「ザ・ドリフターズ」の初期メンバーだった荒井注さんは、人気絶頂期に脱退騒動を起こしてことで話題を呼びました。
この記事では、荒井注さんの経歴やドリフ脱退理由、歴代の嫁と子供、そして晩年と死因が腹上死の噂や遺産の現在をまとめました、
この記事の目次
新井注のプロフィール
荒井注(あらい ちゅう)
本名:荒井安雄(あらい やすお)
生年月日:1928年7月30日
出身地:東京都
身長:158cm
荒井注さんといえば、「ザ・ドリフターズ」のピアノを担当しており、コメディアンや俳優として活躍をした人物となります。
荒井さんの芸能キャリアの絶頂期は1969年から1974年となっており、「ザ・ドリフターズ」の看板番組だった「8時だョ!全員集合」は、年間視聴率40%を記録したこともあったようですね。
「ザ・ドリフターズ」時代の荒井さんは、逆ギレ芸が持ちネタだったようで、「何だ、バカヤロウ!」や「何見てんだよ!」といったギャグが流行語化したこともありました。
ドリフでは「This is a pen!」のギャグで人気者になった。コントでは「威張り散らすいかりやをシラっとした目で見、無視をし、いかりやに怒られてふてくされながらギャグを言う」というパターンが受けた。学校コントでは、「先生役のいかりやと同級生の落第し続けた生徒」という設定であった。中でも代表的なギャグ「何だ、バカヤロウ!」、「文句あるか!」、「何見てんだよ!」は流行語となり、ソロ活動でも頻繁に使用された。
引用:荒井注
元々はミュージシャンだった「ザ・ドリフターズ」は、ヒット曲も多数残しており、1969年11月に発売されたシングル「ドリフのズンドコ節」は、80万枚を超える売上を記録。1970年のオリコン年間シングルランキングでも2位にランクインする大ヒットとなりました。
・「ミヨちゃん」25.4万枚(1969年5月)
・「ドリフのズンドコ節」80.7万枚(1969年11月)
・「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」26.2万枚(1970年4月)
・「誰かさんと誰かさん」31.4万枚(1970年11月)
荒井注の若い頃…元々脚本家志望もギャラの高さからバンドに加入
荒井注さんに関しては、1928年7月30日に東京に生まれて来ており、実家は料亭を営む裕福な家庭だったと言われております。
元々は脚本家を目指していたという荒井さんは、旧制日本学園中学校を卒業後は立教大学文学部に進学するも中退。その後は、二松學舍大学文学部に入学し直し、卒業しています。
荒井さんが音楽活動を始めたのは大学生の頃だったそうで、学費稼ぎのためにバンド活動を開始したところ、割の良い稼ぎ口だったためそのまま本職化してしまったそうですね。
これでも中学と高校の国語の教員免許を持っているんですよ。当時、教員は不足してひっぱりだこだったんですが、給料が安くてねえ。せこい三流バンドでもその倍は稼ぐことができたんで入り込んでしまったんですよ。
荒井注のドリフターズ脱退理由…人気絶頂期での脱退後は俳優に転身
荒井注、顔が面白くてドリフにスカウトされる
荒井注さんがいかりや長介さんよりスカウトを受けて「ザ・ドリフターズ」に加入したのは、1964年のことでした。
荒井さんが「ザ・ドリフターズ」よりスカウトを受けた理由については、メンバーが欠員していたピアノ担当だったことに加えて、「顔がトリスおじさんに似ていて面白いから」というエピソードが残っています。
「ザ・ドリフターズ」加入後の荒井さんに関しては、諸事情から年齢を6歳若くサバ読みして活動することになりました。
年齢をごまかしていた理由は、ドリフのメンバー達には「リーダーの長さん(いかりやの愛称)より俺が年上だと具合が悪いから」と説明していたが、本当のところは女性にもてたかったのではないかと、いかりやは自伝『だめだこりゃ』の中でコメントしている。
引用:荒井注
荒井注、ドリフ脱退理由は多忙すぎたから?
荒井注さんは、1974年3月になると、「芸能界引退」を宣言して当時人気絶頂期だった「ザ・ドリフターズ」から脱退しています。
荒井さんが「ザ・ドリフターズ」から脱退を決意した背景には、「8時だョ!全員集合」の収録スケジュールの過密さに疲れ果てていた部分があったようですね。
本番は土曜日なんだが、休みは日曜日だけで、月曜日からまたすぐに次の番組の準備を始めるんだ。火曜日までにスタッフらと深夜までふざけながら言いたいことを言いあって、台本のネタを探すんだよ。明け方までやることもザラだったね。台本ができたら立ち稽古、水曜と木曜に小道具を発注し、金曜にセットを作り、土曜の本番は朝10時から現場で稽古。そしたらもう本番だよ。あんなにキツイ時期はなかったね。
また、「8時だョ!全員集合」のコントで体を張った結果、全身に生傷が絶えない状況だったことも、当時45歳の荒井さんにとっては辛いことでもありました。
その他、色々な利害関係が働く人気番組の出演者だったため、人間関係で煩わしいことも多く、都会の喧騒から離れて隠遁生活を送りたいといった想いも強かったようですね。
荒井注、ドリフ脱退後は俳優として活躍
「ザ・ドリフターズ」脱退後の荒井注さんに関しては、当初は本当に芸能界を引退しており、大学時代の友人宅を訪ねて回ったり、趣味の釣りに明け暮れていたそうですね。
とはいえ、あっさり芸能界から去ってしまった荒井さんの才能を惜しむ業界人もいたらしく、TVプロデューサーの久世光彦さんより、ドラマ「時間ですよ・昭和元年」への出演オファーが舞い込んで来ることになりました。
その結果、脱退騒動の半年後には役者としてリスタートを切ることとなった荒井さんですが、出演オファーがあったことをいかりや長介さんに報告に行くなど、仁義をきっちりと通していたため、芸能界復帰後も「ザ・ドリフターズ」の面々とは共演を繰り返しています。
役者としての荒井注さんは、その後も「ムー一族」や「江戸川乱歩の美女シリーズ」シリーズなどに出演しており、息の長い活躍が続くことになりました。
荒井注の結婚・離婚歴…3人の歴代嫁との間に子供はいなかった
荒井注の歴代嫁① スナック経営者
荒井注さんは、1958年に一般女性と学生結婚をしています。
所謂、糟糠の妻であったAさんは、東京・赤坂で小さなスナックを経営しながら下積み時代の荒井さんを支え続けた女性でした。
しかしながら、若い頃の苦労が祟ったのか、肺癌を患い1983年頃に亡くなってしまったようですね。
肺癌発覚以前から体調を崩していたというAさんでしたが、当時俳優として売れっ子だった荒井さんは、そんな妻の状況を放置してしまい、ようやく病院で診断を受けた時には手遅れな状況だったとか。
荒井注の歴代嫁② 32歳年下の女性
Aさんの死後の荒井注さんに関しては、妻を失った喪失感に加えて、「何もしてやれなかった」ことの後悔の念により、しばらくの間放心状態となってしまったとか。
ぽっかりと空いた心の隙間を埋めるように、やがて32歳年下の一般女性と交際を開始するようになった荒井さんは、1985年に再婚することになりました。
しかしながら、後に本人も「出会い頭の交通事故にあったようなもの」と振り返る2人の結婚生活については上手く行かず、1年半ほどで離婚してしまったそうですね。
荒井注の歴代嫁③ 38歳年下のまりさん
1980年代末頃より芸能界の第一線を退き、静岡・伊豆で隠遁生活を送っていた荒井注さんですが、1991年に、38歳年下の元信用金庫職員・まりさんと3度目の結婚をしています。
まりさんは、伊豆で知り合った遊び仲間の娘だったそうで、いざまりさんと交際をしてみた荒井さんでしたが、結婚許可が下りるとは夢にも思っていなかったようですね。
「まさか許してくれるとは思わなかったよ。半ば冗談で『嫁にくんないかなあ』って言ったら、『ああいいよ』だもんね。『何寝ぼけたこと言ってるんだ』と親父に怒られるのが関の山だと思っていたのに、『当人がいいって言ったらいいんじゃない』と軽く流されてしまって、拍子抜けしたというか、親父には感心したよね」
荒井注に子供はいなかった
生涯で3度の結婚を果たしている荒井注さんですが、「8時だョ!全員集合」開始時に既に41歳という遅咲きの身の上だったせいか、子供はいないようです。
荒井注の晩年エピソード…設計ミスで機材が入らずカラオケ店経営に失敗
荒井注、カラオケボックスは現在も廃墟のまま存在
廃墟となったカラオケボックス
荒井注さんの晩年に関しては、前述の通り1980年代末頃に芸能界の第一線を離れて静岡・伊豆に移住しており、 1991年に結婚をした愛妻のまりさんと共に650坪の豪邸で悠々自適に暮らしていました。
そんな荒井さんは、1993年になると、当時ブームだったカラオケ店の経営を思いつくことになりました。
とはいえ、自前で建物まで用意したことが裏目に出てしまい、いざカラオケ機器を設置しようとしたところ、入り口が狭すぎて搬入出来ないことが発覚。
原因は単純な設計ミスだったそうですが、さしもの荒井さんももう1度建物を作り直す気力まではなく、そのままカラオケ店の経営計画は白紙に戻ってしまったそうですね。
ちなみに、一連の騒動はワイドショーにも取り上げられることとなったため、未使用のまま残されたカラオケ店は、その後、廃墟マニアたちの聖地巡礼スポットになっているとか。
伊豆にある「荒井注がカラオケボックスを開こうとしたら、入り口から機材がはいらず諦めた廃墟」です。 pic.twitter.com/9A5cSuQQOf
— 東京別視点ガイド (@another_tokyo) April 2, 2017
荒井注、遺作はフジカラーのCMだった
荒井注さんは、最晩年となる1998年に「緑内障」の手術を受けるために病院で診断を受けたところ、「肝硬変」であることまで発覚してしまったそうですね。
当然ながら、そのまま手術へ至った荒井さんでしたが、生来の病院が嫌いが災いして入院1週間ほどで無理やり退院してしまうなど、かなり困った患者でした。
その後体調不良が続き、テレビ番組の出演オファーを断る状況が続くこととなった荒井さんでしたが、1999年末になると、フジカラーより正月向けCMのオファーが舞い込んで来ました。
こちらのCMは七福神をモチーフに制作された代物だったため、「ザ・ドリフターズ」の面々と女優の田中麗奈さんだけでは人数が足りず、荒井さんに白羽の矢が立ったそうですね。
広告代理店側も荒井さんが仕事の依頼を断り続けていることは熟知していたようですが、新旧「ザ・ドリフターズ」集結の話題性のために、駄目元でオファーを出したとか。
本来ならこちらの仕事も断っていたはずの荒井さんですが、死期を悟っていたのかこの時ばかりはCM出演を承諾。結果的には、このCMが荒井さんの遺作となりました。
荒井注の遺産と死因や嫁の現在…腹上死の噂も本当の死因は肝不全だった
荒井注、2000年2月9日に肝不全で死亡
荒井注さんは、フジカラーのCMに出演した直後となる2000年2月9日に肝不全で死亡しています。(享年71歳)
大のお風呂好きで、一度入ると数時間はお風呂から出てこない習性があった荒井さんは、前日の午後11時頃に入浴を開始し、いつも通り長湯を続けていたところ、翌日の午前4時半頃に急激に体調が悪化して倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったようですね。
荒井さんがお風呂に入ると、普段は1時間置きに浴室まで様子を見に来ていたという妻・まりさんもその日はたまたまうたた寝をしてしまい、浴槽で息絶えている荒井さんを発見したのは、死後2時間ほど経ってからだったとか。
荒井注、ネット上で腹上死説が流れていた
38歳年下のまりさんと結婚したインパクトのせいか、荒井注さんには腹上死したとの噂がネット上で流れているようですね。
しかしながら、前述の通り、荒井さんは長湯が祟り急死してしまっただけであり、腹上死説は完全にデマとなります。
新井注、3億円もの遺産問題で親族が揉める
荒井注さんには3億円もの遺産があったそうで、親族間で相続でもめたといわれています。
ちなみに前述のとおり子供はいなかったため、3番目の38歳年下の嫁・まりさんが遺産の大部分を相続したと考えられます。
荒井注さんの38歳年下の嫁・まりさんの現在については明らかになっていません。荒井注さんの死後から20年経っているので、現在は再婚していてもおかしくないですね。
荒井注についてまとめると…
・新井注は3度の結婚をしたが、子供はいない
・新井注は晩年、伊豆へ移住をして38歳年下の嫁・まりさんと暮らしていた
・新井注は2000年に肝不全のため71歳で死亡した
「ザ・ドリフターズ」の人気絶頂期に脱退したことで世間を驚かせた荒井注さんですが、脱退後も俳優として活躍したうえ、晩年は愛妻・まりさんと悠々自適なスローライフを送っていたことになります。
荒井さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。