デヴィ夫人と言えば今では誰もが知る女性タレントですが、そもそも若い頃は何をしていた人なのか?
婦人という位なので、旦那は誰なのか?また、子供や孫の存在も気になりますね。
今回はそんなデヴィ夫人に関してまとめさせて頂きました。
この記事の目次
デヴィ夫人プロフィール
名前:デヴィ・スカルノ(Dewi Sukarno)
本名:インドネシア名:ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ(Ratna Sari Dewi Sukarno)
旧名:日本名:根本 七保子(ねもと なおこ)
通称:デヴィ夫人
生年月日:1940年(昭和15年)2月6日
現在では女性タレントとして活躍しているデヴィ夫人ですが、その正体ははインドネシアのスカルノ元大統領第3夫人です。
その他にもNPO法人アースエイドソサエティ総裁や株式会社デヴィーナ・ソサエティ代表取締役などをこなしています。
そんなデヴィ夫人も元々裕福というわけではなく、デヴィ夫人の生まれた家庭は多額の借金をしていました。
中学卒業後は、東京都立三田高等学校定時制部に進学すると同時に、150倍の難関を突破して千代田生命保険に入社するものの、昼休みや休日にも貧しい家計を維持するため、喫茶店などでのアルバイトを掛け持ちし続ける日々を送っていたそうです。
そして1956年に父が亡くなり、高校を中退してしまいます。それを機に赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」で働きはじめることになるのです。
そして19歳のときに、インドネシアへの開発援助に伴い「東日貿易の秘書」という名目で、スカルノ大統領のもとに送り込まれスカルノ大統領と出会うことになります。
インドネシアに渡って数年は愛人の1人であったものの、1962年(昭和37年)にスカルノ大統領と正式に結婚、4人の夫人のうちの第3夫人となりました。
しかしこれも幸せが続くわけではなく、3年後の1965年9月30日に起きた軍事クーデターによりスカルノ大統領が失脚してしまいました。
その後は元大統領夫人としての外交的立場を失っていたそうで、1992年にはアメリカ合衆国のスキー・リゾート地、コロラド州アスペンで、セルヒオ・オスメニャ第4代フィリピン大統領の孫娘のミニー・オスメニャさんの顔をシャンパングラスで殴打し、37針縫う大けがを負わせて傷害罪で逮捕されるなど不遇の時期が続きます。
しかし日本に戻りタレントとして活躍しはじめると一躍人気となり、現在では日本ではバラエティなどにも欠かせない存在となりました。
トラブルも多い!?
上品なイメージの強いデヴィ夫人ですが、意外とトラブルも多いというのもデヴィ夫人の特徴でもあります。
傷害罪などの事件もありますが、その他にもいくつかの事件を起こしてしまっています。
2012年7月10日にはインターネットによる中傷が問題となりました。こちらは大津市中2いじめ自殺事件に関連して、加害者及びその関係者と思わしき人物らの実名や顔写真とともに女性の写真を公開した上で自身のブログで強く批判したものです。
しかし後に人違いと判明し、翌日この写真などは削除されたものの、デヴィ夫人が謝罪の態度を示さなかったことから、女性はデヴィを相手に1100万円の損害賠償などを求める訴訟を神戸地方裁判所に起こしました。
その他にも2014年1月には番組内での暴行もおきています。こちらはTBSのバラエティー番組の収録中に一般の女性出演者を平手打ちしたとしてトラブルとなりました。
この女性は事前に番組スタッフから番組を盛り上げるように言われたためデヴィ夫人を挑発したところ、デヴィ夫人に顔を3回平手打ちされてしまいました。
更に公職選挙法違反の警告をされたこともあり、2014年東京都知事選挙で、元航空幕僚長の田母神俊雄さんを応援して、共に街頭で演説するなどの活動を行いました。
選挙期間中には、自身のメールマガジンで、登録者に向けて「『田母神 俊雄』と書いて、必ず投票所に行ってください」と投票を呼びかけたため、警視庁から公職選挙法違反の疑いで警告を受けています。
これに関しては「私、外国人なので全然知らなかったの」と語っています。
デヴィ夫人と結婚した旦那・スカルノ大統領とは?
名前:スカルノ
生年月日:1901年6月6日
没年月日:1970年6月21日
デヴィ夫人の旦那はインドネシアの大統領スカルノ大統領です。
スカルノ大統領は幼い頃からオランダ語を学び、原住民学校を卒業した後、ヨーロッパ人子弟の通う小学校を経て、スラバヤの高等市民学校に入学します。
1921年に卒業後、植民地の宗主国オランダが1920年にバンドンに創設した高等工業学校に入学し、1926年5月に卒業しています。
スカルノ大統領幼少期
モハマッド・ハッタさんとともにオランダによる過酷な植民地政策に対する反発を感じていたスカルノさんは、大学卒業とともに、本格的にオランダに対する反植民地運動を開始し、1927年7月4日には、宗主国のオランダ留学から帰国した同志らとともにインドネシア国民党を結成します。
その後スカルノさんはインドネシアの独立と民族の統一を訴えるために各地で積極的に集会を開催し、壇上での熱のこもった演説で聴衆を魅了し、「民族の指導者」として認められていきます。
1943年にはモハマッド・ハッタさんとともに招かれて日本を訪問し、昭和天皇と面会するなど日本との関係を強めていくとともに、独立への理解が高い日本の協力を得る形での将来のインドネシア独立への道筋を作っていきます。
その後も、日本軍が緒戦にてオランダ軍を完全に放逐していたインドネシアは、殆ど戦禍に巻き込まれることがなく平穏な状態が続いたものの、日本は1944年に入るとイギリスやアメリカ、オーストラリアなどを中心とする連合国軍に対して各地で劣勢となっていき、1945年8月15日に敗戦へと追い込まれてしまいます。
日本が連合国に対して降伏してから2日後の8月17日、オランダ植民地政府が逃亡したままという権力の空白をぬった形でスカルノさんとモハマッド・ハッタさんの2人が「インドネシア国民の名において」インドネシアの独立を宣言します。
しかし、これを認めないオランダは、周辺に植民地を持つイギリスやオーストラリアなどの助けを受けて軍を派遣し、軍事力による同地の再植民地化に乗り出し、「インドネシア独立戦争」が勃発してしまうのです。
そして独立を達成し、宗主国であったオランダのみならず、アメリカやイギリス、フランスなど世界各国からの国家承認と援助を受けて独立国家としての一歩を踏み出しますが、オランダへの多額の債務補償を含む植民地時代からの「負の遺産」を多く抱えたその後のインドネシア、そして大統領となったスカルノさんの前途は多難を極めることとなってしまうのです。
建国後のインドネシアは原油とゴムの輸出によって経済を再建するとともに、政治的には議会制民主主義を忠実に実行したが、独立後より大統領職にあったスカルノさんは、1950年8月15日のオランダからの完全独立時に急ぎ採用された新憲法のもとでは強い権力を付与されず、リーダーシップを発揮できない状況ありました。
インドネシア国民は困難な国政運営に対して有効な手立てを打てない政党政治家たちへの不信、不満を強めていくことになります。
しかしこうした事態を収拾するためにスカルノさんが1950年代末頃から打ち出したのが「指導される民主主義」の構想、これにより混乱する政局に嫌気がさしていた国民の間にも支持者が拡大し、支持の増大を受けることになります。
そして1955年にはいわゆる「第三世界」のリーダーの1人として脚光を浴び、会議を成功に導くなど、国際社会での知名度を高めていきます。
しかし1965年9月30日インドネシア全土で「急進左派軍人勢力による国軍首脳部暗殺」というクーデター、それに迅速に対応したスハルトさんを中心とする右派軍人勢力を中心とした反クーデターの成功という「9月30日事件」が勃発し、その後の国内で右派軍人勢力による「共産党員狩り」が行われてしまいます。
「共産党員狩り」によって冷戦下の東南アジアで最大規模を誇ったインドネシア共産党が壊滅し、国内で共産党が一掃されたことにより、右派軍人勢力と共産党、左派軍人勢力の間のバランサーとしてのスカルノの求心力は失われてしまいました。
インドネシアはその後、スカルノさんから実権を奪って1968年3月27日に正式に第2代大統領に就任したスハルトの「新秩序」体制のもとで、冷戦下の東南アジアにおける反共国家として中華人民共和国やソ連と距離をおき、同時にアメリカやイギリスなどの西側諸国と接近します。
一方のスカルノさんは「国父」としての地位は保ったものの、全ての役職をはく奪され事実上の軟禁状態におかれ、さらに夫人たちと多くの家族が亡命、離散するという失意の状況におかれたまま、1970年6月21日にジャカルタで死去してしまいます。
デヴィ夫人の若い頃が美しい!
今では謎も多いデヴィ夫人ですが、そんなデヴィ夫人も若い頃はかなりの美女だったのです。
まずは当時の写真をご覧下さい。
いかがでしょうか?昔の美人は現代では美人に見えない…なんて方もいますがデヴィ夫人に関しては現代でも、というよりもどの世代でも通じる程の美人です。
もっと言ってしまえば日本だけではなく、どんな国から見ても認められる美女と言っても過言ではありません。
デヴィ夫人若い頃めちゃくちゃ綺麗
— ʚSCEANAɞ (@Liberte_OwO_) 2017年12月17日
孫もかなりの美人さん
ハーフ最強
ねえ、知ってる人いると思うんだけど、デヴィ夫人の若い頃を調べてほしい。ほんとめっちゃ美人だから。ググれ。
— 🐱ちゃむ💰武道館2days 🐿 (@chamu_kiyo) 2017年12月17日
デヴィ夫人の若い頃美しすぎる…
— まりぷぅ (@maripuu_d) 2017年12月17日
美貌と教養どちらも兼ね揃えててすげぇ~
ネット上の評判を見ても誰もがデヴィ夫人の若い頃の美しさを認めています。
上記でも言ってますが、時代によって美人像というのは変わるものです。メイクや顔立ちなどで変わってしまうのは当たり前のことなのですが、そんな部分を関係なくデヴィ夫人の若い頃は美人なのです。
実際現在は美人というイメージではないかもしれませんが、あの見た目で70歳後半なんです。
70歳後半であのエレガントさ、上品さ、美しさを兼ね備えている女性は少ないでしょう。
元々がここまで美人だから現在でも多くテレビに出演しているのでしょう。
デヴィ夫人には子供が1人…娘と不仲な時期も現在は良好な関係に
カリナ・サリ・デヴィ・スカルノさん
もちろんデヴィ夫人には子供も誕生していますが、子供は一人娘でカリナ・サリ・デヴィ・スカルノさんという名前です。
デヴィ夫人の子供ですから、決して多くはないですが過去にはテレビに出演した経験もあります。
そしてカリナ・サリ・デヴィ・スカルノさんは現在は財力のある旦那と結婚し、セレブな生活をを送っているそうで、デヴィ夫人とも仲が良いそうです。
しかしそんな二人にも不仲な時があったそうです。
デヴィ夫人と子供が不仲だった原因とは?
不仲になった原因は一つの誤解から生まれてしまったのだそうです。
デヴィ夫人の教育方針は上流階級でも通用するようにするという教育方針で、その為にはやはりお金も必要でした。
そこで、一人娘カリナさんが11歳のときに、デヴィ夫人のみインドネシアに戻り、スカルノ元大統領の遺産をわけてもらおうとしたのです。
しかし、そう簡単に遺産を分けてもらえるはずがありません。
そこで、デヴィ夫人はインドネシアで財産をもらえるまでの間移り住むことを決めます。
しかし、インドネシアの情勢は不安定であり、インドネシアで娘を育てることを不安に思い、娘をパリに残してきました。
デヴィ夫人からすれば子供を思っての行動だったのですが、娘のカリナさんはその時に捨てられたと思ってしまったそうです。
11歳の子供なので、そんな風に感じてしまうのも無理はないでしょう。
そこから一時期は不仲になってしまったと言われていますが、現在では良好な関係を築いている様ですね。
デヴィ夫人の孫がイケメンと話題に!
デヴィ夫人の孫「キラン」君
デヴィ夫人も現在70歳後半ですから、子供がいるということは孫もいます。そんな孫がイケメンだとかなり話題になっているのです。
そのお孫さんの名前はキラン君といいます。
デヴィ夫人の孫ということもあり、2014年には「金スマ」、2016年には、「世界の果てまでイッテQ!」に登場し、そこから一気に話題となりました。
えっ?デヴィ夫人の孫天使じゃん…
— 👶ばぶ👶 (@hisanov_16) 2017年12月17日
声出た…えっ?
ちなみにキランという名前、一見キラキラネームの様にも思いますが、しっかりと意味のある名前で、サンスクリット語で「光の輝き」という意味があります。
誕生日は8月24日、なんとまだ若いのにも関わらず英語、フランス語、オランダ語、インドネシア語の4か国語を話せるそうですから、やはり幼い時から秀才に育てられているのでしょう。
イケメンということもあり、今後の成長、そして成長した後のメディアでの活躍などにも期待したいですね。
まとめ
■デヴィ夫人には、子供は1人。カリナ・サリ・デヴィ・スカルノさんという娘がいる。
一時不仲となったが、現在は仲が良い。また、孫のキラン君がイケメンと話題になっている。
■デヴィ夫人は、90年代後半より日本のバラエティに出演。歯に衣着せぬコメントで人気となった。また、デヴィ夫人の若い頃が美人だとネットでは話題となっている。
謎の多いデヴィ夫人ですが、若い頃には美人であったと共に多くの苦労も経験されている様です。デヴィ夫人の旦那も大統領ではあったものの、栄光の時期が長く続いたわけではありませんでした。
そんなデヴィ夫人も現在ではバラエティ番組であんなにも笑顔を見せているのですから、今では幸せな生活を送っているのでしょう。
素敵な子供と孫に囲まれ、苦労した分いつまでも幸せに暮らしてほしいですね。
関連記事
加賀まりこの若い頃の写真が可愛いと話題!昔の画像をまとめてみた
風吹ジュンと旦那の離婚&息子と娘の情報!子供の現在も総まとめ