坂本九さんは世界的な名曲『上を向いて歩こう』などで知られる歌手です。私生活では女優の柏木由紀子さんと結婚し子供にも恵まれましたが、1985年8月に起きた日航機墜落事故のため43歳で亡くなりました。
ここでは坂本九さんの若い頃の写真や柏木由紀子さんとの馴れ初めから結婚まで、子供情報、日航機墜落事故死による死因・遺体・遺書などの詳細、そしてその謎多き飛行機事故の真相についてまとめています。
この記事の目次
坂本九のプロフィール
坂本九(さかもときゅう)
本名:大島九(おおしまひさし)
出身地:神奈川県川崎市川崎区
生年月日:1941年12月10日
没年月日:1985年8月12日(43歳没)
職業:歌手・俳優・タレント等
デビュー:1958年頃
坂本九さんは高校時代からロックに傾倒し、1958年に『井上ひろしとザ・ドリフターズ』に加入しました。当初は活動がうまくいかず一時引退をしましたが、芸能関係者からの引き止めを受け、『ダニー飯田とパラダイス・キング』のメンバー(移籍)となり1959年には『題名のない唄だけれど』でデビューを果たしています。
1960年になるとソロ転向した初シングル『悲しき六十才』がヒットし、1961年には世界中から愛された名曲『上を向いて歩こう』をリリース。アメリカでは同曲が100万枚以上のセールスを記録するなどして、日本人として初めてのゴールデングラフ賞を受賞しました。
その後も『見上げてごらん夜の星を』や『明日があるさ』、『幸せなら手をたたこう』、『涙くんさよなら』などのヒット曲を出し、レコードの売上数は世界で1500万枚以上にも達しました。また音楽活動以外にも俳優・タレント・司会者業等を行い、また福祉・慈善活動にも熱心だったことでも知られています。
1985年にはレーベルを移籍し再び歌手活動に本腰を入れる兆しが見られましたが、同年8月に起きた日本航空123便墜落事故に巻き込まれ亡くなりました。
坂本九の若い頃…ドリフターズの初期メンバーだった
坂本九さんの若い頃①学生時代より
こちらは1956年の写真で、学生時代の坂本九さん。隣は姉・八千代さんだそうです。
坂本九さんの若い頃②ドリフを3ヶ月で脱退
バンドボーヤと呼ばれる付き人を経て1958年8月にドリフターズにギターとして加入するも同年11月には早々に脱退。
こちらの画像は1959年の映画『青春をかけろ』で、左から2番目が坂本九さんです。この頃はダニー飯田とパラダイス・キングに所属していました。
坂本九さんの若い頃③『上を向いて歩こう』より
世界的な名曲が発売されたのは、1961年のことでした。
坂本九さんの若い頃④映画『坊ちゃん』より
1966年公開の映画『坊ちゃん』。隣の女性は若き頃の加賀まりこさんです。
坂本九さんの若い頃⑤新婚旅行のパリより
(「パリへ」柏木由紀子ブログ)この写真は奥様の柏木由紀子さんとの新婚旅行のときのものだそうです。1972年頃。
坂本九さんが亡くなる少し前
こちらは『スター誕生』の司会をつとめていた頃(1981〜1982年頃)の写真です。隣は石野真子さん。
坂本九さんは若い頃からあまり変わらない印象ですね。そのくしゃっとしたような笑顔が素敵です。
坂本九の嫁・柏木由紀子との馴れ初めから結婚まで
坂本九の嫁・柏木由紀子のプロフィール
柏木由紀子(かしわぎゆきこ)
本名:大島由紀子(おおしま)
出身地:東京都世田谷区
生年月日:1947年12月24日
職業:女優、歌手、タレント
デビュー:1964年
所属事務所:坂本九音楽事務所
柏木由紀子さんは、幼少期から歌劇団・劇団などに所属しており、その後は少女向け雑誌のモデルを経て、1964年(高校生の時)に映画『明日の夢があふれている』で女優デビューしました。以降は、女優や歌手としても活動しています。
結婚後は芸能活動が減少しましたが、夫とともにチャリティにかかわり、その事故死後には講演活動や子供たちとのユニット『ママエセフィーユ』を結成し、坂本九さんの楽曲カバーを行うことも。なお坂本九さんとの死別後は、独身を通しています。
坂本九と柏木由紀子の馴れ初め
坂本九さんと柏木由紀子さん
1968年に出会い、1970年頃に交際を開始し1971年8月に結婚!(当時29歳の坂本九さんと6歳年下の柏木由紀子さん)
二人の交際のきっかけは、坂本九さんからの2度に渡るアプローチからでした。
撮影スタジオで初めて会った時、坂本さんから台本の切れ端に電話番号を書いた1枚のメモを渡された柏木だったが、連絡はしなかった。その1年後、再び、坂本さんの楽屋で再会すると、「ちょっと待って」と再び、電話番号を書いたメモを渡されたという。それをきっかけに交際をスタート、1971年に2人は結婚する。
その時に渡された電話番号のメモを、柏木さんは未だに2つとも持っているそうです。
2人は交際中に毎夜電話で語らい愛を育み、1年程度の交際を経てゴールイン。結婚式は坂本九さんやその母親が深く信仰していた笠間稲荷神社(茨城県笠間市)で挙げ、新婚旅行はヨーロッパに行きました。
結婚生活は楽しいものだったようで、2019年にも以下のように柏木さんは振り返ります。
最近年をとったせいでしょうか昔の事を思い出したり、幸せだった、彼との思い出にふける事が多くなった様に思いますいつか、生まれ変わったらあの日からの、閉ざされた続きを彼ともう一度出来たらいいな〜〜なんて思ったり!!
柏木由紀子さんは、自身が再婚しない理由について「(夫・坂本九さんは)私にとって存在が大きい」からと語っています。結婚生活は14年間でしたが、柏木さんにとって坂本九さんとの思い出は多くのものを残したのでしょう。また現在も坂本さんと暮らしたお家で暮らされているそう。
ちなみに柏木由紀子さんは夫の死後の印税について「それほど多くない」と話しています。理由は坂本九さんの場合は歌唱印税のみで、作詞・作曲は別の人が担当していたから。そのため作詞作曲を手がけ歌まで自分でうたう人と比べると、印税は少なくなります。
(※ただヒット数が桁違いですので、”思ったより”少ないという感じなのかな…と。柏木さんのブログではご自宅の画像が背景としてよく写っていますが、かなりの豪邸ですし)
坂本九の子供は娘が2人…長女・大島花子は歌手、次女・舞阪ゆき子は元宝塚
坂本九の娘① 大島花子
大島花子さんは1992年に女優としてデビューしました。その後は方向転換しアーティスト活動を開始。私生活では知人を介し知り合ったブラジリアン柔術道場主宰の6歳年上男性と5年間の交際を経て2006年に結婚、2009年には第一子男児が誕生しました。
第一子誕生後に行うようになった親子コンサートでは、歌で『はらぺこあおむし』の読み聞かせを行う手法が話題になりました。また大島花子さんは現在自身の歌手活動のほか、母親の柏木由紀子さんや妹とともにコンサートなどのイベントを開くこともあります。
以下は父親との思い出を語る大島花子さん。彼女が歌手を目指した出発点も坂本九さんの存在が影響しているようです。
「父がたまたま家にいたんですよ。1日一緒だったかは記憶にないんですが、普通に暑くて、甲子園をやってて、母がカキ氷を作ってくれて…なぜか炎天下の中、庭掃除をしている」
父の思い出はたくさんあるが、大島にとってはこの光景が最も「キラキラ輝いている」ものだという。一見すれば何げない日常だが、実はこの思い出が大島を歌手への道へ向かわせた。「子供を叱っているかもしれない、こうやってお話ししているかもしれない、そういう何でもない日常がすごく大切なんじゃないか、いま生きていることがどれだけ輝いていることなのか。これを伝えるために、歌っているんです」
坂本九の娘② 舞坂ゆき子
舞坂ゆき子さんは宝塚歌劇団出身で現在は女優・歌手活動のほか、2012年からはドッグウェアブランド『chu♥che(クーチェ)』を立ち上げています。私生活では2013年に1歳年下の男性と結婚しており、2015年には第一子男児が誕生。
父・坂本九さんとの思い出を語る舞坂ゆき子さん。
「父とのいちばんの思い出は、毎年、お正月にハワイに連れていってもらったことですね。日本ではなかなか、普通のことが普通にできなかったんです。ゆっくり家族との時間を過ごせて――ビーチやプールに出かけたり、ショッピングをしたり、楽しかった……。これがいちばんです」
坂本九が亡くなった飛行機事故…日航機墜落事故の真相とは
520名が亡くなった日航機墜落事故の概要
坂本九さんの飛行機事故について
日航機墜落事故/日航ジャンボ機墜落事故/日本航空123便墜落事故
機体:JAL123便(羽田空港(東京)→伊丹空港(大阪))
機種:ボーイング747SR-46
事件日時:1985年8月12日 午後6時56分頃
墜落現場:群馬県多野郡上野村高天原山の山中(御巣鷹の尾根)
犠牲者数:乗客・乗務員を含む520名/生存者数:4名
事故原因について(運輸安全委員会HPより)、
事故は後部圧力隔壁の不適切な修理に起因し、隔壁が損壊したことにより、 胴体後部・垂直尾翼・操縦系統が損壊し、飛行性能の低下と主操縦機能を喪失したために生じたと推定しています。
事故の起因となった「不適切な修理」は、1978年の日本航空115便しりもち事故後の修理によるものです。この時の修理ミス(担当:ボーイング社)が、日航機墜落事故につながったという事故原因が事故調査委員会から報告されました。
日航機墜落事故はお盆入り前の夏休み中の航空便で、その席はほぼ満席…そのため500名を越える死者を出すという大惨事になりました。
亡くなった人のなかには坂本九さんのほかにも、元宝塚女優・北原遥子さんや阪神タイガース社長・中埜肇さんなど複数の著名人が乗っており、いずれもその犠牲者となりました。また搭乗予定だったのに回避した有名人もいて、明石家さんまさんや稲川淳二さんなどがそうだったと告白しています。
日航機墜落事故の墜落現場には「御巣鷹山慰霊碑」(昇魂之碑)が建てられ、毎年8月12日に慰霊登山が行われています。坂本九さんのご家族も、慰霊登山に参加することがあるようですね。
日航機墜落事故で噂される陰謀説
日航機墜落事故はすでに調査委員会による報告が終わっており、平成23年には不可解な事故経緯や疑問点などから、「報告の解説書」まで公開されました。
日本航空123便の御巣鷹山墜落事故に係る航空事故調査報告書についての解説
しかしそれでも付いて回る「日航機墜落事故の陰謀説・真相」。これらは事故原因とされる「後部圧力隔壁の不適切な修理に起因し、隔壁が損壊」によって起こるはずの”急減圧”が、生存者などの証言からなかったのではないか、という見方からくるものです。
その「日航機墜落事故の陰謀説・真相」の代表的なものが以下の2つです。
①機体構造不良によるフラッタ現象(風や気流などを受けて破壊的振動)での垂直尾翼損壊説
これは修理ミスなどではなく、もともと機体に不良があったが故に引き起こされたという見方ですね。
②自衛隊が撃墜した説
自衛隊のミサイルによって撃墜されたというビックリ説ですが、これは、さまざまな人が著書などで扱っている有力説のようです。
たとえばですが、『日航123便墜落の新事実』という本では証言集めや文献調査のもと、以下のように触れていたといいます。
日航123便を2機の自衛隊ファントム機が墜落現場まで追尾していたこと。そして、それとは別に赤い飛行物体が123便に張り付くように飛行していたこと。さらに、遺体がまるで二度焼きしたかのように完全に炭化し、現場にはガソリンとタールの混ざったような異臭がしていたということなどだ。
それらの事実から、著者は自衛隊の訓練用非炸薬ミサイルが、日航機を撃墜してしまい、証拠隠滅のため、火炎放射器で、現場を焼き尽くしたのではないかとした。私は、火炎放射器の部分については、正直言って、消化しきれずにいた。しかし、本書では、遺体の状況を厳密に分析したうえで、上野村に残された機体の残骸を最新の化学分析を行うことで、ジェット燃料以外の強力な燃料で焼かれたことを証明したのだ。
ただいずれの説も、日本航空123便の御巣鷹山墜落事故に係る航空事故調査報告書についての解説などにより否定されています。(①は機体開発時の実験でもフラッター現象などは確認されていない。②機体残骸に火薬などの爆発物は確認されていないなどの理由から。)
日航機墜落事故については事故調査が不十分なまま打ち切られたことや、原因とされた修理ミスを起因とする後部圧力隔壁損壊という見方に多くの疑問が呈されたため、事故発生直後から「真相・陰謀説」が言われていました。
当時の中曽根総理はこの事故について「真実は墓場まで持ってく」と言ったとか、言わなかったとか…。(※この中曽根元総理の言葉には諸説あり、日航機墜落事故について言ったものではない可能性もあるそう)
どちらにしろ520名もの尊い命が墜落事故により失われたことは、日本にとってあまりにも大きな損失です。
坂本九の死因と遺書…遺体の損傷が激しく即死だった
坂本九さんの航空事故死
坂本九さんの死因は「墜落死」あるいは「航空事故死」とされます。これは彼だけではなく、日航機墜落事故で亡くなった人全てに当てはまる死因ですが、やはり人それぞれ詳細の死因や遺体の状況は異なり、特に航空機のどこに座っていたかでだいぶ変わってくるようです。
飛行機前部…尾根に激突したため遺体の損傷が激しく、燃料タンクもあり火災に巻き込まれたものも。
飛行機後部…激突や火災から逃れられ、遺体は比較的そのまま残されていたものが多かった。しかし機体分断後には数百m落下したためこちらの乗客等もだいたい即死した(※奇跡的に助かった生存者4名は後部座席の客)。
やはり墜落でかかったGは凄まじく、乗客・乗務員のほとんどが即死・あるいはそれに近い状態だったといいます。個別の死因はあまりわかっていませんが、たとえば女優・北原遥子さんは死因は脳挫傷と内臓破裂とされ、遺体の状態は比較的そのまま残されていたとされます。
坂本九さんの死因・遺体の状況はどうだった?
では坂本九さんの場合はどうだったのでしょう。
今ならば大物芸能人が乗る座席はビジネスクラス以上かな?と浮かびますが、当時はモノクラス制の飛行機。ただジャンボ機のような大型で著名人が好んで利用していたのが少数しか座れない二階席で、坂本九さんもその「2階席の右列前方から4番目(64列)」に座っていました。
そのため位置としては「飛行機前部」となります。
wikiによると、遺体の状況などは以下の通り。
遺体は損傷が激しかったが、普段から身に着けていた笠間稲荷のペンダントが胸に突き刺さっていた事と首の太さが確認の決め手となった。また、墜落現場では両手で足首を掴み頭を膝の中に入れる「安全姿勢」をとった状態で発見されており、即死状態であったという
引用:坂本九wiki
(または、歯の治療痕で身元が判明したという報道も。)
当時の報道によると、状況はやはり凄惨で体の一部分のみだったというものもありました。奥さんの柏木由紀子さんは、その遺体の状況のひどさから、慰霊登山などもできず飛行機にもしばらく乗れないほどのトラウマになってしまったといいます。
ただ犠牲者のなかには最後まで身元不明の方も多かったといいますので、それを考えれば、身元が判明しただけでも良かったのかもしれません。
坂本九の遺書はなかった
遺書はない?
坂本九さんが飛行機のなかに持ち込んだボストンバッグが墜落現場から発見されましたが、そのなかに遺書のようなものは残されていませんでした。
(※墜落犠牲者のなかには、遺書を残した人が何人かいた)
ただ坂本九さんの家族は遺書ではありませんが、父親が事故前にとった言動が印象深く、よく覚えているといいます。
次女の舞子さんの記憶に残る坂本さんの一言。事故を予測していたのか、坂本さんは事故当日の朝に空を見上げて、「今日は雲が速いから飛行機に乗りたくないんだよね」ととつぶやいた。
前日の夜にはこんなことも。坂本家では、坂本さんが娘を抱っこして冗談を言って楽しませるのが当たり前のような光景だったが、その日は「舞子を抱きしめて、目をつぶっていたんです。いつもと違うなと思いました」と由紀子さんは明かした。さらに、事故当日に家を出る際に、坂本さんが見せた何とも言えない表情が由紀子さんの印象に強く残っているという。
もちろんこれらの話が単なる偶然だったのか必然だったのかは、もう知る由がありませんが、こういった大事故前に何か虫の知らせのようなものを感じる人も確かにいますね。
坂本九の嫁・柏木由紀子のその後現在…再婚せず娘とコンサート活動
大島(坂本)家の家族写真より
幸せな家族を襲ったのは、父・坂本九さんの飛行機墜落事故死(1985年)だった。
1985年に突然の事故により亡くなってしまった坂本九さん。その後、残された家族3人はひどく落ち込み、大好きだった父親の話題を出すことさえしなくなったそうです。
そんな彼女たちを救ったのもまた坂本九さんでした。
坂本九さんが生前、最後のラジオ番組で偶然に披露した楽曲『心の瞳』。この曲はやがて全国の学生に歌い継がれていき、結果的に柏木さんら母娘を励ますことにもつながりました。
たまたまそのラジオ番組を聴いていた中学教師が『心の瞳』に感銘を受け、合唱曲として編曲。同曲の歌詞は思春期の心の葛藤を乗り越える気持ちとリンクしていることもあり、たちまち全国の中学の合唱曲として定着していったという。
事故当時、夫の安否が分からないまま会見を開いたり、執拗に自宅を取材されるなどして気持ちがふさがっていた柏木だが、『心の瞳』と出会った全国の学生から感謝の手紙を受け取るにつれ、夫の遺作を歌い継ごうと決意。娘ともにコンサート活動を始めたと語っていた。引用:坂本九の隠れた名曲が残された家族を救った!合唱曲としても有名な『心の瞳』感動秘話
坂本九についてまとめると…
・坂本九は1971年に柏木由紀子と結婚し、2人の娘を授かった
・坂本九は1985年8月12日に日航機墜落事故により死亡、遺体の損傷は激しく即死状態で遺書は見つからなかった
・坂本九が亡くなった日航機墜落事故には陰謀説もあったが、墜落の原因は「後部圧力隔壁の不適切な修理に起因する隔壁の損壊」と結論付けられている
・坂本九の死後も嫁の柏木由紀子は再婚せず、娘と共にコンサート活動をしている
坂本九さんのご家族や飛行機事故についてまとめました。これまでに著名人が不慮の事故・事件で亡くなるケースはありましたが、そのなかでも坂本九さんの飛行機事故死は、もっとも大きな衝撃を持って伝えられたものの一つではないでしょうか。
今ご存命だったらどんな歌を聞かせてくれていたのか、また違った世界になっていたのかなとも考えてしまいますね。ご冥福をお祈りします。