ソニーの創業者の1人で伝説的経営者として現在も尊敬を集める盛田昭夫さんが話題です。
この記事では、盛田昭夫さんの経歴や人生、家系図や兄を支えた2人の弟や結婚した嫁などの家族、息子や娘などの3人の子供、孫の存在や死因や自宅などについてまとめました。
この記事の目次
- 盛田昭夫のプロフィール
- 盛田昭夫の人生と経歴① 伝統的造り酒屋の長男として生まれ大阪帝国大学で物理学を学ぶ
- 盛田昭夫の人生と経歴② 海軍航空技術廠で井深大と出会う
- 盛田昭夫の人生と経歴③ 井深大と東京通信工業株式会社を設立
- 盛田昭夫の人生と経歴④ ソニーを瞬く間に世界的企業に成長させた
- 盛田昭夫の家系図
- 盛田昭夫の家族① 長弟の盛田和昭は家業の造り酒屋を継ぎ兄を多角的に支援
- 盛田昭夫の家族② 次弟の盛田正明はソニー取締役として兄の片腕として活躍
- 盛田昭夫の家族③ 結婚した嫁の良子は三省堂社長・亀井豊治の四女
- 盛田昭夫の家族④ 父親の盛田彦太郎(久左衛門)は造り酒屋14代目
- 盛田昭夫の子供① 息子の盛田英夫(長男)は失敗を繰り返して評判が悪い
- 盛田昭夫の子供② 息子の盛田昌夫(次男)はソニー教育財団会長
- 盛田昭夫の子供③ 娘の盛田直子(長女)はイグフィコーポレーション社長
- 盛田昭夫の孫は?
- 盛田昭夫の死因は肺炎…自宅は東京都青葉台
- まとめ
盛田昭夫のプロフィール
盛田昭夫のプロフィール
生年月日:1921年1月26日
没年月日:1999年10月3日(享年78歳)
出身地 :愛知県名古屋市白壁
盛田昭夫さんはソニーグループの前身である「東京通信工業」創業者の1人で、わずか1代で、従業員20人以下の小さな個人企業であったこの東京通信工業を「世界のソニー」と呼ばれるほどの国際的大企業に成長させた伝説的経営者です。
世界のソニーを創り上げた盛田昭夫さんの人生や経歴、家族などを中心にまとめていきます。
盛田昭夫の人生と経歴① 伝統的造り酒屋の長男として生まれ大阪帝国大学で物理学を学ぶ
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盛田昭夫さんは、1921年1月26日に愛知県名古屋市白壁で父・彦太郎(14代目当主・久左衛門)、母・收(収子)の長男として生まれました。
盛田家は江戸時代初期から続く伝統的造り酒屋で、盛田昭夫さんも15代目の跡取りとして育てられています。
盛田昭夫さんは、1933年3月の愛知県第一師範学校付属小学校卒業を経て、1938年3月に愛知県第一中学校を卒業し、1942年3月に第八高等学校理科卒業しています。この頃に盛田昭夫さんは物理学に強い興味を抱き、同年4月に大阪帝国大学理学部物理学科に入学。
盛田昭夫さんは大阪帝国大学では、物理学の権威・浅田常三郎教授の研究室で学んでいます。その後、第二次世界大戦の戦局が激しくなると、大学の研究室にも軍への技術協力が要求されるようになります。盛田昭夫さんはその頃に研究室に出入りしていた海軍将校に学問への研究意欲を評価されて、海軍委託学生となり、1944年4月の学徒動員令に応じて海軍の技術研究機関(海軍航空技術廠)で勤務しています。
盛田昭夫の人生と経歴② 海軍航空技術廠で井深大と出会う
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盛田昭夫さんは大学卒業後に、海軍技術中尉に任官され、改めて横須賀の海軍航空技術廠に配属されています。
盛田昭夫さんは、海軍航空技術廠ではレーダー開発に従事していましたが、戦時研究委員会の場で、新型レーダーの研究開発グループメンバーだった井深大さんと出会っています。
盛田昭夫さんはこの井深大さんと終戦後にソニーの前身となる東京通信工業株式会社を創業する事になります。
当時、盛田昭夫さんは24歳、井深大さんは36歳でしたが、12歳の年齢差をものともせず、科学技術に対する熱い思いを通じて意気投合し、「戦争が終わったら一緒に何かをしよう」、「どんな研究をしようか」と2人で夜な夜な語り合ったと言います。
盛田昭夫の人生と経歴③ 井深大と東京通信工業株式会社を設立
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1945年8月に日本が降伏して第二次世界大戦が終結した後、盛田昭夫さんは東京工業大学で物理学の講師の仕事に就いています。
同年10月には、朝日新聞のコラム記事で、井深大さんが東京で新たに「東京通信工業」を設立した事を知り、東京を訪れて井深大さんとの再会を果たしました。この時から井深大さんは事業に参加しないかと盛田昭夫さんを誘っていましたが、盛田昭夫さんは将来は実家の造り酒屋を継ぐことを期待されていたため、この時には決心が付かずに断っています。
ところがその数ヶ月後に、GHQが実施した公職追放によって大学講師の職を失ってしまったため、再び井深大さんのところを訪れる事になります。手伝いとして東京通信工業の業務を手伝い始めた盛田昭夫さんは、次第に心を動かされて本気で事業に参加する事を決意。
井深大さんは自ら盛田昭夫さんの実家に赴き、共に事業をさせてくれるように頼み込んでいます。井深大さんと息子の熱意に心を動かされた父の彦太郎さんはついにそれを許し、盛田昭夫さんは正式に東京通信工業の創業に参加する事になりました。
盛田昭夫さんの父の彦太郎さんは、息子のベンチャー経営挑戦を許しただけでなく、協力を惜しまず、初期の資金繰りが苦しい時期には資金提供を行い、信頼できる経理担当者を送って協力させるなど様々な支援を行っています。
井深大さんと盛田昭夫さんは盛田家の惜しみない支援に深く感謝し、自社株を割り当てています。結果として盛田家は一時はソニーの筆頭株主となり、ソニーの創業一族としての地位を確立する事になりました。
盛田昭夫の人生と経歴④ ソニーを瞬く間に世界的企業に成長させた
正式に東京通信工業株式会社の社員となった盛田昭夫さんは常務取締役に就任し経営の中心となり、日本初のテープレコーダーを開発して教育現場などに販路を開拓し経営を軌道に乗せました。
1950年、29歳の時には専務取締役に就任し、その後の海外出張などを通じて早くからグローバル化と企業のブランド化の重要性に気がつき、海外のマーケット開拓に力を注いで、1955年には海外でも馴染みやすいように「ソニー(SONY)」というブランド名を考案しています。
1958年1月には社名を「ソニー株式会社」に正式に変更し、同年12月には東京証券取引所への上場を果たしています。
1960年には、他社に先駆けてアメリカに現地法人「ソニー・アメリカ」を設立し、1962年にはニューヨークにソニー・ショールームを開設するなど積極的にアメリカでの販売戦略を展開しました。
小型で信頼性の高いソニー商品は次第にアメリカ国民の支持を受けるようになり、新たに発売された最先端のマイクロテレビは瞬く間に完売して全米にブームを巻き起こしました。
アメリカでの成功を収めた盛田昭夫さんは、それを足掛かりに、欧州やアジアの各国でも次々と現地法人を立ち上げ、現地での経営と生産にこだわる方法で成功を収め、ソニーを瞬く間に世界的企業へと成長させました。
盛田昭夫さんのこうした先鋭的な経営戦略は、現在では、グローバル経営戦略のスタンダードモデルとなっています。
盛田昭夫の家系図
上の画像は盛田昭夫さんの家系図です。
盛田昭夫さんの父親の盛田彦太郎は、江戸時代から続く造り酒屋の14代目で、その母親(盛田昭夫の祖母)の盛田ちよは、盛田家の分家筋で、造り酒屋を廃業して敷島製パンを創業した盛田善平の妹にあたります。
盛田明夫さんの母親の戸田収子は、大垣共立銀行元頭取の戸田鋭之助の七女です。
盛田昭夫さんの嫁の亀井良子さんは、大手出版社三省堂の元社長・亀井豊治の四女です。
盛田昭夫さんの妹の盛田菊子さんの夫は、ソニー第三の創業者とも評される元ソニー社長の岩間和夫さんです。
盛田昭夫さんの長女の直子さんは、実業家一族出身の岡田達夫さん(日本船舶常務、パレスホテル参与を歴任した岡田晃雄の次男)に嫁いでいます。
盛田昭夫さんの家族については次の見出しから詳しく見ていきます。
盛田昭夫の家族① 長弟の盛田和昭は家業の造り酒屋を継ぎ兄を多角的に支援
盛田昭夫の弟・盛田和昭のプロフィール
生年月日:1923年3月5日
没年月日:2021年8月20日(享年98歳)
出身地 :愛知県名古屋市
盛田和昭さんは、盛田昭夫さんの2歳下の実弟です。
盛田家の家業の造り酒屋を長男の盛田昭夫さんが継がなかったため、代わって継いだのがこの弟の盛田和昭さんでした。
盛田和昭さんは、酒造会社「盛田」の経営に力を注ぎつつ、草創期のソニーを資金面や販売面で支援して兄の活躍を支えました。
経営者としても兄に劣らぬ敏腕を発揮し、本業の清酒販売の業績を大きく伸ばし、ワインの醸造販売など新規事業も積極的に展開してカリフォルニア州のワイナリーを買収、90年代には地ビール造りも展開するなど盛田家の家業を隆盛へと導きました。
その他、1971年に国内初のコンビニチェーンとも言われる「ココストア」を立ち上げるなど、先見の明にも優れた傑出した人物でした。
そんな盛田昭夫さんの弟・盛田和昭さんは、2021年8月20日に98歳で亡くなっています。死因については「老衰」とのみ発表されています。
盛田和昭さん(もりた・かずあき=ソニー創業者の故盛田昭夫さんの弟、元盛田社長)20日、老衰のため死去、98歳。
盛田昭夫の家族② 次弟の盛田正明はソニー取締役として兄の片腕として活躍
盛田昭夫の弟・盛田正明のプロフィール
生年月日:1927年5月29日
出身地 :愛知県名古屋市
盛田正明さんは、盛田昭夫さんの6歳下の二番目の弟で、若い頃は東京工業大学で磁気素材の研究に没頭し、卒業後にその技術を活かして兄の力になりたいと、東京通信工業に入社しています。
東京通信工業仙台工場の立ち上げや、ソニー厚木工場の操業に携わった後、ソニー本社技術企画部長に任命され、家庭用ビデオテープレコーダー「ベーターマックス」の開発とマーケティングを指揮しました。
その後、ソニーの取締役に就任し、本社常務取締役、本社副社長、ソニー・アメリカ会長、ソニー生命保険の社長兼会長などを歴任されています。
また、盛田正明さんは、趣味のテニスの振興にも力を入れられていて、国内のテニスの有望若手選手育成を目的に盛田正明テニスファンド(MMTF)も設立されています。このテニスファンドは今や世界トッププレイヤーとなっている錦織圭さんを輩出した事でも知られています。
盛田昭夫の家族③ 結婚した嫁の良子は三省堂社長・亀井豊治の四女
盛田昭夫さんは、1951年5月、30歳の時に嫁の良子さんと結婚されています。
盛田昭夫さんの結婚した嫁の良子さんは1929年生まれで、三省堂書店創業者一族である亀井豊治氏の四女です。
この嫁の良子さんはソニーの経営にも影響力を持ち、1982年から95年まで社長を務めた大賀典雄さんは、この良子さんの呼び出しを受けてよく東京青葉台の盛田家を訪れていたとの逸話があります。
また、1995年からソニーの社長に就任した出井伸之さんは、盛田良子さんに気に入られており、社長就任には良子さんの意向が大きく反映されたとも言われています。
そんな盛田昭夫さんの嫁の良子さんは2015年3月14日に85歳で亡くなっています。死因は発表されていません。
盛田 良子さん(もりた・よしこ=故盛田昭夫ソニー創業者の妻)14日死去、85歳。連絡先は同社秘書部。告別式は近親者のみで行った。喪主は次男でソニー・ミュージックエンタテインメント会長の昌夫氏。
盛田昭夫の家族④ 父親の盛田彦太郎(久左衛門)は造り酒屋14代目
写真前列中央が盛田昭夫の父親・彦太郎。前列左が母親の収子、右が妹の菊子。後列は左から盛田昭夫本人、長弟・和昭、次弟・正明
盛田明夫さんの父親の彦太郎は、1887年(明治20年)、愛知県知多郡小鈴谷村(現在の愛知県常滑市)の生まれです。
子供時代から勉学に励み、慶應義塾大学に入学しますが、2年生の時に、先代の骨董品収集による散財のために家業の造り酒屋(盛田合資会社)の経営が危ない事を知って大学を中退して再建に力を注ぎ、経営を立て直しました。
この父・彦太郎さんの「自分の会社の製品は自分の手で売る」という経営理念は、盛田昭夫さんにも受け継がれ、その後、ソニーの海外に現地法人を設置して自ら販売するという基本方針へとつながったと言われています。
盛田昭夫の子供① 息子の盛田英夫(長男)は失敗を繰り返して評判が悪い
盛田昭夫の息子(長男)・盛田英夫のプロフィール
生年月日:1952年2月17日
出身地 :東京都
盛田昭夫さんには嫁の良子さんとの間に2人の息子と1人の娘の3人の子供がいます。
盛田昭夫さんの最初の子供は、1952年2月17日に誕生した息子(長男)の盛田英夫さんです。
この息子の盛田英夫さんは、若い頃は盛田家の御曹司としてソニーの社長候補にも上がりましたが、度重なる事業の失敗や、スキャンダルなどの不祥事が多く、現在ではかなり評判が悪くなってしまっています。
盛田昭夫さんの息子・盛田英夫さんは、芦屋大学を卒業後に「CBSソニー株式会社(現在のソニー・ミュージックエンタテイメント)」に入社し、その後、「エピック・ソニー(現在のエピックレコード)」などで働き経験を積みますが、1978年に、家族の大反対を押し切って女優で歌手の岡崎友紀さんと結婚します。結局盛田英夫さんと岡崎友紀さんとの結婚生活はすぐに破綻し1981年に離婚。この騒動の時に盛田昭夫さんは息子・盛田英夫さんにソニーを継がせるのは無理だと見限ったと言われています。
その後、1985年に盛田英夫さんはソニーを退社し、盛田家の資産管理会社「レイケイ」の社長に就任しました。当時はバブル真っ只中で、世間はスキーブームにわいていました。盛田英夫さんはこのレイケイの保有する莫大なソニー株を元手に、500億円を投じてスキーリゾート施設「新井リゾート」を建設しますが、1993年に開業した頃には既にバブルが崩壊し、スキーブームも過ぎ去っていたため盛大に失敗し、レイケイの保有していたソニー株で数百億円の損失の穴埋めをしています。
盛田英夫さんはこの失敗に懲りずに、1999年のITバブルで急騰したソニー株を担保にして外資銀行から資金を調達し、アメリカ・コロラド州の大規模スキー場を約100億円で買収。
2000年末には、ルクセンブルクに会社を設立してフランス・プジョーのF1エンジン部門を買収し、念願だったというF1レースに電撃参戦しています。
しかし、その直後にITバブルは崩壊し、ソニー株は急落。それを担保にして借り受けていた資金が引き上げられ始め、F1ビジネスの関連会社は現地で230億円もの損失を出して2001年11月に倒産。この損失も、盛田英夫さんはレイケイの保有するソニー株を売却して補填しています。
結果として、レイケイは税金も支払えなくなり、2005年6月に解散に追い込まれています。
これにより、盛田家はソニーの大株主の立場つまりオーナーとしての立場を失い、現在は完全に縁が切れています。
盛田英夫さんは、盛田昭夫さんの弟の盛田和昭さんから、盛田家の元々の家業である造り酒屋を継承し、16代目当主の座に収まっていました。
これを分割して資産管理会社「盛田アセットマジメント」を設立し、東証2部上場の老舗食品関連企業「マルキン忠勇」を買収して「ジャパン・フード&リカー・アライアンス株式会社」として代表取締役会長に就任して再起を図りましたが、ここでも次々と事業に失敗し損失を拡大させました。盛田英夫さんの度重なる失敗で失われたソニー株の総額は一時は2000億円にも達する規模でした。
さらに、2015年には「ジャパン・フード&リカー・アライアンス株式会社」が不適切な融資をしていたとする追及を受け、盛田英夫さんは代表取締役を退任し、また、家業である「盛田」の取締役も退任しています。
父の盛田昭夫さんが1代で築き上げた資産を、息子の盛田英夫さんが1代で食い潰すという皮肉な結果となっています。
盛田昭夫の子供② 息子の盛田昌夫(次男)はソニー教育財団会長
盛田昭夫の息子(次男)・盛田昌夫のプロフィール
生年月日:1954年9月4日
出身地 :東京都世田谷区
盛田昭夫さんの2人目の息子は1954年に生まれた次男の盛田昌夫さんです。
イギリスのインターナショナルスクールを経て、アメリカのジョージタウン大学を卒業し、1978年に米モルガン銀行(現在のJPモルガン・チェース)で勤務。
1981年に日本に帰国してソニーに入社し、カナダの現地法人である「ソニー・オブ・カナダ」に派遣された後は、ソニー本社の総合企画グループ事業戦略部門長、オーディオ事業本部長、モービルエレクトロニクスカンパニーのエグゼクティブ・バイス・プレジデントなどを歴任し、1997年にソニーの執行役員常務に就任。
2003年にソニー・ミュージックエンタテイメント代表取締役社長就任を経て、ソニー株式会社の業務執行役員常務、ソニー・ミュージックエンタテインメント代表取締役会長、ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント代表取締役などを歴任しました。
2015年に 公益財団法人ソニー教育財団代表理事兼会長に就任し、現在も務められています。
盛田昭夫の子供③ 娘の盛田直子(長女)はイグフィコーポレーション社長
盛田昭夫さんの3人目の子供は、1957年2月に生まれた娘の盛田直子さんです。
盛田昭夫さんの娘の盛田直子さんは、元パレスホテル参与の岡田晃雄さんの次男の岡田達雄さんに嫁いでいます。
また、盛田直子さんはモバイルバッテリーなどを開発販売するイグフィコーポレーションの代表取締役社長を務められています。
2000年には、一般財団法人天涯文化財団を設立し、盛田家の在所である愛知県常滑市に、記念館「盛田昭夫塾」も開館され運営を続けられています。
盛田昭夫の孫は?
長男の盛田英夫さんが再婚相手の一般女性(実業家・出井伸之さんの従兄弟の娘)との間に子供を儲けているので、この子が盛田昭夫さんの孫にあたります。
ただ、この孫についての情報は全くなく詳しいことは不明です。
また、盛田昭夫さんのもう1人の息子の盛田昌夫さんと娘の盛田直子さんは子供の情報を公開していないので、盛田昭夫さんの孫が何人いるのかもわかりません。
盛田昭夫の死因は肺炎…自宅は東京都青葉台
盛田昭夫さんは1999年10月3日に78歳で亡くなられています。盛田昭夫さんの死因は「肺炎」とのみ発表されています。
盛田昭夫さんは晩年の1993年11月にテニスのプレー中に脳内出血で倒れ、長年ハワイで療養生活を送られていました。この時には、親交の深かったというマイケル・ジャクソンもお見舞いに訪れ、励ましのメッセージを込めたカセットテープも贈られたそうです。盛田昭夫さんはマイケルから贈られたこのテープを亡くなるまで毎日朝晩に欠かす事なく聴かれていたという事です。
盛田昭夫さんの自宅は東京都目黒区青葉台二‐五‐六にあり、そこで告別式も行われたと報道されています。自宅に客を招いての会食は1969年から93年まで400回以上に及び、自宅に政治家や音楽家らを招き、幅広い交友関係を築いてきたといいます。
2020年8月には盛田昭夫さんの自宅を再現した記念館「盛田昭夫塾」が愛知県常滑市にオープンしています。記念館はパスポートや日記などゆかりの品約250点を展示しているようです。
まとめ
今回は、ソニーの創業者の1人で、わずか1代で同社を世界的企業にまで成長させた伝説的経営者の盛田昭夫さんについてまとめてみました。
盛田昭夫さんの人生や経歴は現在も伝説的に語り継がれ、尊敬を集めています。家族は兄を支えた2人の優秀な弟や、結婚した嫁の良子さんがよく知られています。
盛田昭夫さんは嫁の良子さんとの間に3人の子供を儲けましたが、息子(長男)の盛田英夫さんは、若い頃は盛田昭夫さんの後継者と目されていましたが、事業に次々と失敗して盛田家のソニー株を全て失い、盛田家を没落させたとしてかなり悪い評判を集めています。
娘の盛田良子さんは、父・盛田昭夫さんの生前の功績や素晴らしい人間性を後世に伝えようと、記念館「盛田昭夫塾」を設立されています。
その他、盛田昭夫さんには少なくとも孫が1人いるようですが、詳しいことは公開されておらず不明です。
盛田昭夫さんは1999年に78歳で亡くなりました。死因は「肺炎」と発表されています。