「渋谷暴動事件」で機動隊員を虐殺したとして大坂正明に有罪判決が言い渡されました。
この記事では大坂正明の生い立ちや家族や結婚、大学など経歴、渋谷暴動事件の概要や指名手配後の逃亡生活から逮捕まで、裁判での判決や現在などについてまとめました。
この記事の目次
大坂正明は渋谷暴動事件で指名手配の逃亡犯で2017年に逮捕
大坂正明被告は、1971年11月14日に東京都渋谷区で発生した、共産主義の暴力革命を主張する過激派「中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)」が引き起こした「渋谷暴動事件」に幹部の1人として加わり、この事件で殉職した警察官の殺害に加わったとして2017年に逮捕された男です。
渋谷暴動事件で殉職した警察官の中村恒雄巡査(当時21歳)は、中核派に取り囲まれて鉄パイプで殴打されて失神した後、ガソリンをかけた上で火炎瓶を次々と投擲され全身が黒焦げになるほどの火傷を負わされて殺害されました。
この時の暴行と殺害に大坂正明被告も加わっていたとされ「殺せ殺せ」などと叫んでいたとの証言も出ています。
大坂正明被告は渋谷暴動事件後に逃亡。警視庁は1972年に大坂正明被告を殺人の容疑で全国指名手配して行方を追い、2016年には300万円の懸賞金もかけられていました。
そして2017年6月、大坂正明被告は事件から46年後にようやく逮捕されました。2024年1月の現在も裁判が続いておりその行方に注目が集まっています。
大坂正明の生い立ち
大坂正明被告の生い立ちについてはあまり情報がありませんが、1949年9月29日の生まれで、出身地は北海道帯広市である事などが明らかになっています。
大坂正明被告の出身中学は帯広第三中学に入学後に帯広第六中学に編入されて卒業したとの情報がありますが事実かどうかは不明です。
大坂正明被告は、中学卒業後は北海道立帯広柏葉高校(偏差値66)へと進学しています。中学、高校時代は野球部に所属しクラス会長も務めたといった情報が産経新聞などで報じられています。
関係者によると、大坂容疑者は北海道帯広市出身で中学、高校時代は野球部で活躍、クラス会長なども務め目立つ存在だった。
大坂正明の家族や結婚① 両親は既に他界
大坂正明被告が渋谷暴動事件での警察官惨殺に主導的な立場で関わっていた事が報じられると、大坂正明被告の家族も批判の対象とされました。
大坂正明被告の家族では両親と姉の存在が明らかになっています。
大坂正明被告の両親は既に死亡しているという事です。
大坂容疑者の母(故人)のDNA型と照合した結果、血縁関係があるとみて矛盾はないとの鑑定結果が出た。大坂容疑者の父親はすでに死亡しており、父系のDNA型が照合できなかったが、父系の親族男性から採取したDNA型を照合したところ、親族関係の可能性について否定しないとの結果が出たという。
大坂正明被告の父親は、事件まで大坂正明が共産主義の暴力革命を掲げる過激派になっている事を知らず、「(大坂正明を)東京になんかやるんじゃなかった(行かせるんじゃなかった)」と後悔の念を口にしていたという事です。
また、大坂正明被告の父親は、渋谷暴動事件に息子が主導的な立場で加わっており中村恒雄巡査を惨殺した主犯格として指名手配された事を知ると激怒して大坂正明を勘当し、実家にあった大坂正明被告の私物も全て焼却して家も引き払っています。
大坂正明被告の母親については、実家が北海道の開拓農民(未開だった北海道を開拓するため本土から移住した人々)だった事などがわかっています。
大坂正明の家族や結婚② 姉は結婚が破談に
大坂正明被告には姉が1人いる事がわかっています。
大坂正明被告が逮捕された後、家族とのDNA照合で本人である事が特定されましたが、この時に姉のDNA型との照合も実施されています。
大坂容疑者とみられる男については、警察当局が大坂容疑者の母親や姉と男のDNA型を照合し、血縁関係があるとみて矛盾がないとの鑑定結果が出たことが分かった。
事件当時の報道によると、大坂正明被告の姉は渋谷暴動事件後に退職を余儀なくされ決まっていた結婚も破談になったという事です。
大坂正明被告の姉は存命のようですが、その後の経歴や現在などの詳細は明かされておらず詳しい事は不明です。
大坂正明の家族や結婚③ 結婚していたという情報はなし
大坂正明が結婚していたという情報は出ていません。
大坂正明は渋谷暴動事件後すぐに全国指名手配されて逃亡生活を送っていたため、法的に結婚をする事は不可能だったと思われます。
また、大坂正明に内縁の妻のような存在がいたといった情報も現在の時点では確認できません。
大坂正明の経歴① 千葉工業大学で過激派「中核派」の活動家に
大坂正明被告は北海道立帯広柏葉高校を1968年3月に卒業後、同年4月に千葉県習志野市の津田沼の千葉工業大学へ進学して地元の北海道を離れています。
大坂正明被告は千葉工業大学在学中に共産主義の暴力革命を主張する過激派「中核派」の活動に参加するようになり各地の闘争現場に姿を見せていたという事です。
大学進学で北海道を離れ、千葉工業大に進むと様子が一変する。無口だったが討論では激しく相手を論破することも。在学中に中核派の活動に参加するようになり、その後は過激な活動にのめり込み数々の闘争現場に現れたが、逮捕されることなく「ノーマークの存在」(公安部OB)だった。
裁判での大坂正明被告本人の供述によると、大坂正明被告が大学在学中に中核派の活動に加わるようになったのは渋谷暴動事件の前年にあたる1970年頃だったようですが本人による供述なので真実かどうかまではわかりません。
また、大坂正明被告が大学在学中にどのような経緯で学生運動にのめり込むようになったのか詳しい事は不明ですが、大学1年の時に1960年の安保闘争で死亡した活動家の樺美智子さんのその遺稿集を読んで誠実な人だと感動して興味を持ち樺美智子さんの追悼集会に参加した事がきっかけになったと見られています。
その後、過激派である中核派に加わり、三里塚闘争や沖縄闘争に加わって現地に常駐して暴動に参加していたようです。
大坂正明被告は渋谷暴動事件の後に千葉工業大学を除籍になっており卒業はしていません。
なお、大坂正明被告の大学は「早稲田大学」との情報を記載しているウェブサイトがありますが事実ではなく誤情報です。
大坂正明の経歴② 渋谷暴動事件に加わる
大坂正明被告は、千葉工業大学在学中に過激派の中核派の活動に加わるようになり、沖縄返還協定批准阻止(アメリカ軍が沖縄などに駐留し続ける事などに反対)を名目(実際は中核派の組織維持を目的とした示威行為だったと見られている)として、1971年11月14日に渋谷宮下公園で開かられた中核派の集会「11・14 全国総結集・東京大暴動闘争」に参加しました。
集会に動員された中核派の構成員(大学生が中心)らは鉄パイプや火炎瓶などで武装し、警戒にあたっていた機動隊や警察車両、渋谷駅前派出所などに火炎瓶を投擲するなどの攻撃を加えました。この騒動が「渋谷暴動事件」と呼ばれています。
この渋谷暴動事件の中で、新潟中央警察署から援軍として派遣されていた機動隊小隊(27名)が激しい攻撃を受けて撤退に追い込まれ、最後尾で退却を援護していた機動隊員の中村恒雄巡査(当時21歳)が追い詰めらて、中核派構成員に取り囲まれて鉄パイプでめったうちにされました。
中村恒雄巡査は激しく鉄パイプで殴られた事で失神してその場に倒れますが、「殺せ殺せ」などと叫ぶ中核派構成員らに火炎瓶のガソリンをかけられた上で、「投げろ」の掛け声と共に次々と火炎瓶を投げつけられ、炎上して全身黒焦げになって死亡しました。
大坂正明被告は、この中村恒雄巡査虐殺時に指導的立場にいたと見られており、「殺せ殺せ」と怒号をあげていたとの目撃証言が複数出ています。
警視庁は中村恒雄巡査が虐殺された件について公安部に特別捜査本部を設置して捜査を進め、被疑者を次々と逮捕しましたが大坂正明被告は捕まらずに逃亡を続け、1972年2月2月21日に殺人の容疑で全国指名手配されています。
大坂正明が加わった渋谷暴動事件とは
大坂正明被告が加わった「渋谷暴動事件」についてもう少し詳しく見ていきます。
渋谷暴動事件の背景は極左暴力集団同士の抗争
大坂正明は共産主義革命のためには人殺しやテロリズムも辞さない「極左暴力集団」と規定される「中核派」に所属していました。
この中核派は当時、同じく極左暴力集団である革マル派などと激しく対立しており、1970年8月には中核派構成員が革マル派活動家を拉致し殺害した「東京教育大学生リンチ殺人事件」も発生。
これによって中核派の幹部や構成員が大量に逮捕されるなどして勢力が弱まり、その隙をついて革マル派などが勢力を拡大させました。
こうした情勢に危機感を覚えた中核派は示威を目的として、沖縄返還協定批准阻止を名目とした「11・14 全国総結集・東京大暴動闘争」を企図して渋谷宮下公園での集会とデモを計画し、武装蜂起を扇動しました。
集結した中核派構成員が警備にあたっていた機動隊や派出所を襲撃
警視庁はこの動きを受けて、近隣県からの応援部隊も含めて1万2000名の警察官を動員して警戒体制を敷きます。
1971年11月14日、渋谷宮下公園での集会とデモの申請が不許可とされ、警視庁は各地に警官隊を派遣して警戒にあたりました。
しかし中核派構成員らは、スーツ姿などに変装して警察の警戒網を潜り抜けて渋谷駅周辺に集結。中核派構成員らは同日15時頃、突如としてヘルメットをかぶり鉄パイプや角材(ゲバルト棒)、火炎瓶などを装備して武装蜂起し、警備にあたっていた機動隊や警察車両、渋谷駅前派出所などを襲撃し始めました。
機動隊の小隊が攻撃され機動隊員1人が惨殺される
この襲撃をまともに受けたのが渋谷区神山町神十山派出所周辺の警備を担当していた新潟中央警察署より派遣されていた関東管区機動隊新潟中央小隊27名でした。
中核派の構成員約150人の襲撃を受けた機動隊新潟中央小隊は、次々と火炎瓶を投擲されて多くの隊員が負傷して撤退を余儀なくされます。
この撤退の援護のために、暴徒鎮圧用のガス筒発射器(催涙弾発射用の銃器)を装備した隊員2名が最後尾に踏みとどまりますが、そのうちの1人の中村恒雄巡査は中核派に取り囲まれて孤立して商店のシャッター前に追い込まれて鉄パイプで袋叩きにされました。
中村恒雄巡査が失神してその場に倒れると、中核派のリーダー格(中核派内の呼称は部隊長)が、「殺せ、殺せ」などと叫び、それを受けた中核派構成員らは倒れた中村恒雄巡査の襟口から火炎瓶のガソリンを注ぎ込むなどしてガソリンまみれにしました。
そして、リーダー格の「早く殺せ」との命令を受けて、中核派構成員らは次々と火炎瓶を中村恒雄巡査に投げつけました。ガソリンまみれになっていた中村恒雄巡査はたちまち火だるまとなり、目撃者によれば5メートルにもなる火柱が上がったという事です。
増援を受けた機動隊員らが駆けつけた時には、中村恒雄巡査は全身真っ黒焦げの状態うずくまって倒れており、顔が判別できないほどの全身に重度の火傷を負い、搬送先の病院で死亡が確認されました。
中核派は民間の商店や山手線電車なども無差別に攻撃
武装蜂起した中核派の構成員らは、公権力の象徴として敵視する機動隊員や派出所だけでなく、渋谷区の民間の商店や警戒にあたっていた民間の自警団なども無差別に襲撃しています。
渋谷区の商店街は暴動を警戒して警備のために若い店員らで自警団を組織していましたが、中核派は彼らを「反革命分子」などと位置付けて襲撃のターゲットとし、渋谷区道玄坂の喫茶店は襲撃を受けて店舗を破壊され店員3人が重軽傷を負っています。
中核派は渋谷商店街の各店舗が防護のために設置していたベニヤ板を全て破壊して一箇所に集めて、自分達の勢いを誇示するかのように火を放って火柱を上げました。
また、渋谷区桜丘町では中核派の構成員約1000名が商店街が防護のために設置していたドラム缶や工事現場のベルトコンベアや資材などを盗み出し、国道246号線にバリケードを築いて封鎖するなどしました。
この他にも、はなから暴徒集団と化していた中核派の集団は警察施設12ヶ所だけでなく、公共施設2ヶ所、民家15軒に対しても火炎瓶の投擲や投石をして甚大な被害を与え、民間人十数人が負傷しています。
さらに、池袋駅山手線ホームでは中核派100名あまりが、機動隊の検問を逃れるために山手線車両へと逃げ込み、火炎瓶を暴発させて無関係な乗客5人に重軽傷を負わせています。
渋谷暴動事件での逮捕者は300人以上
渋谷暴動事件で、警察は中核派構成員の309人を現行犯逮捕し、その後の捜査で1972年までに、凶器準備集合罪、公務執行妨害、傷害、放火などの容疑で約20名を逮捕しています。
また、中村恒雄巡査殺害事件については別に公安部に特別捜査本部が設置され、1972年2月に高崎経済大学生の奥深山幸男ら3名を殺人の容疑で逮捕。さらにその自供により大坂正明被告と高崎経済大学の星野文昭の2人が殺人の容疑で全国指名手配されました。
星野文昭は1975年に女性用下着を万引きして逮捕され、その取り調べで星野文昭本人である事が判明し殺人の容疑で再逮捕されています。星野文昭は1987年に無期懲役の判決が確定。星野文昭は冤罪を主張して再審請求を行なっていましたが2019年5月30日に73歳で病死しています。
大坂正明の経歴③ 警察官殺害で指名手配され46年間にわたり逃亡
出典:https://www.news-postseven.com/
大坂正明被告は、渋谷暴動事件の中村恒雄巡査殺害の容疑で全国指名手配された後も46年間にわたって逃亡を続けました。
大坂正明の逃亡生活は中核派が組織ぐるみで支援していたと見られていますが、大坂正明は支援者について黙秘しているためその逃亡生活の詳細は現在もわかっていません。
ただ、大坂正明は中核派の支援者から、身分証を借りたり、安全な隠れ家を用意してもらったり、逃亡資金の援助を受けたりしていたと見られています。
大坂正明の逮捕後に捜査関係者が明かした情報によると、警視庁公安部は渋谷暴動事件後に大坂正明が千葉県市川市の中核派活動家の自宅に匿われた後、約2年にわたって複数の中核派の仲間の元を渡り歩いていた事を把握していたという事です。
しかしその後しばらくの間、大坂正明は行方をくらませて生死不明の状態が続き、捜査は暗礁に乗り上げていたという事でした。
捜査関係者によると、大坂容疑者は、事件から2年以内に千葉県市川市の活動家宅に短期間宿泊。公安部は、大坂容疑者がこの時期に複数の仲間の元を渡り歩いていたことも把握していたという。しかし、その後は生死も不明な状態が続き、捜査は暗礁に乗り上げていた。
2016年11月には、中村恒雄巡査殺害事件は捜査特別報奨金対象事件に指定され、大坂正明に対して最大300万円の懸賞金がかけられています。
大坂正明の経歴④ 2017年6月に逮捕
渋谷暴動事件の2年後からは行方をくらませて生死も不明になっていた大坂正明でしたが、2012年3月、警視庁公安部が東京都立川市の中核派の拠点(非公然アジト)となっていたマンションを家宅捜索し、大坂正明被告の逃亡計画に関連する暗号化された文書を発見。
捜査関係者によると、警視庁は昨年3月、立川市内で中核派の非公然アジトを発見。家宅捜索でパソコンや書類などを押収し、暗号を解読するなどした結果、大坂容疑者が病院で診察を受けるための計画書など、現在も活動を続けていることをうかがわせるデータが見つかったという。
これが手掛かりとなり、2016年1月には、東京都北区内の中核派の拠点となっていたマンションに数年前まで大坂正明が潜伏していた可能性がある事なども判明していました。
昭和46年に警察官が殉職した過激派による渋谷暴動事件をめぐり、殺人容疑などで全国に指名手配されている大坂正明容疑者(66)が、東京都北区の中核派アジトに数年前まで潜伏していた可能性があることが18日、捜査関係者への取材で分かった。
そして、警視庁公安部は2017年1月までに大坂正明の逃亡を支援していると見られる鈴木哲也という男を特定。この男の尾行を続け広島市安佐南区のマンションを中核派の拠点を特定して張り込みを続けていました。
2017年5月18日、大阪府警がこのマンションに踏み込み、そこにいた大坂正明を公務執行妨害で現行犯逮捕しました。
この逮捕後も大坂正明は自分の身元を黙秘しましたが、家族や親族とのDNA照合により大坂正明本人であると断定され、同年6月7日に殺人容疑で再逮捕されました。
大阪府警は5月18日、広島市の中核派の非公然アジトで警察官に体当たりしたとして、公務執行妨害容疑で大坂容疑者を逮捕。母親(故人)ら複数の親族とDNA型鑑定を繰り返したほか、身体的特徴などから本人を特定した。警視庁によると、大坂容疑者は逮捕時、無言だった。
大坂正明の一審判決は懲役20年(求刑無期懲役)
2017年6月28日、大坂正明被告は中村恒雄巡査に対する殺人と現住建造物放火、公務執行妨害、傷害、凶器準備集合罪の5つの罪で東京地検に起訴されました。
昭和46年の渋谷暴動事件をめぐり、東京地検は28日、殺人や現住建造物等放火などの罪で、過激派「中核派」の大坂正明容疑者(67)を起訴した。
引用:渋谷暴動事件の大坂正明容疑者を起訴 東京地検
大坂正明は送検後の取り調べでも終始完全黙秘を貫いていたという事ですが、弁護士は「容疑者は100パーセント無実」などと主張して即時釈放を求めていたという事です。
2018年3月26日、東京地裁で第1回公判前整理手続きが行われた際、それまで終始無言を貫いていた大坂正明は、名前を尋ねられ「大坂正明です」と答え、本人である事を認めています。
昭和46年の渋谷暴動事件で殺人罪などに問われた過激派「中核派」の活動家、大坂正明被告(68)は26日、東京地裁(永渕健一裁判長)であった第1回公判前整理手続きで、「大坂正明です」と述べ、黙秘から一転、本人であることを認めた。
大坂正明被告の初公判は2022年10月25日に東京地裁で開かれ、大坂正明被告は罪状認否で「すべての容疑が事実ではない」と無実を主張しました。
大坂正明被告(73)の初公判が25日、東京地裁(高橋康明裁判長)で開かれた。大坂被告は冒頭の罪状認否で「全ての容疑が事実ではない」と述べ、無罪を主張した。
2023年10月19日の公判では、検察側が無期懲役を求刑しています。根拠とされたのは、大坂正明被告が中村恒雄巡査の殺害に積極的に関与していた事を示す、当時の暴動参加者の目撃証言でした。
大坂正明被告(74)の公判が19日、東京地裁であった。検察側は「民主主義を暴力で破壊しようとした犯行で、反社会的で極めて悪質。他に類を見ない残虐で非道なリンチ殺人だ」として無期懲役を求刑した。
一方、大坂正明被告の弁護側は、2023年10月26日の公判で、当日大坂正明は渋谷暴動事件には加わったものの中村恒雄巡査への暴行や殺人の現場にはおらず一切関与していないと主張して無罪を求めました。
また、大坂正明は最終意見陳述にて、渋谷暴動事件を中核派が起こした正当性も改めて主張しています。
第1審の判決公判は2023年12月22日にあり、東京地裁の高橋康明裁判長は、大坂正明被告に対して懲役20年の判決を言い渡しています。
1971年11月に起きた渋谷暴動事件で、警察官を殺害したとして殺人などの罪に問われた過激派「中核派」の構成員・大坂正明被告(74)に対し、東京地裁(高橋康明裁判長)は22日、懲役20年(求刑無期懲役)の判決を言い渡した。
判決を言い渡した高橋康明裁判長は、複数の目撃者の証言が主要部分で合致しているとして「目撃証言は信用できる」とし、大坂正明被告らの犯行について「中核派が機動隊のせん滅などを呼びかけたデモの中で発生した犯罪」、「無抵抗になっていた警察官に多数で一方的に鉄パイプで激しい暴行を加え続け残虐非道」、「45年以上にわたり自分の刑事責任から逃げ続けた姿勢は厳しい非難を免れない」と指摘しました。
さらに、大坂正明被告と弁護側による暴行や殺人に一切関わっていないとする主張については、「大坂被告の弁解は罪を免れようとする虚偽の主張だ」と強く批判しています。
この裁判の傍聴席には中核派の関係者も訪れており、この判決を受けて法廷内は一時騒然とし、「ナンセンス。ふざけるな」などの怒号が飛ぶ事態となって、退廷を命じられる傍聴者も出ており、インターネット上では中核派関係者のモラルの低さを示す行為として受け止められています。
渋や暴動の殺人容疑者大坂正明の判決中に、傍聴席から判決ぬ不服の暴言を吐き強制退廷させられた非常識がいたらしい。推量するに中核派の関係者であることはほぼ間違いないと思う・・殺人など屁でも無いって事か。
— aprilaegeansea (@aprilaegeansea) December 22, 2023
大坂正明が明確にテロ行為である渋谷暴動事件自体は正当だったと主張した上で、中村恒雄巡査殺害については無実を主張している事や、未だに活動を続ける中核派がそれを組織的に支持し支援している事に対して批判の声が数多く上がっています。
1971年の渋谷暴動事件で警察官に対する殺人など5つの罪に問われた過激派「中核派」の活動家、大坂正明被告に東京地裁は懲役20年(求刑無期懲役)の判決を言い渡した
— きみのみかた (@KiminoMikataya) December 23, 2023
中核派はテロや殺人を反省することなく、いまだに活動している。https://t.co/WVdQrQpdtI @Sankei_news
大坂正明の現在…無罪を主張し控訴
1審での無期懲役の判決を不服として大坂正明と弁護側は即日控訴しています。
被告は「現場にはいなかった」などと無罪を主張したが、判決は起訴内容を全て認定した。弁護側は即日控訴した。
まとめ
今回は1971年11月14日に東京渋谷区で共産主義革命を主張する過激派集団「中核派」が引き越した「渋谷暴動事件」で、機動隊員の中村恒雄巡査を虐殺した罪などで懲役20年の判決を受けた大坂正明被告についてまとめてみました。
大坂正明被告の生い立ちについては1949年9月29日生まれの北海道帯広市出身。出身高校は北海道立帯広柏葉高校で、中学高校時代は野球部に所属しクラス会長も務めた事などがわかっています。
大坂正明被告の家族はすでに他界した両親と姉が1人いる事がわかっています。また、大坂正明が結婚していたという情報は出ていません。
大坂正明の大学は「千葉工業大学」で、大学在学中に学生運動にのめり込み中核派に所属して渋谷暴動事件以前から中核派による暴動にも複数回参加しています。
大坂正明の経歴は、千葉工業大学進学後に中核派に参加し渋谷暴動事件を起こした後逃亡し、全国指名手配され46年にわたって逃亡を続け2017年に逮捕されたというもので、まともな経歴は1つもありません。
大坂正明は2023年に懲役20年の判決が言い渡されましたが判決を不服として控訴しており、現在も勾留されています。