昭和を代表する連続殺人事件を起こした大久保清ですが、少年時代から異常な行動が目立ち、近所では評判の人物だったようです。
この記事では、大久保清の生い立ちや父親と母親、事件の詳細と死刑執行時の最期の様子、子供や子孫の現在まで総まとめしました。
この記事の目次
大久保清連続殺人事件の概要…41日間で8人もの女性を次々と殺害
「大久保清連続殺人事件」とは、群馬県高崎市に住んでいた大久保清(36)が群馬県下で起こした連続婦女暴行殺人事件です。
1971年3月31日から5月10日の短期間に、10代後半から20代前半の女性たち8人が犠牲となった痛ましい事件でもありました。
・1971年3月31日:17歳の女子高校生A(群馬県多野郡で殺害)
・1971年4月6日:17歳のウエイトレスB(群馬県高崎市で殺害)
・1971年4月17日:19歳の県庁臨時職員C(群馬県前橋市で殺害)
・1971年4月18日:17歳の女子高校生D(群馬県伊勢崎市で殺害)
・1917年4月27日:16歳の女子高校生E(群馬県前橋市で殺害)
・1971年5月3日:18歳の電電公社職員F(群馬県伊勢崎市で殺害)
・1971年5月9日:21歳の会社員G(群馬県藤岡市で殺害)
・1971年5月10日:21歳の家事手伝いH(群馬県前橋市で殺害)
大久保清の巧みなナンパ手口と犯行動機
大久保清、巧みな誘い文句とナンパ手口
大久保清が女性たちを誘い出した手口については、群馬県下のターミナル駅にて、「美大卒の絵かき」や「太田市の中学教員」を自称してナンパをしていたようですね。
当時の人気スポーツカーであった「マツダ・ロータリークーペ」に乗っていたうえ、それなりに整った容姿をしていた大久保清だけに、警戒感を抱かずにナンパに応じてしまった女性たちも多かったとか。
ちなみに、当該期間中に150人の女性をナンパしている大久保清ですが、30人もの女性たちとデートまで漕ぎつけており、その内の十数人と肉体関係を結ぶことになりました。
大久保清、殺害動機は女性からの拒絶や嘲りだった
女性にはそれなりモテた大久保清だけに、「大久保清連続殺人事件」の発端となるナンパについても当初は強姦殺人目的ではありませんでした。
そのため、誘い出した日に強姦・殺人にまで発展したケースは1例のみであり、ナンパに成功した女性たちとは、基本的に何度もデートを重ねていたようですね。
しかしながら、現実の大久保清は「美大卒の絵かき」や「太田市の中学教員」ではなく、高校を中退した前科持ちの無職でした。
そのため、大久保清とデートを重ねている内に身分詐称に気が付く女性も出て来ることになり、トラブルに発展するケースもあったとか。
最初の事件被害者となった女子高校生Aさんに関しても、「榛名湖畔にアトリエを持っている」との大久保清の言動に不審を抱き、デート中に「免許証を見せて欲しい」と要請して嘘を暴くことになりました。
その後、「兄が検察官なので警察に行こう!」と迫ったAさんでしたが、その発言が仮出所中の身の上だった大久保清を逆上させることにも繋がり、殺害されてしまいました。
Aさん以外の被害者たちについても、大久保清の身辺調査をして正体を掴んだことをデート中にバラして責めたり、嘲ったりした結果殺害されたようです。
大久保清の逮捕…7人目の被害者女性の兄の執念で事件が発覚
大久保清、1971年5月13日に逮捕
大久保清は、「大久保清連続殺人事件」の7人目の被害者となった21歳会社員Gさんの兄・Xさんの私的捜査がきっかけとなり、警察に逮捕されています。
大久保清にナンパされデートを承諾していたGさんは、1971年5月9日の夕方になると、「絵のモデルになる約束をしている」と家族に言い残し外出した後、近所の信用金庫の前で大久保清と合流しました。
その後の2人は、伊勢崎市内の喫茶店でお茶を飲んでドライブに向かったようですが、肉体関係を迫る大久保清を拒絶したせいで殺害されることになりました。
それまでに無断外泊をした経験がなかったGさんが、日付が変わっても戻って来ないことを不審に思った家族たちは、すぐにGさんの捜索に動き出すこととなり、会社経営者だったXさんは従業員や知人による捜索隊まで結成していたそうですね。
そんなXさんの執念はすぐに実ることになり、事件翌日となる1971年5月10日早朝には、Gさんの自転車が停めてあった信用金庫の前で不審な行動を取る大久保清を目撃しています。
Gの兄は地元の藤岡市内でGが外出に使った自転車を発見し、その場所を見張っていたところ、大久保が現れて自転車を手袋で撫でる仕草をした(指紋を消す意図があったため、不審に感じて話しかけると、大久保は自動車に乗って立ち去った。だがGの兄はその車種やナンバーを記憶しており、警察に連絡するとともに該当車種の販売店に照会して大久保の身元を割り出した。
引用:逮捕から自供まで
この時の騒動がきっかけとなり、大久保清が犯人だと確信を抱いたXさんと私的捜索隊は、同年の5月13日になると、カーチェイスの末に前橋市内の路上で大久保清の身柄を確保し、警察に引き渡すことになりました。
大久保清、黙秘を貫き捜査は難航していた
逮捕後の大久保清に関しては、Gさんの殺害自体は認めたものの、遺体の遺棄場所については一切の黙秘を貫き、警察に反抗をしていたようですね。
大久保清が警察に敵対心を持っていた理由については、過去の強姦事件の際に自分の言い分が聞き入られなかったことに対する恨みがあったとか。
そのため、最初の遺体(被害者A)を発見するまでに80日近い期間を要するなど、捜査は大苦戦を強いられましたが、警察側は最終的には無人の拘置所で孤立させる作戦を取ることとなり、供述を引き出すことに成功しております。
大久保清の歪んだ生い立ち…溺愛する母親と父親の異常な性癖
1935年1月17日に、群馬県高崎市内にある大久保家の7番目の子供(3男5女の三男)として生まれて来ている大久保清ですが、母方の祖父がロシア人のクォーターだったようですね。
大久保清の家庭環境はかなり歪な状況だったようで、国鉄の機関士をしていた父親は、子供の前でも性的な行為を行うような奔放的な性格だったうえ、息子(次男)の嫁にも手を出して離婚に追い込むようなアンモラルな人物でした。
一方で母親の方も、長男が早世していたうえに次男ともそりが合わなかったことから、大久保清を「ボクちゃん」と呼び溺愛する毒親だったとか。
大久保清の犯罪歴…小6で強制わいせつ事件を起こす異常な性癖の持ち主
大久保清、小6で強制わいせつ事件を起こす
少年時代の大久保清は、可愛らしい容姿をした美少年だったと言われておりますが、当時から自分の欲望をコントロール術を持たなかったようで、小学6年時に近所の幼女(4歳)を相手に「強制わいせつ事件」を起こしています。
当然ながら、幼女の親から猛抗議を受けた大久保家ですが、母親は謝罪することもなく「お医者さんごっこに目くじらを立てるな!」と大久保清を庇ったそうです。
大久保清、高校中退後は女風呂の覗きや万引き事件を起こす
中学を卒業後の大久保清は、群馬県立高崎商業高校定時制課程に進学したものの、すぐに退学してしまったそうですね。
退学後は、東京に上京して板橋区にある電器店で働き始めた大久保清でしたが、銭湯で覗き事件を起こしてしまい、クビになってしまいました。
その後も義兄(姉の夫)から支援を受けて、神田にある電機学校に進学した大久保清ですが、風俗遊びにハマるなど身持ちを崩してしまい、結局、実家へ帰郷することになりました。
帰郷後の大久保清は、父親からの援助を受けて、1953年4月よりラジオ修理販売店を開業しておりますが、素人同然の知識と技術しか持たなかったため、すぐに経営が悪化して金欠状態になってしまったとか。
追い詰められてしまった大久保清は、ストレスからか高崎市内の同業者の店で万引きを繰り返す奇行を続けたため、警察に逮捕されております。
この時は、父親が被害を全額弁済したため不起訴処分で済んだ大久保清でしたが、ラジオ修理販売店の方は廃業せざるをえなかったようですね。
大久保清、立て続けに婦女暴行事件を起こして逮捕
ラジオ修理販売店を廃業後の大久保清に関しては、1955年7月になると、大学生を装ってナンパした女子高校生を襲い、強姦するといった事件を起こしています。
この時は初犯ということもあり、「懲役1年6ケ月 執行猶予3年」の判決が下り服役を免れていた大久保清でしたが、同年の12月に再び強姦未遂事件を起こしてしまい、初犯時の刑期も加えた「懲役3年6ケ月」の実刑判決が下ることになりました。
その後「松本少年刑務所」に収監されることとなった大久保清ですが、これまでの荒んだ生き方とは裏腹に、愛想が良く人当たりが良い性格をしていたため、周囲からは模範囚と認識されていたようで、1959年12月に仮出所を勝ち取っています。
しかしながら、実際のところは過去の悪行を反省していなかった大久保清は、1960年4月に、今度は全学連の活動家を装いナンパした女子大生を実家に誘い込み、強姦未遂事件を起こすといった大胆不敵な行動を取ります。
本来は再び収監される定めにあった大久保清ですが、両親が奔走した結果、被害者との間に示談が成立したため、不起訴処分となったそうですね。
大久保清、結婚後も婦女暴行事件を起こして服役
結婚しても生来の女好きの気が抜けず、車で街に出てはナンパを繰り返していたという大久保清ですが、牛乳販売店の経営が上手く行かなくなったストレスからか、再び強姦事件を犯してしまいます。
・1967年2月24日:20歳の短大生(車内で強姦)
服役中の大久保清には、逮捕後に実家に戻っていたIさんからの離婚の申し入れがあったものの、「出所するまで待って欲しい」と主張し、話をはぐらかしていたそうですね。
大久保清の結婚した嫁と子供について
大久保清、結婚後は牛乳販売店を経営していた
大久保清は、1962年5月に前年から交際を開始していた女性・Iさんと結婚しています。
2人の馴れ初めはナンパだったうえ、大久保清は偽名を使いながら交際していたため、Iさんは結婚後に初めて夫の素性や本名を知ったそうですね。
その後の大久保清は、妻の実家から援助を受けて、1964年9月より牛乳販売店を営業開始することになりました。
牛乳販売店については、当初は経営が好調だったものの、1965年6月になると、牛乳瓶を盗もうとした少年とその家族との間にトラブルが生じます。
本来は被害者の立場だった大久保清でしたが、示談金を要求するといった強圧的な対応が恐喝と判断されてしまい、逮捕されて「懲役1年 執行猶予4年」の有罪判決が下る結末が待っていました。
この騒動がきっかけで、Iさんに前科を知られることとなった大久保清は、牛乳販売店の経営まで不振に陥ることとなりました。
大久保清、仮出所後は嫁との関係修復を迫り続けていた
服役中の大久保清は、府中刑務所の方に収監されていたようですが、周囲からは相変わらず模範囚と認識されていたそうで、1971年3月2日に仮出所を勝ち取っています。
仮出所後の大久保清は、妻と再び一緒に暮らすことを望んでいたものの、夫の狼藉ぶりに堪忍袋の緒が切れていたIさんは、徹底拒否の姿勢を貫くことになりました。
それでもしつこく妻の実家に訪ねに行った大久保清は、実兄が「弟と復縁をしない方が良い」と申し入れに来ていたことまで知ることとなり、周囲に対する憎悪の念が生じてしまったとか。
妻の実家を訪れた際に、義母から大久保の次兄が(大久保の両親も含めた家庭事情から)同居しない方がよいと申し入れたと知り、さらに次兄および両親から申し入れが事実と聞かされた。大久保は連続殺人での逮捕後に、この一件で将来に絶望し、彼らを道連れに殺人に手を染める決意をしたと述べている。
引用:事件発生
とはいえ実際の大久保清は、「大久保清連続殺人事件」において、デート中にトラブルにならなかった女性に関してはそのまま帰しているため、上記の供述は後付けの言い訳だった可能性が高そうです。
愛車の「マツダ・ロータリークーペ」については、仮出所後に「室内装飾品販売」を起業する予定だったため、営業に必要だと言い張り両親に買って貰っていました。
大久保清、嫁との間に子供が2人いた
大久保清には子供が2人おり、1963年に長男、1965年に長女が生まれています。
そのため、2人の子供が誕生した後に凶悪事件を起こしたことになる大久保清ですが、逮捕後の精神鑑定で「精神病はないが、思いやりのない自己中心的な性格をしている」と評されただけあり、父親の自覚などはなかったのでしょうね。
大久保清の最期…死刑執行直前に腰を抜かし失禁
「大久保清連続殺人事件」に関しては、1973年2月に前橋地裁で死刑判決が下った後、大久保清の意思で上告しなかったため、死刑が確定することになりました。
──死刑判決を受けた瞬間、なにを思ったか。
大久保 覚悟していた。特別の感動はなかった。べつになんともなかったヨ。その晩だってよく眠れたしね……。社会は死刑にしなきゃならないだろうし、オレ自身も死に値すると思っている。
自身の死刑判決に対しては、上記のように達観した様子で語っていた大久保清でしたが、1976年1月22日の死刑執行日に係官が迎えに来た際は、腰を抜かし失禁し、引きずられて死刑台に向かったとの逸話が残っています。
大久保清の犯罪がビートたけし主演でドラマ化
あまりにもショッキングだった事件だけに、大久保清の死刑執行後は、映画やドラマ、小説の題材にもなっています。
死刑が執行された1976年には映画『戦後猟奇犯罪史』が公開、1983年にはビートたけしさん主演で『昭和四十六年 大久保清の犯罪』も放送され話題となりました。
『昭和四十六年大久保清の犯罪』はシナリオや演技もいいけど、主人公の実家のセットと思えないほどのつくり込みや死体を埋める映像の美しさ、ストップモーションの見事さなどにも感嘆。このころのTBSはすごい。『ふぞろいの林檎たち』1作目の直前?の手塚理美も登場。#池端俊策 #ビートたけし pic.twitter.com/wWg4Gm9G2i
— 私の中の見えない炎 (@namerukarada) December 20, 2019
また、1990年には曽野綾子さんが事件を題材にした小説『天上の青』を刊行しています。
大久保清の子供や子孫の現在…親族は実家のある高崎市内で未だに生活
大久保清には、前述の通り1960年代前半から中盤にかけて2人の子供が生まれています。長男は1963年生まれ、長女は1965年生まれです。とはいえ、妻子も全面的な被害者でしかないうえ、逮捕後に離婚も成立していました。
そのため、妻子に対する後追い取材はしていないようで、大久保清の子供たちのその後については不明です。
また、大久保清には2人の子供がいることは間違いないものの、子孫がいるかどうか不明となっています。子供は普通の生活を送っていると見られているので、子孫がいてもおかしくはありません。
ちなみに、大久保清の親族などは、事件後も実家付近に住み続けているようで、現在も存命だとか。
大久保清についてまとめると…
・大久保清はロシア人ハーフの母親に溺愛されて育つも、小6で強制わいせつ事件を起こすなど少年時代から性犯罪を繰り返していた
・大久保清は1962年5月に結婚し子供が2人誕生、一時は牛乳販売店を経営していた
・大久保清は1976年1月22日に死刑が執行され死亡、執行前は腰を抜かし失禁していた
・大久保清の子供や子孫の消息は不明だが、親族は未だに高崎市内で暮らしている
昭和を代表する殺人鬼の1人である大久保清ですが、「大久保清連続殺人事件」以前より素行の悪さが目立ち、前科4犯の身の上だったことになります。
「大久保清連続殺人事件」の被害者たちのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。