2018年1月21日に保守派の評論家・西部邁さんが多摩川で入水自殺して衝撃が走りました。保守派であることから、ネット上でいわゆる「ネトウヨ」に愛された穏やかな人物でした。
西部邁さんの自殺理由や遺書内容と他殺説、そして結婚した嫁と息子や娘のことなど生前の活躍について詳しく総まとめしましたのでご紹介します。
この記事の目次
評論家・西部邁についてのプロフィール&生い立ち
なぜ西部邁は入水自殺したのか
保守系評論家の西部邁さんが2018年1月21日に東京都大田区の多摩川で入水自殺して帰らぬ人となりました。享年78。
西部邁さんが自殺の2ヶ月前に書き上げた最後の著書『保守の遺言』は3月に発売を予定しています。
保守系論客として有名だった西部邁さんについて、なぜ自殺をしたのか遺書を含めてご紹介します。
西部邁さんについての詳しいプロフィールはこちら。
本名: 西部 邁(にしべ すすむ)
生年月日: 1939年3月15日
出身地: 北海道長万部町
死没: 2018年1月21日(78歳没)
死没地: 東京都大田区
学派: 保守思想、実存思想、実践思想、解釈学
研究分野: 社会経済学、西欧思想史
主な概念: 伝統
引用:Wikipedia – 西部邁
西部邁さんは戦後日本がアメリカに従属してきた姿勢に意を唱え、日本人としての本当の在り方を説いてきました。
同時に政治に関心を失った近現代社会人に深い悲しみを抱き、長らく保守派の論客として「TOKYO MX」の番組『談志・陳平の言いたい放だい(2004年12月 – 2008年8月30日)』『西部邁ゼミナール (2008年10月~2018年1月27日)』『西部邁・佐高信の学問のすゝめ (2009年4月4日 – 2010年4月2日)』などで批判を続けてきました。
西部邁さんの自殺の真相について、そして生前の活躍について詳しく総まとめしましたのでご紹介していきましょう。
西部邁の生い立ち&経歴
西部邁は高校卒業まで政治に興味が無かった
総合知の幅広い知識を有している論客だった西部邁さんですが、高校卒業までは政治や哲学には興味がなく、マルクスやレーニン、毛沢東など歴史的な人物すら知らなかったそうです。
西部邁さんは北海道南部の山越郡長万部町で生まれ、父親は農協の職員で夕張郡長沼町の浄土真宗末寺の末っ子でした。
西部邁さんは地元の信濃小学校に入学し、その後は札幌市立柏中学校、北海道札幌南高等学校に進学しましたが、18歳ころまで酷い吃音だったそうでほとんど喋らない少年だったそうです。
西部邁さんは東京大学を受験するも不合格となったため一浪し、1958年4月に東京大学に進学して三鷹寮に入寮しました。
同年6月に和歌山の被差別部落で勉強を教えた西部邁
西部邁さんは入学2ヶ月目に和歌山県にある被差別部落地域の子供たちに勉強を教えていたそうです。
西部邁さんは同年12月には共産主義者同盟に加盟し、1959年には東京大学教育学部の自治会委員長を務めました。
西部邁さんはこの委員長選挙の時に、共産主義者同盟のメンバーらとともに投票用紙を偽造してすり替えるという不正をして他の候補社を落選させたそうです。
その後、西部邁さんは全学連の中央執行委員を務めて60年安保闘争に参加しました。
西部邁さんは1961年3月にはそれまで行動をともにしていた左翼過激派との決別をし、1964年3月に東京大学を卒業して大学院に進学し経済学を専攻しました。
西部邁は経済学修士を取得した
西部邁さんは1971年3月に東京大学大学院経済学研究科の理論経済学専攻修士課程を修了し、経済学修士を取得しました。
西部邁さんはそれまでに左翼過激派に多少なりとも共感する部分は持っていましたが、1972年に共産主義者同盟赤軍派と日本共産党神奈川県委員会が合流して結成された連合赤軍により群馬県榛名山での集団リンチ事件「山岳ベース事件」が起こり、非道徳的な行いに対して価値観の相違を決定的にしました。
その後、西部邁さんは東京大学教養学部助教授や横浜国立大学経済学部助教授を歴任し、1975年には処女作となる『ソシオ・エコノミックス』を出版し、社会学の観点から旧来の経済学を批判する考えを示しました。
カリフォルニア大学バークレー校に留学した西部邁
西部邁さんはアメリカに渡ってカリフォルニア大学バークレー校に留学した後に渡英してケンブリッジ大学に留学していました。
西部邁さんはアメリカとイギリスと渡って大衆社会批判を主軸とした保守論として『蜃気楼の中へ』を発表し、その後はアメリカニズムの批判とともに西欧流保守思想の擁護を主軸とした批評活動に力を入れ始めました。
その後、西部邁さんは1983年に著書『経済倫理学序説』で吉野作造賞、1984年に社会思想エッセー集『生まじめな戯れ』でサントリー学芸賞を受賞しています。
そういえば西部邁の反米は親米の裏返しでケネディ暗殺以後のアメリカに対する批判なんですよね。その点で西部のアメリカ観はアーレント的なものだと思う。
— ミスター (@hahaha8201) 2018年3月19日
西部邁、東大教授を辞任
東京大学と決別した西部邁
西部邁さんは1988年に東京外国語大学のアジア・アフリカ言語文化研究所助手に中沢新一さんを推薦しましたが、教授会での採決で否決とされたことで東京大学との折り合いが悪くなっていきます。
西部邁さんはこの否決に猛抗議して同年3月に東京大学教授を辞任しました。
これは後に「東大駒場騒動」と呼ばれ、西部邁さんは「東京のバカ騒ぎ」と侮蔑の言葉を送っています。
西部邁さんは東京大学教授職を辞職した後は、鈴鹿国際大学客員教授を務めながら評論活動を続けていました。
西部邁さんは秀明大学教授・学頭を2009年3月まで歴任し、討論番組『朝まで生テレビ(テレビ朝日系)』で保守派の論客としてパネリストとして出演を始めました。
西部邁さんは2002年にはそれまで所属していた「新しい歴史教科書をつくる会」を漫画家で保守派論客の小林よしのりさんと脱会しています。
保守派論客としての活動の一方で、西部邁さんは西麻布裏通りの土地を入手して、息子の西部一明さんをオーナー兼支配人に立ててイタリアンレストラン「ゼフィーロ」を開店させましたが2007年4月に閉店しています。
西部邁、結婚していた最愛の妻が死去…子供は息子と娘が1人
2013年3月1日には西部邁さんは出席した座談会の席で喉頭がんに犯されていることを明かし、2014年3月17日には最愛の妻が死去してしまいます。
ちなみに結婚時期については詳しく明かされていないようです。詳細は不明ですが、子供は息子と娘が1人ずついます。
後述しますがこの妻の死は西部邁さんにとって自殺を考える一つの大きな要因となっていたようです。
2017年11月に西部邁さんは持病の末梢神経痛の影響で月刊誌『表現者』の顧問を退いて執筆活動からの引退を発表し、同時に執筆の実務を代行していた娘の西部智子さんも引退しました。
西部邁が入水自殺した理由と遺書の存在
西部邁は最愛の妻、戦友を亡くして後を追った
西部邁さんは2018年1月21日の早朝に大田区田園調布にある多摩川で入水自殺を図り亡くなりました。警視庁の発表では河川敷にメモが置かれており遺書と見られています。
2017年5月15日に西部邁さんは朝日新聞の記者のインタビューで死生観について以下のように答えていました。
「自然死というけども、その多くは病院死なのが現実。それが嫌だと自殺しかない。俺の最後の願望は“当然死”だね。ある年齢で、ある病状を抱え、いろいろとやり尽くした。警察に若干の厄介をかけたようだがどう考えてもあいつは当然死んだ、というね(笑)」
西部邁さんにとっては自殺は自殺でも一般的な世を儚んで死を選ぶというよりも、自分の力だけで生きられなくなったから死を選ぶという侍のような生き様だったようです。
西部邁さんは「TOKYO MX」のテレビ番組で論客として精力的に出演しながら執筆活動に邁進してきましたが、一方で表向きは見せませんでしたが脊椎の歪みから来る病気の末梢神経痛に侵されて自分の力では執筆ができないため娘の西部智子さんに代筆してもらっていたようです。
西部邁さんは例え娘であっても自分のために縛り続けたくないと感じていたようで、病気のため自らの力で生きられなくなったことに対して周囲にしきりに「死にたい」と漏らしていたそうです。
西部邁、周囲に自殺をほのめかし、遺書も残していた。知人に息子と娘のケアを託す
西部邁は家族や周囲に迷惑をかけたくなかった
西部邁さんは最後の著書『保守の遺言』という自らの遺書とも取れる本を執筆したのを最後に執筆活動を引退しましたが、それはこれ以上病気により娘を拘束したくないという思いもあったようです。
西部邁さんは昨年から自殺することを決意していたようで、昨年末には知人に「私がいなくなった後は家族をよろしく」と遺される息子と娘のケアを託していたようです。
西部邁さんはいつも「死にたい」とぼやいていたことから、その知人は冗談だと思って聞き流していたようですがそれが本当になってしまい後悔しているようです。
西部邁さんの娘である西部智子さんも父親の死について、最後の著書『保守の遺言』に自身の死生観について書かれてあることを本当に実行に移したことに絶句するしかなかったようです。
西部邁さんが河川敷に残した遺書とみられるメモには葬儀を行わないように書かれてあったそうです。
西部邁、が入水自殺した詳しい状況
西部邁は警察、家族、知人友人に極力迷惑がかからない死に方を選んだ
西部邁さんが多摩川の河川敷で遺体で発見された時にはその用意周到ぶりから極力人に迷惑をかけない方法を取っていたことが分かりました。
2018年1月21日に西部邁さんの息子である西部一明さんは父親が自宅にいないことに気づいて探し歩いていました。
すると東京都大田区田園調布5丁目付近の多摩川で、水の中に浸かっている状態の西部邁さんを発見したようです。
西部邁さんは体に工業用のハーネスを装着してロープを河川敷に生えていた樹木に括りつけて解けないようにしており、両手を白いロープで縛ってもがいて抜け出せないようにしていたようです。
西部邁さんはこうして川の流れに遺体が流されて捜索が難航するのを防ぎ、さらに遺体をカラスや野犬、魚など鳥獣につつかれて荒らされないように、タオルや毛糸のネックウォーマーを目と口を覆ってヘアバンドで固定し、小さめのビンを口に含んでいたようです。
息子の西部一明さんは父親が多摩川に飛び込んでいることを警察に通報し、救急搬送された病院で西部邁さんの死亡が確認されました。
ここまで用意周到に準備をして警察関係者や家族、知人らに迷惑がかからないように自殺をするというのは、日本でも数少ない烈士だった西部邁さんらしいと言えるでしょう。
西部邁、入水自殺直前まで元気だった
西部邁の自殺は誰も予想できなかった
西部邁さんは「死にたい」と漏らしてはいたものの直前まで元気だったようで本当に自殺をするとは誰もが思わなかったでしょう。
西部邁さんは2017年12月18日号の週刊誌「AERA」でウーマンラッシュアワーの村本大輔さんと対談をした際に、意気投合して対談予定時間を大幅に延ばし3時間におよぶ政治に関する話に花を咲かせていたようです。
対談後は村本大輔さんの元に西部邁さんが自身の著書を贈ってくれるなどしていたため、西部邁さんの自殺について村本大輔さんはツイッターで「なんというか、キラキラした目の少年と話しているような、そんな人でした」というように語っています。
西部邁さんは対談を支えてくれた記者やカメラマンなどをお酒の席に誘うなど気遣いを見せていたようで、年末年始には何度も酒場を巡るような元気もあったようです。
2018年1月10日には『西部邁ゼミナール』の最終回の収録を終え、最後の著書『保守の遺言』の執筆も終わったことから西部邁さんはすべての仕事を終えたと思い自殺の準備が整ったのでしょう。
西部邁、自殺への考え方と動機
西部邁は昔からいずれは自殺するつもりだった
西部邁さんは少なくとも1990年代にはいずれは自殺をするつもりでいることを示唆していたようです。
西部邁さんは1994年に出版した著書『死生論』の中で、自身で実行できる力が残っているうちに自殺をする「簡便死」を選びたいと書いていたようです。
西部邁さんは2017年6月に出版した『ファシスタたらんとした者』でも自身の自殺についての考えを明かしていました。
〈簡単にいうと「近親者を含め他者に貢献すること少なきにもかかわらず、過大な迷惑をかけても生き延びようとすること、それこそが自分の生を腐らせるニヒリズムの根だ」と考えたということだ〉
この西部邁さんの考え方はまさに近年の自身の境遇を表していたようで、末梢神経痛により娘の西部智子さんの手をはじめとした多くの人に迷惑をかけていると西部邁さんは感じていたのでしょう。
そして、西部邁さんの嫁の満智子さんの死もまた自殺する動機として大きかったことを示唆するようなことも書かれてあります。
〈長年の連れ合いに先立たれて、自分の人生は実質的に終わったのだと強く感じているのだ。自分の読者も視聴者も、本気で読んだり観たりしてくれるのは、妻一人くらいかもしれないと勘定し、それで十分だと居直って生きてきた不埒(ふらち)な人間は、そうなってむしろ当然なのである〉
西部邁さんの著作には多くの人が心を動かされ、考えさせられてきたと思いますが、あまりにも謙虚すぎる西部邁さんの性格がこうした考え方につながったのでしょう。
そして、西部邁さんは近年は毎年のように自殺をするタイミングを見計らっていたことを知人が語っていたようです。
北海道生まれの私の知人は、西部はもう何年も前から恒例の忘年会の席で「来年は必ず青酸カリかピストル自殺します」と言っていたと証言する。しかし、私には西部の自殺には真喜子さんの死が大きく影響しているような気がする。それを説明するためには、西部と唐牛のただならぬ関係の深さを理解しておかなければならない。
「真喜子」という人物は唐牛真喜子さんという全学連元委員長だった故・唐牛健太郎の妻であり、全学連のメンバーだった当時に西部邁さんと一番親しかった人だと言われています。
西部邁、他殺の可能性は?
西部邁の嘱託殺人、他殺の可能性に関する噂
西部邁さんの入水自殺が報じられてからネット上では他殺や嘱託殺人の噂が浮上しているようです。
報道によれば警察は第三者が自殺の手助けをした痕跡を見逃さなかったというものですが、それは西部邁さんが末梢神経痛を患っていたことからひとりで体にハーネスを取り付けたり、ロープを樹木にくくりつけたりできないと判断したからのようです。
西部さんは末梢神経痛が原因で手が不自由だったので、1人でその準備を行うのは不可能。警視庁は複数の第三者が介在したとみており、目下、嘱託殺人か自殺幇助容疑での立件を目指して捜査を進めています。ちなみに遺族からは当然話を聞いており、娘さんのパソコンまで押収して調べている。遺族の話に矛盾はなく、準備を手伝ったのは遺族以外の第三者ということになる
さらに、娘の西部智子さんは著書の代筆は務めていたものの、当然遺書の代筆はしていないため、ここにも第三者の手助けがあったと見ているようです。
この嘱託殺人を請け負った第三者の人物は西部邁さんの思想に共感してきた信頼関係にあった人物だと見られていることから、比較的早く見つかるかもしれませんね。
そして、西部邁さんが行きつけだったバーのママは以下のように語っているようです。
「お葬式の時に見た西部さんの顔には本当に傷一つついておらず、静かに眠っているようでした。苦しんだ様子や表情の歪みもなかった。それを見た時、最後の最後まで完璧でありたかったのかなと思いました」
西部邁さんは自身の死まで信念を貫き通して亡くなったということですね。
西部邁、世間へ宛てた遺書
最後の著書『保守の遺言』は日本に宛てた遺書だった?
『保守の遺言:JAP.COM衰滅の状況』は2018年3月1日に発売されました。
西部邁さんは2017年末に著書『最期の書』を出版しており、この本も西部邁さんの人生の総決算のような内容になっているようですが、2018年3月1日に出版された最期の著書『保守の遺言』はまさに日本国民に向けた遺書のような内容も書かれているようです。
「23年前に自死を決意し、2年前からその考えが拭いきれなくなった」「最期に、日本の状況についての自分の反応を披露することで、世人たちとの別れの言葉としたい」「この本を書き終え、公的な活動を終えて自裁死を探る準備が整った」
この本によれば西部邁さんは23年前にはすでに自殺をする決意が据わっていたようですね。
その考えを一遍も曲げずに自殺をやり遂げた西部邁さんは現代に生きる数少ない侍だったのでしょう。
そして同じ紙面の下のほうに目をやると西部邁の遺著の広告が出てる。自裁死って猫として振る舞う事かもしれないと思ったりする。実際柄谷はこの書評のなかで、自分が子供の時に飼っていた猫は死ぬ前に消えたと書いている。ということはこの書評はある種の追悼文のようにも読めてくる。
— 長谷正人 (@mtokijirou) 2018年3月25日
西部邁さんが自決した気持ちがよく分かります。こんなクソまみれの国で何時までも生きたくないですよね。西部さんの年齢ならば尚更ですが、若い僕でも嫌になります。
— Stay Night (@StayNight_bug) 2018年3月19日
西部邁の昔の若い頃の画像特集
西部邁の昔の若い頃の画像①
西部邁さんの若い頃の画像は本当に少ないようですね。これが最も若い頃の画像になるようです。
西部邁の昔の若い頃の画像②
西部邁さんは年を取るごとにふくよかになっていったようです。
西部邁の昔の若い頃の画像③
比較的近年の西部邁さんのようですがまだ髪が割と残っているようなので2000年代くらいでしょうか。
西部邁の昔の若い頃の画像④
西部邁さんの昔の著書の表紙には昔の若い頃の写真もあるようです。
西部邁の昔の若い頃の画像⑤
西部邁さんのトレードマークであるウェスタンハットが似合っています。
西部邁の「好き・嫌い」から性格を探る
西部邁の「好き・嫌い」から分かる性格
西部邁さんが過去にインタビューで答えた「好き・嫌い」から性格の傾向を探ってみましたのでご紹介します。
西部邁が好きな人物は?
西部邁さんは好きな人物は「自分」、嫌いな人物も「自分」だと答えています。西部邁さんは自身の人生に一片の悔いもないが自身の可能性をどこか諦めていた節もあったのかもしれませんね。
西部邁が好きな言葉
西部邁さんが好きな言葉は「保守」で、嫌いな言葉は「革新」とはっきりしています。
西部邁の好きな食べ物
西部邁さんの好きな食べ物は「うどん」で、嫌いな食べ物は「幕の内弁当」だと答えています。シンプルな食べ物が好きな性格なのかもしれません。
西部邁の好きな学問
西部邁さんの好きな学問は「ある種の哲学」で、嫌いな学問は「あらゆる種類の経済学」だと答えています。近現代の経済至上主義が嫌いなようですね。
西部邁の好きな芸術
西部邁さんの好きな芸術は「ある種の絵画」で、嫌いな芸術は「最近の文学」だと答えています。
西部邁の好きなスポーツ
西部邁さんの好きなスポーツは「なし」で、嫌いなスポーツは「なし」だと答えています。スポーツには全く興味が無かったようですね。
西部邁の好きな動物
西部邁さんの好きな動物は「猫」で、嫌いな動物は「人間と言いたいところだが、なし」だと答えています。人間の持つどうしようもない醜さが嫌いな反面、美しい面で相殺されたのでしょうか。
西部邁の好きな宗教
西部邁さんの好きな宗教は「すべての旧宗教と言いたいところだが、なし」で、嫌いな宗教は「すべての新興宗教と言いたいところだが、なし」だと答えています。ほとんどが利潤追求の新興宗教は嫌いなようです。
西部邁の好きな国(人種)
西部邁さんの好きな国(人種)は「まずイタリア、次にイギリスと言いたいが、やはり日本」で、嫌いな国(人種)は「まずアメリカ、次に韓国と言いたいが、やはり日本」だと答えています。日本は人間と同じような感覚なのでしょう。アメリカ、韓国は嫌いなようですね。
西部邁さんの著書を読んでいるけれど、頭が良すぎる人って色んな物事が見え過ぎて今の世界で生きるには余りにも苦痛なんだろうな…って行間から感じた。
— やびっちょ🐧さん (@Cvxr6ZNzPSA8bbp) 2018年3月25日
保守派論客・西部邁について総まとめすると・・・
安保闘争時代から現代まで長い間保守派の代表格の知識人として活躍してきた西部邁さんについて総まとめしてきました。
西部邁さんは入水自殺というショッキングな方法で逝去されてしまいましたが、保守の思想を世間に伝え切り仕事を終えたという感覚だったようですね。
自分以外の力で生かされ続けるよりは潔く自らの手で死を選んだ西部邁さんですが、今後こうした人はなかなか登場しないでしょう。