絆會のトップである織田絆誠さんですが、イケメンさとは裏腹な狂犬ぶりも話題になっているようですね。
この記事では、織田絆誠さんの中学時代、身長・髪型と刺青、家族と自宅、ボディーガードの話題など若い頃から現在までを総まとめしました。
この記事の目次
織田絆誠のプロフィール
織田絆誠(おだ よしのり)
生年月日:1966年10月23日
出身地:大阪府大阪市
織田絆誠、絆會のトップで在日コリアンだった
織田絆誠さんといえば、2017年4月に神戸山口組から分裂し結成された任侠山口組(後に絆會に改称)の代表であり、本名は金禎紀(きん・よしのり)という在日コリアン3世となります。
元々、反弘道会派が山口組を割って2015年に結成された神戸山口組でしたが、井上邦雄組長の独裁ぶりに嫌気をさした有志たちが、再び組を割ることになってしまったようですね。
会見で池田本部長らは新組織の結成理由について、神戸山口組の井上組長がトップを兼任する山健組内での過酷な集金体制▽神戸山口組での山健組出身者以外への差別的な待遇▽執行部の意見を聞き入れない井上組長の姿勢-の3点を挙げて、「山口組が自滅の道をたどると真っ向から否定して立ち上がったにもかかわらず、神戸山口組の現実はその『(山口組の篠田建市〈通称・司忍〉6代目組長による)名古屋方式』にも劣る、それ以下の悪政」と指弾した。
引用:山口組3分裂で血の抗争 「大義とは名ばかりの上層部の私利私欲」会見で痛烈批判 『任侠団体山口組』結成の舞台裏 (2/3ページ)
ちなみに、神戸山口組の独裁体制を反面教師としている絆會では、上納金の方は直参組長でも月10万円程度の負担となっています。
また、任侠の復活を掲げる絆會では、堅気の人間に被害をもたらす不良外国人や半グレ問題にも対応したいとの意気込みもあるそうですね。
織田絆誠、暗殺未遂事件が起こりボディーガードが射殺されたこともあった
織田絆誠さんは、2017年9月になると、神戸山口組系元組員・菱川龍己に襲撃されたこともありました。
犯行現場は地下鉄西神・山手線長田駅から北側に約200メートル、片側三車線の幹線道路で、徒歩1分の路地には、織田代表の自宅がある。自宅を出た車は、狭い路地を通り、表通りに走り出す寸前だったという。その瞬間、待ち伏せていた黒いクラウンが正面から突っ込み進路を塞いだ。背後にボディガードたちが乗った2台の車がいたため、一瞬、織田代表が乗った先頭車両は、前にも後ろにも進めず立ち往生してしまった。
ボディーガードだった楠本勇浩さんが立ちふさがったため、かろうじて暗殺は回避出来た織田さんでしたが、盾役を買って出た楠本さんは、菱川龍己に射殺されてしまうことになりました。
「長田事件」と呼ばれているこちらの事件については、菱川龍己が逃走に成功し現在まで逮捕されていないため、全容は明らかになっていません。
織田絆誠の家族情報…祖父は親日派の実業家だった
織田絆誠、祖父は実業家として成功していたが空襲ですべてを失った
織田絆誠さんの祖父・金燕西さんについては、韓国・済州島出身であり、来日後は「大阪府協和会」の副会長を務める親日派の人物でした。
「協和会」は日本の朝鮮統治の時代、内務省や警察を中心とした統制機関で、1936年、厚生省は全国各府県に協和会をつくり、1939年、中央協和会を創立した。
元々は弁護士を目指していたものの、時流に乗って大阪・淀川区にて軍需工場を経営するようになったという金さんですが、1945年に起こった大阪大空襲のせいで工場は愚か全財産を失ってしまったとか。
織田絆誠、父はヤクザで懲役の常連だった
織田絆誠さんの父に関しては、織田新一との通名を名乗っていました。空襲のせいで裕福だった暮らしが一変するなど戦争の悲哀を味わった新一さんは、自暴自棄になってしまい、親とは真逆の極道の道へ進むようになったとか。
喧嘩は強かったもののヤクザとしては2流だった新一さんは、短期刑で懲役に行く繰り返しだったため、結婚後に一家の大黒柱となったのは妻だったそうで、ホステスをしながら3人の子供を育てることになりました。
また、そんな母親の気質を受け継いだ長女は、新一さんが懲役で不在の時期に、組事務所のあった大阪・西成区で賭場を開いたこともある女傑だったものの、最終的には堅気の道へ進んだそうですね。
織田絆誠の若い頃…中学時代から不良で指詰め経験もあった
織田絆誠、18でヤクザになり指詰めも経験していた
学生時代からグレており、周囲の不良の間ではビッグネームだった織田絆誠さんは、1984年に父親の兄弟分だった張本正来さんが組長を務める酒梅組系張本組の若衆となっております。
張本組時代の織田さんは、旧知の仲である張本さんの元でアクティブな活動が続いたようで、1985年に政治結社「日韓同志会」を結成した他、1986年には張本組の若頭補佐へと昇進することになりました。
その後すぐに若頭に出世した他、「正心会」を結成して若くして一国一城の主となった織田さんですが、「山口組とは喧嘩をするな!」といった決まり事のあった酒梅組の小物さ加減に嫌気が差して、1987年になると指を詰めて張本組から脱退しています。
脱退後の織田さんは、「天誠会」という独立組織を結成し活動していた時期があったものの、1988年には、和歌山県和歌山市内に拠点を置く山口組系倉本組の盃を受けて、山口組の二次団体の組員となったそうですね。
織田絆誠、倉本組時代は「山波抗争」で服役していた
倉本組時代の織田絆誠さんに関しては、新たな自分の城である「織田興業」を立ち上げた他、倉本広文組長のボディーガード役も務めていたそうですね。
そんな織田さんは、1990年になると、山口組と(大阪に拠点を置く)波谷組の人材引き抜き合戦から始まった「山波抗争」に巻き込まれることになります。
「山波抗争」では、「織田興業」の組員たちに波谷組系平澤組の幹部たちを銃撃させるなど、武闘派として名を馳せた織田さんですが、襲撃事件の首謀者として逮捕され、懲役12年の実刑判決を受ける羽目になっています。
ちなみに、逮捕時の織田さんは、大阪府警の取り調べに対して完全黙秘を貫き、倉本組まで捜査の手が及ぶことを防いだとの逸話も存在します。
織田さんの漢気ぶりは倉本組内でも高い評価を得ることとなり、服役中に若頭補佐に出世することにも繋がりました。
織田絆誠、服役中に倉本組長が死亡して健竜会に合流した
「山波抗争」で服役することとなった織田絆誠さんは、当初は徳島刑務所に服役していたようですね。
徳島刑務所とは、主に8年以上の懲役を言い渡された長期服役者を収容しているLB級と呼ばれる刑務所の中でも、犯罪傾向の進んだ者や暴力団関係者を多く収容している施設として有名である。
徳島刑務所には、当時山口組系山健組若頭補佐の地位にあった井上邦雄さんも服役しており、織田さんは予期せぬ形で人脈を広げることにもなりました。
服役中の織田さんに関しては、血の気の多さは相変わらずだったようで、1997年に「宅見若頭射殺事件」が起こると、面会にやって来た部下に対して「(犯人である)中野会関係者を襲撃せよ」とのメモを渡そうとしたことまでありました。
こちらのメモについては、刑務官に見つかってしまったこともあり計画は失敗に終わり、不正連絡の罪に問われた織田さんは、旭川刑務所に不良移送される羽目になったとか。
2001年に出所した後の織田さんは、1998年に倉本広文組長が急死したことで倉本組が分裂してしまったこともあり、服役中に知り合った井上邦雄さんより盃を受けて、山口組山健組系健竜会の若中となっています。
織田絆誠、「消えた2億円騒動」の後始末に暗躍した?
織田絆誠さんは、2002年に起こった「消えた2億円騒動」の後始末で暗躍したとの噂も存在します。
「消えた2億円騒動」とは、拘留中だった山口組若頭補佐・桑田兼吉さんの保釈を巡る騒動となります。
山健組の組長も兼ねていた桑田さんの保釈を実現させるために、山口組山健組系繁田会会長・繁田誠治さんらが動いた騒動は、検察にコネを持つと自称する佐藤組系六甲連合会会長・亀谷直人さんに2億円の工作資金を委ねたものの失敗に終わっています。
山健組が工面したと言われている2億円は、後に佐藤組が負担して返納されたようですが、大失態を演じてしまった繁田さんは、絶縁処分を受けて極道の世界から追放されてしまうことになりました。
絶縁処分後の繁田さんに関しては、神戸市内に留まり繁華街で堂々と遊ぶ姿が度々目撃されたことから、2003年11月になると、何者かにより刺殺されてしまったそうですね。
犯人が捕まらず迷宮入りとなった「繁田誠治刺殺事件」ですが、巷の噂では、当時山健組の若頭をしていた井上邦雄さんの意をくんで織田さんが動いたと言われております。
「繁田誠治刺殺事件」後の織田さんについては、とんとん拍子に出世しており、山口組分裂騒動直前には山健組の若頭補佐の地位まで得ていたようですね。
織田絆誠はイケメンだが身長は低い?…髪型が特徴的だが刺青は?
織田絆誠、イケメンで髪型も特徴的だった
極道界有数のイケメンと言われている織田絆誠さんですが、身長の方は165cm前後との説が有力視されているため、かなり小柄な人物のようですね。
織田さんといえば、丸刈りなれど頭のてっぺんにだけ厚みを残した特徴的な髪形がトレードマークな人物でもありますが、ヤクザフリークの中では憧れて同じ髪型にしている人間もいるとか。
読破!織田絆誠若頭代行、惚れてしまいそうです✌️
— 宮武良直 Yoshinao Miyatake 💐:*. (@akosstyle) August 27, 2016
織田絆誠若頭代行と同じ髪型にしている自分は、今、有頂天です🙌
今、織田代行と同じ気持ち
竹内よ、襟を正して反省して下さい https://t.co/gGBqb91bxP
織田絆誠、刺青姿は非公開だった
組を抜けるために指を詰めた経験があるなど、本格的な武闘派ヤクザだった織田絆誠さんだけに、刺青についてもかなり立派なモノが入っているように思われます。
しかしながら、絆會を結成して以降は、街の世話役としてのヤクザに原点回帰すべきだと唱えている織田さんだけに、世間を威嚇することを避けたい気持ちが強いのか、自身の刺青姿を公開したことはないようですね。
織田絆誠の自宅情報…割と庶民的な家だった?
織田絆誠さんの自宅については、兵庫県神戸市長田区内の住宅街にあるようです。
対抗組織からの殴り込みを警戒しないとならない立場のせいか、門構えこそいかつくなっている織田さんの自宅ですが、外観は一般的な庶民の住宅と変わらないレベルとなっています。
織田絆誠の現在…絆會の解散騒動があった
織田絆誠さんの現在については、2020年春から夏頃にかけて、絆會に解散の噂が流れていたこともありました。
こちらの噂については、実際のところは真実だったようで、織田さん的には、街の世話役だった時代のヤクザに戻るために、絆會を解散させたい意向があったようですね。
溝口:彼は、反社会勢力と見られたままでは暴力団は生き残っていけないと思っている。反社会的な存在ではなく、かつてのような街の世話役としてのヤクザという存在に戻したいと言っている。そのための解散なんだと。
しかしながら、2020年7月に開かれた緊急執行部会にて、部下たちから反対されたことで、絆會の解散話は流れたという話になっています。
織田絆誠についてまとめてみると…
織田絆誠さんに関しては、古き良き時代のヤクザへの回帰を目指し、神戸山口組を離脱してみたものの、暗殺未遂事件が起こったりと何かと苦労が重なっている状態のようです。
織田さんの今後のより一層の活躍を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。