野村克也さんは選手・監督などとして日本のプロ野球界を牽引してきた大御所ですが、2020年2月に死去しました。私生活では妻のサッチーこと野村沙知代さんの鬼嫁ぶりが話題になることもありましたが、おしどり夫婦として有名でした。
ここでは野村夫妻の馴れ初めから結婚までと息子たち、そして2017年12月に急逝した妻・野村沙知代さんの死因についてもまとめています。
この記事の目次
野村克也のプロフィール
名前:野村克也(のむらかつや)
愛称:ノムさん
出身地:京都府竹野郡網野町(現京丹後市)
生年月日:1935年6月29日
身長:175cm
血液型:B型
出身高校:京都府立峰山高等学校
所属事務所:エフエンタープライズ
選手歴
・南海ホークス (1954〜1977)
・ロッテオリオンズ (1978)
・西武ライオンズ (1979〜1980)
監督・コーチ歴
・南海ホークス (1968〜1977)
・ヤクルトスワローズ (1990〜1998)
・阪神タイガース (1999〜2001)
・シダックス
・東北楽天ゴールデンイーグルス (2006〜2009)
野村克也さんは元プロ野球選手で、現役引退後は監督として数々のチームを率い、現在は野球評論家などとして活動しています。
現役時代
貧しい家庭で生まれた野村克也さんは、中学時代に野球選手を志すようになり、高校卒業後に南海にホークスにまずはテスト生として入団。
1956年頃からは正捕手としてレギュラー定着し、野村さん自身も1965年の三冠王を始め複数のタイトルを獲得しながら、南海黄金時代の一角を担いました。
南海では1968年からコーチ兼任、1970年から監督兼任のプレイングマネージャーとなりましたが、1977年に解任後はロッテへ移籍しました。
そして西武へと移籍した後の1980年に現役引退。
現役期間は27年にのぼり、その間に残した11970打席・10472打数は現在でも歴代最高記録で、試合数3017は歴代2位の記録となります。
また個人の打撃タイトルは計17回獲得(首位打者1回/本塁打王9回/打点王7回)するなど、日本野球史に残る偉大な選手の一人です。
野村克也さんは現役引退後に解説者・評論家として活動していた時期もありましたが、1990年からは監督としてプロ野球チームを率いるように。
データを重視したID野球など選手時代の経験を活かしたチーム作り、そして古田敦也や田中将大、宮本慎也など多くの著名野球選手を世に送り出しました。ヤクルト監督時代には3度の日本一に輝くなど、名監督としても名を馳せます。
そして2009年に楽天の監督を退いて以降は、主に野球評論家として活動しています。
野村克也の嫁・野村沙知代のプロフィール
名前:野村沙知代(のむらさちよ)
愛称:サッチー
出身地:福島県西白河郡西郷村
生年月日:1932年3月26日
没年月日:2017年12月8日
血液型:B型
野村沙知代さんは野村克也さんの妻で、自身のタレントの活動の他、さまざまな騒動で知名度が高い方です。
いくつかのスキャンダルをご紹介していきます。
・野村克也さんとのW不倫を経ての結婚(後述)
・1996年衆院選立候補→公職選挙法違反(虚偽事実公表罪)による告発→嫌疑不十分により不起訴
(→裁判結果を受け、繰り上げ当選したものの辞退)
・2001年に脱税など法人税法違反→懲役2年・執行猶予4年、罰金2100万円などの有罪判決
・前夫との間の息子や実弟による暴露
以上のような経緯を経て、2003年頃からメディア露出が減りましたが、時折テレビ出演することもありました。ただ2011年以降は、年齢による衰えより表舞台に立つことがなくなり、2017年12月8日に虚血性心不全のため亡くなりました。
野村克也と野村沙知代はW不倫の末の結婚だった
出会った頃は二人とも既婚者だった
野村克也の前妻:正子夫人
野村克也さんは、野村沙知代さんと出会う前に正子さんという女性と結婚し1児をもうけましたが1978年に離婚。正子さんは、周囲からの評判がよく品も良い旦那を立てる古風なタイプの女性だったそう。
1973年に沙知代さんとの間に息子(野村克則)が生まれていますので、離婚成立前からの不倫関係でした。ただ1968年頃からすでに夫婦関係は破綻し別居状態であったことや、なかなか正子夫人が離婚に応じなかったという話もあります。
野村沙知代の前夫:アメリカ軍将校
野村沙知代さんは、1957年に東欧ユダヤ系アメリカ人・アルヴィン・エンゲルさんと結婚し子供を二人もうけました。
(※野村沙知代さんは幾つかの経歴詐称が言われていますが、本人はこの頃にアメリカの大学に行き通訳者となったと話す一方、実弟の暴露本ではアメリカ人兵士を相手に生計を立てていたとも)
そして1970年に野村克也さんと出会い、不倫関係に。その後に前夫と離婚が成立していますが、1978年になるまで野村克也さんが別れられなかったため、それまでは愛人として付き添う形に。
なお、その後に前夫はハワイで自殺しているそうです。
気になる2人の馴れ初めとは?
出会いは居合わせた中華料理店で。
野村克也さんは1970年に遠征できていた都内の中華料理店で、相席した野村沙知代さんと初めて出会いました。
当時のことを語る野村夫妻。
夫人 あなたと出会ったのは70年(昭和45年)だけど、当時私は野球をまったく知らなかったから、最初「この人、何者だろう……」と思ったの。「お仕事は何をなさっているの?」と聞いたら、「雨が降ったら商売になりませんわ」と言うから、「ああ、工事現場の監督なのか……」と。ジバンシィのシャツを着ているから最近はあの業界も景気がいいのね、と思ったわ。
監督 出会ったときは精神的にまいっていた時期でね。別れた前の女房とは話し合いの最中で、離婚届に絶対サインしないと言われて……。
夫人 奥さんとは別居していましたからね。
監督 だから帰る家もなくて、知り合いの家で寝泊まりしていた。離婚調停のまっただなかで、精神的に非常に弱っていたときに会ったから「世の中には、えらい活発な女性がいるもんやな」と思ったね。それと、名刺を見てびっくりしたよ。肩書に「取締役社長」と書いてあって。「どういう会社です?」と聞いたら、ボウリング関係の会社だ、と。当時はボウリングが大ブーム。すごい女性だなと思ったけど、ワクワクもドキドキもしなかったな。
夫人 あら、そうなの?
監督 若いコだったらワクワク、ドキドキしただろうけどもうおばさんだったからね。
夫人 失礼ねぇ。あのときは、まだ37~38(歳)よ。
上記は夫婦揃ってのインタビューのせいかあまり惚気た感じがありませんが、それをきっかけに二人は接近し、1973年には息子(野村克則)さんが誕生するなどし不倫関係になりました。
当時の二人の密接な仲・信頼関係は、有名な話ではありますが、1977年に野村克也さんが南海から退団するに至る経緯にもよく現れています。
コラムでも「球団との契約も私です。この人のとりえは野球のみ」と書いたように克也氏の“職場”にも遠慮なく入り込んだ。
結婚前年の77年、沙知代さんが監督室に出入りするなど公私混同を理由に南海(現ソフトバンク)の監督を解任された克也氏は、関係者から「野球を取るか、女を取るか」と迫られ「沙知代という女は世界に一人しかいない」と言い切った。その思いに応えるように、克也氏に代わって関係者にお礼状を執筆するなど裏方の仕事にも尽力。阪神監督辞任後、克也氏と楽天の三木谷浩史オーナーとの仲をとりもち、プロ野球の監督復帰の道もつくった
名選手・名監督であった野村克也さんの影には、いろいろとありながらも、妻である野村沙知代さんが常にいたようです。
おしどり夫婦
2010年にパートナー・オブ・ザ・イヤー受賞
夫婦としても個人でみても波乱万丈な野村夫妻ですが、おしどり夫婦としても有名でした。
かつて野村沙知代さんについて以下のように語った野村克也さん。
ヤクルト監督時代、92、93年と連覇し、沙知代さんのマスコミ露出度も極端に増えた。また敵も作った。当時の野村氏はこうも話した。「あいつも寂しい女でな。誤解されるタイプでなあ」。
ちなみに野村沙知代さんにとって野村克也さんの魅力は「よく働くところ」だったそうです。
克也氏が「僕のどの辺にひかれているわけ?」と聞くと、沙知代さんは「何もひかれてないわよ」と跳ねのける。だがその後で「健康で、よく働いてくれるところね。一家の主は健康で、よく働いてくれる――これが奥さんにとっては最高のプレゼントだから」とも答える優しさもあった。
そして沙知代さんはこうも語っていた。
「男の人は休んじゃだめだから。死ぬまで体を動かして、働いていないと!人間は呼ばれているうちが華なのよ。声がかからなくなったらおしまいなの。そうならないよう、死ぬまで呼んでもらえるように私も頑張るから、あなたも頑張ってくださいね」
野村克也・野村沙知代夫妻の息子は3人~確執があった子供と現在は和解
野村克也・野村沙知代夫妻に、子供は息子が3人います。ただ上の息子二人は、野村沙知代さん側の連れ子ですので、夫妻の実子は一番下の野村克則さんだけです。
年齢順で言えば、
・団野村
・ケニー野村
・野村克則
になります。
なお野村克也さんと前妻の間には子供(息子)が一人いますが、離婚後の詳細は不明。ただ元妻側に引き取られたことは間違いないです。
野村克則(野村夫妻の実子)
名前:野村克則(のむらかつのり)
出身地:東京都目黒区出身(出生地は大阪府)
生年月日:1973年7月23日
身長:178cm
出身高校:堀越高等学校
最終学歴:明治大学
元プロ野球選手で、現在コーチを務めています。
選手時代
・ヤクルトスワローズ (1996〜1999)
・阪神タイガース (2000〜2003)
・読売ジャイアンツ (2004)
・東北楽天ゴールデンイーグルス (2005〜2006)
コーチ歴
・東北楽天ゴールデンイーグルス (2007〜2009)
・読売ジャイアンツ (2010〜2013)
・東京ヤクルトスワローズ (2014〜)
野村克則さんが生まれた当時はまだ両親が不倫関係であり、また野村克也さんが認知しなかったため、母方の祖父と養子縁組しようと取計らったそうです。ただその後認知され、1978年には野村克也・野村沙知代が結婚したことにより名実ともに親子となりました。
野村克則さんは大学卒業後に父親と同じ野球人への道に進みます。現役時代には何度か父・野村克也さんと同じユニフォームを着ることがありましたが、2006年をもって引退し以降は、球団コーチとして活動しています。
団野村(サッチーの連れ子)
名前:団野村(だんのむら)
日本名:野村克晃(のむらかつあき)
出身地:大阪府
生年月日:1957年5月17日
※母野村沙知代と前夫の子供で1978年の再婚時に野村家に。
1978年にヤクルトにテスト生として入団しましたが、1軍での出番がないまま1981年に引退。
以降は主に代理人として活動しています。これまでのクライアントには野茂英雄や岩隈久志、伊良部秀輝などがいます。
ケニー野村(サッチーの連れ子)
名前:ケニー野村
日本名:野村克彦(のむら かつひこ)
出身地:東京都
生年月日:1959年2月27日
※母野村沙知代と前夫の子供で1978年の再婚時に野村家に。
ケニー野村さんは、兄・団野村と同じく野球選手としてカープ・日ハムなどに在籍しましたが1軍での出番がないまま引退し、以降はスポーツアドバイザーとして活動しています。
またケニー野村さんで有名な出来事といえば、母・野村沙知代さんとの確執です。
2001年にケニーさんは自著「グッバイ・マミー -母・野村沙知代の真実」を出版し、母親を批判。同年には、脱税などの疑いで有罪判決を受けている野村沙知代さんですが、この著書には母の脱税手法などを暴露し”逮捕のきっかけ”になったとも言われています。
当時ケニーさん側は「(サッチーを)母親と思っていない」とし、野村家側も養子縁組解消を申し出するなど泥沼の親子関係に注目が集まりました。
ただ実際に母や兄弟との不仲・確執はあっても、義父である野村克也さんとは騒動後も会ったりしていたそうです。
その後はそんな義父の取りもちがあり、母子関係は修復。現在は普通に会うような間柄にまでなっていたそうです。
長年の確執を乗り越え、義父野村克也氏立ち会いのもと、05年に沙知代さんと和解。
現在は東京都内で働くケニー氏は「2週間ほど前に、好物のみたらし団子を土産に訪ねました。そのときは元気そうでしたよ」。幼い頃は厳しく育てられたといい「よく『1度殴られたら、相手を2度殴りなさい』と教わりました」と思い出を語った。
父・野村克也さんについて。
インタビューでも「父が野球を教えてくれた」と感謝の意を語っている。
野村克也の嫁・野村沙知代が2017年12月に死去~憔悴した野村克也に心配の声も
2017年8月頃の野村沙知代さん
友人の高須克弥さんのTwitterにアップされた画像で、表舞台から遠ざかっていた野村沙知代さんの最近の様子になります。
野村沙知代さんは近年、年齢による衰えで体力低下、ボケなどが言われていましたが、特に大きな病気などの噂はありませんでした。しかし…、
愛妻の急逝に、憔悴した表情の野村克也さん
(画像は野村沙知代さん死亡直後に報道陣の前に姿を見せた時のノムさん。)
野村克也さんは、亡くなる直前まで野村沙知代さんと普通に生活していましたので、倒れる直前の様子を語っています。
克也氏は憔悴した様子を見せつつも、亡くなる直前の沙知代さんについて語った。
「昼頃からもの言わなくなって、問いかけても返事もしなくなったんで…」
「(原因は)わからないです。お医者さんに預けていますが、まだ聞いていないです。我々からすれば突然死ってやつですよ。びっくりしました」
「朝ごはんは一口食べて、口にしないからどうしたんだって…。もとから、ちょっとおかしいなとは思った…」
その後、沙知代さんは病院に搬送され、午後4時9分に都内の病院で亡くなった。
その後、野村沙知代さんの所属事務所が死因は”虚血性心不全”であることを発表。
野村沙知代さんの死因が、虚血性心不全だったと9日、所属事務所が発表した。
引用:野村沙知代さんの死因判明 虚血性心不全だった
医師からは「心臓に負担がかかった時に、高齢の方がよくなる死因」との説明があったという。
虚血性心不全とは心臓周辺を通る血管(冠動脈)が動脈硬化や閉塞などを起こし、血液が心筋に行かなくなって引き起こされるものです。2016年に亡くなったタレント・前田健さんの死因もこの”虚血性心不全”でしたが、正しい生活習慣からの予防が大切とされています。高血圧や糖尿病などが虚血性心疾患の危険因子として挙げられることがありますが、老化によって血管が硬くなり動脈硬化が引き起こされることも。
野村沙知代さんが亡くなった直後の取材で、野村克也さんは改めて自身の奥さんや家庭について語りました。
あらためてどんな奥さんだったかと聞かれると「2人とも二度目の結婚で、お互いに経験豊富で、よく理解して、何の苦労もなかった。典型的なかかあ天下で、奥さんがリードしていく家庭でした」と話す一方「克則ができるとは思わなかったが、克則ができて、(夫婦に)太い絆ができて、ここまでこれた」とも語った。
野村克也の現在…2020年2月に妻と同じ死因で死去
残された野村克也さんでしたが、2020年2月11日に死去しました。
プロ野球の南海、ヤクルト、阪神、楽天で監督を務めた野村克也氏が、11日午前3時30分に死去した。84歳だった。楽天が発表した。
息子の克則氏(現、楽天作戦コーチ)はキャンプ地から戻り、都内の自宅前で対応。死因は野村氏の妻、沙知代さんと同じ「虚血性心不全」だったと明かした。克則氏は「正直、急すぎて受け入れられない」と涙をぬぐい、「午前2時過ぎに電話がかかってきた。今あるのは父親のおかげ。本当に偉大な存在で、その息子であったことは本当に誇りにおもいます。残念です」と語った。葬儀は密葬で後日、お別れ会を開くという。
野村克也さんの死因も沙知代さんと同じ「虚血性心不全」であったそうです。
まとめ
■野村沙知代は前夫との間の子2人を連れての再婚となった。その内の一人『ケニー野村』と長年確執があったが、2005年に和解していた。
■2017年12月8日、野村沙知代は85歳で虚血性心不全で死亡した。2020年2月11日、野村克也も虚血性心不全で亡くなった。
おしどり夫婦として有名だった野村夫妻だけに、残された野村克也さんは憔悴しきっているそうです。まわりの息子たちや孫のサポートで少しでも元気を取り戻してほしいとの声が上がっていましたが、野村克也さんも2020年2月に亡くなりました。
ご冥福をお祈りいたします。