20代に全盛期を迎えることが多い野球選手ですが、門田博光さんは40歳を過ぎてもホームランバッターとして活躍しました。
今回は門田博光さんの経歴、成績や年俸、ホームランへのこだわり、脱臼癖エピソード、死去した現在までをまとめました。
この記事の目次
門田博光のプロフィール
門田博光
生年月日:1948年2月26日
出身:山口県小野田市
身長:170cm
所属:元南海ホークス
投球・打席:左投げ・左打ち
ポジション:外野手
活動:元プロ野球選手
門田博光さんは、山口県出身の元プロ野球選手です。
南海ホークスなどで活躍した長距離打者で、通算ホームラン数・打点数は、共にNPB歴代3位の成績を持っています。
170cmというプロ野球選手としては小柄な体格でありながら、ホームランを量産する長距離打者であり、40代になっても活躍した数少ないプロ野球選手です。
40歳で打率.311、44本塁打、125打点でホームラン王、打点王、さらにMVPに輝いたのは、素晴らしいの一言ですよね。
このように、40代になっても活躍したことで、門田博光は「不惑の大砲」と呼ばれるようになりました。
門田博光の経歴
門田博光さんのプロ入り前からの経歴を見ていきましょう。
プロ入り前
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山口県に生まれた門田博光さんは、父親が貿易関係の仕事に失敗したことで、奈良県に移り住み、裕福とは言えない生活を送ることになりました。
天理高校に進学後は甲子園に出場し、卒業後は社会人野球のクラレ岡山に所属し、4年連続で都市対抗野球に出場します。
1968年には、ドラフトで阪急ブレーブスから12位指名を受けますが、下位指名だったこともあり、これを拒否します。
そして、翌年の1969年に南海ホークスから2位指名を受けて、プロ入りを決めました。
南海ホークス時代
1969年のドラフトで南海ホークスに2位指名されてプロ入りした門田博光さんは、ルーキーながら開幕から2番打者に固定され、53試合に先発出場します。
2年目は3番打者になり、打点王を獲得しました。
しかし、この頃は4番に座っていた野村克也さんに指示され、打率重視の中距離打者でした。
長距離打者・ホームランバッターになるのは、野村克也さんが引退した翌年の1978年からです。
南海ホークスの4番に座ってからはホームランを量産し、名実ともに長距離砲・ホームランバッターになっていきます。
40歳でホームラン王と打点王を獲得し、MVPを獲得し、「不惑の大砲」と呼ばれるようになります。「不惑」という言葉は、この年の流行語大賞にもなりました。
オリックス&ダイエー時代
南海がダイエーに買収され、本拠地が福岡に移転することが決まったことで、関西在住を望んだ門田博光さんは、1989年にオリックスに1対3のトレードという形で移籍します。
オリックスに2シーズン在籍した後は、1991年シーズンからはダイエーホークスに移籍して、活躍しました。
門田博光さんがいくら40歳だからといって、ホームラン王・打点王・MVPを獲得したシーズンオフに1対3でトレードをするのは、今では考えられない気がします。
いくら本人の強い希望があったとはいえ、本当にすごいです。
現役引退後
門田博光さんは1992年に現役を引退します。その後は、主に解説者として活動していました。
門田博光の成績や年俸
門田博光の成績
門田博光さんの成績を見ていきましょう。通算成績はこちらです。
・通算打席数:10304打席
・通算安打数:2566本(NPB歴代4位)
・通算ホームラン数:567本(NPB歴代3位)
・通算打点数:1678点(NPB歴代3位)
・通算打率:.289
・通算OPS:.907
この通算成績は本当に素晴らしいです。
ホームランバッターでありながら、ヒット数も歴代4位で2566本。ホームラン数は王貞治さん・野村克也さんに続く歴代3位です。
170cmの小柄な体で、これだけの成績を残す選手は、今後出てこないでしょう。
次に個人タイトルを見ていきます。
・打点王:2回
・最高出塁率:3回
・MVP:1回
・ベストナイン:7回
・正力松太郎賞:1回
素晴らしい成績です。しかも、ホームラン王・打点王・MVPはそれぞれ40歳になってから1回取っています。
40歳のシーズンの成績をもう一度確認しておきましょう。
・ホームラン:44本
・打点:125点
・OPS:1.062
この数字、ハッキリ言って、バケモノ級です。これを40歳・170cmの選手が達成したというのですから、本当に驚きです。「不惑の大砲」と呼ばれるのも納得ですよね。
プロ野球選手で40歳と言えば、いつ引退してもおかしくない年齢です。40歳で引退の文字が頭をちらつかないプロ野球選手はいないでしょう。
しかも、門田博光選手は170cmという小兵。体への負担は非常に大きかったはずです。
それでも40歳でこれだけの成績を残すのは、かなりの努力があったことは間違いないでしょう。
門田博光の年俸
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門田博光選手の年俸の推移を見ていきましょう。1980年以前は情報がありませんでしたので、1980年の年俸から紹介していきます。
・1981年:2400万円
・1982年:3600万円
・1983年:3400万円
・1984年:4800万円
・1985年:4800万円
・1986年:4300万円
・1987年:4000万円
・1988年:6200万円
・1989年:1億円
・1990年:1億2200万円
・1991年:1億3000万円
・1992年:1億3000万円
時代的なこともありますので、今の感覚からすると、門田博光さんの年俸は安すぎますが、現在の年俸水準で言うと、門田博光さんの生涯獲得年俸は60億円超という計算になるようです。
確かに、ルーキーから活躍したホームランバッターで、ホームラン・打点で歴代3位の成績を残していたら、メジャーには行かず、NPBだけでも60億円以上を稼ぐのは納得ですね。
門田博光のホームランバッターとしてのこだわり
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門田博光さんはホームランバッターです。そして、ホームランを打つことに関してはかなりのこだわりを持っていました。
南海に入団当初は、野村克也さんが4番であり、門田博光さんは3番だったため、野村克也さんにヒットを打つことを要求され、そこまでホームランを量産してはいませんでした。
とは言っても、大振りだったために、野村克也さんからは再三注意されたと言います。
しかし、野村克也さんが引退してからは、全打席ホームラン狙いになっていきます。
「ホームランを打てば足に負担はかからない。これからは全打席ホームランを狙う」と宣言しています。
ホームランを打てば、ゆっくりダイヤモンドを回れるから足に負担はかからない、ということなのだと思います。
このため、体への負担は少なく、40歳になってからも活躍できたのかもしれません。
また、40歳でホームラン王になってからは、「ここ7~8年、どこの球場でも場外を打つことがホームランという気力でやれたこと」と話しています。
場外ホームラン=ホームランと思っていたのは、まさに天性のホームランアーティストですよね。
門田博光さんのホームランへのこだわりは、背番号にも現れています。主力選手の背番号は若い番号(1桁など)が多いですが、門田博光さんは違いました。
1980年には27から44に変えています。これは44本塁打を目標にしていたからなのだそう。
さらに、44本塁打を達成した後は、60本塁打に目標を変えたことで、1983年から背番号を60に変えています。
門田博光は脱臼癖でも話題に
門田博光さんはケガが多かった選手です。170cmという小柄な選手のために、体への負担も大きかったのかもしれません。
門田博光さんの一番大きなケガと言えば、1979年のキャンプでの右足のアキレス腱断裂でしょう。
それ以外にも、門田博光さんには脱臼癖がありました。ルーキーの時に、右肩を脱臼してから、右肩の脱臼癖がついて、ちょっとしたことで脱臼するようになりました。
ちょっとしたこととは、例えばハイタッチ。野球選手はホームランを打つと、ハイタッチをしますよね。その時に門田博光さんは右肩を脱臼したんです。しかも2回!
1984年と1989年にホームランのハイタッチで、右肩を脱臼しています。ハイタッチの動きが、門田博光さんの右肩にとっては脱臼しやすい動きだったのかもしれません。
ホームランを打つと興奮して、勢いよくハイタッチをしてしまうという理由もありますね。
門田博光は子煩悩として有名だった
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門田博光さんはプロ野球界では子煩悩で知られていました。
前述のように、門田博光さんは1989年からは南海ホークスからオリックスに移籍していますが、これも子供が関係していました。
1989年から、南海ホークスはダイエーホークスになり、福岡に本拠地を移しています。
そうすると、門田博光さんは単身赴任をすることになります。子供と離れたくなかった門田博光さんは、引っ越しの必要がない在阪球団への移籍を希望したんです。
そして、1991年には福岡ダイエーホークスに移籍しますが、これは長女の高校進学と関係していたと言います。
門田博光さんのプロ野球人生は、自分のキャリアよりも子供との生活を優先したと言えるでしょう。ステキなパパですよね。
門田博光の「昭和」なエピソード
野村監督とは犬猿の仲
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門田博光さんと野村克也さんは犬猿の仲だったと言われています。
門田博光さんが南海ホークスに入団した時、野村克也さんは南海ホークスの4番であり、選手兼監督でした。
・門田の年俸アップを野村克也が足を引っ張る
・野村沙知代がグラウンドに来ることに表立って反発
・野村克也は門田を「南海の三悪人」と呼ぶ(ほかの2人は江本と江夏)
・野村は門田のことを「選手として一流になれても指導者にはなれない」と言う
この2人のどちらかが小物だったら、こんなに犬猿の仲にはならないでしょう。お互い選手としては認め合っていたのだと思います。
野村克也さんはホームラン数はNPB歴代2位、門田博光さんは歴代3位という実力者ですから。
これだけの実力者で、成績を残すためにはこのくらい我が強くないとやっていけないのかもしれませんね。
東尾修への仕返し
西武ライオンズの投手だった東尾修さんは、時にはデッドボールもいとわない「ケンカ投法」をしていました。
ある試合の第一打席で、東尾修さんからデッドボールを受けた門田博光さんは、第三打席で強烈なピッチャー返しを打ち、東尾修さんの太ももに打球を当てたことがありました。
「お前、1打席目にオレに当てたやないか。これでおあいこや」と話していたそうです。
この豪快な感じが、「昭和のプロ野球」ですよね。
新人へのプロの洗礼
門田博光さんは、ルーキー選手への洗礼も気合を入れていたとのことです。
1989年に野茂英雄さんが近鉄に入団した時は、ドラフト後から野茂英雄さんから一番最初にホームランを打つと決めて、オフも走り込んで体を作っていました。
そして、その目標を見事に果たしています。
また、小宮山悟さんがプロ入りした時に『大学もプロも変わらない』といった発言をしたのを聞いて、カチンときて強烈なピッチャーライナーを小宮山悟さんに向かって打ったとのことです。
門田博光の現在~2023年に74歳で死去
闘病を続けながら野球に関する活動を行っていた
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門田博光さんは現役引退後、主に野球解説者として活動していましたが病と闘う日々でもありました。
2003年と2005年には小脳梗塞で入院。2006年には野球殿堂入りを果たしていますが、会見では「フラフラして平衡感覚がない」と語り、関係者に支えられ途中退席する場面もありました。
そんな中でも、2009年に社会人野球のクラブチーム「大阪ホークスドリーム」を設立し総監督に就任したり、 2014年には「日本新薬」の臨時コーチを務めたりと野球に関する活動を続けていました。
しかし、糖尿病などの影響で体調を崩した門田博光さんは2016年からは透析治療を開始。兵庫県相生市近郊で単身隠居生活を送りながら、週3回の透析治療を受けていたといいます。
闘病を続けながらも、2019年には野球殿堂入りしたプロ経験者が対象の学生野球資格回復の特例研修に参加し高校、大学の指導資格を回復しています。
2023年に兵庫県の自宅で死去
出典:https://tweetsoku.com/
2023年1月、門田博光さんが亡くなっていたことが明らかになりました。
門田博光さんは1月23日に予定されていた通院治療に姿を見せず、病院からの連絡を受け警察官が翌日に自宅を訪ねたところ倒れている門田博光さんを発見したとのことです。
その場で死亡が確認されており、詳しいことは公表されていませんが病死だったとみられています。74歳でした。
野球界のレジェンドの訃報に、野球関係者やファンからは悲しみの声が続々と寄せられていました。
門田博光さん亡くなられたのか。
— k a z u m a (@kazutan__1220) January 24, 2023
門田さんと言えばどうしてもブーマーとハイタッチして脱臼したこのシーンがクローズアップされがちだが、通算567本塁打を記録した球史に残る大打者。
何よりキャリアハイを40歳過ぎてから残したのは凄すぎる。不惑の大砲よ永遠なれ。 pic.twitter.com/WtmVfgjbQ7
不惑の大砲
— ますぞー(Masuzoh) (@Masuzoh_twt) January 24, 2023
元祖ナニワのミスターフルスイング
カッコよかったんだよなぁ
ご冥福をお祈りします#門田博光 pic.twitter.com/7AaltTLD8Y
まとめ
門田博光さんのプロフィールや経歴、成績や年俸の推移、ホームランへのこだわりや脱臼癖、子煩悩やその他のエピソードをまとめましたが、いかがでしたか?
・40歳になってからホームラン王・打点王・MVPに輝く
・ホームランへのこだわりが強い
・子供と離れたくないために移籍したこともある
・ハイタッチしただけで右肩を脱臼した
・昭和的な豪快エピソードがある
多くの輝かしい記録や伝説を残した門田博光さんですが、晩年は一人暮らしをしながら闘病を続け2023年に亡くなられました。門田博光さんのご冥福をお祈り申し上げます。