「三菱銀行人質事件」などを起こしたことで有名な昭和を代表するシリアルキラーの梅川昭美ですが、その生い立ちはかなり不遇だったようですね。
この記事では、梅川昭美の生い立ちや父親と母親など家族、経歴、そして「三菱銀行人質事件」の肉の盾など詳細、鳴海清や角田美代子との関係、そして死因についてまとめてみました。
この記事の目次
梅川昭美の生い立ちとは…両親の離婚もあり家族に恵まれず不遇な幼少期だった
梅川昭美、少年時代に両親の離婚を経験していた
1948年3月1日に広島県大竹市で生まれた梅川昭美ですが、誕生時の父親が46歳、母親が42歳と典型的な「遅くできた子」だったそうですね。
とはいえ、女癖が悪く定職につかない無頼漢であった父親が闇金に借金まで重ねていたため、幼少期から極貧生活を送る羽目になってしまったと言われております。
その後、1956年頃に父親が脊髄を患い歩行困難となり働けなくなったことでさらに困窮することとなった梅川家は、1958年に両親の離婚という結末を迎えています。
両親の離婚後の梅川はいったんは父親に引き取られており、父方の実家のある香川県東かがわ市に引っ越すことになりました。
しかしながら、長男の身でありながら家を継がずに故郷を捨てた身であった父親の帰郷は、梅川一族からは歓迎されておらず、梅川もかなり居心地が悪い思いをしたそうですね。
そのため、1年程度で根を上げて家出をした梅川は、生まれ故郷である大竹市に戻り、母親の元で暮らすことを選びました。
梅川昭美、母親の苦労を他所にグレで高校を中退していた
大竹市に逃げ帰った後の梅川昭美に関しては、母親は家計を支えるために工場の炊事婦として朝から深夜まで働く毎日でしたが、本人は欲しい物をそれなりに買い与えて貰えるなど、かなり甘やかされていたと言われております。
また、母親の苦労を他所にすっかりグレてしまった梅川は、中学頃には悪友たちとつるんで外泊を繰り返すような不良に育ちました。
そのため、中学時代の梅川は、喫煙や暴行で補導されることも度々あったそうですね。
中学を卒業後は、苦しい家計の中でも私立の工業高校に進学させて貰った梅川でしたが、学校にはほとんど行かなかった上に、オートバイを盗んで逮捕されて中退する始末でした。
わずか4か月で高校を中退してしまった我が子の非行に悩んだ母親は、父親と相談をして復縁することで梅川の更生を図ったこともありました。
しかしながら、「親の心子知らず」を地で行く人間性だった梅川は、そんな両親の心情も理解せずに、実家を離れて大竹市内のアパ-トで1人暮らしを開始することになりました。
梅川昭美、15歳の若さで殺人犯にもなっていた
15歳の若さで独り立ちをした梅川昭美ですが、かといって真面目に働いて生活費を稼ぐタイプでもなかったため、強盗で遊興費や家賃を稼ぐことを思いつきます。
そんな梅川が標的に選んだのは、大竹市内にある(かつてのアルバイト先でもあった)土建会社社長宅でした。
1963年12月に実行された強盗事件では、現場で鉢合わせた21歳の女性(社長の義妹)を切り出しナイフでめった刺しにして殺害した後、現金や預金通帳を盗んで逃亡した梅川でしたが、翌日にあっさりと逮捕されています。
逮捕後も「他の奴らはぬくぬくと暮らし、何で俺だけが貧乏して苦しまないかん」との暴言を吐くなどまるで反省の色が見られなかった梅川ですが、未成年だったこともあり、少年院に1年半入所しただけで済むことになりました。
梅川昭美の少年院退所後…19歳の時に父親が死亡するも葬儀に出席せず
梅川昭美、少年院退所後は恋人も出来ていた
少年院を退所後の梅川昭美は、父親の遠縁の伝手を頼りに大阪に移住し、バーテンダーや飲食店のツケを回収する仕事をしていたと言われております。
また、「三菱銀行人質事件」までの間に数人の恋人が出来ていたらしく、更生に必要な環境などは整っていたそうですね。
とはいえ、女性に対する支配欲が絶大だった梅川は、恋人と喧嘩になると全裸にして家の外に放り出すなど、狂気じみた行動を取ることもあったとか。
そのため、20歳の頃より7年間も交際することとなった恋人もいたようですが、結婚に至ることはありませんでした。
また、基本的にだらしない人間でもあった梅川は、金融会社に借金を重ねていたりしました。
梅川昭美、19歳の時に父親が死亡するも葬儀に顔を出さなかった
順調とは言えないももの社会復帰が進んでいた梅川昭美ですが、19歳の頃に父親が亡くなってしまったそうですね。
父親の死に対して梅川は、葬儀に出席すらしないという冷酷な対応を見せています。
この辺の梅川の心情については、放蕩三昧だった父親のせいで困窮した日々を送ったことに対する怨念もあったのではないかと言われております。
また、強盗殺人事件を起こした過去のせいで親戚筋に顔向け出来ない状況であったため、葬儀を欠席せざるを得なかった部分もあったように思われます。
梅川昭美の意外な趣味…読書家でフロイトやニーチェも読んでいた
半生を辿ってみると、典型的なチンピラゴロツキの類に見える梅川昭美ですが、読書好きという意外な一面もあったそうですね。
梅川が愛読していた本の中には、アドルフ・ヒトラーやベニート・ムッソリーニの伝記という怪しげな本もあったりしました。
とはいえ、基本的にはジークムント・フロイトやフリードリヒ・ニーチェ関連の思想書や六法全書、医学書などを読むようなコアな読書家だったと言われております。
ちなみに、文芸小説では大藪春彦さんのファンだったと伝わっています。
梅川昭美が起こした「三菱銀行人質事件」の詳細…死因は射殺だった
梅川昭美、三菱銀行事件の動機とは?
刹那的な日々を送っていた梅川昭美ですが、1979年1月26日になると、「三菱銀行人質事件」を起こしています。
梅川が「三菱銀行人質事件」を起こした理由については、「借金で首が回らなかったため」との説が定説化しているそうですね。
梅川がどの時点で犯行を思い立ったかは不明ですが、凶器となった猟銃の所持資格を1977年頃に取得するなどしていたため、構想自体は昔からあったのかもしれませんね。
犯行前の梅川は、知人Aに命令して逃走用のライトバンを盗ませていた他、Aに犯罪の片棒を担ぐように要請していたものの断られてしまいました。
梅川昭美、三菱銀行人質事件を起こすも人質に逃げられて犯行が発覚していた
梅川昭美が大阪府大阪市内にある三菱銀行北畠支店に押し入ったのは、1979年1月26日午後のことだったそうですね。
梅川が北畠支店を標的に選んだ理由については、最寄りの警察署から車で3分以上かかる立地条件だったため、現金を奪って逃走するまで間に警察が到着する可能性が低かったためでした。
北畠支店に押し入った梅川は、カウンターでリュックサックに現金を入れるように要求した一方で、非常電話で警察に通報しようとした20歳の男性銀行員を射殺しています。
しかしながら、外に救助を呼びに逃げたお客が、自転車で警邏中だった警部補Bと鉢合わせて事情を説明したことで、予定よりも早く事件が発覚するアクシデントが発生します。
とはいえ、既に後戻りが出来る立場でもなかった梅川は、現場に駆け付けたBを射殺するなどさらに罪を重ねてしまうことになります。
また、隙を見て逃げ出した行員からの通報を受けてパトカーでやって来た警察官2名に対しても猟銃を発砲。防弾チョッキを着ていた巡査長Cは助かったものの、着ていなかった巡査Dは命を落とす羽目になっています。
その後、警察の増援が次々に到着したため銀行ごと包囲される状況に陥った梅川は、行員たちにシャッターを閉めるように命令して籠城を強行する選択をしました。
梅川昭美、警察に対抗するために肉の壁(盾)を作っていた
銀行に籠城して以降の梅川昭美は、人質にした行員・お客の内、親子連れや妊婦など4名を開放する人間らしい一面も見せました。
その一方で、行員に命令して非常用出口や階段を塞ぐバリケードを作らせた後は、腹いせに支店長を射殺して憂さ晴らしをしていたそうですね。
また、残りの行員対しては、女性は全裸に男性は上半身裸にしたうえで、自分を警察の狙撃から守るための「肉の壁(盾)」になるように命じていたと言われております。
その後、梅川は、狙撃隊から自分の身を守るために、男性行員全員を上半身のみ裸、女性行員には電話係を除く19人全員を全裸にさせ、『肉の盾』となるよう命令する。女性行員についてはただ脱がせただけではなく、じりじりと楽しむように服の脱ぎ方の順番までも指示していった。
引用:三菱銀行人質事件
それでも気が収まらなかった梅川は、非常時でも冷静沈着な態度だった中高年の男性行員Eに難癖をつけて猟銃を発砲しています。
この時の騒動では、とっさに身を交わしたため致命傷は免れていたEでしたが、梅川を刺激しないために死んだふりをしていたところ、怪しんだ梅川の命令で同僚に左耳を半分削がれる羽目になりました。
反射的に身をかわしたため、致命傷を逃れた行員は死んだふりをしていると、梅川は別の行員にナイフを渡し、「とどめを刺せ」と命じている。その行員が機転をきかせ、「死んでます」と答えると、「だったら、耳を切り落とせ」と命じる。行員は小声で「スミマセン」といいながら耳の上半分を切り落としている。
その後も不安定な精神状況が続いた梅川は、警察に食事やラジオ、新聞などの差し入れを要求した一方で、ラジオの手配が遅いことに腹を立てて猟銃を発砲した結果、警察官と人質の行員を負傷させたそうですね。
梅川昭美、3日間の籠城の末に射殺された
警察側が梅川昭美の素性を掴んだのは、知人Aが岐阜県内で職務質問に引っかかったことがきっかけだったそうですね。
そのため、警察側も梅川の母親や叔父を動員して投降するように説得していたものの、梅川が応じることはありませんでした。
その後の梅川は、こんな状況下でも自分の借金問題が気になったのか、人質の行員に命令して複数の金融機関に借金(総額500万円)を返済に行かせています。
梅川はその他にも稚拙な逃亡プランなども練っていました。
梅川は人質に自分の服を着せて、弾を抜いた猟銃を持たせるという偽装を行い、自身は人質の服を着て人質の中に紛れ込み「人質解放や!」と叫んで混乱に乗じ脱走する計画を練っていた
引用:三菱銀行人質事件
そんな梅川の迷走ぶりを他所に、警察側は銀行地下の金庫室に侵入し、ATMの陰から現場を監視できる体制を整えていたそうですね。
また、人質のトイレタイムを利用して情報交換をしたり警察側の作戦を伝えていたとか。
「三菱銀行人質事件」が解決したのは、1979年1月28日の午前9時前だったと言われております。
立て籠もり3日目ということもあり、疲労感から居眠りを始めた梅川の様子を見て好機と捉えた警察側は、特殊部隊SATの隊員7名を銀行に突入させることになりました。
突然の奇襲に対応出来なかった梅川は、計3発の銃弾を浴びてその場に倒れ込んでいます。
人事不省状態に陥った梅川は、大阪警察病院に運ばれて救命処置を受けましたが、その日の午後5時43分に死亡が確認されたそうですね。
梅川昭美の都市伝説…交際相手が鳴海清の元恋人で角田美代子だった?
三菱銀行人質事件、梅川昭美は人質同士のスワッピングを強要していた?
「三菱人質事件」では、一部週刊誌の報道のせいで、梅川昭美が人質たちにスワッピングを強要していたとの噂も発生していたそうですね。
しかしながら、警察に囲まれていつ射殺されるかも分からない状況の中で、梅川にそんな精神的余裕があったとは考えにくいため、こちらの報道について記事を売るためのデマだった可能性が高いように思われます。
梅川昭美、同棲相手が鳴海清の元恋人で角田美代子だった?
梅川昭美には、「三菱人質事件」時交際していた恋人が、「ベラミ事件」の犯人・鳴海清の元愛人で後に「尼崎事件」の主犯格の1人となった角田美代子だったとの都市伝説も存在します。
こちらの都市伝説の真相については、当時の新聞記事に書かれていた情報が元ネタだったそうですね。
ちなみに、「ベラミ事件」が起こったのが1978年1月であり、鳴海清の惨殺死体が発見されたのが1978年9月となります。
そのため、時系列を整理すると鳴海清の元愛人が梅川の恋人になっても辻褄は合うタイミングではあり、信憑性はそれなりに高そうな噂だったと言えます。
ただし、角田美代子の方は1948年生まれで梅川と同世代か1学年下の年齢だったため、「ベラミ」事件当時16歳だったと言われている鳴海清の元愛人とは年齢が合わない現実があります。
梅川昭美のその後…宇崎竜童主演で半生が映画化されていた
梅川昭美のその後については、その半生を題材とした映画「TATTOO<刺青>あり」が1982年に公開されています。
「TATTOO<刺青>あり」は、主人公を売れっ子作曲家であった宇崎竜童さんが演じたことでも話題となりました。
『TATTOO[刺青]あり』
— きためぐみ (@megumin808) September 6, 2020
所謂“梅川事件”を題材にした犯罪映画。犯行に至るまでの生い立ちを追った作りです。小心者が故のビッグマウスや暴力衝動に駆られる主人公を宇崎竜童が好演。美化とは言わないまでもその半生は余りにも生き辛そうで、思わず抱きしめてあげたくなります。 #1日1本オススメ映画 pic.twitter.com/TmosKnmBpV
梅川昭美についてまとめてみると…
梅川昭美については、立ち直るチャンスがありながらも自堕落的な生活を続けた結果、最後は大量殺人犯となってしまった人物ということになります。
梅川の起こした各事件の被害者の方々のご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。