読売新聞グループの本社代表取締役主筆として有名なナベツネこと渡辺恒雄さんですが、2018年11月になると死亡のデマが流れました。
渡辺恒雄さんの経歴や若い頃、結婚した嫁と息子、年収と資産、老害と言われる理由、そして現在までを総まとめしました。
この記事の目次
【ナベツネ】渡辺恒雄のプロフィール
出典:https://news.tv-asahi.co.jp
名前:渡辺恒雄(わたなべ つねお)
愛称:ナベツネ
生年月日:1926年5月30日
出身地:東京都杉並区
最終学歴:東京大学文学部卒業
渡辺恒雄、東大卒の資産家一家のボンボンだった
1926年5月30日に、現在の東京都杉並区に生まれた渡辺恒雄さんですが、8歳の時に父・平吉さんが胃がんで病死してしまうという悲劇が待っていました。
しかしながら、不動貯金銀行(現・りそな銀行)に務めていた平吉さんは、47歳の若さで病死するまでの間に、貸家を11軒も所有する資産家となっていたため、父親の死後に渡辺家が経済的に苦労することはなかったそうですね。
とはいえ、渡辺家の第3子ながら長男の立場であった渡辺さんは、母・花さんからとにかく勉強を頑張るようにと叱咤激励され続けるなど、子供時代からプレッシャーのかかる日々を送ることになりました。
【ネベツネ】渡辺恒雄の経歴~元々は叩き上げの敏腕政治記者だった
渡辺恒雄、東大生時代に学徒出陣で召集される
1939年4月より開成中学校に通うようになった渡辺恒雄さんですが、戦時体制が色濃くなる世相に反発し、反軍国少年へと成長することになりました。
41年に日本が真珠湾攻撃で宣戦布告をした当時の心情を、開成中学の生徒だった渡邉は後年、次のように回想している。
「僕らのクラスは天皇を『テンちゃん』とかいう呼び方をしていたぐらいだから、天皇崇拝などまったくなかった。教練の教官にも悪質なのがいて、これに対する猛烈な抵抗心があった。僕は先頭に立って反戦、反軍で、橋の上から下にいたその配属将校に向かって『開成のガン』と怒鳴ったことがあったよ」(『渡邉恒雄回顧録』中央公論社)
開成中学時代の渡辺さんは、上級生たちと共に蜂起し、軍国主義を吹聴する教員たちを襲撃して殴打する騒動を起こすなど、かなりの武闘派だったとか。
そんな反軍国主義者だった渡辺さんも、東京帝国大学(現東京大学)に進学した1945年になると、敗戦濃厚の気配の中で学徒出陣の憂き目となっております。
不幸中の幸いか、近衛師団に配属されることとなった渡辺さんは、実際に戦地に向かうことは免れたものの、上官から暴力を受けるなど、理不尽な目にあう機会は少なくなかったようですね。
渡邉と親交が深い、元政治評論家の三宅久之も言う。
「彼は東大哲学科時代に軍に召集され、そこで下士官から、天皇の名の下に殴られ、蹴られたという恨みが原体験になっている。靖国参拝にも批判的ですしね」
渡辺恒雄、終戦直後は共産主義者だった
終戦後の渡辺恒雄さんですが、共産主義者となり、日本共産党に入党していた時期もあったそうですね。
渡辺さんが共産主義者になった理由は、日本共産党の「天皇制打倒」の思想への共感が大きかったからだと言われております。
その年の8月、日本が敗戦すると、渡辺は復学。東大のキャンパスに戻ってみると、保守政党から社会党まで「天皇制護持」だったが、共産党だけが「天皇制打倒」を宣言していた。軍隊での暴行も、天皇の名の下に行われていた。「天皇制と軍隊の二つを叩き潰すためにどうすればいいか、それが共産党だ」と渡辺は考えた。
引用: 渡辺恒雄は元共産党員だった!! ナベツネは「天皇制打倒」の元共産党員だった! 保守系路線に鞍替えした理由とスパイ疑惑とは?
日本青年共産同盟のメンバーとなった渡辺さんは、持ち前の行動力を発揮し、共産主義者の同志たちと暴れまわり、多くの武勇伝を残しています。
同じ年の12月には、日本共産党に入党を申し込み、下部組織である日本青年共産同盟のメンバーとして活動を始める。街のビラ貼り、他の学校へのオルグなどから始まり、教員の解雇問題のあった女子校を実力占拠するなど、活躍した。母校である東京高等学校に行き、インターハイを目指す野球部員に「野球なんてくだらないものをする時ではない」と活動に誘ったこともある。
一時期は東京帝国大学内の学生党員200名のトップに立っていた渡辺さんでしたが、上意下達が当たり前な縦社会である日本共産党の体質に疑問をいだき、1947年頃になると、日本共産党から離れることとなりました。
だが渡辺はある日、「党員は軍隊的鉄の規律を厳守せよ」と書かれたビラを目にして、それまで自分が感じていた違和感にはっきり気づくことになる。共産党は上意下達のタテ社会であり、軍隊とそっくりだったのだ。天皇制を否定していた渡辺だが、「報いられることなき献身」を求めるマルクス主義は、神なき宗教だ、と確信する。「極左主義の克服」を主張した渡辺だが、抗争に敗れ、共産党本部から「警察のスパイ」とレッテルを貼られ、除名されることになる。
渡辺恒雄、一介の読売新聞政治記者から読売グループのドンに成り上がる
東京大学を卒業後は、読売新聞に入社することとなった渡辺恒雄さんですが、本人の中での本命は朝日新聞や中央公論社だったらしく、人相応の挫折も味わっています。
読売新聞入社後の渡辺さんは、いち政治記者の立場からスタートしたものの、1980年代になると権力闘争の勝利者となり、以降は読売グループの頂点に君臨し続ける独裁者的存在となりました。
創業者一族でもない渡辺さんが、読売グループを掌握する権力者となれた理由については、政治記者時代に大物保守政治家たちとの人脈を築いたことが大きかったと言われおります。
「ナベツネさんは、史上最も権力に食い込んだ政治記者。1950~60年代の政界の重鎮(じゅうちん)・大野伴睦(ばんぼく)の番記者として頭角を現し、以後もロッキード事件で有名になった右翼の大物・児玉誉士夫(よしお)、中曽根康弘元首相らと密接な関係を築き上げた。有名政治家の演説の草稿作りに関わったこともあると聞きます。善かれあしかれ、保守政党の中枢に食い込む読売政治部のスタイルを築いた人。今も政界に隠然たる影響力を誇示しています」
一方で、渡辺さんと保守派政治家たちとの交流は、識者たちからはジャーナリズムの腐敗という文脈上で批判されることも多く、読売新聞を自民党の広報誌にした人物との評も存在します。
【ナベツネ】渡辺恒雄の嫁は元女優の鍋島篤子~息子はエリート銀行マン
渡辺恒雄、1955年5月に女優をしていた鍋島篤子と結婚
渡辺恒雄さんは、1955年5月に女優やモデルをしていた鍋島篤子さんという女性と結婚しております。
歴史に詳しい方だとピンと来てしまう鍋島姓ですが、篤子さんは実際に旧佐賀藩主・鍋島氏の末裔だったようです。
具体的には、佐賀藩の9代目藩主・鍋島斉直さんの五男であり、後に分家の1つであった餅木鍋島家に養子へ出された鍋島直孝さんの末裔の1人が篤子さんだという話となっています。
ちなみに、餅木鍋島家は5000石の大旗本ということもあり、鍋島直孝さんは町奉行や大番頭といった大役を歴任している結構な大物だったとか。
渡辺恒雄の嫁はクモ膜下出血で倒れて認知症になっていた
サラリーマンとしては、いち政治記者の身の上から巨大メディアグループを掌握する存在へと成り上がった渡辺恒雄さんでしたが、私生活では痛恨のミスを犯してしまったこともあります。
渡辺さんが犯してしまった痛恨のミスとは、深夜にトイレに出かけてクモ膜下出血を起こして倒れてしまった篤子さんの危機に気がつかず、朝まで放置して2ヶ月もの間生死の境を彷徨わせてしまったこととなります。
渡辺さんが篤子さんの異変に気がつけなかった理由は、渡辺さん本人が提案した夫婦別寝室のせいだと言われております。
そのため、渡辺さんの中では余計に篤子さんに対する罪悪感が強かったそうですね。
篤子さんは、一命は取り留めたもののクモ膜下出血が原因で認知症になってしまったそうで、渡辺さんは息子夫婦や家政婦の力を借りながら、妻の介護を続ける日々が続くことになりました。
そんな篤子さんも十数年間の介護の末に、2017年10月に肝硬変のために87歳で亡くなっています。
篤子さんがクモ膜下出血で倒れて以降の介護の日々は、渡辺さんにとっては久しぶりに妻と向き合えた時間でもあり、篤子さんへの愛情を再確認出来た充実した日々でもあったようですね。
渡辺恒雄、息子・睦さんは三井住友信託銀行の専務だった
渡辺恒雄さんには、睦(むつみ)さんという息子もおります。
睦さんは、渡辺家の跡取り息子としてかなり厳しく育て上げられたようで、少年時代から大量の家庭教師を付けられて勉強の日々を送っていたようですね。
特に教育熱心だった渡辺さんは、時として自ら睦さんに勉強を教えながら鉄拳制裁を下したこともあったとか。
かなり息のつまる環境に育った睦さんでしたが、息子と裸で向き合うために、毎日のお風呂は可能な限り息子と一緒に入っていた渡辺さんの愛情を感じていたためか、特にグレることもなく育つことになりました。
青山学院大学経済学部を卒業後の睦さんは、中央三井信託銀行(現三井住友信託銀行)に入社し、現在は専務まで出世しており、父子2代で大物財界人となっております。
【ナベツネ】渡辺恒雄の年収~メインの資産は日本テレビ株だった
渡辺恒雄、読売新聞グループ本社社長時代の年収は1億3000万円
巨大メディアグループのドンとして君臨する渡辺恒雄さんだけに、気になるのはその年収の額となりますが、2004年の「週刊文春」の報道によると、読売新聞グループ本社社長時代の渡辺さんの年収は、納税額から逆算すると1億3000万円程度だったようですね。
もちろん、庶民からすると大変に高給取りな額ではありますが、読売新聞傘下のプロ野球球団「読売ジャイアンツ」のスター選手たちの年俸が数億円ということを踏まえると、意外に少ない額であるとも言えます。
渡辺恒雄の総資産は数百億円にも及んでいた
渡辺恒雄さんの資産額に関しては、前述の年収情報のソース元となった「週刊文春」記事内に驚愕の数字が存在します。
渡辺さんのメインの資産は日本テレビの株式であり、2004年時点で発行済株式の6.3%(時価265億円)もの株を所有する大株主だったことが確認されております。
とはいえ、この日本テレビ株に関しては、読売新聞グループ本社の最高権力者が代々引き継ぐ慣習になっていただけなため、渡辺さんにとっては名義上の資産というだけで、個人の自由に出来るような代物ではないとも言われていますね。
渡辺さんの2004年時点の実質的な資産に関しては、時価7億2000万円相当の都内の高級マンションに加えて、1966年と1986年に購入した土地などが存在した他、父・平吉さんが残した不動産物件なども健在だったようですね。
これらの不動産物件には抵当権などが一切ついていないことを「週刊文春」が確認しているため、渡辺さんの預貯金や(日本テレビ以外)の株式なども相当な額があることが推測出来ます。
【ナベツネ】渡辺恒雄は老害?~プロ野球人気衰退の戦犯と批判の的に
渡辺恒雄、読売ジャイアンツの球団オーナーとしては散々な評価
マスコミ業界では戦後の伝説的な存在でもある渡辺恒雄さんですが、畑違いの分野では酷評も存在します。
渡辺さんは、1996年よりプロ野球・読売ジャイアンツの球団オーナーに就任しておりますが、読売ジャイアンツを読売新聞のための販促ツールくらいにしか考えていなかったせいで、プロ野球人気凋落の戦犯とも称される迷オーナーとなってしまいました。
渡辺さんが野球ファンたちから特に嫌われることとなった原因は、時にリーグ脱退すら仄めかしながら、読売ジャイアンツに有利なシステムを作ろうとする利己主義的な言動にあったと言えます。
他球団の戦力ダウンも狙った読売のやり方、それを解って行くやつにムカつく💢
— パ・リーグ魂 (@pacificleage) 2018年12月11日
メジャーのように、FA獲得球団は移籍元にドラフト指名権を譲渡すべき
今は強奪したもん勝ち💢
それをさせない制度を作り、変えさせないナベツネが悪の権化💢
自チームの主力強奪されたら悲しいやろ💢
渡辺恒雄、FAでスター選手を乱獲して巨人人気を凋落させる
読売ジャイアンツのオーナー時代の渡辺恒雄さんが、野球ファンから不評を被った行為の代表例の1つとして挙げられるのが、FA制度を利用したスター選手の乱獲です。
日本野球機構(NPB)組織のいずれの球団とも選手契約を締結できる「国内FA」と、外国のいかなるプロ野球組織の球団も含め、国内外のいずれの球団とも選手契約を締結できる「海外FA」の2種類がある。「国内FA」権を取得するには原則として8シーズン、「海外FA」権を取得するには9シーズンの出場選手登録日数が必要である。また、一度FA権を行使して球団と契約した選手は出場選手登録が4シーズンに達したときに「海外FA」となる資格を取得する
渡辺さんからすると、当時視聴率20%が当たり前だった読売ジャイアンツにスター選手を集めることは、プロ野球界全体の利益に繋がるという言い分もありました。
しかしながら、清原和博さんや工藤公康さんといった当時のプロ野球界を代表するスターたちが読売ジャイアンツのみに集まっていく状況は、残りの11球団のファンたちを白けさせたことは言うまでもありません。
その結果、度を超えた読売ジャイアンツ中心主義に嫌気がさしたファンたちのプロ野球離れが進み、1990年代は常時20%を超えていた読売ジャイアンツ戦のテレビ中継視聴率が、2000年代に入って凋落するきっかけを作ることになりました。
渡辺恒雄、プロ野球再編問題で老害の代名詞となった
ただですら野球ファンの中で評判が悪かった渡辺恒雄さんの悪評が一般層まで広がることとなったのが、2004年に起こったプロ野球再編問題でした。
2004年6月13日にオリックスと近鉄の合併構想(=近鉄の球団保有権をオリックスへ売却した上で統合)が表面化。これに対し両球団のオーナー・経営陣があまりの事の唐突さに労働組合日本プロ野球選手会と野球ファンの猛烈な反発を受けた事がこの問題の発端である。
さらにこれを機に、経営難に陥っているパシフィック・リーグ各球団が人気のあるセントラル・リーグ球団からの救済を求めたことに加え、球界の独占的な支配を図っていると一般から見なされた読売ジャイアンツ(以下巨人。また肩書きも当時のもの)オーナー・渡邉恒雄を始めとした一部球団オーナーが球団数を大幅に削減しようと考えていたことにより、8 – 10球団の1リーグ制への流れが急速に進んでいったことも明らかになった。
オーナー同士の話し合いのみでプロ野球全12球団を8~10球団まで縮小しようとする動きに反発し、話し合いの場を求めたプロ野球選手会側に対して、渡辺さんは「たかが選手と話し合うつもりはない」という主旨の失言をしてしまいました。
7月8日、古田はオーナーと直接話をする機会をもらいたいか? と聞かれ「そうですね。いいですね。開かれた感じでいいことだと思いますよ」と答えた。
この発言を伝え聞いた巨人渡辺恒雄オーナーが口を滑らせる。「分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が。たかがといっても立派な選手もいるけどね。オーナーと対等に話をするなんて協約上根拠は1つもないよ」。古田の発言を誤解していた部分もあっただろう。ただ「たかが選手」という言葉は独り歩きした。球界再編の世論は、選手会を後押しする風向きに変わりだした。
権力を監視し、批判する立場であるはずのジャーナリスト出身の渡辺さんの権威主義的な失言は、多くの人間の失望と反発を呼び、渡辺さんは大バッシングを浴びるだけではなく、老害の代名詞となってしまうことにもなりました。
日経名物、私の履歴書。
— さざれ石の会 (@sazareishinokai) 2017年11月19日
ナベツネが昔ありました。
ジャーナリストのジャの字もない、日々社内抗争に明け暮れ、権力と寝たかを得々と書いていた。
たかが野球選手と見下す態度のクソジジイ。
いまだ訃報はない。まだか。
ナベツネが「たかが選手」と言ったことを、野球ファンだけでなく、スポーツを愛するすべての人は忘れないだろう。あの人のような老害の時代を終わらせるのは、古い体質にあきらめない勇気ある人の同時代の市民を信じる力だ。
— 今一生@固定ツィ見たらRT (@conisshow) 2013年12月29日
【ナベツネ】渡辺恒雄の現在~自身の死亡説を一蹴し健在ぶりをアピール
渡辺恒雄、2018年11月にツイッターで死亡説が流れる
渡辺恒雄さんは、2018年11月中旬になると、死亡説が流れる事態へと発展したこともありました。
渡辺さんに死亡説が流れた理由に関しては、読売新聞の東京本社にて、突然に幹部会議が開かれたことが原因だったようですね。
「じつは、昨日、読売本社で緊急のグループ幹部会議がおこなわれたという情報が飛び込んできた。そこから“ナベツネに何かあったのでは”という話が広がり、各社、取材に動きはじめたんです。ただ、いま現在は緊急幹部会が開かれたという話以上の情報がなく、まだ裏は取れていない。しかし、一方で健在を裏付ける具体的な情報も取れない。ナベツネも92歳ですから、なにがあってもおかしくない。それで、各社も訃報の予定稿準備や裏取り取材に走り回っているという状況です」
元々渡辺さんは、2018年8月中旬に自宅で転倒した結果、頸椎骨折して入院するなど、92歳という年齢もあり体がいよいよ衰弱してきた状況でした。
渡辺さんの死亡説に関してはネット上でも話題となりましたが、野球ファンのみならず、リベラル層からも嫌われていた渡辺さんに対しては、辛辣な言葉ばかりが送られることになりました。
74名無しさん@1周年2018/11/17(土) 14:26:53.97ID:Eyaa62JE0
ジャーナリズムを政府広報機関にしちゃったえらい爺さんやった・・・
82名無しさん@1周年2018/11/17(土) 14:27:50.51ID:YNM7VUR80
たんなる雇われ社長なのにこの扱いってのがコイツの傲慢さをよく表してるわ
どこの独裁者だよ
107名無しさん@1周年2018/11/17(土) 14:30:31.85ID:oJ43np8A0
別に選挙で選ばれたわけでもねえ新聞記者がなあなあで腐れ縁の
政治家たちと密室でつう昭和のノリが今は完全に無くなったかというとだな
118名無しさん@1周年2018/11/17(土) 14:31:35.49ID:+HFu4drQ0
ついに逝ったのか
この爺さんほど死んで惜しまれない人も少ないんじゃないか
渡辺恒雄、5か月ぶりの公の場で自ら死亡説を否定
ネット上で死亡説が盛り上がっていた渡辺恒雄さんでしたが、2018年12月になると、読売ジャイアンツの監督である原辰徳さんの記念パーティーに出席し、健在ぶりをアピールしております。
読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏(92)が10日、都内ホテルで行われた巨人・原辰徳監督の殿堂入りを祝うパーティーに出席。11月中旬にネット上で“危篤説“や“死亡説”のうわさが広がっていたが、約5カ月ぶりに公の場に姿を見せた。
取材対応はなかったが巨人・山口寿一オーナーによると、周囲には「死亡説が流されたから来たんだよ」とジョークを飛ばしていたという。この日は入院先の病院から駆けつけ、「帰る時は自分で歩いて帰っていきました」と明かした。
実際のところはパーティーには病院から駆けつけており、全開したとは言えない状況でもあった渡辺さんですが、自力歩行でパーティー会場を後にするなどしているため、重篤な状況でないことだけは確かなようですね。
【ネベツネ】渡辺恒雄について総まとめすると…
・渡辺恒雄は1955年に女優をしていた鍋島篤子と結婚。息子は三井住友信託銀行の専務をしている。
・渡辺恒雄は総資産は数百億円あるといわれ、読売新聞グループ本社社長時代のの年収は推定1億3000万円程あった。
・渡辺恒雄は老害独裁者と批判され、プロ野球人気衰退の戦犯といわれている。
・渡辺恒雄は2018年11月、ネット上に流れた死亡説を公の場で自ら一蹴し健在ぶりをアピールした。
反権力主義者だった青年が、年を取り権力の権化と化してしまうことは世間では良く聞く話ではありますが、渡辺恒雄さんほど180度方向性が変わってしまった人間も珍しいことは確かです。
老害と呼ばれないためには、多少の青臭さも残っていた方が良いという文脈上の話なのかもしれませんね。