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ひめゆりの塔は何があった?自決やガマの中・事件・霊感と怖いエピソード・場所や料金・所要時間もまとめ

「ひめゆりの塔」は太平戦争末期の沖縄戦で多数が犠牲になったひめゆり学徒隊のための慰霊碑です。

 

この記事ではひめゆりの塔がある場所で何があったのかの歴史や戦後起きたテロ事件、自決やガマの中の様子、霊感のある方の怖いエピソード、アクセス方法や料金、所要時間についてまとめました。

ひめゆりの塔は沖縄戦で大勢が犠牲になったひめゆり学徒隊のための慰霊碑

 

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出典:https://upload.wikimedia.org/

 

「ひめゆりの塔」は、太平洋戦争末期に発生した沖縄戦(1945年3月〜9月)の後半に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕(ガマとも)の跡地に立つ慰霊碑です。(正確には南部撤退後に入った壕で「伊原第三外科壕」と呼称される)

 

現在の沖縄県糸満市伊原にあり、終戦後の1946年4月に建立(同年4月7日に除幕)されました。

 

「ひめゆりの塔」という名称は、この場所で犠牲になった第三外科壕に学徒隊として動員され得ていた「ひめゆり学徒隊」にちなんでいます。ひめゆり学徒隊は、沖縄県立女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の生徒で編成された女子学徒隊で、この両校が「姫百合(ひめゆりと平仮名表記されるようになったのは戦後)」と呼ばれていた事にちなんで名付けられました。

 

ひめゆりの“塔”という名称ではありますが、最初に建立されたものは高さが約90cm(上の画像手前にある石碑)で慰霊碑としても小さめなもので、沖縄の各地に多くある戦争犠牲者を弔う慰霊碑の1つです。その後1957年6月に初代のひめゆりの塔のすぐ後ろに亡くなった方の名前などが刻まれた大きな石碑が建立され、これが2代目ひめゆりの塔と呼ばれています。(上の画像の後方に見えている石碑)

 

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出典:https://www.odnsym.com/

 

この初代ひめゆりの塔と2代目ひめゆりの塔の間に「沖縄陸軍病院第三外科跡」があり、その裏手には納骨堂が建てられています。さらにその奥には生存者の手記や従軍の様子などを展示する「ひめゆり平和祈念資料館」も設置されています。ひめゆりの塔のある同じ敷地内には「沖縄戦殉職医療人之碑」がある他、隣地にも複数の慰霊碑や塔が建立されており、沖縄戦の悲惨さを伝える場所として、現在も海外含め多くの方が訪れています。

 

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出典:https://m.media-amazon.com/

 

多くの沖縄の慰霊碑の中でひめゆりの塔が一際知られるようになったのには、1949年に沖縄県出身の作家である石野径一郎が「ひめゆりの塔」と題する小説を連載し、これが戯曲化や映画化された事により全国的に知られるようになったという事情があります。

 

 

ひめゆりの塔は何があった場所か…建立されるまでの経緯の歴史

 

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出典:https://www.odnsym.com/

 

「ひめゆりの塔」があるのは何があった場所なのか、どういった経緯や歴史があり建立されたのかについて見ていきます。

 

 

太平洋戦争末期に発生した沖縄戦での学徒動員によりひめゆり学徒隊が編成

 

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出典:https://himeyuri-and-hawaii.com/

 

1941年12月、旧日本軍の真珠湾攻撃などによって始まった太平洋戦争は、当初こそ日本軍がアメリカやイギリスを中心とする連合軍に対して優位に立ちましたが、1942年半ば頃より形勢は逆転し1944年に入る頃には日本の勝ち目は完全に無くなっていました。

 

それでも当時の日本政府(軍部が政権を握っていた)は戦争を継続し、沖縄を本土防衛の最後の砦と位置付けて地上戦の準備を進め、正規の軍部隊を各地から集めて配備するだけでなく、沖縄の一般住民まで補助戦力として根こそぎ動員しました。(3万5000名以上の一般住民が動員されたとされる)

 

その中で学徒動員も実施され、当時沖縄に21あった全ての中等学校・師範学校から生徒達が招集され、女子生徒も15歳から19歳までの生徒が看護活動などに従事させられる事になりました。

 

ひめゆり学徒隊は、その中の沖縄県立女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の生徒で構成された女子学徒隊で、女子生徒222名引率教師18名の合計240名で構成されていました。

 

 

ひめゆり学徒隊が沖縄本島南部南風原の沖縄陸軍病院に看護要員として配備

 

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出典:https://www.himeyuri.or.jp/

 

アメリカ軍を主力とした連合軍の沖縄上陸が迫っていた1945年3月23日から24日かけて、ひめゆり学徒隊の240名は、沖縄本島南部の南風原に設置された沖縄陸軍病院(通称・南風原陸軍病院)に、看護要員として配備されました。(この頃には沖縄本島への米空母艦載機の空襲が始まり、日本軍司令部は米軍上陸間近と判断していたとされる)

 

沖縄陸軍病院は負傷した兵隊のための野戦病院で、建物などはなく小高い丘のに40近くの横穴壕を掘り、土壁に粗末な二段ベッドを備え付けて、本部、内科、外科、伝染病科に分かれていました。

 

 

アメリカ軍の猛攻にさらされながらひめゆり学徒隊が命懸けで看護に従事

 

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出典:https://stat.ameba.jp/

 

1945年4月1日、アメリカ軍はついに沖縄本島に上陸を開始し、陸上でも激しい戦闘が発生しました。

 

大量の負傷兵が発生し、ひめゆり学徒隊が配属されていた沖縄陸軍病院にも大勢の重傷者が運び込まれました。

 

ひめゆり学徒隊は正規の看護婦(現在の呼称は看護師)と一緒に戦傷者、戦病者の看護や世話に従事し、排泄物の片付けや水や食事の世話、包帯交換、外科手術時に患者を押さえつける役割などで走り回り、休む間もないほどの有様となりました。

 

さらに、砲撃や爆撃がある中で壕の外へ出て、ふもとの収録から食事を運ぶ「飯上げ」や水汲み、遺体や切断した腕や脚などの身体の部位を埋葬するという命懸けの作業にも従事させられました。

 

 

ひめゆり学徒隊自体も過労と栄養不足、過酷な環境に晒され倒れる者も

 

沖縄陸軍病院の患者達の食事は初めのうちはテニスボールくらいの大きさのおにぎりが1個、朝夕2度割り当てられていましたが、戦局が悪化するにつれてだんだんと少なくなり、最後にはピンポン玉くらいのおにぎりが1日1個割り当てられるだけになりました。

 

看護に従事していたひめゆり学徒隊への食事の配給も同じく少なくなり、過労もあって次第に倒れる者も出始めました。この頃になるとひめゆり学徒隊の生徒達はやせ細っていき、栄養不足からか生理や排便がなくなり、衣服は汚れきって衛生環境の悪化から頭部にシラミがわくようになりました。

 

このような過酷な状況の中、ひめゆり学徒隊らは横になって眠ることも出来ず土壁にもたれかかって仮眠を取る事しかできず、しかも埋め尽くされた患者に「水をくれ」、「おしっこがしたい」、「痛い、なんとかしてくれ」などと呼び起こされ、まともに休息をとる事もできない悲惨な状況で看護に従事する事を余儀なくされました。

 

 

病院機能は失われひめゆり学徒隊も南部へ撤退し解散命令により壕を出される

 

その後も戦局は悪化の一途を辿り、日本軍防衛線は後退。4月24日頃には沖縄陸軍病院が設置されていた一帯も山容が変わるほどの猛烈な砲爆撃に晒されるようになります。

 

そして、5月25日にはこの場所を維持する事が困難との判断が下され、自力で歩行できない負傷兵や戦病者、学徒を置き去りにして南部の伊原・山城周辺への撤退が命じられました。

 

自力歩行できな兵士や学徒には、自決用の青酸カリが渡されたとされています。実際にこれを飲んで自決した方もあったようです。

 

撤退した沖縄陸軍病院の人員と負傷兵、ひめゆり学徒隊の生徒らは分散して壕やガマに潜みましたが、患者を収容する壕が十分に確保できなかったため、負傷兵は原隊への復帰を命じられ、野戦病院としての機能は完全に失われました。

 

6月18日の夜には、ひめゆり学徒隊は一方的に解散を命令され、米軍の激しい攻撃が続く壕の外へと出される事になりました。

 

この時点で沖縄はほぼ全域がアメリカ軍に占領されており、激しい砲撃も続いていたため、壕から出る事はほぼ死を意味するような状況でした。

 

 

壕を出されたひめゆり学徒隊の多くが犠牲に

 

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出典:https://news-pctr.c.yimg.jp/

 

解散命令を受けた学徒隊や医療関係者は各壕に集まり脱出の準備を整えましたが、翌19日の朝、第三外科壕にアメリカ軍の黄燐手榴弾が投げ込まれ、96名(うち学徒隊は教師5名生徒46名)中87名が亡くなりました。

 

さらに生存者8名のうち、壕を出たところで銃撃か砲撃を受けて教師1名と生徒2名が亡くなり、第三外科壕にいた者のうち生き残ったのはわずか5名(ひめゆり学徒隊4名、軍医1名)と記録されています。

 

そして、解散命令により壕を出されたひめゆり学徒隊の教師・生徒らも、茂みや岩陰に身を隠しながらアメリカ軍から逃れようとしましたが次第に海岸へと追い詰められました。(アメリカ軍に捕まれば強姦や拷問され殺されると教え込まれていたため、投降するという選択肢がなかった)

 

砲弾が飛び交う中で、傷ついた身体を引きずって逃げる者や、負傷した仲間を助けながら歩く者、重傷を負ってその場で倒れ込む者、砲弾に吹き飛ばされる者、ガス弾を受けて苦しむ者、自決用の手榴弾を爆発させる者、行き場を失い海岸で海に飛び込む者など、あまりにも悲惨な形で亡くなる方が続出しました。

 

ひめゆり学徒隊の犠牲者の正確な数はわかっていませんが、ひめゆり平和祈念資料館刊行の資料では戦没者が136名とされ、その他の理由により亡くなった方を合わせると犠牲者は累計で226名にのぼるとされています。

 

生き残ったひめゆり学徒隊の生徒は、6月20日から28日の間にアメリカ軍に捕まり、各地の収容所へ送られました。しかし中には、日本の降伏を知らないまま8月22日まで壕の中に隠れていた方もいました。

 

沖縄陸軍病院に動員されたひめゆり学徒隊の生徒と教師合計240名のうち戦闘に巻き込まれた戦没者は136名とされていますが、このうちの8割以上の117名が解散命令を受けて壕の外に出された後に死亡または行方不明になったとされています。(解散命令前に亡くなったのは19名のみ)

 

 

終戦後にひめゆりの塔が建立される

 

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出典:https://lh3.googleusercontent.com/

 

終戦後の1946年に、亡くなったひめゆり学徒隊の親である金城和信さんらが、第三外科壕を発見し、近隣の真和志村の住民らにより学徒隊や他の犠牲者の遺骨が集められ、同年4月7日にこの場所に慰霊碑が建立されました。

 

慰霊碑は、ひめゆり学徒隊(諸説あるが姫百合学徒隊の名称は動員当時から存在したと言われる)の名称にちなんで「ひめゆりの塔」と命名されました。

 

 

ひめゆりの塔のひめゆり学徒隊10名が自決した「ひめゆり学徒隊散華の跡」

 

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出典:https://www.city.itoman.lg.jp/

 

沖縄県糸満市字束里の荒崎海岸に「ひめゆり学徒散華の跡」という碑が設置されています。

 

ここは、解散命令の後に壕を出されたひめゆり学徒隊のうち教師1名と生徒9名が手榴弾で自決した場所だとされています。

 

アメリカ軍を逃れて南の方へ逃げまどったひめゆり学徒隊の生徒と教師は、荒崎海岸一帯にいたり、隠れ場所を求めて右往左往したとされます。6月21日、平良松四郎教諭と9名の生徒は米軍見つかって突如自動小銃で銃撃され、パニックとなった平良松四郎教諭が手榴弾を爆発して生徒9名もろとも自決したとされています。

 

この他にも、ひめゆり学徒隊の犠牲者の中には自決をした方が多くいると見られています。これも米軍の捕虜になれば恐ろしい目に遭うなどと軍部が教え込んでいた事による弊害だと言えます。非戦闘員、特に女性や子供は投降すれば保護される場合がほとんどで、こうした洗脳がなければもっと多くの方が生き残る事ができたはずでした。

 

 

ひめゆりの塔の建立されたガマの中の様子

 

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出典:https://washimo-web.jp/

 

ひめゆりの塔が建立された場所にあるガマの中(伊原第三外科壕)の当時の様子については、「ひめゆり平和祈念資料館」に多くの資料が展示されています。

 

この伊原第三外科壕は天然の洞窟(鍾乳洞で現地の言葉でガマと呼称される)を利用したもので、横穴ではなく入り口から斜めの急斜面が地底に続く構造でした。

 

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出典:https://himeyuri-and-hawaii.com/

 

ガマの中はかなり狭く、この中に100名近い人々がひしめくように潜み隠れていました。そして、1945年6月19日にアメリカ軍によりガマの中に黄燐手榴弾が投げ込まれ、隠れていた人のうち80パーセント以上が亡くなりました。当時の様子を想像すると胸が締め付けられるような気持ちになります。

 

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出典:https://www.smartmagazine.jp/

 

この伊原第三外科壕など南部のガマへと撤退する前の、最初に設置された沖縄陸軍病院の中の当時の様子も「ひめゆり平和祈念資料館」に資料が多く残されていて、実物大のジオラマなども作られており、当時のあまりにも悲惨な状況を体感として知る事が可能になっています。

 

 

ひめゆりの塔事件は当時皇太子であった明仁親王夫妻に対する親左翼のテロ

 

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出典:https://stat.ameba.jp/

 

「ひめゆりの塔」にまつわる戦後の大事件としては、当時の明仁皇太子夫妻に対して新左翼過激派が起こしたテロ事件「ひめゆりの塔事件」が挙げられます。

 

1945年9月、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏しました。沖縄はその後、アメリカ軍(GHQ)の占領下に置かれましたが、1972年に日本に返還されました。

 

そして、1975年に沖縄国際海洋博覧会が行われ、その際に当時の皇太子であった明仁親王(先の天皇・明仁上皇)および同妃美智子さまが太平洋戦争終結後初めて皇室として沖縄を訪問し、ひめゆりの塔を訪れて慰霊の献花をする事となりました。

 

これに反発した過激派新左翼「沖縄解放同盟準備会」の知念功(事件当時25歳)と「共産主義者同盟戦旗派」のメンバーの本土出身の活動家の計2名が、1975年7月11日までにひめゆりの塔が建てられたすぐ後ろのガマの中(伊原第三外科壕の中)に潜伏し、7月17日に明仁親王と同妃美智子さまがひめゆりの塔を訪れるとハシゴを使って地上に這い出て、明仁親王と同妃美智子さまの足元に火炎瓶を投げつけるという前代未聞の事件を起こしました。

 

火炎瓶は献花台に当たって炎上しましたが、明仁親王には被害はなく、同妃美智子さまは警護の警察官に庇われて地面に倒れた際に打撲を負ったもののこれ以外には大きな怪我はありませんでした。

 

明仁親王は火炎瓶を投げつけられた直後も動じる事なく、案内役を務めていた「ひめゆり会」会長の身を案じて声をかけるなどし、さらには事件を防げなかった責任に動揺する警備担当者を思いやり、処分しないようにと関係者に依頼する事までしています。しかもその後、明仁親王夫妻は予定を変更せずにスケジュールをこなしました。(この事件後の勇気と慈愛に溢れた対応が知られると、明仁親王に対して崇敬の念を抱く国民が多く出た)

 

ひめゆりの塔事件の犯人ら2人は「礼拝所不敬罪」と「火炎びんの使用等の処罰に関する法律」違反の現行犯で逮捕され、懲役2年6ヶ月の実刑判決が確定しています。

 

ひめゆりの塔事件の当時の貴重な映像がTBS NEWS DIGのYouTubeで公開されています。

 

 

 

ひめゆりの塔では霊感がある方が体験した怖いエピソードなど

 

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出典:https://lh5.googleusercontent.com/

 

「ひめゆりの塔」は、あまりにも悲惨な形で多くの人が亡くなった場所に建立されています。

 

そのためか、ひめゆりの塔が心霊スポットのように紹介されるケースも見られます。ひめゆりの塔を心霊的に見るのは不謹慎な面もありますが、実際に霊感のあるという方が体験した怖いエピソードなどもネット上では語られているようです。

 

霊感があると自称する方によると、夜にひめゆりの塔へ行くと、白い服の少女の幽霊が現れたり、すすり泣く声がガマの中から聞こえてきたり、無数の白い手が伸びてきたりするなどの怖いエピソードを体験をするのだとか。

 

本当にこのような怖い現象が起こるのかはわかりませんが、ひめゆりの塔のように、あまりにも悲惨な事件があった場所ではそれに感化されてしまい、霊感があると言うような感受性の高い方はこうした怖い体験(幻聴や幻覚妄想などを含む)をしてしまうのかも知れません。

 

ネット上には、ひめゆりの塔を訪れた方が、霊感がないけど怖い感じがあった、普段はそんな事はないのになぜか涙が止まらなくなったなどの投稿をされているのも多く見られます。

 

 

Xで少し検索するだけでもひめゆりの塔にまつわる怖いエピソードが膨大な数ヒットします。

 

 

 

 

それだけ、戦争の悲惨なエピソードは人の心に影響を及ぼすものがあるという事なのでしょう。

 

 

ひめゆりの塔の場所

 

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出典:https://tokushima.ismcdn.jp/

 

「ひめゆりの塔」の場所は、住所では「沖縄県糸満市伊原671-1」です。

 

沖縄本島では最南端の糸満市にあり、那覇市からも近く県外からの観光客にもアクセスしやすい場所です。

 

 

ひめゆりの塔の場所と周辺の地図

 

ひめゆりの塔がある場所と周辺の地図です。

 

 

 

ひめゆりの塔へのアクセス方法

 

ひめゆりの塔のアクセス方法についても紹介します。

 

 

ひめゆりの塔への自動車でのアクセス方法

 

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出典:https://okinawa-bookmark.com/

 

レンタカーなど自動車の場合は那覇空港自動車道の豊見城ICから約20分ほど、那覇空港からは約30分〜40分ほどかかります。

 

公道のところどころに「ひめゆりの塔」の案内標識があるため、それに従えば迷う事なくたどり着けますが、国道331号線を南下するのがわかりやすいでしょう。

 

ただし、ひめゆりの塔(ひめゆり平和祈念資料館)には専用の駐車場がないため、隣接する土産物店の駐車場を利用する必要があります。

 

 

ひめゆりの塔へのバスでのアクセス方法

 

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出典:https://lh6.googleusercontent.com/

 

ひめゆりの塔には路線バスでもアクセス可能です。

 

ただ、糸満市外からバスを利用する場合は糸満市内での乗り換えが必要になり、那覇市内からであれば乗り換え時間を含めて60分〜90分ほどかかります。

 

那覇市内からのバスでのアクセス方法は、琉球バス交通の「旭橋・那覇バスターミナル」より、[89]糸満線に乗車し、約30分の「糸満バスターミナル」で下車し、[82]か[107]に乗り換えて約15~25分ほどで「ひめゆりの塔前」に到着します。

 

なお、那覇バスターミナルから[89]糸満線に乗車すると、開南方面を経由するため時間が余計にかかるため注意が必要です。

 

それ以外のアクセス方法では、ゆいレールで赤嶺駅へ行き、改札を出て左側にある赤嶺駅前バス停から[89]糸満線に乗車し、同じように「糸満バスターミナル」で[82]か[107]に乗り換えて「ひめゆりの塔前」で下車する方法が便利です。

 

 

ひめゆりの塔の料金(ひめゆり平和祈念資料館入館料)

 

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出典:https://pbs.twimg.com/

 

ひめゆりの塔の観覧料金ですが、ひめゆりの塔(石碑など)自体は無料で見学できます。

 

ただし、「ひめゆり平和祈念資料館」の見学には料金がかかります。

 

ひめゆり平和祈念資料館の入館料は以下のように設定されています。(2025年現在)

 

 年齢区分 個人料金 団体料金
 大人 450円 400円
 高校生 250円 200円
 小・中学生 150円 110円

 

この他、障がい者手帳を所持している方の場合は、その方と同伴者は入館料金が無料になります。(障がい者手帳提示が必要)

 

また、団体料金の適用は20人以上からとなっています。

 

 

ひめゆりの塔(ひめゆり平和祈念資料館)の所要時間

 

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出典:https://fun.okinawatimes.co.jp/

 

ひめゆりの塔の見学の所要時間ですが、ひめゆりの塔は初代も2代目もすぐ近くにあり、ただ単に見学するだけなら数分程度で可能です。

 

ただ、敷地内にある「ひめゆり平和祈念資料館」には貴重な資料が多数展示されているため、入館料金は必要ですがひめゆりの塔を訪れたのならば見学する事をオススメします。

 

ひめゆり平和祈念資料館の見学の所要時間ですが、オフィシャルサイトで30分〜1時間程度で見学は可能であるが、熱心な方は2時間〜3時間かけて見学される方もあるとの内容が掲載されています。

 

多くの方が30分~1時間程度で見学していますが、2~3時間かけて見学される方も少なくありません。内容をゆっくりご覧になりたい方はお時間に余裕を持ってご来館ください。

 

引用:ひめゆり平和祈念資料館 よくある質問 見学の所要時間はどれくらいかかりますか?

 

ひめゆりの塔に関わる貴重な資料が多数公開されているため、時間に余裕を持って訪れた方が多くを学ぶ事ができるかと思います。

 

 

まとめ

 

今回は、太平洋戦争末期に発生した沖縄戦で学徒動員されたひめゆり学徒隊の犠牲者を慰霊するために建立された「ひめゆりの塔」についてまとめてみました。

 

ひめゆりの塔の建立されている場所で何があったのかですが、この場所は沖縄陸軍病院第三外科が置かれていたガマで、このガマの中に隠れていたひめゆり学徒隊の人たちのうちの多くが投げ込まれた黄燐手榴弾によって命を奪われました。

 

そもそもひめゆり学徒隊は、沖縄県立女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の生徒や教師らが学徒動員された240名で構成されたもので、負傷や病気の兵士を看護するために動員されたものでした。

 

ひめゆり学徒隊は砲弾が飛び交う中で重傷を負った兵士達の看護に従事し、戦闘に巻き込まれて多くの方が犠牲になりました。

 

戦況が悪化すると野戦病院であった沖縄陸軍病院は維持が不可能となり、ひめゆり学徒隊に対しても一方的に解散命令が出され、避難していたガマから出される事になりました。

 

砲弾や銃弾が飛び交う中に出されたひめゆり学徒隊の生徒らは、南へと逃げ惑うも海岸地帯へ追い詰められて手榴弾を使うなどして自決した方を含めて240名中136名もの方が亡くなったとされています。(諸説あり)

 

ひめゆりの塔のある場所で起きた出来事があまりにも悲惨であるためか、この場所が心霊スポットのように語られる事もあり、霊感のある方が体験した怖いエピソードはネット上で数多く語られています。

 

ひめゆりの塔のある場所は沖縄本島の南端にある「沖縄県糸満市伊原671-1」で、那覇市からも近いため、県外からの人でも車やバスでアクセスできます。

 

ひめゆりの塔自体の見学は無料ですが、貴重な資料が多数展示されている「ひめゆり平和祈念資料館」は150円〜450円の入館料金が必要です。

 

ひめゆりの塔および「ひめゆり平和祈念資料館」の見学の所要時間は、30分〜1時間ほどでの見学可能ですが、じっくりと見るのならば所要時間は2時間〜3時間ほどと考えておくと良いでしょう。

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