国鉄スワローズ(現・東京ヤクルト)で活躍し、プロ野球史上初の400勝を挙げた伝説の投手・金田正一さんですが、2019年10月6日に死去しました。
この記事では、金田正一さんの現役時代の成績や、結婚した嫁・子供(息子・娘)の現在、そして死因について詳しくまとめましたのでご紹介します。
この記事の目次
金田正一のプロフィール
金田 正一(かねだ まさいち)
愛称:カネヤン
国籍: 日本
出身地: 愛知県中島郡平和村(現:稲沢市)
生年月日: 1933年8月1日
没年月日: 2019年10月6日(86歳没)
身長: 184 cm
体重: 73 kg
プロ入り: 1950年
初出場: 1950年8月23日
最終出場: 1969年10月18日
金田正一、帰化前の本名は金 慶弘(キム・ギョンホン)
金田正一さんは在日韓国人2世として生まれ、その後日本へ帰化しましたが、帰化前の韓国名は「金 慶弘(キム・ギョンホン、김경홍)」でした。
金田正一さんと言えば球界史上最速とも言われる剛速球ですが、現役当時は速度を計測するスピードガンが無かったため記録としては残っていないものの、自身は「180キロは出ていた」と豪語するほど圧倒的なものがあったようです。
180キロというのは誇張された数字としても、「ミスタージャイアンツ」と呼ばれた伝説のバッター・長嶋茂雄さんを4打席連続三振に打ち取るなど、まさにレジェンドの名にふさわしい戦績を誇ってきました。
金田正一の現役・監督時代の成績~400勝をあげた日本球界のレジェンド
金田正一、現役時代の成績
野球界に圧倒的な成績を残してきた金田正一
金田正一さんは1950年に国鉄スワローズにて初登板して以降、読売ジャイアンツと渡り歩いて活躍し、日本プロ野球界において未だ破られていない400勝を達成した投手であり、同時に298敗の最多敗戦記録も持っています。
その他にも金田正一さんが残した誰にも破られていない日本記録は以下の通りです。
・通算完投・・・365完投(日本記録)
・通算イニング・・・5526回2/3(日本記録)
・通算対戦打者・・・22078打者(日本記録)
・通算与四球・・・1808与四球(日本記録)
これらの数字には時代性による登板数も影響していますが、金田正一さんは生涯獲得タイトルとして最多勝利と最優秀防御率を各3回、最多奪三振10回、史上2人目の沢村栄治賞の3度受賞とベストナイン3回があり、NPB史上最年少でのノーヒットノーラン達成者でもあります。
当時の人気漫画「鉄人28号」の主人公・金田正太郎の名前は金田正一さんがモデルにされていると言われており、社会的な存在感の強さを物語っています。
金田正一は王貞治・長嶋茂雄も驚かせた
当時のジャイアンツでは3人のスターが揃っていた
金田正一さん、王貞治さん、長嶋茂雄さんの3者とも日本の球界を代表するレジェンド選手ですが、当時の読売ジャイアンツにはこの3人が揃っていた伝説の時代でした。
3人の中でも特に練習量の多かったのが金田正一さんだったようで、猛練習で知られた王貞治さん、長嶋茂雄さんも敵わないと思い知らされたことが伝えられています。
現役時代はとにかくよく走り込んだ。指導者になっても選手を走り込ませた。だからこそ説得力があり、「近頃のプロ野球選手は全然走り込まない。だからケガをするんじゃ」と、大上段からブッタ切る球界のご意見番として、カネヤンは愛されたのだ。少々時代錯誤でワガママ放題な物言いでも、こと野球に関しては球界の至宝・ONも一目置いた。現役当時を知る球界関係者が語る。
「王さんも長嶋さんも人前で見せるかどうかの違いはあるけど、みずからに猛練習を課すことで有名だった。そんな2人でさえ、晩年に巨人に入団した金田さんの練習量を見てビックリ仰天。ひたすら地道に走り込む姿をみて『あれだけやらないとプロとして大成できないのか‥‥』と、すでにチームの主軸だったONがみずからのフンドシを締め直したといいます」
当時の読売ジャイアンツの「ON砲」と呼ばれた王貞治さん、長嶋茂雄さんですが、その後1978年に「日本プロ野球名球会」が発足した時に、尊敬する金田正一さんが中心に据えられていました。
金田正一、監督時代の成績
監督就任2年でロッテを日本一に導いた金田正一
金田正一さんは1972年11月17日にロッテオリオンズの監督に就任しました。
なお、金田正一さんは千葉ロッテマリーンズになるまでの19シーズンのユニフォームを自らがデザインするなどチームへのこだわりを見せていました。
就任2年目の1974年にはチームをリーグ優勝・日本一に導いた金田正一さんは、人気を集めるあまり神宮球場の試合にはファンが殺到しすぎて入場できなかった人が球場を取り巻くなど、テレビ中継も出動するほどの社会現象を巻き起こしていました。
しかし、日本一に輝いて以降の金田正一さんは低迷していくこととなり、結果が出ないことから選手にあたるなどチームムードもギスギスとしていき、1978年9月30日に辞表を提出して10月2日に正式に退任しました。
金田正一さんはそれから約10年ぶりとなる1989年10月27日にロッテの監督に復帰しましたが、権勢をふるうことはできず1991年11月5日に辞意を表明し完全に監督業を引退しました。
金田正一の伝説の乱闘騒ぎ
現在まで語り継がれる金田正一の乱闘事件
1990~1991年にかけて近鉄バッファローズで活躍していた強打者、ジム・トレーバーさんが、米オクラホマ州のニュース番組『NEWS9』に出演して、金田正一さんとの乱闘事件について語ったことが2019年10月16日に伝えられています。
問題の乱闘事件が起こったのは1991年5月19日に秋田で行われた試合で、ロッテの園川一美投手からデッドボールを受けたトレーバーさんは激昂してマウンドめがけて走り出しました。
園川一美さんを追いかけていたはずのトレーバーさんが、ベンチから出てきた金田正一さんとの乱闘騒ぎに発展したことを以下のように語っています。
「私は確かに彼(投手)を外野で捕まえました。周りの選手が私の前に立ちふさがっていたので、彼らを跳ねのけていきました。ついに彼を捕まえたのですが、私が転んでいる時に、彼ら(ロッテ)の監督が私の顔を踏んできたのです」
騒ぎは一度収束。トレーバー氏は同僚に羽交い絞めされながら三塁ベンチに戻ろうとしたが、金田監督の姿を見て再び激高。一塁ベンチに向かって走り出した。「あの監督を追いかけようとしたのです。追いかけて、彼は私の顔を蹴りました。そして、私は罰金を科され、出場停止になったのです」。トレーバー氏が転んだところに足を出す金田監督。その映像は今でもTV番組などで流れることが多い。
まさに気性の荒い金田正一さんらしい乱闘事件として現在まで語り継がれてきましたが、トレーバーさんは金田正一さんが亡くなったことを聞いて何を思ったのでしょうか。
金田正一、監督時代の新人記者とのエピソード
記者とのキャッチボールでも手を抜かなかった金田正一
1991年の秋にとある運動部の記者が現在は無くなっている大阪の近鉄藤井寺球場に近鉄対ロッテ戦の取材に行った際の金田正一さんとのキャッチボールのエピソードが語られています。
その記者は先輩記者からソフトボールをやっていたことを金田正一さんに紹介されると、金田正一さんは「ちょっとやるか」といきなりキャッチボールを始めましたが、剛速球を投げてきて焦った様子が以下のように語られています。
監督は初球からいきなり、尋常でない速さのボールを投げてきたのです。心臓が止まりそうでした。当時、すでに58歳。何とか捕球できましたが、右腕が持っていかれるようでした。逃して顔に当たっていたら…と想像するだけでゾッとしました。
(中略)
5球、10球と続くうち、別のすごさが分かるのです。ほとんど寸分違わず、左耳の横にボールがきていたのです。この位置は、捕球して投げるとき、最短距離で動ける場所です。つまり、もし初球を受け損なっていたとしても、顔を直撃することはなかったのです。使ったボールを渡され、キャッチボールは終わりました。
その後、キャッチボールをした記者はボールに金田正一さんからサインを貰いましたが、滅多に書かないと言われる「400勝」が添えられており、記者は家宝として自宅に飾っているようです。
なお、金田正一さんの息子で俳優の金田賢一さんは父親とキャッチボールをしたのは3度しか無かったと言われており、記者がキャッチボールに誘われたのは何か気に入られるところがあったのかもしれません。
金田正一の夜の伝説も凄かった
金田正一は接待も一流だった?
当時、ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の監督を務めていた金田正一さんは、選手たちの下のケアもしており、週に1回は「ヌキ休み」として熊本のソープ街に選手たちを行かせていました。
また、金田正一さんは担当記者らを「ファミリー」と称して懇意にしており、記者たちを連れて豪遊していたようです。
「金田さんは賭けごとが好きで、記者たちとも花札や麻雀をして夜を明かした。負けず嫌いの性格だから、負けが続くとサラリーマンの記者には払えない数十万単位の金額を賭けるようになるんだ。みんな金額に物怖じして、最終的に賭け金は全て金田さんに流れちゃう。それでも誰も文句を言わなかったのは、福岡遠征の際、決まって中洲のソープをおごってくれたからな。他球団に比べてロッテの担当記者は少ないっていっても新聞、雑誌で十何人はいるんだから相当の出費だったと思う」
金田正一の結婚・離婚歴~元嫁は歌手の榎本美佐江
金田正一、榎本美佐江との離婚理由は不倫相手・堺章子の妊娠
歌手・榎本美佐江と結婚と離婚をした金田正一
金田正一さんは1955年3月より歌手の榎本美佐江さんと同棲をスタートさせ、榎本美佐江さんが芸能界を引退し、金田正一さんが日本国籍を取得したことで1960年に結婚しました。
しかし、金田正一さんは宝塚歌劇団卒業生だった雅章子さんと不倫をしており、1961年に不倫相手の堺章子さんが妊娠したことで榎本美佐江さんと離婚し、雅章子さんと再婚しました。
その後、金田正一さんと雅章子さんとの間には娘が2人生まれています。
金田正一に子供は3人~息子・金田賢一と娘・幸子は芸能活動していた
金田正一の息子・金田賢一
ドラマ『太陽にほえろ!』などに出演した俳優・金田賢一
金田賢一さんは俳優活動は2013年頃で止まっているようですが、1985年にドラマ『太陽にほえろ!』でデューク刑事役を演じるなどして知名度を上げた俳優でした。
バラエティ番組や情報番組、旅番組にも出演してきた金田賢一さんですが、2004年5月から2011年3月まで、神奈川県のローカル情報番組『1230アッと!!ハマランチョ』の月・火曜日のMCを務めるなどしていました。
父親の金田正一さんの血なのか、金田賢一さんも宝塚歌劇団花組男役だった梓のぼるさんと結婚しており、1986年に長女が生まれています。
なお、金田正一さんの唯一の息子として野球が上手いかと思えばそうではなく、成城学園中等部時代は野球をしていたものの下手だったと本人が語っています。
金田正一の娘・金田幸子
資生堂のCMで父子共演、兄妹共演もした金田幸子
金田正一さんの長女である金田幸子さんは1980年代にタレント活動をしており、資生堂の洗顔フォームのCM「エクボ洗顔フォーム」にて金田正一さんや金田賢一さんらと共演もしたことがあったようです。
また、1984年には資生堂「エクボレモンフレッシュ」のCMにも単独で出演していましたが、その後タレント活動は引退しているようです。
ちなみにもう1人娘がいますが、芸能活動はしていなかったようです。
金田正一が86歳で死去~死因は急性胆管炎による敗血症だった
金田正一、2019年10月6日に86歳で死去
台風19号の最中に金田正一の通夜が行われた
金田正一さんは2019年10月6日に急性胆管炎による敗血症のために死去しました。
金田正一さんの息子である金田賢一さんは、最期の父親の様子について以下のように語っていました。
「最期はスーッと。穏やかな顔でした。意識もなかったので、最期の言葉もないのですが、生きようという本能、人間の生きざまをみせられた」
金田正一さんの通夜は台風が直撃した12日に都内にある斎場で営まれ、大雨が降りしきる中で親族や関係者ら約210人が参列しました。
球界からは、王貞治さんや、張本勲さん、桑田真澄さん、芸能界からは松村邦洋さんやブルゾンちえみさんらが出席していました。
金田正一さんの生前の要望により弔辞は村田兆治さんが読み、過去最強クラスの台風19号とともに送り出されるという金田正一さんらしい通夜となったようです。
2019年10月13日に放送された朝の情報番組『サンデーモーニング』にて張本勲さんが金田正一さんについてこれ以上ない称賛を送っていました。
張本氏は「日本プロ野球昭和の巨星がまたひとつ墜ちましたね」と偲び、「300年たってもこういうピッチャー出てこないでしょ。力はある、素質はある、自己管理が凄い。こういう速い球投げるのは世界一でしょ」と絶賛した。
引用:スポーツ報知 – 張本勲氏、金田正一さんを追悼…「300年たってもこういうピッチャー出てこない。速い球投げるのは世界一」
金田正一の死因・急性胆管炎について
急性胆管炎は急変して死に至ることが珍しくない病気
金田正一さんの死因となった急性胆管炎は胆管炎は消化器官の病気の中でも緊急性が高い病気で、それまで元気に過ごしていた患者であっても急速に容体が悪化して死に至ることも珍しくないと言われています。
急性胆管炎の主なメカニズム。
それは、胆管の「通過障害」です。
「通過障害」とは、胆汁の通り道がなんらかの理由でふさがってしまい、胆汁が交通渋滞を起こした状態、と考えれば分かりやすいでしょう。
流れがせき止められた胆汁は、十二指腸に出ることなく胆管内にとどまり続け、そこで細菌が増殖してしまうのです。
金田正一さんは急性胆管炎からの敗血症で亡くなりましたが、胆汁の通過障害が起こったことで胆管内の圧力が上昇し、細菌や毒素が増殖して血液に乗って前身に巡ったことで引き起こされました。
長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督
— スポーツ報知 巨人取材班 (@hochi_giants) October 7, 2019
金田正一さんの訃報に
「ショックが大き過ぎる」
コメント全文 pic.twitter.com/IdlIQmaS27
金田正一についてまとめると…
・金田正一は未だに破られていない400勝を達成した伝説の投手である
・金田正一は歌手の榎本美佐江と結婚するも、不倫相手だった堺章子の妊娠が発覚し離婚した
・金田正一は堺章子と再婚し、息子1人(俳優の金田賢一)と娘2人を授かった
・金田正一は2019年10月6日、急性胆管炎による敗血症のために死去した
伝説を残した日本野球界のレジェンド・金田正一さんについてご紹介してきました。
2018年には星野仙一さんや、金田正一さんの実弟である金田留広さんも亡くなっています。日本球界のレジェンドが次々と亡くなるのは寂しい限りです。