視聴率90%という国民ほぼ全員の注目を集めた「あさま山荘事件」ですが、事件から45年以上が経過してもこれほどのろう城は起きていません。
この記事では、「あさま山荘事件」の犯人と犠牲者など詳細から、人質のその後現在など詳しくまとめました。
この記事の目次
「あさま山荘事件」の概要
日本犯罪史上最も世間が注目した事件
1972年2月19日午後3時頃、長野県軽井沢町の新興別荘地だった軽井沢レイクニュータウンにある河合楽器の保養所「浅間山荘」で事件は起きました。
過激派左翼団体「連合赤軍」のメンバー5人が警察から逃げるために「浅間山荘」に逃げ込み、ひとりで留守を預かっていた管理人の妻・牟田泰子さんを人質にして立てこもりました。
警察が包囲して犯人らの母親を使った説得をしたり、放水や鉄球を使って追い込むなど約10日間におよぶ攻防戦が続きました。
10日目の2月28日に催涙弾を使って部隊が突入し、死者3名、重軽傷者27名を出しながらも犯人5人を逮捕しました。
牟田泰子さんは犯人らによって219時間も監禁されており、警察が対応した立てこもり事件としては最長の監禁時間となりました。
「あさま山荘事件」の犯人・連合赤軍は日本のテロリスト組織
犯人の連合赤軍は新過激派左翼のテロ組織
「連合赤軍」は1971年から1972年にかけて活動していた新過激派左翼のテロ組織で、元々は共産主義者同盟赤軍派(以下、赤軍派)と日本共産党神奈川県委員会(以下、革命左派)が合流して結成されました。
1970年代はじめ頃の「赤軍派」と「革命左派」がまだ連合を組む前、それぞれの組織は銀行強盗や真岡銃砲店襲撃事件などを起こして、資金や銃火器類、弾薬などを入手し、警察に追われながらも巨悪な犯罪を犯しながら逃亡を続けていました。
「赤軍派」と「革命左派」は警察の厳戒態勢を敷かれている都市部での活動が難しいため、群馬県の山岳地帯に拠点として「山岳ベース」を築き、合流して「連合赤軍」となりました。
「連合赤軍」の最高幹部である森恒夫や永田洋子は、メンバーを”革命戦士”に生まれ変わらせるための「総括」と呼ばれたメンバー間の批判の仕合いや自己批判をさせ、次第に暴力や断食、極寒の中で放置するなど拷問へと発展し、これは29名いたメンバーの内12名が死亡したリンチ事件「山岳ベース事件」と呼ばれました。
「連合赤軍」が起こした有名な事件では、「あさま山荘事件」以外に「山岳ベース事件」「大菩薩峠事件」「よど号ハイジャック事件」などがあります。
連合赤軍は警察に追われて浅間山荘に逃げ込んだ
警察に追われ続けて「浅間山荘」に逃げ込んだ
群馬県警は350人を動員して山狩りをはじめ、山岳ベースに潜伏していた「連合赤軍」に次第に包囲網が迫りつつありました。
そして、周辺住民から山岳地帯での不審な火の手が上がっているという情報が警察に寄せられ、群馬県警が捜索したところ榛名ベースの焼け跡が見つかりました。
また、2月16日には迦葉ベースも発見され、「連合赤軍」は山岳地帯に簡素な小屋を建てながら拠点を転々と移っているようでした。
同日にこれらのベースが発見されたことがラジオを通じてニュースが報じられると、それを聞いた「連合赤軍」の坂口弘らは警察の包囲網が間近に迫っていることを知って、群馬県妙義山を越えて隣県の長野県に逃げることに決めました。
坂口弘、植垣康博を含む5人は「連合赤軍」が合流する地点を設定するため、先発隊として東京のレンタカーで借りていたライトバンで出発しましたが、妙義湖近くの林道の泥沼にタイヤが取られてしまい立ち往生していたところに捜索していた警察官2人に職務質問を受けてしまいました。
坂口弘、植垣康博らは警察官2人が目を離している隙に車内2人を見捨てて逃亡し、警察官が警戒している道路を避けて急斜面の沢を伝う困難なルートを選択しました。
しかし、冬の山中に貧弱な装備だったことや悪天候が重なり遭難した坂口弘らは、長野県の新しい別荘地として開発されていた軽井沢レイクニュータウンに偶然到着しました。
坂口弘らの古い地図にはこの地名は載っていなかったため軽井沢だとは知らず、「浅間山荘」を選んだのも偶然の結果でした。
「あさま山荘事件」の犠牲者は30名~人質の牟田泰子さんは無事に救出
連合赤軍が浅間山荘の管理人の妻・牟田泰子さんを人質に立てこもり
2月19日正午頃に、坂口弘ら「連合赤軍」メンバーは軽井沢レイクニュータウンにあった無人の「さつき山荘」に侵入して、山荘内にあった物資を利用して着替えをしたり食料を食べたりして休憩していました。
そこに5人編成の長野県警察機動隊一個分隊のパトカーが近づいてきたため、「連合赤軍」は見つかったと思って発砲し、警察との銃撃戦が始まりました。
「連合赤軍」メンバーは15時20分頃に銃撃戦を繰り広げながら「さつき山荘」を脱出し、遠くに逃亡するための車を探している途中で「浅間山荘」を発見して侵入しました。
最初に侵入した坂口弘が「浅間山荘」の管理人の妻・牟田泰子さんを「騒いだり逃げたりしなければ危害を加えたりはしない」と言って拘束し、人質として立てこもりました。
あさま山荘事件の犠牲者は30名(死亡者3名、負傷者27名)
日本犯罪史上でも稀に見る激戦
吉野雅邦は牟田泰子さんを人質にして「浅間山荘」に立てこもることに反対し車で逃亡することを提案しましたが、坂口弘は人質と引き換えに警察に逮捕されていた「連合赤軍」の最高幹部だった森恒夫や永田洋子の釈放や、他のメンバーの逃走を保障させようと目論んでいました。
警察の包囲網はまだ少なく、牟田泰子さんが人質に取られていることや他の「連合赤軍」の応援が駆けつける可能性もあったため突入できず説得を試みていましたが、その間にも坂口弘らは警察の突入を阻むためのバリケードを山荘内に作っていきました。
「浅間山荘」には1ヶ月は持つであろう十分な食料の備蓄があり、坂口弘らは長期戦を見越して立てこもりを決めており、警察も兵糧攻めは無理と判断して突入での戦闘しかないと踏んでいました。
警察は「浅間山荘」へ放水をはじめ、玄関に築かれていたバリケードは水圧により破壊されました。
そして、坂口弘らに満足な睡眠を与えず体力を奪うために、夜間は銃撃音などを録音した音声を流したり、投石が絶えず行われて計画どおり坂口弘らは眠りにつけず不眠に悩まされるようになりました。
また、「連合赤軍」メンバーと人質が別々の階にいると予測した警察は、モンケンを使って「浅間山荘」の2階と3階を分断するように階段をモンケンの鉄球を使って破壊しましたが、牟田泰子さんはメンバーらと一緒にいたため効果はありませんでした。
しかし、10日目になり坂口弘らが弱ってくると、警察は催涙ガス弾を打ち込んで無力化し、機動隊がなだれ込んで銃撃戦となり死者、負傷者を多数出しましたが、坂口弘ら5人を全員逮捕し、人質の牟田泰子さんも無事救出に成功しました。
死亡者: 3名(警察官2名、民間人1名)
「あさま山荘事件」の真相~警察の作戦失敗が死者を出した可能性も
警察の鉄球による救出作戦は失敗だった
鉄球作戦は失敗だったと操作者が語る
山岳地帯の中腹の崖にそびえ立っていた「浅間山荘」は見晴らしの良い宿舎である一方、「連合赤軍」にとっては地の利を活かして警察と圧倒的有利な戦いができる難攻不落の要塞でした。
「あさま山荘事件」の戦いが10日間にも及んだ背景には、もちろん人質の牟田泰子さんがいるため不用意な突入ができなかったことに加えて、坂口弘ら犯人5人を銃殺して「連合赤軍」の中で英雄として神格化されないために警察は銃の使用は禁止で「生け捕り」が鉄則でした。
こうした無理難題を押し付けられた中で現場の判断として取った作戦が「鉄球作戦」であり、建物の解体に使われる鉄球で、機動隊の突入の足がかりとなりました。
当初警察が「鉄球作戦」を実行する予定でしたが、クレーンやブルドーザーなどの重機を運搬する会社・白田組の社員だった白田弘行さん(当時34歳)がその役を買ってでました。
しかし、「鉄球作戦」の目論見は完全に外れてしまい、死者も出してしまったことから白田弘行さんは失敗だと語っています。
当時の現場で警察関係者が2人亡くなったことに触れ、白田さんは「銃口のあるところを、たとえ1発でも2発だったとしても、鉄球を最初にぶつけさせてくれれば、向こうから反撃はなかったと思います。だから、作戦ははっきり言って“失敗”だったと、私は思っています」と辛い胸中を明かした。
「鉄球作戦」に合わせて突入の指揮を執っていた警視庁第二機動隊隊長の内田尚孝さんが「連合赤軍」の銃弾を目に受けて死亡しており、それは白田弘行さんの目の前での出来事でした。
白田弘行さんが言うように鉄球の使い方をもっと有効的にしていれば、死者や重軽傷者を極力出さずに済んだのかもしれません。
死者が出たのは警察が連合赤軍リーダーの申し出を拒否したから?
「あさま山荘事件」の生中継がきっかけでカップヌードルがバカ売れ
あさま山荘事件のテレビ中継最高視聴率は89.7%
後にも先にも無いと思いますが、「あさま山荘事件」のテレビ中継は最高視聴率が89.7%にも及んでおり、テレビを持っている世帯とはいえ実に国民の9割近くが固唾を飲んで見守っていたことになりました。
人間が人間に狙いをつけて、銃で撃っているということを、そのまま同時にテレビで中継している。この犯罪そのものが異常であることはもちろんですが、テレビでこんなに長時間、茶の間に送り込まれるということ、そのことの異常さ。そんなことが同時に進行している。異常なことの積み重なりで、大変恐ろしくなりますね。
NHK・民放を合わせたテレビの総世帯の最高視聴率は、午後6時26分に89.7%に達した。国民のほとんどすべてがテレビを見ているという空前の出来事だった。
日本でテロリストとの戦いがテレビで実況中継されたのは初めてであり、まるで日本ではないかのような銃撃戦が繰り広げられていました。
機動隊員が食べていたカップヌードルが爆発的大ヒット
10日間の長期戦の中で、警察の機動隊員らは日清食品から1971年に発売されたばかりの「カップヌードル」が支給されており、食べる姿がテレビで映し出されていました。
皮肉にもこれがきっかけで「カップヌードル」は全国に知れ渡ることになり、飛ぶように売れる現象が起きました。
「あさま山荘事件」の人質・牟田泰子さんのその後と現在
人質・牟田泰子さんに横領と駆け落ちの噂があった
浅間山荘の管理人をしていた牟田夫妻
人質となった牟田泰子さんは現在、日本のどこかでひっそりと暮らしています。また、事件現場となった浅間山荘は中国企業の所有の青少年更生施設になっています。
牟田泰子さんは当時、九州で公金横領事件を起こして長野県・軽井沢に駆け落ちしてきたと噂されていました。
映画『実録・連合赤軍あさま山荘への道程』の中でも横領と駆け落ちのシーンがあることから事実とみる人も少なからずいるようです。
警察と「あなたの過去の問題を全部消してあげるから、マスコミには一切出てはいけない」と約束してマスコミの取材を一切受けなくなったともいわれていますが、真相は不明です。
「あさま山荘事件」犯人のその後と現在
森恒夫(最高幹部)は裁判を待たずに獄中自殺
「連合赤軍」のリーダーだった森恒夫は初公判が行われる前に獄中で首吊り自殺をしました。
昭和48年1月1日、元連合赤軍最高幹部・森恒夫は、初公判を待たずに東京拘置所で首吊り自殺しているのが発見された。
森恒夫は、前年の7月に同じく東京拘置所で遺書めいた文章を書いている。
「私は自分が狂気の世界にいたことは事実だと思う。私は革命の利益から考えて有罪であり、その罪は死刑である、ということである。私が亡き同士や他のメンバーに対して言った『革命家たる者は革命の利益に反することをした場合、自らの死を持って償(つぐな)わなければならない。』ということを文字通り守らなければならないということである。」
森恒夫の言う”有罪”とは法的な意味ではなく、あくまで「連合赤軍」として革命を成し遂げる前に逮捕されてしまった不甲斐なさから来るものでしょう。
最高幹部の永田洋子も一緒に逮捕されていましたが、森恒夫の自殺を聞かされて「森さんはずるい。卑怯だ。自分だけ死んで。」と語ったそうです。
永田洋子(最高幹部)は東京拘置所で2011年に死亡
永田洋子は1971~1972年までの一連の「連合赤軍」による殺人や死体遺棄罪に問われて死刑判決を受けていましたが、2006年3月に東京拘置所内で倒れました。
元々1984年に脳腫瘍の手術を受けていた永田洋子ですが、その後遺症で脳萎縮と意識障害が認められたため同年5月に八王子医療刑務所に移送されました。
その後永田洋子は寝たきりの状態が続いていましたが、2011年2月5日午後10時6分に東京拘置所で多臓器不全のため死亡しました。
坂口弘(あさま山荘事件主犯)は現在も東京拘置所に収監中
「あさま山荘事件」を主導した坂口弘は17人の殺人に関わったことで死刑判決を受けていましたが、現在も東京拘置所に収監されており死刑は執行されていません。
その理由は、国外逃亡を続けている坂東國男の裁判が終わっていないためと思われています。
坂東國男(あさま山荘事件主犯)は国外逃亡中
坂東國男は「日本赤軍」によるクアラルンプールで起きたアメリカ大使館人質事件により超法規的釈放をされており、現在も国外逃亡中となっています。
あさま山荘事件から3年後の昭和50年8月4日、「日本赤軍」がクアラルンプールのアメリカ大使館を占拠し、日本で投獄中のメンバーの釈放を要求するという事件が起きた。
「日本赤軍」とは、まだ連合赤軍の誕生以前の「赤軍派」であった時代、その中の一部の同士が集まり「日本から革命を起こすのではなく、まずは共産主義国へ渡り、その国から援助を受けて軍事訓練を行い、世界革命を起こす」という目標のもと、海外へ渡った赤軍派のことである。
この日本赤軍がアメリカ大使館を占拠して人質を取り、その交換条件として連合赤軍の釈放を要求してきたのだ。
日本政府はこの条件を飲み、超法規的措置として、5人のメンバーを釈放したが、そのうちの一人が坂東国男であった。坂東国男はこのまま海外へ逃亡し、日本赤軍と合流することとなった。
なお、「あさま山荘事件」の主犯格だった坂口弘も釈放の対象として名前が挙がっていましたが、本人が釈放を拒んだため釈放されていません。
吉野雅邦(あさま山荘事件主犯)は千葉刑務所に服役中
吉野雅邦は現在千葉刑務所に収監中であり、「あさまさん」と呼ばれて工場内での責任者を務めているようです。
1983年3月から現在に至るまで千葉刑務所で服役している。刑務所では「あさまさん」と呼ばれており、1998年時点では高齢者や体に障害を持つ受刑者を集めた所内の工場で「計算夫」という役割(工場内での受刑者の実質的な責任者)についていた。吉野自身は「あさまさん」という呼び名について、相手が好意で呼んでいるのがわかっていても事件への感情からそれを素直に受け止められず、いささかの抵抗を覚えると1997年に両親に宛てた手紙に記している。
吉野雅邦は囚人たちの職業訓練としての陶芸の指導補助も行っているようで、模範的な囚人として務めているようです。
また、2008年公開の映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』では、吉野役を演じた俳優の菟田高城さんが役作りために吉野雅邦に手紙を送りましたが、吉野雅邦の返した手紙が映画の関連書籍『若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』に掲載されています。
加藤倫教・元久(あさま山荘事件主犯)はまじめに働いていた
現在は真面目に働いている加藤兄弟
加藤元久は当時16歳の未成年のため中等少年院出所後は保護処分を受けていましたが、兄の加藤倫教は1987年1月に仮釈放されて実家の農業を継いでいました。
また、野生動物や自然環境の保護団体の理事を務めるなど、事件を反省したのか社会貢献に力を入れているようです。
植垣康博(あさま山荘事件直前に逮捕)はスナックを経営
「あさま山荘事件」が起きる直前に逮捕された
植垣康博は坂口弘らが「あさま山荘事件」を起こす直前に軽井沢駅で不審者として逮捕されましたが、約26年の服役を終えて1998年10月6日に出所しています。
その後現在までに静岡市葵区内で「スナック・バロン」を経営しており、2005年には同店でアルバイトをしていた33歳年下の中国人留学生と結婚して一男をもうけています。
「あさま山荘事件」について総まとめすると…
・あさま山荘事件の死者は3名、人質の牟田泰子さんは無事救出された
・あさま山荘事件のテレビ中継視聴率は89.7パーセントを記録、機動隊員が食べていたカップヌードルが事件を機にバカ売れした
・あさま山荘事件の人質・牟田泰子さんは九州で横領し、長野に駆け落ちしてきたと噂されている
・あさま山荘事件の犯人の1人である坂東國男は、現在も海外に逃亡中である
日本犯罪史上まれに見るテロ事件「あさま山荘事件」について総まとめしてきました。
出所できた「連合赤軍」メンバーが慎ましく真面目に生きていることから、犯罪を起こしてきたのは大義のためであり、私利私欲のためではなかったのでしょう。