親・母親・弟)も絡めながらご紹介していきます。
成宮寛貴のプロフィール
名前:成宮寛貴(なりみやひろき)
本名:平宮 博重
出身地:東京都
身長:172cm
血液型:A型
活動期間:2000年〜2016年
元所属事務所:トップコート
成宮寛貴さんは、2016年12月で芸能界を引退した元俳優です。
2000年に宮本亜門さんの舞台で俳優デビュー以降、ドラマ・映画・舞台などさまざまな作品の主演から脇役までこなす実力派俳優でした。出演作品には、「ごくせん」(2002年)、「オレンジデイズ」(2004年)、「相棒」シリーズ(2011年〜2015年)など。
そして2016年12月に週刊誌「フライデー」のコカイン疑惑報道直後に、芸能界引退を表明しました。
【薬】成宮寛貴が引退!フライデー「コカイン場面」記事写真と内容まとめ【画像あり】
成宮寛貴の生い立ちと、家族(父親・母親・弟)について
成宮寛んの生い立ち
最初に成宮寛貴さんの生い立ちについて簡単に触れます。
成宮さんは幼少期に両親が離婚し母子家庭で育ちますが、14歳の時に母親が亡くなりました。その後、成宮寛貴さんは弟さんとともに祖母に引き取られましたが、高校には進学せず6つ年下の弟さんを育てるため、さまざまなアルバイトを行いながら、やがて縁あってオーディションを受け2000年の俳優デビューへとつながりました。
以下より家族とのエピソードを含めながら、その生い立ちの詳細についてご紹介していきます。
父親について
成宮寛貴さんのご両親は、幼少期に離婚しています。それ以降、父親については成宮寛貴さんの話に出てくることがほぼなく、ご存命と言われますが詳細は不明です。
母親について(子供時代)
子供時代の成宮寛貴さん。
成宮寛貴さんは、ご両親の離婚後、弟ともに母親に引き取られました。お母さんは仕事で出張に出ていることがあり、幼少期は成宮くんと弟さん二人で留守番することも少なくなかったといいます。
小中学校時代には母子家庭であること、それに加えブランド物の服を着ていたことから、いじめにあっていたそうですが、母親に激励され彼なりに突破口を考え無事克服しています。
幼い頃に両親が離婚し、母子家庭で育った成宮。しかし生活には困っていなかったのか、母親からラルフローレンの服をよく着せられており、それで目立ってしまったことからイジメの標的とされた模様だ。当時は母親から「ここで負けたらすべて終わり」と励まされて学校に通っていたという。しかし「イジメは特技があれば免れる。オレはオシャレになってやろう」と考えた成宮はアメ横に通うようになり、それに合わせてイジメもなくなったとか。
その他、母親との少年時代のエピソードを語っているものも。
少年時代を聞くと「うそつきでした」と即答した。
「親の欲しい答えが分かると、それを裏切らないようにしていました。大人になった今考えると、絶対良くない! 子供らしくいればよかったと思います」。
記憶に残るのが、小学校時代に習っていた水泳での“攻防”。
「遊びたかったから、さぼったんです。親に『行ってきた』と言うと『水着がぬれてない!』とバレて。次にぬらしておいたら、今度は『カルキ臭がしない!』と。さらにカルキ臭がするように細工したんですけど結局、見破られました。母親が特に厳しかったですね。裸にされて家の外に出されたり。漫画みたいでしょ(笑い)」。
少しヤンチャでいて、利口な子供時代だったようですね。
しかし頼れる存在であった母親は成宮寛貴さんが14歳の時に他界し、一気に貧乏生活になってしまったと言います。
成宮さんは、中学時代に母親を亡くし、弟と共に祖母の元へと引き取られた。
「母の生命保険が1億円近くありましたが、大半を失い、兄弟に残されたお金は僅かだったそうです。中学卒業後、芸能界を目指して今の事務所に入りますが、当然、すぐに仕事は入らない。低家賃のアパートで暮らし、冷蔵庫は中古、段ボールの上にテレビを置くような貧しい生活が続きました」(成宮さんを知る芸能関係者)
ラジオ音源からですが、成宮寛貴さんと弟は母親の死後、祖母に引き取られたとありますが、このおばあさんについては血の繋がりがない”お手伝いさん”で「ばーば」と呼んでいたそうです。
以上のように、幼少期に母親が成宮くんにラルフローレンの服を着せていたり、出張が多かったことが影響しているのかお手伝いさんがいたりと、お金にそこまで困っていない母子家庭だったのかもしれませんね。
弟について(青年期以降)
弟にしっかりと学歴を身につけさせた成宮さん。
母親の死後、成宮寛貴さんは弟さんを育てるため生計を立てるため働きに出ました。
母子家庭に育った成宮さんは、14歳で母親に先立たれ、高校に進学せず、引っ越しのアルバイトなどで生計を立てていた。弟には毎日、弁当を作って送り出していたと話している。
引用:FRIDAY続報報じた日に引退表明 事務所「尿検査『陰性』」も 波乱の半生 母子家庭、母親の死去 中卒し、弟の弁当作り
それから程なくし芸能界入り(17歳時)し、成宮くん自身はバリバリと働きながらも、弟には学歴を身につけさせるため、途中浪人させてまで有名大学に進学させたといいます。
「この状況は変えられない、うまく上がっていくしかない」と決意し、以降たった2人きりで生活。成宮は「どうやったら弟を養っていけるだろう」という考えから芸能界入りし、弟を大学まで養った。
弟は当時の様子について「裸電球がシャンデリアになり、小さなブラウン管のテレビがホームシアターに変わった」と明かしながら、成宮の成功を実感したという。弟の大学進学の際も、一般的な大学に合格していたが、“学歴で困ることがないように”という成宮の思いから「東大を目指せ」と浪人させ、最終的に東大には入れなかったものの、有名私大に合格させた。中学卒業後すぐに働き始めた成宮は、「学歴がどれだけ大事が身にしみた」といい、弟に全てを託していた。
(※弟さんは、最終的に東京理科大学に入ったそうです。)
芸能界入りにあたって、新宿2丁目で働いていた過去も影響?
弟さんの話からは少しズレますが…。
成宮寛貴さんはデビューする前に新宿2丁目で働き、そこで知りあったかたせ梨乃さんに見初められ、芸能界入りしたという話がよく言われます。
「成宮は祖母と弟を養うために新宿二丁目で働くことにしたのです。そこで有名だった彼をかたせ梨乃が気に入り、宮本亜門に引き合わせたことが芸能界入りのきっかけ。その後、『ごくせん』(日本テレビ系)や『相棒』(テレビ朝日系)などの作品に恵まれ、スターダムを駆け上がったのです」(スポーツ紙記者)
成宮寛貴さん自身も、当時のことを否定することなく語っています。
《もちろん、言い寄ってくる男の人はたくさんいましたよ。可愛がってくれるし、自分のことを必要としてくれるというか、一人じゃないっていう気になれるんです》
《2丁目時代は、いまの僕にとって必要不可欠(中略)僕にとって2丁目は大事な経験だから、特に隠したいとは思わないです》
2015年、成宮くん出演トーク番組「A Studio」
番組では、成宮寛貴さんの弟夫婦(手前)も取材を受けています。
動画もありました。25分程度ですが、仲良し兄弟であることがよく伺えます。
番組内では弟さんからの手紙が朗読され、思わず成宮寛貴さんが涙ぐむような場面も。
番組のラストでは、弟からの手紙を司会の笑福亭鶴瓶が紹介。手紙には、母親の葬儀で「最後くらい我慢しろ。お母さん心配で休めないぞ。これからは二人で頑張ろう」と成宮が手を強く握りながら声を掛けてくれたというエピソードや、「兄は私に父のように、母のように、厳しく優しく接してくれました」「自分の青春にかえてまで弟の私を育ててくれたことに感謝してもしきれません」と感謝の思いが込められており、代読した鶴瓶も声を震わせた。
成宮は「反則ですよ」と目に涙をためながら、「あいつのお陰で強くなれた。弟がいたからこそ今がある」と胸の内を明かした。
また2015年の別インタビューでは、弟さんが1人前になったことについて語っています。
小・中・高の卒業を見守り、あえて浪人もさせ、一流大学へ通わせた。その弟も就職し、晴れて結婚した。
「荷が下りたっていう感じですね。ただ、荷物を背負ってる時間が長かったので、荷物がないと……調子がおかしいです。だんだん、しっくり来ることを願っています」
成宮寛貴さんにとって、弟さんが大きな存在であることが感じられる言葉ですね。
まとめ
成宮寛貴さんは14の時に母親を亡くし、弟さんを一人前になるまで金銭面含め、それこそ親代わりになって支えてきた過去を持ちます。
成宮さんと弟さんは非常に仲がよく、弟思いの一面が言われますが、それもまた今回の引退に絡んでいるのでは……という見方をされることもあります。
成宮寛貴氏(34)の親友という男性が11日、フジテレビ系「Mr.サンデー」に出演し、成宮が疲弊しきっていたことを明かした。男性は「本当は役者としてやっていきたいけど弟さんのこともある」と話し、成宮が弟のことを考えた上で引退を決めたのではとほのめかした。
コカイン疑惑は置いても、成宮寛貴さんが家族想いであることは紛れもない事実ですね。